聖痕の乙女 第15話 ①
「あら、お珍しい……おはようございます。よく、は眠れなかったようですね」
祭りの翌朝。その日初めて、タリアはベッドでフィオナを迎えた。
一応、体は起こしてみたが瞼が開くことを拒むように重く、活動するのはしばらく無理だと判断したタリアはベッドに倒れこんだ。
「あまり眠れなくて……朝食はいらないです」
「かしこまりました」
タリアは体を鍛えるための朝の日課さえも行く気が起きなかった。
かといって寝直すことも出来ず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
昨夜、ウィリアムが帰ってからのタリアはしばらく屋上で過ごし、気分転換にお風呂に入ったが気分は変わらず。夜風に当たって気分転換を試みるも無駄に終わり、ベッドに入っても眠れず、本を読んでみたり、体を動かしてみても眠気が来なかった。
やっと眠れたのが朝方、太陽が昇ってから。
それから三時間もしないうちにフィオナが来て、起きてしまった。
一度覚醒した頭は、眠る前まで頭を支配していた内容を思い出し、再び頭を支配する。
眠たいのに眠れないまま過ごし、諦めて起きたのは十時だった。
早めの昼食を取って、悩んだ果てにウィリアムの研究室に顔を出すことにする。
(はぁ……どんな顔でウィルに会ったらいいかわかんないよ……)
タリアの心には昨夜のウィリアムとの一件が重くのしかかっていた。
好きだと言われ、キスをされ、抱きたいとまで言われた相手と、どんな顔をして会えばいいのか。
研究は一区切り付いていると言えるし、タリアが毎日のように研究室に通う必要はない。しかし行かなければウィリアムが部屋に来てしまう。二度も鍵を壊されているので容易く侵入されてしまうだろう。
研究室に行かなければ、ウィリアムが抱きに来る口実をタリア自身が作ってしまうことにもなるので、顔を出さないという選択肢はなかった。
研究室の扉の前で何度か深呼吸をして、控えめにノック。そしてそっと扉を開けた。
部屋の中にはウィリアムがデスクで仕事をしている。
「来たか」
視線をタリアに向けることもせず、ウィリアムは書類に目を通している。
「そこの小瓶と容器に完全治癒魔法かけといてくれないか」
「……いいですけど」
おずおずと部屋に入り、ウィリアムが視線を投げた作業台へと進む。
台の上には大きな箱の中に、薬酒用の小瓶と塗り薬用の容器が大量に入っていた。
「これ、全部に完全治癒魔法を?」
「いや、三つくらいでいい。今後、聖騎士団の駐屯所に常備しておくことにした」
龍脈の小瓶に入れた薬酒、もしくは塗り薬にタリアの『完全治癒魔法』は効力は弱くなると言っても三日間は『普通の治癒魔法』よりも強い効果を維持できる。
それを毎日三つずつ作り置きする事で、八〜九個ずつ常備できることになる。
使わなかったものは『普通の治癒魔法』として一般で使えるものになるので無駄にはならない。
聖騎士は限られた人数しかいないので、怪我などで任務から外れる期間を少しでも短くしたい。
効果の弱い『完全治癒魔法』でも薬酒と塗り薬の併用で効果を強くもできるし、聖騎士団で試験的に使っていくとのことだった。
「どうせあっちに入り浸るんだろうから、聖騎士団に毎日届けて欲しい」
「ん? あっち?」
「……オリヴァー滞在中は、あっちに行くんだろう?」
「あ! そうだった……」
オリヴァーが一時帰国する。昨夜、ウィリアムから聞かされたのだが、タリアは完全に失念していた。
そんな一大事を忘れていた自分に、タリアは驚く。
「へー……オリヴァーのことを忘れるくらい、私の事で頭がいっぱいだったのか」
(お見通しかよ、ちくしょう)
図星を突かれ、何も言い返せないタリアは乱暴に小瓶を一つ取った。その中にはすでに薬酒が入っていて、箱の中の小瓶と容器も全て、中身が入っている状態だった。
小瓶と容器三つずつに『完全治癒魔法』をかける。
「で、今日の分はどうします?」
「あとでその箱ごと駐屯所の医務室に持っていく」
「わかりました。では、私はこれで」
「ああ。ゆっくりしてこい。オリヴァーはまず、王城に報告に来るはず。宜しく言っといてくれ」
タリアは足早に扉へと向かい、廊下に出ると乱暴に扉を閉めた。
(くっそー! 手の平で転がされてる感じムカつく!)
