二章 七 感情と欲
R15っぽいシーンが入ります。とてつもなくぬるいですが……。
(な、何!? なんで、この人、ここに!?)
男の肩越しに見えた扉は、壊されたような風はない。何よりそんなことをしたら、音が立つ。隣の部屋にいるはずのゼルギウスが異変に気が付くだろう。
酒もあってか、泥のように眠っていた。そこから、何かが布団に入り込んだ気配で目が覚めたのだ。
気が付けば口を塞がれ、馬乗りされていた。もがくものの、脱出は難しいと混乱した頭でそれだけはわかる。酔っているらしいとはいえ男女の差があるし、その女の中でもシェスティは輪をかけてひ弱だ。
「暴れないでってば……」
そうねっとりと耳元で囁かれて怖気がする。どうにか抜け出そうとするが、その様がかえって男をそそるらしい。
思考はまだまとまらないが、寝起きの頭も流石に覚醒してきた。サキュバスは夜目がきく。目の前にあった顔は、一応見覚えがある。宿の息子だ。
――合鍵を使われたのだ。そう理解したのは後のことで、この時の思考はまだ混乱の中にあって、冷静に考える余裕はなかった。
それがわかったからといって、状況はどうにもならない。男の手が、着ていたキャミソールの裾にかかった。
「ンーッ! ンーッ!!」
塞がれたままで必死に声を出す。視界が少しぼやけていた。
――やだ。
そんな気持ちで頭がいっぱいになる。
(だからお酒は嫌なのに……!)
〔催淫〕が、かかりすぎる。
〔解呪〕は明日の朝、酔いが醒めた後にすればいい、そう思っていたのが悪かったのか。でも今夜すぐに行っても、酒の入って低下した抵抗力ではすぐに〔催淫〕が再度かかってしまい、大して意味がない。人数も多すぎて魔力がとうてい足りない。だから、その場で対処しなかった。
それにシェスティ自身少し酔ってしまって疲れていたから、早めにあの場を離れたかった。
けれどその判断ミスのせいで、今こうなっている。
いつの間にか両手がまとめて押さえつけられていて、自由になるのは足だけだった。蹴り飛ばそうにも体勢が悪く、力も入りそうにない。
「可愛いね、いっぱい愛してあげるからね」
再び囁かれ、目にたまっていた涙がとうとうこぼれた。――いやだ、いやだ。こんなことでこんなところで、ずっと大切にしてきたものを。
(たすけ、)
露わにされた胸のあたりに男の顔が近づいてきた――その瞬間。
ドアノブがガチャガチャと音を立てた。男は鍵をかけ直していたらしい、扉は開かない。間髪入れずドンドン、とノックの音がする。
「シェスティ、何かあったか」
――ゼルギウスさん。そう呼ぼうとしたけれど、口を塞いでいる手が一層強く押し付けられた。
男はがばっと体を起こし、凍り付いたように動かなくなった。息をひそめて。何事もなかった風を装うように。けれど。
「……返事がないのは何かあったということだな」
低く呟くような声が聞こえた、直後、バァン、と大きな音。
――男の肩越しに、廊下の光が暗い部屋の中に届く。シルエットになった彼の巨躯は、やけに大きく見えた。
「…………」
何をしている、とも、なんだお前は、とも、ゼルギウスは言わなかった。
ただつかつかと歩み寄ってきて、そうしてシェスティに覆いかぶさったまま呆然とする男の首根っこを掴み、そのままベッドから叩きつけるように引きずり下ろした。
「あだっ。……な、なんてことしてくれるんだ、扉は――」
自分のことは棚に上げた様子で、男がゼルギウスを責める。
「明日にでも、女将に事情を説明する」
が、彼は特に取り合うつもりはないようで、そのまま首根っこを引っつかみ、ずりずりと引っ立てていく。
荷物のように引きずられて外に放り出された男は、多少冷静になり自分のしたことを理解したからか、それとも力でかかってこられたら敵わないのが明白だったからだろうか、それ以上文句を言うこともなく、すぐに逃げていった。
