屋上の下で花は咲く
僕は、手すりによじ登る彼女を見ていた。
イルミネーションで飾り付けられた街の喧騒から孤立した校舎を、凍てつくような空気が撫で回す。
冷たい風が、半開きの扉をギィギィと鳴らした。錆がついたドアノブは、もう長いこと彼女しか触れていない。
眼下に見える校庭を歩く彼らの顔は晴れ晴れとしているのに、なぜか彼女は暗闇のような顔だ。
頰は既に乾いていた。
僕は何か言おうとして、だけど何も言えなくて乾いた息だけを漏らした。
言ったところで僕の声が彼女には聞こえないから、ではない。言うべきことが見当たらなかったのだ。
彼女は手すりの向こう側で地面を見下ろす。
--初めて彼女が屋上に脚を踏み入れた時も、こうして手すりの奥に立っていた。
あれはまだ夏になる前、雨ばかり降って気が滅入る時期だった。
梅雨の貴重な晴れ間に、彼女は不意に現れた。
今時の高校生にしては長いスカートと白いセーラー服は濡れていて、僕はまた雨が降ってきたのかと空を仰いだ。雲はあるけれど、水滴が落ちて来る気配はない。
雨ではなかった。
彼女の制服は、たくさんの悪意とおそらくは彼女自身の涙で汚れてしまっていた。
震える脚を抑え、彼女は手すりを乗り越えて戻った。六階建ての建物は彼女の予想より見晴らしが良すぎたのか、へなへなと座り込む。
そして大粒の涙を流す、なんて綺麗な表現じゃ足りないくらい大声で泣き喚いた。
困ってしまった僕は彼女の周りをぐるぐるするばかりで全くの役立たずだ。ハンカチを差し出してやるくらい出来れば良いのだけど、そんな落ち着きがこの時の僕にあるはずもなく、そもそもそれは物理的にも不可能だった。
既にこの世の者ではない僕が、生きている彼女の人生に関わるなど、あってはならないのだ。
ひとしきり泣いた後、彼女はスッキリした顔で帰って行った。僕に見られていることなど知る由もない彼女は大きく伸びをして、おヘソが見える。
その時にはもう制服は乾いていたように思う。
無人の屋上はよほど居心地が良かったのか、その日以来彼女は毎日のようにやって来るようになった。
彼女の柔らかな髪がゆっくりと落下するのを、僕は見ていた。
なんの躊躇いも無く脚を宙へ投げ出した彼女は、皮肉なことに今まで見た中で一番躍動感に溢れていた。
跳んだ瞬間、ほんの一瞬だけ彼女はこちらへ振り返った。
もちろん、僕を見たのではない。今まで彼女が僕の存在を認識したことなんて、一度もなかった。
その薄い唇が微かに動くのを僕は察知する。
いたずらな冬風に邪魔されて、その声は届かなかったけれど、「さようなら」と言ったのだと思う。
妙に律儀なところがある彼女らしい言葉だ。
彼女にとっては地獄のような世界だったはずなのに、きちんと挨拶をして旅立っていく。あるいは、監獄のような校舎に別れを告げたのかもしれない。
僕は見る。
彼女のスカートが翻って白い肌が露出するのを。 アスファルトが彼女の血を吸うのを。
そして、彼女の双眸が僕を睨むのを。
その時、初めて彼女と目が合った、と僕は思ってしまった。
残念ながらそれは錯覚だ。
その時にはもう、彼女は物言わぬ骸になっていたのだから。
きっと、この世にみっともなくしがみ付いている幽霊を通り越して、これから自分がいく天上の世界を見上げているのだろう。僕は彼女から目をそらした。
いわゆる遺書というやつを、彼女は残していた。
僕がそれを手にしたのは数分後のことだ。
生前の彼女がいそいそと書いていたのだが、盗み見るのは失礼かと思い席を外していた。よって、内容は知らない。
地上では騒ぎになっていたから、真上の屋上に人が来るのも時間の問題である。誰かに回収されてしまう前に、目を通しておきたかったのだ。
重し代わりの上履きをどかし、ルーズリーフを手に取る。そこには、殴り書きの文字があった。
今度は花になる --これだけ。まるで詩だ。
きっとこれを読んだ人は首をかしげるだろう。でも、この言葉に彼女の全てが込められていることを、僕は知っている。
--二ヶ月ほど前、赤や黄色の葉がやたらと目立つ頃。いつものようにやってきた彼女は大きな本を広げた。
何かと見てみると、それは植物図鑑だった。
その時知ったのだけど、彼女は花が好きだったらしい。
種は、発芽条件が揃わないと目を出すことができない。どんなに素晴らしい花の種でも、環境によっては花を咲かすことすらできないのだ。
彼女はそのことを自分になぞらえて、「発芽環境が悪い」のだと、よく嘆いていた。
だからいつまで経っても自分は種のままなのだと。
彼女の自尊心を完全に無視し、まるで物のように扱う両親のこと。クラスメイトからのいわれのない陰口に、執拗な嫌がらせ。屋上で吐き出したそれらについては、彼女は一切記さなかった。
彼女が遺すつもりのなかった憎しみや恨みを、僕は知ってしまっている。
彼女の本当の想いは、僕だけが知っている。