昨夜の事で頭がいっぱいだったタリアだが、もう一人の当事者であるウィリアムは何事もなかったような顔でタリアを出迎えた。
オリヴァーのことさえ失念するほど余裕がなかったタリアに対し、オリヴァーが帰国するにあたってタリアがどんな行動を取るかを予測し、タリア不在の間も聖騎士団には『完全治癒魔法』の恩恵を受けられるように準備を整えていた。
タリアは行動を読まれていたことにも腹を立てていたし、余裕さを醸し出すウィリアムの態度にも腹が立ったし、オリヴァーのことさえ忘れてウィリアムのことばかり考えていた自分にも腹を立てていた。
(腹立つけど! いいや……しばらく顔を見なくて良さそうだし)
昨夜ウィリアムはオリヴァーが「もしかすると、もうレオに入っているかも」と言っていた。
王都レオを囲う壁から王城まで半日かかる。以前、タリアがレオに入った際には一度壁近くのリアムとユーゴの屋敷に入って一泊し、翌朝移動を再開して王城に到着したのは夕方だった。
そのことから考えると、今日の夕方にはオリヴァーとの再会が叶う可能性がある。
待ちきれず、タリアは王城の正面にある大階段が見える場所で待機することにした。
本当に今日の夕方にオリヴァーが王城に来るのかもわからないし、夕方までまだ時間がある。
暇つぶしを持ってくればよかったと、本気で後悔していた午後二時。
「タリア様」
「フィオナさん……どうしてここに?」
「お菓子をお届けに」
タリアが研究室に行くに日にはティータイムにフィオナがお茶とお菓子を届けてくれる。
今日もフィオナが研究室に行くと、「タリアは多分大階段の辺りにいるはずだ」とウィリアムに言われて来たのだと説明された。
しかも、タリアの暇つぶし用に図書室で何か本を持って行くようにとも言われたらしい。
(また行動読まれてるし!)
そう思いながらも、タリアはありがたくお菓子と本を受け取る。
その日のお菓子は、いつも貴族用の食堂で作ってもらっているものではなく、色とりどりの可愛らしい包装紙に包まれたものだった。
聞けば、昨日の祭りでタリアのお土産として買っておいてくれたものだった。
少しだけ話し相手になってもらい、フィオナから祭りの話を聞いた。
フィオナが参加したのはパレード。さまざまな仮装をした人たち、音楽隊、踊り子が列をなしてその区域を練り歩く。終着点にある広場ではパレード参加者のコンテストが行われる、レオで一番大規模なお祭りだった。
(普通のお祭りもあるよね、やっぱ……あんな、性行為メインの祭りなんて聞いたこと……あるわ)
タリアが前の世界で読んだ時代小説。舞台は江戸後期のもので、その話の中には確かに、男女が出会うための祭りの描写が存在した。祭りの途中、もしくは終わってからその辺の茂みで。しかも何組も。という内容だった。
その時代、宿場には飯盛女と呼ばれる人たちがいて給仕や雑用をしつつ、夜になれば売春を行うなど、現代では考えられないほど身近に、しかも格安の売春があった。
(この世界は性に寛容すぎるんだ、多分。文明もまだまだ発展途上って感じだし)
タリアが王都レオに入ってからはオリヴァーに保護され、その後生活の拠点は王城に変わった。
周囲には貴族が多く、従者もそれに相応しい教育を受けている。だから全くと言っていいほど、この街で暮らす庶民の暮らしを知らずにいた。
ここに来てから初めて庶民の生活の一端に触れ、それがマスカレードというお祭りだったのだから驚いても仕方がないだろう。
しかもマスカレードという祭りを大々的に行なっている辺り、庶民の生活に女性との性行為をお金で買うことも当たり前のように横行し、好き合ったもの同士の特別な行為というより、気の合う人との行為くらいに意味は軽くなっているのかもしれないとも思えた。
話も一区切りがついたので、仕事に戻ると言ったフィオナに荷造りを頼む。もしかすると今夜にもオリヴァーの家に帰るかもしれないとも。
フィオナが去ってしばらく、タリアは本を読んで過ごした。
いつもフィオナが持ってくる本は、時々グリム童話の原作を読んでいる気分になれるものもあったりするが面白い。
屋外でお菓子を食べながら本を読む。本から顔をあげると目下に広がるのは中世ヨーロッパを彷彿とさせる街並みだった。貴族の区画だけでなく、他も区画ごとに建物の色が統一されている。
