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とある街の雪降る季節に_風花

 私の人生を一言で表すとしたら、“退屈”だろうか。

 いざ振り返ってみても、取り立てて話したいと思えることはない。

 あまり遠回しに話すのは苦手だからはっきりと言ってしまうと、私は既にこの世の者ではない。死んだのはいつだったかな。気づいたときには誰にも私の姿が見えていなくて、話しかけようがわざとぶつかってみようが何の反応も返ってこなかったから、そこでやっと、自分が死んだのだということに気付いた。

 ともかく、死んだということに気づいてから、二か月か三か月くらい、下手したら半年くらい経っていると思う――元々狂っていた日付感覚がさらに狂っちゃって、こればっかりははっきり分からない――のだが、私は未だに、私が居た世界に残っている。こういうのって成仏するものじゃないのかな。心霊番組なんかで言うところの、“成仏できない霊”ってやつに、私はなってしまっているのかもしれない。


「困ったなあ……」


 死んだということが分かった以上、ここに留まっていても私に得はないから、どうにかこうにか、“成仏”する方法を探してみたりした。所謂未練を断ち切るって奴。とは言っても、そんなに未練なんてものはないつもりで。我ながらドライな子どもだなあ、と呆れてしまう。

 思いつく限りのことはしたつもりだ。話はできなかったが、父には会いに行ったし、弟の顔も見た。学校は、思い入れの欠片もなかったが、一応行ってみた。しかし、満足感は全く得られなかった。

 短い一生の大半を病室で過ごしていたせいなのか、未練というほどの未練もなくて、今はちょうど行き止まりにぶち当たっている気分だった。生きていたときの私は、一体他に何を残してきたのだろう。

 薄く雪の積もった公園のベンチに腰かけて、改めて自分の姿をまじまじと見つめる。たまに自分が使っていたお気に入りの帽子とマフラー。冬はいつも来ていた黒い厚手のカーディガン。その中は毎日お世話になっていたパジャマ。明らかに、息を引き取ったときの恰好ではないと思うのだが。


「何でこんな恰好してるんだろう」


 もしかすると、私がここに留まり続けている理由と何か関係があるのかもしれない。うんうん、と暫く唸りながら考える。記憶の隅から隅まで。些細なことでもいいから。窒息しそうなほど考え抜いて、振り絞って、やっと、脳裏にちりっと、一瞬だけ映像が見えた。

 おぼろげな記憶だけど、確かに「ああ、そんなこともあった」と思えること。思い出すのは、小さな部屋で出会った、自分よりずっと小さな男の子の顔だった。一度しか会わなかったけど、私は彼と、何か約束をしたんじゃなかっただろうか。果たせなかった約束があったんじゃなかっただろうか。そんな些細なことを果たして、私が成仏できるのかなんて分かりはしないけど、行き詰った今、悩んでいる暇などない。

 目の奥に映る小さな男の子は、とても寂しそうな、それでいてつまらなそうな顔で私を見上げて、「冬は嫌い」と言った。冬に生まれ、冬を嫌った彼の名前は――……。


「そうだ、思い出した。チサトくんだ」


 我ながら素晴らしい記憶力を称えたい。

 彼は今どこで何をしているのだろう。私が入院していた病院で出会ったのだから、同じこの街のどこかには、きっと居るのだろう。それとも、また入院生活を始めてしまっているんだろうか。

 私には時間がある。チサトくんを捜しに行こう。彼に私の姿が見えるかどうか、期待はこれっぽっちもできないけど、それでも会いに行こう。

 雪の降る曇天を仰ぐ。死んだせいか寒さを全く感じない。

 私は目指す当てもなく、ただぼんやりとした記憶に佇むチサトくんと再会するために公園を後にした。




 彼を見つけるまで、そう日数はかからなかった。




 家の前に立って、さて、どうしようかと首を捻る。

 そもそも私の姿が見えないのなら、チサトくんに会ったところで何が出来るって言うんだろう。


「……ま、手土産の一つでも持っていきますかね」


 人の目に映ることはないけれど、物に触れることはできるらしい。触れるだけでも集中力が要ることに最近気付き、言わずもがなその持続は疲れる。チサトくんへ何かメッセージを伝えるためには、その労力も厭わないとしよう。

 積もった雪を徐にとって、形を作っていく。雪を素手で触っているはずなのに全然冷たくなくて、変わった質感の粘土でもこねている気分だ。近くにあったのナンテンの実と葉を拝借して、形作った雪の塊にくっつける。うん、腕は落ちていないみたい。

 チサトくんの部屋は二階。この世の者ではないせいか、ひょっとしたら浮くこともできるんじゃないかって思えるほど軽い身体で、したこともない木登りをする。怪我なんてしないから何も怖くはない。一階部分の屋根に飛び乗って、積もった雪に足を突っ込むようにして進み――実際は集中しなければ足跡さえ付かないようなのだが――チサトくんに見えやすい場所に、雪うさぎをそっと置いた。


「うさぎだ!」


 チサトくんはすぐにそれに気付いたみたいで、窓を開けてうさぎを持ち上げる。

 ああ、やっぱりチサトくんだ、間違いない。久しぶりにこんな至近距離で見た顔が、キラキラの笑顔でちょっと嬉しい。

 彼はきょろきょろと辺りを見回した。案の定、私の姿は見えていない。と、思ったのだが、驚いた。確実に目が合って、彼は素っ頓狂な声を上げながら部屋の中へ姿を消した。


「え……見えてるの?」


 おっと、驚いてる場合じゃないか。見えてるってことは、今の私は確実に不審者でしかないわけだ。

 いや、それにしてもさっきのアホっぽい声は笑いを堪えられない。ああ、いや、だから笑ってる場合でもなくて。そう、とにかく自己紹介から始めよう。

 私は笑いが込み上げてくるのを抑えることができないまま、自分の名前を名乗り、相手がチサトくんであることを改めて確認した。チサトくんはそれを肯定したけれど、私のことは覚えていないらしい。仕方がないと思う。たった一度会っただけだし、私も忘れていたくらいなんだから。別に無理して思い出させようとも思わないから、とりあえずはお茶を濁しておくことにした。