彼女は僕を知らないけれど、僕は彼女の最期を知っている。
花火のような鮮やかで儚い花。
そのうちにぽつり、と雫が落ちて彼女の遺書に染みを作った。雨だ。それも、次第に強くなってきている。
なんでこんな時に。僕はずぶ濡れの顔を乱暴に拭った。
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終業式が終わると間も無く、私は屋上へ向かう。理由は当然、飛び降りるためだ。
もう、ずっと前から限界がきていた。生と死の曖昧なバランスを、どうにか今まで生の方に傾けていたが、それがついに逆転した。
どうせ死ぬのなら今日、と決めていた。
冬休みに入るタイミング。そして12月24日。
あいつらがクリスマスだなんだとバカみたいにはしゃいでいるところに、嫌っていた私の自殺。
最高のプレゼントじゃないか。クリスマスの度に私を思い出して、憂鬱な気分になるがいい。私に出来る復讐は、もうそれしかなかった。
屋上へと続く階段がやけに長く感じられる。
どこからか誰かの泣き声が聞こえた--違う。
泣いているのは私だった。
死ぬのが怖いわけじゃない。ただ、悔しいのだ。あいつらに屈して逃げるようで。
こんな選択しか出来ない自分が情けなくて。
屋上へとたどり着いた時、私はぐしゃぐしゃな顔をしていたと思う。誰かに見られることもないので、別に良いけど。
本来なら親にメールの一つくらい送ってやるのが礼儀だろう。だから、あえて私は連絡しない。
最初で最後の親への反抗のつもりだった。
私がいなくなったところで、どうせ心の底から悲しんでなんかくれない。他に連絡するべき相手は思い浮かばなかったので、何もせず携帯をしまう。
親にがんじがらめにされた人生を送っていたから、私には友人と言える相手すらいなかった。
そんなのがいたら自殺なんかしないよ、きっと。
代わりに遺書を書こう、と思った。
鞄の中を漁り、ノートを一枚ちぎる。
さて、何を書こう。--そこで、今夜雨が降る予報が出ていたことを思い出す。
そのことを掛けて、『私の涙は雨となって、聖夜を哀しみで彩るでしょう』……うわあ、超ダサい。
そもそも予報が外れたら赤っ恥だ。文字にする前に頭の中で消去した。
あいつらにああいうことをされた、だとか恨み辛みは書きたくなかった。私が死んだ後、よく知らない人たちに可哀想だなあ、とか同情されると思うと、虫唾が走る。悩んだ末、『今度は花になる』と書く。
意味不明なポエムかなんかと思われるだろうけど、どうでも良い。その時には私はもう死んでる。不出来な種のままで。
ざまあみろ、両親。
勉強に集中できなくて志望校落ちてしまえ、見て見ぬ振りした奴ら含めて全員。
そんな愚痴は心の中に留めておく。
遺書を書き終え、私はそれっぽく上履きを脱いでから手すりに指を置いた。
鉄製の棒はかじかんだ手に優しくない。おまけに錆だらけだから、手が切れそうになる。
かまわず、私は手すりを乗り越えた。
そういえば初めて屋上を訪れた時も、手すりの向こう側に立ったっけ。
半年くらいしか経っていないのに、遠い昔のことのように思える。
あの時は現実に迫って来た死が怖くて、あわてて内側に戻って来た。
今はそれすら感じない。
怖くない。今の私は黙って死を受け入れる。言い聞かせるように私は何度も何度も心の中で呟く。
私は、そっと遥か下の地面に向けて足を踏み出す。
そう、これはただの歩行だ。花になるための、第一歩。
来るであろう衝撃から目を逸らそうと、私はなんとなく振り返った。すると、
え、なんで。
そこには見知らぬ男の子がいた。手すりから落ちそうな程身を乗り出し、必死に手を伸ばしている。多分、私に向けて。
--なんでそんな顔するの。
男の子は今にも泣き出しそうな顔をして、赤の他人の私を手すりの内側に引き戻そうとしている。
でも、無理だった。私はそれに応えることが出来なかった。
男の子の手は空を掴む。
「泣かないで」
代わりに、小さくささやく。聞こえるかはちょっと分からないくらいの小さな声になってしまった。
口がうまく動かなかったから。
そこで初めて自分が震えていることに気がつく。
あ、怖かったんだ、私。
だけど、彼を見ていたら心のどこかが暖かくなる。生きてきてよかった、って思える自分がいる。多分落下するまでの数秒間だけ。
人生で一番幸せな数秒間--。
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彼女が来なくなって退屈していた僕に、最近楽しみができた。
ちょうど屋上の下に花壇が作られたのだ。
まだ種が植えられたばかりで しばらくは芽も出そうにないけれど、数ヶ月後には色とりどりの花が見られるだろう。
それを楽しみに、僕は今日も屋上から続く、天との境界線が希薄な世界を見ている。