そんな様子を、シェスティはまるで一枚の布を隔てた別世界のことのようにぼんやりと見ていた。まだ心がここに戻ってきていなくて、心臓の音がばくばくと鳴り止まないままだった。ゼルギウスが振り返って「大丈夫か?」と問うてきても、言われたことを咀嚼するのに数秒の時間を要した。
「…………とりあえず、肌を隠したほうがいい」
そう言われても、一瞬何のことかわからなかったくらいだ。
「――――!?」
一拍置いて、慌てて布団で体を隠す。その恥ずかしさでようやく、意識が体の中に戻ってきたような気がした。
「大丈夫か?」
「あ、えっと、はい……その、すぐ、来てくださったので」
そう言って礼もしていなかったことに気が付いて、慌てて「ありがとうございます」と付け加えた。
「いや。すまない、怖い思いをさせた。護衛としては失格だ」
ふ、と彼はため息をついた。
「本当に、未遂だったので」
「護衛対象の体に触れる事態を許した時点で、本来なら減額される」
硬い表情でそう言う彼に、そのつもりはないという取りなしをして、しばらく平行線を辿った。最終的にはシェスティが依頼人としての立場を振りかざして、話を一旦終息させる。
「しかし、ここでは眠れないな」
「あ、そうですね……」
ドアはすっかり破られていて、鍵どころか閉じることすらできなくなってしまった。「仕方ないか」と彼は呟く。
「すまない」
そう言いながら彼はシェスティに歩み寄ると、彼女をくるまっていた布団ごと抱えた。そうしてさっさと歩きだす。
「へっ、えっ、あの?」
まだ先ほどの涙も乾かないうちに、今度は心臓が別の意味でうるさい。
「この時間だ。女将に新しく部屋を整えさせるのも面倒だ。それに、同じことが起こらないとも言えない。俺の部屋なら守りやすい」
「え、えっと、それって、」
同じ部屋で寝るってことですか――!?
そう問いかける間もなくシェスティはゼルギウスの部屋のベッドの上に寝かされていた。驚くほど足が速かった。彼の一人旅ならもうとっくにフィールファルベどころかフェルトシュテルン地方都市までたどり着いていたのだろうとシェスティは半ば現実逃避気味に考えた。
その間に、彼は淡々と荷物の移動を始めていた。ものの数分、いや数秒でその作業は終わって、がちゃりと鍵をかけ直す音でシェスティははっと現実に戻ってきた。
「えっ……と、あの、布団……」
「ん? ……ああ、気にするな。俺は床でも寝ることができる」
そう言ってもともとこの部屋にあった予備の掛布団をさっと取ると、ゼルギウスはそのまま壁を背にして座り込んだ。
「あ、あの、でも、ゼルギウスさん、お疲れですから、今日は私が床で寝ますよ」
「体力がない貴女が、よく眠れなくては明日に響く。今日はクライン草も摘んでいたのだろう?」
「あれくらいは別に……いつも、やっていましたし……」
「薬屋の店主は、それでも貴女にとっては重労働のようだと語っていた」
「う、……その、ゼルギウスさん、怪我をなさったのでしょう? 下位の回復薬は主に、本人の体力でその治癒能力を高めて怪我を治すものですから、あなたが自覚しているよりも疲れていらっしゃると思います」
気づけばまた、かなりの押し問答になっていた。長々と自分が床で寝ると終わらない平行線をたどり続けて。
「もうっ、そんなに言うんでしたら私も床で寝ますっ!」
そう言って寝台から降りようとしたシェスティを、ゼルギウスが押しとどめた。そのまま後ろへと倒される。
「え、えっと……?」
無言のうちにゼルギウスはシェスティに隣の部屋から持ってきた布団をばさりとかけなおし、シェスティの横に座り込む。
「……これでいいだろう。早く寝るぞ」
「へっ、あっ、は、はい」
ゼルギウスの声は憮然としていた。思わず返事をしてしまったが、咄嗟にまずい、と思い直す。しかし彼は寝台のそばにあった魔石灯を消して、もう一つの布団をかぶり、背中を向けて寝転がっている。
一人用の部屋の一人用の寝台で、大柄なゼルギウスはただでさえ幅をとる。布団越しとはいえ触れない距離まで離れることはできなくて。
(ね、ね、寝れるわけが、ない……!)
