三章 七 接触
――夜。
久しぶりの一人の夕食。ゆったりとした風呂の時間。
料理で体力を使うのを避け、食事は最小限に済ませる。花の世話と『食事』に時間をとった。
一人の時間は、静かだ。夜になってもゼルギウスがいないのが、随分久しぶりだった。物足りないような感覚を覚えて、それが『寂しさ』だと気付く。
彼とは今だって、依頼人と護衛の関係だ。それもいずれ契約は終わり、無関係の二人になるだろう。それなのにこんなに早く、彼のいる環境に慣れて、彼がいないことに寂しさを覚えるなんて、なんだか自分が滑稽だった。
一人の時は、気を遣う必要はない。寂しい代わりに、気楽だ。
花の手入れを終え、部屋で一人、ぼんやりと空を見上げる。
半月だった。もう幾分すれば満月になる。テンベルクよりも幾分賑やかなこの町は、夜になってもどこか明るくて、その分、星が少ないような気がした。それでも、雲一つない夜空は心が落ち着く。
遠く喧噪を聞きながら、シェスティは思う。
――ああ、夜の町も見てみたかった。
シェスティの生き方ではどうしようもないことだけれど、そう考えてしまうのも仕方ないといえば仕方なかった。
お酒が飲みたいとまでは言わないが、せめてその雰囲気だけでも見たかった。
今日だって可能ならついて行ってみたかったけれど、また迷惑をかけるわけにはいかない。
むくむくと育つ好奇心を枯らすように、強い諦めが心の中に吹き込んだ。わがままを突き通す代わりに、自由に動き回れることを捨てたのだ。これも一つの代償だ。
月が昇る空に星がまたたく。あんな風に気持ちが晴れる日が来るのだろうか、などと。不意に考える。
――その月に、少しだけ影がさした。雲ひとつない夜空のはずなのに。
(え?)
はじめは思い違いかと思った。
けれど、『それ』は間違いなく、シェスティのもとに近づいてきていた。尖った羽の姿をみとめた。近づくにつれてその輪郭をはっきりと認識した。
――窓を、閉めて。見なかったふりをしたい。そう思ったけれど、既に彼女と間違いなく、目が合っていた。
気づけば影は、窓の前で一時停止していて、真っ直ぐにシェスティを見据えて口を開く。
「シェスティ、久しぶり」
女の声。聞き覚えのある声だった。
「エーレリア……」
空を飛んでやってきたのは、同郷のサキュバスだった。
せめて変な目撃情報を残さないよう、急いで彼女を部屋に招き入れる。エーレリアは素直に従ってくれた。
「どう、したの」
「んもー、怖がりすぎよぅ、シェスティ。……ってアナタ、何、魔力なさすぎない? 大丈夫、生きてる?」
「生きてるよ、生きてるってば……」
肩を掴まれてがしがしと揺らされる。
彼女は群れの中では比較的、シェスティの憧れに理解のあるほうだった。といっても、馬鹿にしない、という程度のことだったけれど、シェスティにとってはそれがとてもありがたかった。比較的、親しかったほうだろう。とはいえ、会うのは数年ぶりだ。
「城を出た後は基本不干渉――じゃなかったの?」
これはフェルトシュテルン地方に住むサキュバスの習慣だった。
もっと城単位でまとまりをもって動くところもあるらしいが、フェルトシュテルンの女王は基本的に放任主義だ。
「んー、そうなんだけどね。『招集』があったのよ」
そう聞いて、シェスティは知らず体が強張った。
「……なにかあったの? 女王の身に……」
「いや、女王は健在――なんだけどね。えっと、ちょっと長くなりそうなんだけど」
エーレリアは腕組みをして語り出す。
ベルグシュタット地方のサキュバスが、魔獣を町や村にけしかけて『遊んでいる』のだという。ついでに領主を篭絡して、ギルド等による適切な対処を防いでしまっている。
「あ、テンベルクでもあった……」
「そんな名前の町もあったっけ。うん、そう。その他でも結構おっきい被害になってるのよ」
「でも、ベルグシュタット地方の話でしょう? 私たちの縄張りには関係ないんじゃ……」
「いやあ、それがね、あいつら、なんか調子に乗っちゃって。フェルトシュテルンでも遊び始めちゃったの」
基本的にサキュバスは地方ごとにその拠点となる城があって、なんとなくではあるが、お互いの領域には不可侵ということになっている。要するに「遊び場は決めておこう」ということだ。
シェスティのように、およそサキュバスとは思えないような生活をしているとか、人族の群れに紛れ込んで一人の者と寄り添っている――という者なら発見されても見て見ぬふりをされることもあるが、基本的には自分が所属する地方で遊ぶものだ。まして、集団全体を混乱に陥れるような遊びは全面戦争をふっかけていると言われても仕方ない。