本の内容と、陽が傾き始めて刻々と雰囲気を変えて行く景色に没頭していると、その景色の一部に異変が起きた。
「あれ、絶対オリヴァーさんだ……あははっ、すっごい!」
王城を囲う柵。王城への入場、退場を厳しく取り締まる門の少し先に、見る間に人が集まって行く場所があった。
この国の英雄であるオリヴァーの周りにはいつも人集りが出来ていた。
タリアは今、門の前にある人集りの中心はオリヴァーだと確信して、大階段を駆け下りる。
そして、門を潜ったオリヴァーがタリアを見て笑顔を見せた。
「オリヴァーさん!」
堪らず、タリアは全速力で走り、オリヴァーに飛びついた。
「おかえりなさい!」
「おう、ただいま。しばらく見ないうちに、すっかり大人になっちまったなー」
「まだ十五歳ですよ」
「でも、見違えたかと思うほどだ。ますます美人になった」
そう言ったオリヴァーに、タリアはくすぐったそうに笑う。
抱きつくのをやめたものの、タリアはオリヴァーの腕に腕を絡め、先程下りたばかりの大階段を上った。
「王城での暮らしはどうだった?」
「まぁまぁです。ジェームズさんのご飯が恋しくて。あ、ウィルの研究、一応完成したんですよ? 完全治癒魔法だけまだで」
「へー、あれが完成してたか」
オリヴァーも楽しみにしていたウィリアムの研究について、現状を話す。
そしてオリヴァーの今後の予定を聞くと、二、三週間滞在した後、また任務に戻るということだった。
今日は報告をしたら家に戻るというので、タリアも一緒に帰ることになる。
報告が済んだら部屋に迎えに来てくれることになり、タリアは部屋で待っていた。
タリアが部屋に戻って一時間でオリヴァーが迎えに来たので、早速聖騎士団の駐屯所を経由して辻馬車に乗り込んだ。
「なぁ、これ、読めるか?」
オリヴァーから古びた本を差し出されタリアは首を傾げながら手に取った。
「……ドイツ語?」
「読めるのか!」
「いや、医療用語しか知りませんけど、なんとなくドイツ語かなー? っと」
表紙を開き、ページをめくって書かれた手書き文字。アルファベットだが、英語ではない。タリアはその表記に見覚えがある気がした。
少なくはなっているが、患者のカルテをドイツ語で書く医師がいたので医療用語だけは覚えていた。
「これ、どうしたんです?」
「任務中に出会ったじい様に託されたんだ。そのじい様の先祖が残したものらしいんだが」
「それをどうしてオリヴァーさんが?」
「なんかな、細身の片刃の剣を持っている奴に渡せと、受け継がれてたんだと」
オリヴァーがその古い本を託されたのは、日本刀を持っていた為だった。
受け取るべきかも悩んだが、アルファベットで書かれていることは明確なので、この本の著者は前の世界を知っている者に託したかったんだろうと思って受け取った。
一時帰国の際にはこの本を読める人間を探そうと思っていたのだという。
タリアには翻訳は無理なので、翌日、喫茶店の店長にでも預けて、内容が理解できる人がいるか探してもらうことになった。
オリヴァーの屋敷に到着すると、ジェームズ一家が出迎えてくれた。
初めてオリヴァーの家に来た日を思い出し、タリアは懐かしくなる。
また暫くはこの屋敷で暮らせる。タリアはそれが嬉しくて堪らなかった。
※ ※
翌朝、タリアはすこし早起きをして日々の鍛練の時間にあてた。昨日は朝も夕方もできなかったので、今日は少し長めに時間を取ろうと思って。
朝食を食べた後は早速、オリヴァーと一緒にいつもの喫茶店に行った。
「確かにドイツ語だ」
「確かにってロルフ……お前、読めるのか?」
「前の世界で二年ほどドイツに留学してた」
この世界では珍しいコーヒーを出す喫茶店の店長、ルドルフ。元聖騎士で特殊魔法の適性は攻撃系魔法と防御系魔法の二種持ち。怪我が元で引退し、貴族の屋敷の区画と一般の区画の間に、『再会』を意味するアクエルドというこの店を出した。
癖の強い赤味がかった茶色の短髪で、顔もそこそこによく、愛嬌のあるタレ目。愛想もいいしサービス精神も旺盛なのでいつも店は女性客で溢れていた。
