気球にのって
暖かな4月のある日曜、午前11時、快晴。
その日、山々を背にしたI高原の澄んだ空には20ほどの熱気球が静かに浮かんでいた。
それぞれはロープで地上と繋がれており、20mほどの高度でカラフルなその球体を風の吹くまま右に左にゆらゆらと遊ばせている。
「どれがそうなんだね?」
木島倫太郎が目を細めて球体を眺める。
「一番高い位置にいる、大きな気球です」
「あれに乗るのだね。瑞穂と私それに・・・・君と、それから運転士さん・・・」
「運転士、ええ、操縦する方と3人で・・・・私は地上に残ります」
「4人は無理かね?」
「いえ、奥様のおっしゃられた、丸いテーブルと、スパゲティを中にご用意いたしましたので・・・・私の乗るスペースは・・・・・」
「あら、私がご遠慮してもよろしいんですのよ」
瑞穂が、悪戯な目を芦沢に向ける。
瑞穂の運転する木島のクラウン8で早朝、木島邸を出発した芦沢たちがペンション「ユニティ」に着いたのは午前10時少し過ぎだった。
好天に恵まれ、ほとんど無風に近い伊豆の様子は実にノンビリとしており、時間はおっとりと流れているようだったが、交通量は予想外に多かった。
春から夏にかけての沼津・伊豆間の交通渋滞は、全国的に有名でありそれを知る人たちは、ノベル・アロー号のような遊覧船を使って、沼津港から土肥や松崎、石廊崎などへ移動することが多かった。
「しかし・・・・混んだね、ここまでの道は。やはり船は当分安泰だな・・・ハハハ」
木島倫太郎は、さも嬉しそうに高笑いした。
「お母様のご覧になられた風景を、ご自身の目でお確かめください」
芦沢は瑞穂にそれとなく乗船を促した。
倫太郎の顔色が少し変わったような気がしたが、瑞穂は
「・・・そうね、私が確かめる方がいいわね」
そう言うと、走って気球の下に集まる集団の中に入って行った。
「・・・なんともおてんば娘というか、現代っ子というのか・・・・」
木島倫太郎は誰にともなく呟いて、それでも、その様子を微笑ましい眼差しで見守っていた。
ペンション「ユニティ」のオーナー大川誠一が操舵する熱気球には、予め芦沢が運び込んだ丸テーブルと、その上には温熱ジャーに収められたスパゲッティ、それにこれも芦沢が用意した有名陶器皿、フォークなどが置かれていた。
大型の熱気球ではあったが、丸テーブルは婦人の言うような大型のものなど到底入らず、木島と瑞穂、それに大川が座る椅子を置けば、中で身動きできないほどの狭さであった。
3人の乗った熱気球は地上のロープが解かれ、上空にゆっくり上がっていった。
「まあ!!人が・・・豆粒のよう・・・・・」
瑞穂が恐る恐る地上を覗き込んでそんなことを口走った。
「米粒・・・・・米粒でないと・・・・・・」
木島はそんなことを言った。
「お召し上がりになりますか?スパゲッチ・・・・」
瑞穂は温熱ジャーを開いて中を覗き込んだ。
「用意してくれ」
大川はひたすら、高度が下がらないようにバーナーを調整していた。
「こんな風に見えたのかしら?」
瑞穂の問い掛けに、倫太郎は赤いスパゲッティをフォークにまきつけながら、
「どうも違ったようだ・・・・」
一言言って、フォークに巻いたスパゲティの麺を口には運ばず皿に戻した。
木島は気球から降りると、
「私はタクシーで帰る。君、すまないが瑞穂をお願いする」
そう芦沢に言って、足早にクラウンへと向かった。
芦沢と瑞穂、木島は一旦ユニティに戻り、
「タクシーを呼んでください、ご主人。それから・・・芦沢さん、お疲れ様でした。先日のお金では足りませんでしょう。後日私のところに取りにきてください。領収書の類は要りませんよ。しかし、今日は瑞穂のお目付け役をお願いします。何しろじゃじゃ馬ですから・・・」
木島は帰宅することになった。
「承知しました。ですが、瑞穂さんはじゃじゃ馬ではありません。そんな風におっしゃっては・・・」
「そうよ?・・・パパったら。失礼ですわよ」
芦沢の腕に絡みつく瑞穂。
「この通りです、仕方ない娘で・・・・そうそう、それよりも・・・あなたを見込んで2、3お願いしたいことがあります。お金ならいくらでも用意しますので、しばらく私のアドバイザーをお願いしたい。いかがかな?」
「私にできることであれば・・・・・・・・・・」
「そうですか。良かった。あなたとはウマくやっていけそうだ」
「私もそう言っていただけて光栄です」
そんな今後の話も、木島と芦沢の間で決まった。
芦沢は、心の中で自分に予期せぬ運気が迫ってきていることを感じた。
瑞穂はそんな木島と芦沢の会話などお構いなしに、ペンションのフロアーに置かれた蓄音機EMジーンの背後から巨大な花のように生えたホーンを興味深げに観察していた。
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