心臓が破裂しそうだった。こんな格好で、こんな距離で。――彼のそばにいるのは。
つい少し前とは違う意味で鼓動が早まる。
少し身をよじってゼルギウスに背を向けた。それでも少しゼルギウスが身動きをするたびに、反応してしまって落ち着かない。
しばらく葛藤したのちに、
(…………や、やっぱり、むり…………!)
こっそりと寝台から抜け出そうとしたのだが。
「ちゃんと布団で寝ろ」
背中を向けていたゼルギウスが振り返って、シェスティのことを押さえて引き留める。そのまま腕が背中へ回されて、引かれるがままに距離が埋まる。
目の前にその精悍な顔立ちがあった。思わず息がつまる。夜行性のシェスティの目には、ゼルギウスの表情がはっきりと認識できていた。完全に体を硬くしてしまったシェスティを見てか、彼は苦笑した。
「……あんなことがあった後で男と同衾するのは嫌だろうが、床で寝るのと布団で寝るのとでは熟睡具合が違うものだ」
「いえ、はい、えっと、その……」
言い淀むシェスティが怯えているのだと思ったのだろう。彼は背中に回されたままだった腕をそっと外す。
「心配するな、誓って貴女には何もしない」
彼はそう言ってまた目を閉じた。そのまま寝息を立てる。先ほどのように背中を向けることはなかった。ただ、「何もしない」という言葉は確かであるらしかった。
(……………………誓って…………)
ほんの少し複雑な気持ちを抱いて、シェスティは小さくため息をついた。
暗闇の中、すぐ目の前で目を閉じているその顔を盗み見る。
――ああ、認めなくてはいけない。
この高鳴りは誰であっても感じるものではないと。
『少し気になっているだけ』なんていう可愛らしいものではなくて。――ああ。
魔力の枯渇した体が、その『男』の気配を敏感に感じ取る。
それは食物だ、と本能が言う。
わかっている。不快感と苦しみとの中にあって、長らく満たされなかった飢餓感がそう言っているのを。
わかっていた。助けてもらったときに感じた安心感に混じった、ほんの少しの――失意を。
本能が言う。食事を奪ったこの男が、次は糧となるべきと。
(違う、そんなものじゃない。そういうことじゃないの。私は――私は)
必死にその気持ちを、本能を打ち消そうとして。ただこの人を、少しでも長く、傍で見ていられたらそれでいい。そう願って。――でも。それが嘘だということだってわかっている。
違うと思いたいだけ。清らかな恋というものが、私の中に宿ると、そう、信じていたいだけ。
今まで理性で押さえつけていたものが、こうして、――心音が届きそうな錯覚までしてしまうような近さで、頭をもたげる。
認めなくてはいけない。
――私は、このひとが、欲しいのだと。
そして、それを、隠さなくてはいけない。
――生きていくためにこのひとを使うことを、したくなくて。
初めては好きな人とがいい――なんてあまりに難しい。
好きな人を『食事』にはしたくなくて。きっと理想はこのひとが私を好きになってくれることなのだ。
〔催淫〕でそういう気分にさせるのは違うと思っていた。だから、そもそも感情を偽造できないこのひとに安心を覚えた。
――そうなのだけれど、一方で、何もない状態で自分を好きになってもらう方法が、いまいちわからない。
物語の男女は驚くほど美しく惹かれあっていて。
私たちサキュバスはそういう形の恋を知らない。
ほんの少しの距離にあるその顔に、触れる勇気はなかった。ただ少しの間、見つめて。
――ああ、やっぱり、欲しいのだと、自分の欲を認めて。それを認めたくない自分を認めて。何よりその欲を納得いく形で満たす方法がわからなくて。
誰でもいいからとりあえず、そうしてしまえばいいと考えている本能を、必死にねじ伏せる。身に宿った不快感をしっかり噛みしめる。
まだ心臓の音はうるさいし、おさまる気もほとんどしない。でも、確かに、寝ておかなくては明日彼に迷惑をかけるのだ。
意を決してとりあえず目を閉じるだけ閉じた。視界が真っ暗になると、酒もあったのかもしれない、すぐに眠気がやってくる。
思っていたよりも早く、シェスティは眠りについていた。