しかし、前の世界の記憶がある人だけが入れる個室が厨房の裏に用意されており、一般客から離れた場所にあるその部屋では何を話しても外に漏れないようになっていた。
「そういや、お前はあまり前世の話をしたがらなかったな」
「話す価値もないくらい平凡だったもんで」
ルドルフがドイツに留学経験があった事など知らなかったオリヴァーは、こんなに身近に本の内容を読み解ける人物がいたことに驚いていた。
一方、ルドルフは「この世界でドイツ語と出会うことになるとは思わなかった」と本の内容に興味津々だった。
「あーー、どうやら手記か日記みたいだ。著者の名前はクレメント。こことは違う世界の記憶を持つ者に、この本が託されることを願ってる……的なことが書かれてる」
「そう、か……翻訳、頼めるか?」
「もちろん。何が書かれてるか楽しみだ。ただ、思い出しながらなんで、少し時間をくれ。店のこともあるし」
「どのくらいかかりそうだ?」
「やってみないことにはなんとも」
約三〇〇頁ほどある本を翻訳するのに、一日五頁翻訳したとしても六十日かかる計算になる。
できれば一時帰国中に翻訳が終わればありがたいと思っていたウィリアムだったが、ほかに頼める人間もいないのでルドルフの都合に合わせて翻訳してもらい、時々途中経過を教えてもらうことになった。
アクエルドを後にしたオリヴァーとタリアは聖騎士団の駐屯所に顔を出すことにする。
タリアはウィリアムから頼まれている龍脈の小瓶と容器に『完全治癒魔法』をかけるという日課があるので医務室へ。
オリヴァーはぺニナと話しがしたいと言って、副団長室へと向かった。
オリヴァーの話しが長くなりそうだということだったので、タリアは三時間で戻ってくると言って王城へと向かい、サンドラの研究室に行った。
サンドラに暫く王城を離れることを伝えておきたかったし、昨日までの祭りでサンドラの恋にどんな進展があったのかも聞きたかった。
研究室に入ると、サンドラはどこか上の空。
理由を聞くと、両手で顔を隠し、耳まで真っ赤にしながら「付き合うことになった」と言った。
タリアは大いに喜び、サンドラは「まだ信じられない」と泣きそうな顔。
「いつ! どんなタイミングで! 告白されたんでしょう?」
自分自身の恋愛には本当に無関心なタリアではあったが、サンドラの恋には非常に興味があった。
「最終日の夜に」
「昨日じゃん! 約束してたのって初日じゃ」
「そう。初日だけのはずだったんだけど……手を、繋いだの」
「それで? それで?」
「人が多いから逸れそうだなー。手、繋ぎたいなーって思ってたら、向こうから。びっくりして立ち止まったらね、振り返って、ニコって笑ったの。恥ずかしそうに、ニコって。もう、心臓爆発して死ぬかと思った」
(ほんと、少女漫画みたい!)
「でも恥ずかしくって嬉しくってあんまり喋れなくなっちゃって……別れ際、最終日の夜にまた来たいって言われて、それで……」
思い出してまた恥ずかしくなったのか、サンドラはわっと声を上げて再び顔を両手で押さえ、机に突っ伏した。
「どうしようっ……男の人と付き合うのなんて初めてでどうしたらいいかっ」
「別に、どうすることもないんじゃないですか?」
「……何もしなくていいってこと?」
「気負わなくていいって事です。彼のために何かしなくちゃ! って気負っても疲れるだけだし、自然体で一緒に居られる方が楽だし、長付きするんじゃないかなー」
サンドラにとって初めての彼氏であれば尚更、彼に嫌われたくないという思いが強く、相手に合わせることを最優先にしてしまいがちになる。
「好きだから付き合うんだろうけど、これからは好きって気持ちを積み重ねていく期間でもあると思うんです。だからね、相手に好かれようと取り繕って、相手に合わせて自分を偽ってたら、その偽りの自分を好きになられちゃうかもしれない。そんなの疲れちゃうじゃないですか」
付き合い始めに相手合わせ、自分を偽るのは危険だと、タリアは思っていた。
これからはより深く、お互いを知っていく時期。自分を偽らずにこれからの時期を過ごせたら、本当の自分を好きになって貰えるかもしれないということだった。
「でもそれって、本当の自分を嫌いになられるかもって危険がつきまとうよね?」
