濡つ心と紫陽花と
憂鬱となる季節。それは梅雨。子供の頃から梅雨に入れば雨ばかり……なんて思っていたのに、まるで真夏を思わせるかのように、連日の快晴と暑さは運動部の私の体力を根こそぎ奪っていく。
梅雨だから雨が降り続き、止まない日が続くとは限らない。彼とは、そんな梅雨空とは無縁の真夏日に顔を合わせた。陽射しの下で頭から水を流し込む、彼の笑顔は光ってた。
「なぁあんた、そんなに連続で走って倒れるつもりしてんの?」
生憎と梅雨はともかく、暑ければ暑いほど私は元気になれる人。もちろん、対策はしている。
「や、私、丈夫なので」
「いや、それにしたって、暑すぎるのによくもまぁ。水は取ってんだろうな? じゃないとぶっ倒れてしまうし、あんたを抱えるとか親切心を出すつもりなんてないしな」
「キミ、ひどくない? 倒れること前提で話すのっておかしいし。それってどうなの? てか、誰?」
「あー……俺はあんたのこと知ってるけど、あんたは知らないよな。順位とかタイムとか俺は下の方だし。で、澄夏だろ? いつも順位が上の常連組の」
「上にいるから勝ってるわけでもないけど、私のこと知ってくれてたんですか、そうですか。で?」
「可愛くねえな。まぁいいや、俺は隼大。覚えてくれとは言わないけど、知っててくれると助かる」
「じゃあ、覚えない。可愛くないので」
「冗談くらい受け流せよ。澄夏って呼んでいいか?」
「勝手に呼べば? 私は呼ばれても駆けつけたりしないけど」
「ひでえな」
そんな感じで初めの印象はお互いに最悪。でも、彼が私の名前を知っててくれたのは嬉しかった。素直にありがとうと言えない私が、可能な限りの抵抗心を彼に出していただけのことだった。思えば、自分よりも順位が下の人たちとは練習メニューも別で、顔を合わせても挨拶くらい。
そんなのって、同じ学校でもあり得ないことではあった。男子と女子の混合で出会うか出会わないか、そんな程度だった。
互いに陸上に励む日々。足が速いことだけが私の自慢。だから高校で陸上に入ってた。それでも勝てるとは限らなくて、目に見えてタイムは縮まらないし順位だって上がりそうにない。そんな中で彼と出会った。
高2の時、小さめの大会があった。その時には隼大とは軽めの恋人関係。まだそれこそキスとかそんなのとは無縁。走ることを優先していたから、そんな感じの関係性。それが一気に駆けだしたのはその日のアレからだった。
私はスタートで躓き足を痛めた。そのまま棄権しても間違いじゃなかった。ゴールまではきちんと走り抜いたけれど、痛くて立ち上がれなくて。そんな状態の私の元に彼が息を切らせて駆けつけてた。
彼の取った行動は、観衆と他の子たちの見ている前で、恥ずかしがる私を抱えて医務室へ運んでくれたことだった。恥ずかしいを通り越して、顔だけが赤くそして、何も言えなかった。
「な、何であんな他の人がいる前であんなこと……」
「痛いだろ?」
「そ、それだけ?」
「あれを放って置く彼氏なんて、そんなの好き合ってるとは認めたくない」
「だ、だって、み、みんないるんだよ? コーチ、みんな。隼大の先輩だって……どうしてそんなことを平然と出来るの」
「澄夏しか見てなかった。他の奴、まぁ、先生もだけど気にしてたら、お前のこと助けられなかった」
「それ、そんなこと言うのズルい……」
こんなことをされて陸上を続けながらずっとこの関係が続くと思っていた。それなのに現実は残酷なんだ。3年目の夏が来る前になって、彼はもっと設備環境の整った学校へ移ると言い出した。そこでなら、タイムも縮んでなおかつ、進学した先の大学もそのままの施設を使えるからということだった。
私よりも縮まらないタイム。その差は一向に近付かない。それだけが理由じゃないって言っているけれど、彼の考えていることなんて目に見えないものだから深く聞き出すことは出来なくて、止められなかった。
「ど、どうして、そんな……そんな急に」
「決めたことなんだ。ごめんな」
「嫌だよ。いつも一緒にいたのに、一緒に走って来たのに何でそんな……」
「澄夏との距離が少しでも縮まっていれば、俺の気持ちはこうはならなかったかもしれない。でも、分かるだろ?」
「分から……ない。だって、そんなの」
分かってた。同じ競技に一所懸命に打ち込んで、努力を繰り返してそれでもどうにもならないことがあるってことくらい。それと恋は関係していないものだと思ってた。でもそうじゃなかったんだ。彼は私の速さに憧れを持って近付いて来た。それが、近くにいるのが当たり前になって彼の何かが納得出来なくて、心を寄せ合うことを諦めさせてしまったんだ。
「じゃあ、お前は頑張れよ」
「――もう一度、見に来て」
彼は私に背中を向けたまま、何も言わない。肩を揺らしながら、すすり泣く私の上空から冷たい滴を額に落としながら、瞳の奥からも大量の涙をこぼし続けた。降り濡つ滴と涙を流し続けた。
涙で視界がぼやける中、目に飛び込んで来た色鮮やかな紫陽花は、滴に打たれながらも静かに微笑んでいた――。