明文化こそされていないが、これを破れば領域侵犯に対する報復戦が始まる。そういうことをされても仕方ないのだという認識が、ティアラントに住むサキュバスたちの中にある。
「女王が代替わりしたばっかりでねぇ、ちょっと加減がわかんなくなっちゃってるみたいなのよ。
まだ被害が出てるのはベルグシュタットに近いちっさい村くらいなんだけど」
そう言われて、シェスティはフィールファルベに辿り着く前に行った村で遭遇した、魔獣被害のことを思い出す。
魔族の関与。ゼルギウスはその可能性を口にしていた。報告はゼルギウスの方から行ったということだったが、調査途中だと聞いていた。
「フェルトシュテルンじゃ、なかったんだ……」
まさか離れているうちに思想が変わってしまったのではないかと、少し危惧していたところもあったのだ。
シェスティが安堵と共にそう口にすると、エーレリアは少しばかり憤慨した調子で、
「あったりまえじゃない! なんであんな非効率的で趣味悪いことしなきゃいけないの」
と返された。
――フェルトシュテルン地方のサキュバスは、少しプライドが高いのが多いとか、サキュバスの中では言われているらしい。
自認としては『人族との共存を重視する穏健派』だと思っていたのだが。
「とにかく。流石にこっちに手出すのは見逃せないし、あと、人族を過剰に堕落させようとするのもちょっと気に食わないってことで、女王が懲らしめに行くって言いだして」
「えーと……本気?」
それは『本当にやるの?』という意味ではなく、『どのくらいやるの?』という意味での問いかけだった。
「割と本気」
彼女は、肩をすくめ『お手上げ』のポーズを取る。ご愁傷様、という声が聞こえてきそうだった。
「ね、シェスティ。今からアタシも戻るところなんだけど、一緒に行こう? そんなに魔力のない体じゃ大変でしょ? 城なら食事も十分にあるし」
そう言われて、シェスティは首を振った。
「その……みんなに、伝えておいて欲しいの。私、やっぱり、そのー……。気持ち、変えられないっていうか……。魔力がないから、力になれないから……」
「ああー……やっぱり、アナタはそういう感じなのね。……どうしようかしら」
エーレリアは眉を寄せる。しばらく悩んでいたが、やがて言いづらそうに口を開いた。
「えっと、アタシもね、女王から、シェスティを絶対、引きずってでも連れてこいて言われてて……」
「えっ……お母様が?」
シェスティは驚いて、思わずそう問い返していた。
「うん、そうなのよ。女王直々で。まあ、しかたないかしら。招集の期間はそれなりにあるから、とりあえず説得してみるわ。ダメだったらまた来ることにするけど――あんまり、期待はしないで?」
「……ごめんね、エーレリア」
「いいのよ、別に。……じゃ、とりあえず行ってくるわ。そろそろ、あの傭兵サン、帰ってきちゃいそうだし」
そう言って、彼女は来た時と同じように窓をさっと抜けると、挨拶もそこそこに飛び立って行った。見送りながらぼんやりと、幸運にもゼルギウスがいないタイミングで来てくれたのではなく、ゼルギウスがいない時を狙って訪れてくれたらしい、と思う。
(……お母様が、わざわざ私を……)
母親――女王との関係は、良いとは言いがたい。少なくとも、シェスティは彼女を苦手としていた。
あちらは散々その倫理観について矯正しようとしてきていて、裸体の男たちの中に放り込まれたこともあった。ショック療法どころか逆効果で震え上がったのは今でも少しトラウマ気味だ。
結局、成体となったのと同時に、喧嘩別れのような形で逃げてきてしまった。
万一、こういった招集があったとしても、魔力がなく戦力外だと言えば、仕方ないと切り捨ててもらえると思っていたのだが。
(……やっぱり、ほかの子に女王を譲る気、ないのかなあ……)
女王の子はシェスティしかいない。そもそもサキュバスはほとんど子をなさない。
魔力を吸収しないように意識して精液を体内に取り込めば妊娠することができるのだが、逆に言えばかなり意識しなければ妊娠することはない。
大抵のサキュバスは、面倒だし、なにより勿体ないということで子作りを行わない。
そのうえ相手が人族だった場合、産まれるのは相手の種族に合わせた子になってしまう。淫魔の子が欲しければ、インキュバスと交わらなくてはならないのだが、彼らとの行為は魔力供給効率が悪いので普段は互いに関わろうとしない。
ただ――なんとなく生命の本能として、ある程度歳をとってくると「まあ一人くらいいてもいいかな?」という気持ちになってくることもある、らしい。気まぐれでつがいとなるインキュバスを見繕ってきたりするのである。