「うん。完全に相手に合わせないってことをするのは嫌われるんじゃないかな。付き合ってるとはいえ、他人なんだから価値観が違くて当然だし。難しいけど、自分らしくいられる範囲で、相手を気遣うことが必要になってくるかなー」
「……それって、本当に難しいんじゃ」
「でも、長く一緒にいる相手だからこそ、気遣いって必要なものじゃない? 自分の要求ばかり押し付けてても、相手が受け入れてくれなければ不満が募るし、相手も同じ。家族でだって価値観は違うんだから、彼氏だから全て受け入れてくれるってことはないし、彼女だから彼氏の言うことをなんでも受け入れられるかって言ったら、違う。長い時間をかけて、お互いの妥協点を擦り合わせていくのがいいと思うんです」
「なんか……大人な意見だなー」
「って、偉そうに言っちゃったけど、私も恋愛では失敗してばかりで……次に誰かと恋愛をするときにはちゃんと相手を気遣って、それが自然に出来るようになれたらいいなーって思ってたってだけなんですけど」
前の世界で二十七歳だったタリアは、それなりに恋愛を経験していた。次に恋愛をするときには結婚も考えたい年齢でもあったので、過去の失敗を次に活かせるようにと考えていた。
「せっかく付き合うことになったから嫌われたくはないけど」
「ふふっ、失敗したっていいと思いますよー?」
「嫌だ! 失敗はしたくない!」
「衝動で動いて失敗するのも恋の醍醐味かと」
「失敗を楽しむ余裕なんてない!」
「ですよねー」
「相手を気遣うとか、そんな余裕も今は……彼を目の前にするだけでパニックに陥る自信だけはある!」
「あっはっは! わかるなーそれ」
「そういうもの?」
「うん。多分、みんなそう。彼もそうだと思う」
「そうかな……私ばっかり何かしなくちゃって焦らなくていいのかな?」
「ゆっくりでいいですよ。彼がどんなことを嫌うのかなんてわからないんだから、嫌われないように先手を打つ、なんて無理じゃない?」
「確かに……」
誰も、相手の心が読めるわけではない。相手を深く知らなければ、思考の系統を把握し、先読みすることなど不可能。
嫌われないようにと起こした行動が、相手に嫌われる行為かもしれないのだから。
だから今は無理をして何かをするのではなく、この先自然と壁にぶつかった際、相手ときちんと話し合って乗り越えていく方が賢明だ。
「焦りは禁物ってことだね」
サンドラに初めての彼氏ができた。この先何度も嫌われる恐怖は襲ってくるだろう。今は嫌われる恐怖より、両思いになれたと言う幸せを噛み締めていてほしい。
そんなタリアの想いは伝わったようで、サンドラの表情からは気負いが消えていた。
相手に嫌われる。相手を好きだからこそ、その恐怖は付きまとう。その恐怖に負けてしまうと、相手に好かれているという自信が喪失し、相手に近づく異性に嫉妬したり、相手を束縛したりしてしまう。束縛すれば嫌がれら、嫉妬なんて感情に支配される自分の心の醜さにまた自信を喪失するという悪循環に陥ってしまう。
そんな奥循環の中にサンドラが落ちてしまわないように。そんな想いもタリアにはあった。
出来ることならこの恋が、サンドラにとって最後の恋になれば幸いだと願いながら、タリアはサンドラの研究室を後にした。
※ ※
オリヴァーが帰国して二週間目。
その日の夕方、タリアはオリヴァーと一緒に屋敷の庭に置かれたガーデンベンチに座っていた。
ルドルフに翻訳を任せている『クレメントの手記』の翻訳が思っていたよりも早く進んでいて、半分がオリヴァーの手元に届いていた。
二人はそれを順番に読みながら、家族の到着を待っているのだ。
ギルバートが戦地から帰ってくる。
すでに十分な成果を上げていたギルバートだったが、手応えのある相手にまだ出会っていないと駄々を捏ねて戦場に残っていた。
聖騎士団に入るための実践においては一般兵とのレベルが違いすぎるため、一つの戦いが終幕を迎えたら離脱し、かなり離れた場所に移動をしてまた傭兵となる。それを繰り返すのだが。
ギルバートはどこへ行っても一般兵相手に無双状態が続き、有名になりすぎてしまった。
このままその戦場に留まっていると何処かの国から引き抜きの話が来てしまうので帰国させたいが、本人が帰らないと言い張っていた。
そのため、リアムとユーゴを派遣して強制送還をすることになった。
