スパゲッチ
5000万・・・・そもそも、その中途半端な金額が、俺の命を奪おうとしている。
芦沢啓二は港に来ていた。死ぬために。
伊豆へ就航する小型観光客船ノベル・アロー号が、岸壁にゆっくりとその船体を横付けし、待ち受けていた従業員が、船から投げ下ろされた太いロープを受け取り船体と陸とを一体にした。
中からはおよそ200人ほどの乗船客が、ぞろぞろと船外に降りてくるが、一様に、船旅が予想外の感動薄いものであったかのようで、表情は、長旅を終えたバスから降りる乗客の雰囲気と似て、陸地の開放感に勝るものはない・・・・と、誰もが言いたそうな感じであった。
7歳くらいの子供の手から、持っていた風船が空中に飛び立っていった。ミサイルのような形をした風船だった。子供はあっけにとられ、空に舞い行く自分の風船を見送りながら呆然とその場に立ち尽くしていた。
輸入家具の販売をもくろみ、大きな借金を背負った芦沢啓二には、もう生きていく気力も、理由もなかった。38歳になる。この10年ひたすら家具販売一筋に生きてきた。
そして、独立間もなく経営に行き詰まり、5000万円の借金で銀行、高利貸し、知人親戚から追い回されていた。
(車で海に飛び込む・・・・・俺は泳げないからな?・・・・ふっ・・・死ぬんだから泳げなくていいわけだな)
芦沢は土産物屋のベンチに腰掛け、薄笑いを浮かべていた。
「船が好きなのかね」
知らぬ間に、70年配の老人が芦沢の横でパイプをくゆらせながら、座っていた。
「船も、海も好きですね。生まれたこの土地が好きなんです」
芦沢は老人の言葉で一瞬ではあるが、「死」から遠のいた気がした。
「しかし・・・・・あなたはお疲れのようですよ」
老人が言った。
上下をたっぷりとした薄茶色の作業服に身を包み、麦藁帽子をかぶった老人は漁師にしては肌の色が白かった。
「どうです・・・私の家にお寄りになりませんか?お茶でも差し上げたい」
芦沢は、どうせ自分は死ぬしかないのだから、この際三途の川の閻魔様に土産話のひとつも持って行けば、あるいは自分も天国に行けるチャンスをもらえるかもしれない・・・などと、他愛のないことを考え、
「お邪魔してもよろしいのですか?」と、老人に聞いた。
「その代わりと言ってはナンですが・・・・・・私の妻の話を聞いていただけませんでしょうか?」
「奥様のお話をですか?」
「はい、そうなんです。私も妻の話は聞くのですが、少々要領を得んところがありまして・・・」
「と言いますと?」
「実は・・・・家内はですね、呆けているのです。毎日毎日、同じ話を私にするのです」
「どのようなお話しをされるのですか?」
「自分が子供の頃に、O岬から伊豆にかけての風景を、空から見て、それがとても綺麗だった・・・・もう一度見たい、スパゲッチが食べたい、そうせがむのです」
老人はさも困ったような顔をして芦沢に訴えるように話した。
「なるほど・・・・では、とにかくお伺いして、奥様のお話をお聞きしましょう」
「そうですか!助かります。では私の車で・・・・」
芦沢は老人の真新しい白の軽トラックに乗って、港を離れた。
港から程近い、松がうっそうと生い茂る林の一角に車はゆっくりと入っていった。
大きな門を二つほど通り抜け、何やら教会の建物のような、豪奢な洋館の前に老人は車を止めた。
「ここが私の自宅です。戦争でも焼け残ったクチです。」
そういうと、ダボっとした作業服と麦藁帽子をさっと脱ぎ捨てるようにした。
すると、その下にはしっかりとしたスーツ姿の、ロマンスグレーの老人が背筋をまっすぐにして立っていた。
「妻は、この姿の私でないと、私が自分の夫であることがわからんのです」
芦沢は老人に案内されるまま、豪奢な洋館に入っていった。
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