ただ、魔族はおしなべて長寿であり、サキュバスもその例に漏れない。『ある程度歳をとる』までに数百年かかるため、その気になることは滅多にない。子を成すというのは一種の酔狂だ。
女王、というのは、その地方におけるサキュバスの中で最も強い者がなり、彼女らを束ねる、という役目もある。
が、そうした酔狂で生まれた子たちを城という場で育て、独り立ちさせるという役目も担っているのだ。
大抵のサキュバスは成体になれば城を出て行くのだが、帰属意識は城にある。また、育児が好きな数少ないサキュバスも数名残っている。
城に残った成体のサキュバスにも、女王ほどでないにしても、力の強い者は多くいた。
次期女王となるのは、彼女らか、彼女らの娘でいいじゃないか――とシェスティは常々思っている。
思っているのだが、女王は昔から常々シェスティに、お前が次期女王なのだから、と言ってきていた。
(……ああ、行きたくないなあ)
食事がある、というのは、つまるところ篭絡されてきた男たちがいるということだ。
そういった男たちとまぐわって、魔力を補給しろ、と女王は言っているのだ。
(お母様がまだ諦めてないとは思ってなかった……)
どうやってあの女王から逃れようか。向こうが悪いわけでもない、同族たちの生態を否定したいわけでも、『お仕置き』を止めたいわけでもない、ただ、放っておいてくれないだろうかと、いっそ死んだものとして扱ってはくれないだろうかと思っているだけなのに――。
沈んでいった思考は、コンコン、というノックで中断された。
「シェスティ?」
扉の向こうから、ゼルギウスの声がした。出迎えができなかったことに、そのとき気付いた。
「あっ……おかえりなさい。思ったより、早かったんですね」
まだ夜の鐘が鳴って、そう経ってもいない頃だ。もっと遅くなるのかと思っていた。
「ああ、ノルベールの宿に、門限があるらしくてな。……寝ていたところか? 起こしてしまったならすまない」
「あ、いえ、少しぼーっとしていただけなんです。大丈夫です」
寝間着に一枚上着を羽織ってから、ドアを開けた。
ゼルギウスが気づかわしげな表情で見下ろしていたから、微笑んでみせた。けれど彼は、表情を変えずじっとシェスティを見下ろして、それからゆっくりと口を開いた。
「……何かあったか?」
硬質な声で、表情は変わらずに。そう問い返されて、答えに窮す。
「え――と、いえ、特に――」
まさかサキュバスが訪ねてきたと言えるわけもなくて、曖昧に誤魔化した。
「本当にか? 玄関を何度も叩かれたりとか、壁をよじ登って窓から侵入されかけたとか――」
「いえ、いえ、違います、そんなことはないですっ、静かな夜でしたっ!」
若干当たらずとも遠からずなことを言われ、焦って必死に弁解してしまう。言いながら、彼女の訪問がバレていたならゼルギウスがここまで落ち着いているはずがないと気がついた。
それなのにこんなに焦っている自分がどこか滑稽だ、となんだかおかしくなってしまって、つい笑ってしまった。それでやっと、先ほどまでの自分の表情が、どこか強張っていたことに気が付いた。
「……そうか。ならいい。なにかあったら、言ってくれ」
シェスティの表情を見て、ゼルギウスもようやく表情を緩めた。
「風呂の湯は残っているか?」
「あ、はい、一応。沸かし直しますか?」
「いや、かなり飲んだからな、体を拭くだけにしておく。貴女も、もう寝る準備をするといい」
彼はそう言いながら、何気なく。――本当に何気なく。いつも通りの世間話の流れという風に。
手を伸ばして、シェスティの頭を撫でた。
ほんの少しの酒の匂い。大きな手のひらの感触。
――顔に、熱が集まって。
「あ、はっ……はいっ!?」
思わず声が裏返ってしまったのを、変に思われなかっただろうか。……いや。
その声でぱっと手を離したゼルギウスは、少し目を大きく見開いていた。
(ぜ……絶対変に思われた……!)
思わず俯いて視線から逃れる。頭から暖かな感触が離れていって、――それが少し名残惜しいような、ほっとするような。
「………………おやすみ」
言うが早いか、ぱっと彼は背中を向けて、そのまま足早に風呂場へと向かった。
「お、おやすみなさい……」
その背中にかけた声は消え入るようなものになってしまった。
ふらふらとした気持ちのまま、部屋のドアを、ぱたんと閉めて、
(……い、今の何今の何今の何ーーーッ!!)
ひとり。心の中で絶叫するのだった。
色んな意味で接触。
ゼルギウス側の心情については完結後に補完できたらなと思っています。




