さようならとおやすみを_千聖
目が覚めて、意識がはっきりし始めた頃。
見慣れた天井があって、ふかふかの布団に包まれて、水と氷が転がる音が耳元で響いて、後頭部はじんわりと冷たい。
ベッドの傍には、これももう見慣れた、お母さんの心配げな顔があった。そして僕が足を向けている方に、フウカちゃんが座っていた。こんなときに言うのもなんだけれど、フウカちゃんが部屋の中に居るのは新鮮で、ちょっと不思議な光景だった。
お母さんは僕の顔を覗き込んで言う。
「チサト、大丈夫? 公園で倒れていたのよ」
公園。そうか、そういえばそうだった。フウカちゃんと遊んで、楽しくて。ああ、迷惑かけちゃったんだな。少しでも身体の具合がおかしかったら、すぐに帰るって、フウカちゃんと約束していたのに。
「うん、大丈夫。勝手に外に出てごめんなさい」
「そんなに……外で遊びたかった?」
お母さんは申し訳なさそうな顔で尋ねてくる。
僕は素直に頷いた。今まで、はっきりと「外で遊びたい」って言ったことはなかった気がする。良い子っていうんじゃなくて、遊びたいって言ったって、自分の身体のことはよく知っていたし、話したって無駄だって、きっとどこかで諦めていたのかもしれないから。
それに、これまではまだ我慢できていたのだ。学校の友達とは少しくらいなら学校でも遊んでいたし、冬の間くらい我慢せざるを得なくなったって、お母さんを心配させることに比べればどうってことないと思ってはいたから。
それでも、フウカちゃんは違うんだ。冬にしか会えない、特別で、一番の友達なんだ。フウカちゃんと一緒に、普通の友達らしく遊んでみたかったのだ。結果として、彼女に迷惑をかけることになってしまったけれど。
ふわりと温かい掌が僕の額を覆う。
「ごめんね、たくさん我慢させちゃって」
「え……いや、違うよ。約束破ったし、具合悪くなってるの気付いてたのに帰らなかった僕が悪いんだ」
お母さんは小さく微笑んで手を離した。お母さんはあまり僕を叱らない。いや、叱ったりすることはあるけれど、それでもお母さんは、僕だけじゃなく自分にも駄目な部分があったんじゃないのかって、いつもそう考えていた気がする。
足元にいるフウカちゃんにもちゃんと謝りたいけれど、彼女は口を開く気配がない。ただ、沈黙を守ってそこに座っていた。
「ご近所の人が教えてくれたの。元気になったら一緒にお礼に行こうね」
「う、うん」
「公園に男の子が一人倒れてるからびっくりしたって言ってたわ。チサト、ずっと一人で遊んでたの?」
え?
一人で? 倒れていたのはそれは一人だっただろうけれど、言葉からしてフウカちゃんはその場に居なかったということにならないだろうか。フウカちゃんが人を呼んでくれたんだと勝手に思っていたけれど、そうではなかったということなのか。
さっきからどうにもおかしい。熱があっていつも通りはっきりした思考はできないみたいだけれど、いくらフウカちゃんが一言も言葉を発していていないからって、お母さんがここまで話題に出さないのは変だということは分かる。フウカちゃんからはお母さんに説明をしていないのだろうか。だとしたら、お母さんはここに居る見知らぬ女の子をどう認識しているのだろうか。
「一人じゃないよ、フウカちゃんと一緒」
「フウカちゃん?」
そういえば、フウカちゃんのことをお母さんに話したことはなかった。窓を開けて遊んでいるのがばれたら困るし、何より屋根の上に女の子が居るなんて大問題だろうから。
「友達なんだ。何年か前から、冬になると、会いに来てくれて」
僕はゆっくりと半身を起こした。
やっとフウカちゃんとしっかり視線がぶつかる。いつもの笑顔はそこにはなく、ちょっとだけ目を細めて、眉を八の字にさせて、僕を真っ直ぐ見つめていた。相変わらず口は開かない。静止画みたいだった。
何だかそんな彼女に違和感はあったけれど、とりあえず僕はいつもみたいににっこり笑って、手をフウカちゃんの方へ、顔だけお母さんの方へ向けて言った。
「この子がフウカちゃん。雪うさぎ作るのが上手でね、お母さんには黙ってたんだけど、お母さんが出掛けてる日はここで遊んでくれてたんだ」
フウカちゃんは、何も言わない。動きもしない。
お母さんはというと、僕と僕の手の先を何度か視線で往復して、明らかに困惑した表情を浮かべた。僕は何か変なことを言っただろうか。何でも熱のせいにするのは良くないけれど、おかしな夢でも見ているのだろうか。そう思えるくらい、今この場所、この時間が奇妙に思えた。
フウカちゃんは一度もお母さんの方へ顔を向けない。ただ、目を細めたまま小さく俯いてしまった。
何だろう、この空間は。この静けさは。友達を紹介するって、こんな雰囲気になるものなのだろうか、と思ったけれど、そんなわけないだろうという答えにはすぐに辿り着く。
「お母さん……?」
お母さんの口元は微笑んでいたけれど、眉も目も、息遣いも、困惑が滲み出ている。
「ええっと……チサト、まだぼんやりしてるのかな? やっぱり熱が下がるまで安静にしていた方がいいわね。明日は一応病院に――」
変だ。はぐらかされている。
