瑞穂のスーツケース
日曜の昼下がり。
小型のレコード・プレーヤーから、はみ出すように載せられたLPレコード。変わったレコードであった。
レコード・ジャケットには「カサブランカ」に主演したボギー(ハンフリー・ボガード)が、物思いに耽るように一点を見つめてテーブルに肘を付く上半身が大写しになっている。
瑞穂はレコードの端にそっと針を落とした。
勇壮なクラシック音楽のような出だしは、ジャケットのボギーのイメージとは少し違う派手な感じだった。
「サブリナを愛したのはボギー?ホールデン?」
独り言を呟く瑞穂。
「麗しのサブリナ」・・・・レコードはその曲から始まっていた。
玄関のチャイムが鳴った。
瑞穂はレコードを止めずに、そのまま玄関へ下りて行った。
「どちら様ですか?」
ハスキーな声は、細い体にまるで似合わない、しかしそれがかえって瑞穂の持つ神秘な部分を、ほのかに匂いたたせている。
「はい、私、先日お邪魔いたしました芦沢と申します。ご注文の家具をお届けに参りました」
ドアの鍵がカチーンと開く音だけが聞こえた。返事はなかった。
芦沢は、重い丸テーブルを担ぐようにして、鍵の解かれた扉を開き中に入った。しかし、そこに声の主はなかった。
自分の持ってきた丸テーブルを、一体どこへ置けばよいのか皆目見当が付かず芦沢は、とりあえず階段下まで来て、その50kgの塊を床に降ろした。
なにやら上の方で音楽が鳴っている。
芦沢はムッとした。
おそらくそれは、先日自分に無表情で会釈だけした瑞穂という女に対してであった。自分が出入りの家具屋くらいに思われていたら、そのプライドにおいて許し難いものがある。
(こっちからは何にも言わないぞ・・・・・)
そんな風に思いながら、階段下の脇にある小さなソファーにふんぞり返った。相変わらず上方から漂い来る粋な旋律。
「ん?・・・・」
芦沢はペンションの大川に、海外で仕入れたEMジーンという大型ホーン付き蓄音機を売ったほどの音楽愛好家でもある。
(カサブランカ・・・珍しい曲を聴いてるじゃないか)
丸テーブルをそのままにして、芦沢は階段をそっと上って行った。
すると階段を上がりきったすぐ左の部屋のドアが半分開いており、籐椅子に体を沈めて窓の外を見つめる瑞穂の姿があった。先日の服装と変わらぬ姿は、木漏れ陽に点々と彩られ、ステンドグラスを観ているような感じがした。
「昨日?そんな昔のことは憶えていない・・・?」
芦沢は「カサブランカ」の中で言ったボガードのせりふを呟いた。
「明日?そんな先のことなど、わからない・・・・・ですわよ」
瑞穂は窓の外に目をやったまま、そんな風に言った。
「今日、この家の主人は留守でございます。でも・・・奥にはおりますから、お話しでも聞いてあげてくださいな」
奥には・・・婦人のことであろうことは察しがついた。
しかしその目は芦沢から逸れていた。
「そうですね。奥様のお話し相手をしてまいりましょう。ご注文のテーブルは階段下に置いておきます」
「ご苦労様・・・・・・」
芦沢はそのまま老婦人の部屋まで行き、ドアをノックした。
「どうぞ・・・・お待ちしてましたのよ」
中から婦人の柔らかな声が聞こえてきた。
婦人は先日と同じように芦沢を傍らに座らせ、同じ話しを始めた。
「・・・・それで、奥様におうかがいいしたいのですが、スパゲッチはどこでお食べになりました?」
「それは・・・・・お聞きにならないで」
「あ、いや、そうでしたね。ではその時はご両親もご一緒に?」
「もちろんですわ、赤い赤いスパゲッチを、丸い大きな、おテーブルで、皆さんとご一緒にO岬を見下ろしながら・・・」
芦沢は心の中で大きくため息を付いた。
(熱気球なんかじゃないな・・・・・大きな丸いテーブルなど入らない・・・)
不思議なことに、芦沢は、この婦人の話には一部真実があるように思えてきていた。まったくの幻ではない、得体の知れない、一言で言うならば権力の支配する特権階級の、市民層には想像もつかない真実。
芦沢は婦人の部屋を後にした。
瑞穂の部屋は相変わらず扉が半開きの状態であったが、籐椅子に瑞穂の姿はなかった。
ふと目をやると、行きには見えなかった部屋の一部に、芦沢も知る大型スーツケースの置かれているのが見えた。
それは衣装ケースでもあり、また扉を開くと、中には筆記作業のできる机の仕組まれた、日本にも2つとない外国製の珍品で、値段のつけようがない高級品であった。
持ち主は、どこへ行ったのやら、レコードプレーヤーの針は、プツッ、プツッと同じところを行ったり来たりしている。
芦沢は中に入り、演奏の終わったレコードから針のついたピックアップを拾い上げ、アームレストに戻して階下に下りた。
やはり瑞穂の姿はどこにもなかった。

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