予定では昨夜のうちに王都レオに入り、リアムたちの屋敷で一泊した後に家族を引き連れてオリヴァーの屋敷に来る予定になっていた。
暇つぶしになればと思い、読み始めた『クレメントの手記』。その内容は、クレメントの前の世界と、この世界に来てからの出来事だった。
クレメントは前世で、高校を一年で中退して単身ドイツに渡った。ドイツ語の勉強をしながら芸術大学に入るための準備をし、数年後、念願叶って大学に入学。しかし、十九歳の時に暴漢に襲われて死んだのか、この世界にやってきた。
世界は変わっても芸術には関わっていける。そう思っていたのだが、その世界には戦争しかなかった。
その上、クレメントは攻撃に特化した魔法が使えたために、強制的に戦争に送り出されることになる。
クレメントが生きた時代は約五〇〇年前。龍脈の周囲に出来た十二の国が争い、四つに統合されたあたりの時代。国取り合戦の真っ只中に転生したということだった。
クレメントは戦場から逃げ出した。味方の、敵の死体を踏みつけて。味方を裏切ってでも、その手で誰も殺したくなかったし、殺されたくもなかった。
生まれた家にも帰ることが出来なくなったクレメントは何年も放浪をした。魔獣の皮は武器や防具になるので高く売れたので生活費にあてた。
そんなある日、クレメントは山賊に襲われる。取り囲まれたが、返り討ちにできるかもしれない。しかしそれは誰かを殺すことを意味していた。
クレメントはまた逃げた。その際、剣で斬り付けられ左肩を負傷。それでも逃げた。
大量の出血に森の中で力尽きたクレメントは死を覚悟した。
そこに不思議な女性が現れた。暗がりに溶け込むような黒髪と黒い瞳の、暗い表情をした女性だった。
その人はフラフラとした足取りでクレメントに近づき、あっという間に傷を癒した。
あまりの出来事に驚いていると、女性が倒れこんできてーーそのまま三日、眠り続けた。
クレメントは近くに古い小屋を見つけ、そこに女性を連れて入った。
そして女性が目覚めるまで、小屋を直して過ごした。しばらく誰も使った形跡のないその小屋ならば、生活の拠点にできるかもしれないと思ったからだ。
目覚めた女性は声を出せないようだった。目はいつでも虚ろで、空虚そのもののような気さえした。
そして、女性との二人きりの生活が始まった。
クレメントは小屋を直し、畑を耕し、動物を狩る。雨の日は絵を描いて過ごした。時々近くの町へ行って、画材道具を買った。
その生活はクレメントにとって理想の生活のような気がした。
それもこれも、女性がクレメントの命を救ってくれたから。だから女性の世話をし続けた。
しばらくして、女性が声を出せることを知った。話したくなかっただけだと知った。
彼女は何か深い事情を抱えている。そう感じつつもクレメントは何も聞かずに女性の世話をした。
と、日記の半分はこのような内容だった。
「オリヴァーさん、この女性、どう思います?」
「どうって?」
「死を覚悟するほどの大怪我を一瞬で治すって、よっぽどですよね」
「タリア、お前にはできるか?」
「少なくとも一晩かかります」
「そうか。まぁ、結論は全部読んでからにしようや」
タリアは『クレメントの手記』に登場した黒髪の女性が『スティグマータの乙女』ではないかと思った。
オリヴァーもその可能性を感じた上で、結論は全部を読んでからにしようと言っていた。
「おっ、ちょうどいいタイミングで……帰ってきたみたいだぞ?」
オリヴァーの声に通りを見ると、二台の馬車がこちらに向かっているところだった。先頭の客車を牽引するのはワイバーン。その後に続く馬車はリアムとユーゴが屋敷で保有している馬車だった。
ワイバーンの方は敷地の通り沿いに停車し、馬車は敷地の中に入って来る。
ワイバーンの方は聖騎士団所有で、従者は聖騎士の一人。荷車からリアム、ユーゴ、ギルバートを下ろして出発した。
そして馬車からはリアムの妻、リリーと娘のナタリー。ユーゴの妻、ジーニアと息子のワイアットの四人が降りてきた。
オリヴァーの姿を確認したワイアットとナタリーが駆け出す。オリヴァーがしゃがみ、飛びかかる子供達を受け止めた。
一年ぶりの全員集合に、誰もが喜んでいる。
筈だった。