それにお母さんは、僕の手の先は見るけれど、一度もフウカちゃんが居る場所をはっきりと見てくれない。ちょっとだけ、視線がずれている。
「ね、ねえ、お母さん。僕変なこと言ってる?」
「え? ……そ、そうね。“フウカちゃん”のお話は元気になったら聞かせてね」
お母さんは結局一度もフウカちゃんと目を合わせることもないまま、僕を再び布団の上に寝かせるや否や、パーティーまでには治そうねとだけ告げて、僕の部屋を出て行ってしまった。
何だったんだ、今のは。ただでさえ熱があるのに、頭の中がぐるぐるしたものでいっぱいで、余計に頭が沸騰しそうになる。
足元から物音が聞こえ、小さな足音と共に、フウカちゃんがさっきまでお母さんが居た場所に座る。良かった、静止画でも幻でもなかったみたいだ。
彼女は目を細めたまま、僕をじっと見下ろしている。そうだ、謝らなくちゃ。
「フウカちゃん、約束破ってごめんね」
「……本当だよ。ちょっとでも具合が悪くなったら帰ることって、言ったのに。ごめんね、私も気付けなかったんだ。ちゃんと気付いてあげられれば良かったのにね」
喋った。小さく笑ったその顔は、元気こそないにしろ普段通りの優しい笑みだ。
「違うか。本当は私なんかが連れ出しちゃいけなかったんだと思う。……いつかね、いつかちゃんと、冬でも外で遊べるくらい、元気になれるよ。今日は急ぎすぎちゃったね」
フウカちゃんは何も悪くないのに。彼女はとても申し訳なさそうに肩を落とす。こんなに落ち込んでいる彼女は初めて見た。こんな顔、させたくなかったなと思う。
胸元がざわざわした。さっきのお母さんの反応がどこか引っ掛かって。あの反応。あれじゃあまるで、“フウカちゃんがここに居ない”みたいじゃないか。いや、だってこうやって話してるし、ここに居るし、居ないなんてあり得ない。お母さんの反応で、彼女が気を悪くしていないといいけれど。
僕は布団から手を出して、伸ばした手でフウカちゃんの指先を掠めた。
「フウカちゃん。さっきの、僕のお母さんの反応、変だったよね? 折角友達を紹介したのに」
彼女は何も言わない。僕とお母さんが会話していたときみたいに、口を閉ざして、目を細めながら僕を見つめる。優しい顔だけれど、どこか憐れんでいるような、それでいて申し訳なさそうな、複雑で曖昧な微笑み。
だんだんまぶたが重くなってきた。薬のせいか、それとも熱が上がっているのか。分からないけれど、まだ駄目だ。その前に、ちゃんと、知っておかなくてはならないことがある。
僕は小さく言葉を紡いだ。
「フウカちゃんは、ここに居るよね?」
我ながら変な質問をしていると思った。
居るに決まっている。フウカちゃんの手に触れられるし、言葉だって聞こえるのだから。僕の傍に、居るはずなのに。自分の中にその答えはあるけれど、何故かどこかで、それは本当の答えではないと否定する自分も居た。お前はもう気付いているんじゃないのかって、そう悪魔みたいに囁いてくるもう一人の自分が居たのだ。
フウカちゃんは暫しの沈黙の後、にこりと笑って口を開く。
「……居るよ。私はここに居る」
ほっと安堵する暇もなく、彼女は続けた。
「たとえ、キミにしか見えていなくたって、フウカはちゃんと、ここに居るよ」
――たとえ、僕にしか見えていなくても。
不思議と、そう言われても大した衝撃はなかった。
フウカちゃんの手が、僕の額に添えられる。お母さんとは反対で、ひんやりしたその温度が気持ちいい。彼女の手がこんなに冷たいということにも、今初めて気が付いた。優しい眼差しは僕を捉え続ける。
眠い。ひたすらに、眠い。待って。話したいことがたくさんあるんだ。友達になってくれてありがとうとか、今日のことで、自分を責めないでほしいとか、フウカちゃんは、たとえ何だったとしても、僕の大切な人だということに変わりはないんだとか、また一緒に遊んでほしいとか。
目が覚めたときに言えばいい。今度フウカちゃんが来てくれたときに言えばいい。そんな考えは、もう一人の僕が掻き消した。ここで彼女とはお別れなんだ、と、その僕が告げる。
ならば尚更言わなければ。そう思ってはいるのに、身体は僕の意思に反し続け、フウカちゃんの冷たい手の温度を受け入れて、すっかり眠る準備を整えていた。
「ふう、か、ちゃ……」
「チサトくん。私ね――……」
泣きそうな笑顔のフウカちゃんが何か呟くのと同時に、僕は夢の中へ吸い込まれた。
夢を見たんだ。僕が通っていた病院での夢。
たぶん、冬だと思う。僕が雪の降る外の景色を眺めていて、そこに、フウカちゃんが来たんだ。髪型は少しだけ違ったけれど、僕が良く知っているフウカちゃんだった。
夢か、過去の記憶か分からない。でも、起きたらこの話を、フウカちゃんにしてあげたい。そう思った。
――思ったけれど。
僕が目覚めたとき、フウカちゃんはそこに居なかった。
すっかり夜になっていたから、きっとまた明日になったら。クリスマスが過ぎたら。いつか、いつかきっとって、思っていたけれど、彼女はもう僕の前に現れなかった。
もう二度と、あの綺麗な雪うさぎを片手に窓を叩いて来ることも、人形みたいな整った顔を、悪戯っぽく歪めて笑いかけてくることもないのだろうと、僕は思った。