 チサトくんは私が作った雪うさぎを屋根の上に戻して、相も変わらずキラキラ眩い眼差しをそれに向ける。以前と同じ反応が可愛らしくて笑みが零れた。

 その後、誰かの足音が聞こえたために、表向きは余裕を取り繕って、「また明日」と約束を交わして屋根から木を伝って地上に戻った。きっと、私の姿が見えるのはチサトくんだけだ。実は私の姿はキミにしか見えていなくて、私はお化けなんだーなんてとんでもない心霊現象に付き合わせたくはないものだ。できるだけ穏便に、生きている人間のふりをしておこう。

 それにしても、親でも、弟でも、学校でもなくて、たった一度喋っただけの相手が、唯一私の姿を見ることが出来て、未練の対象というのもどうなんだろう。私自身が自覚していないだけで、チサトくんという存在と交わしたちっぽけな約束は、そんなに大事なものだっただろうか。

 私は小さな溜息を吐きながら、とにかく「また明日」という約束を噛み締めて、また当てもなく雪降る街の中を歩いて行った。




 翌日、チサトくんの母親が家から出て行くのを見送るなり、昨日と同じように雪うさぎを一つ作って、木を伝って彼に会いに行く。

 チサトくんは今日も今日とて自室のベッドの上で、パジャマ姿のままだった。そんなに体調が悪いようには見えないが、親に大事にされているという証なのだろう。

 今日は、チサトくんに雪うさぎの作り方を伝授することにした。作り方なんて言っても、ただ雪の塊を作って、耳と目を付ければいいだけのものなのだが、彼は不器用にもほどかあるようで、雪の塊もろくに作れはしないようだった。まあ、それはそれで、愛らしくて私は好きなのだが。


「相変わらず下手っぴだなあ」


 思わず漏れた言葉に、チサトくんは一瞬だけ不思議そうな顔をした。

 私とチサトくんが交わした約束は、また彼と遊ぶこと。そして、もう一度雪うさぎの作り方を教えること。果たされなかった約束を、本人が覚えていないのだから仕方がない。

 初めて会ったときも、彼は大概不器用だった。私が今日みたいに雪うさぎ作って見せ、見よう見まねで同じものを作ろうとはしていたのだが、何一つ上手く作れなくて拗ねていた顔を思い出して顔が綻んだ。退屈で死にそうだった私も、あの時間はそれなりに楽しかったような気がする。


「ねえ、僕とは前に一回会っただけなんだよね? それなのに、どうして今会いに来てくれたの?」


 不意にチサトくんが言葉を漏らす。


「……まあ、キミのことを思いだしたら、なんか会いたくなったっていうか……それだけかな」


 恋人かよ、と自分でも突っ込みたくなるような返しをしてしまった。嘘は吐いていないけれど、チサトくんが納得できる返答でもないはずだ。分かってはいるけれど、真実を話せはしない。

 ほんの少し、罪悪感を抱く。私はチサトくんに会いたいから会いに来ているのか。それとも、ただ成仏するために、未練を残さないために、ここへやって来るのか。今の自分は、明らかに後者かもしれない。それが心苦しかった。

 いつの間にか大量生産された雪うさぎを窓の傍に並べて、私は「またね」と告げて、その家を後にした。




 それから私は、あの家にチサトくんが独りで居るときに限り、彼と会うようになった。何度遊ぼうが、話そうが、雪うさぎの作り方を教えようが、私が成仏できる気配はなかった。もしかすると、これが本当の未練ではないのかもしれない。そう思ったこともあったが、他に思い当たる節はないわけで。何か思い当たるまでは、チサトくんの家に通い続けてみようと思った。それに何より、彼と話をして遊ぶのが存外楽しくて、成仏することなんてちょっと忘れそうになったりもした。

 年齢は違えど、私は初めて、“友達”というものが出来たような気がした。

 冬が終わり、春が来た。私の恰好は変わらず冬のまま。季節感など死人には関係ない。

 ある日、チサトくんに会おうかどうしようか迷っていたとき、学校から帰る途中の彼を見かけた。体調を崩すことなく、極々普通に登校できているらしいし、お喋りをする程度の友達ならいるようだ。

 この季節に私の出る幕はない。そう思った私は、冬以外の季節はチサトくんに会わないことに決めた。

 私が春から秋にかけて何をしていたのか。特筆することもないが、簡単に言うと、旅をしていた。生前、特定のどこかへ行ってみたいなんて願望もなかったが、それでも何かしら解決の糸口にはなるだろうと、初めて電車に乗って、いや、潜り込んで、知らない土地に行って自由気ままに歩くという生活を続けた。

 楽しくなかったわけではない。むしろ、見慣れない景色にはわくわくした。けれど、あるときふと思ってしまったのだ。独りぼっちは、こんなに寂しいものだっただろうかと。独りには慣れていたはずなのに、チサトくんとの日々に溺れ、その慣れはもうとっくになくなってしまっていたのだ。

 ――ああ、次の冬が待ち遠しい。




 久しぶりにチサトくんの家に来た。


「うーん、ちょっとだけ緊張……」


 何も言わずに十か月以上離れ離れになっていたのだ。いくら彼でも、怒っているかもしれない。いや、そもそも覚えていてくれているのだろうか。

 多くの不安を手元の雪に込めて、もう幾つ作ったかも分からない雪うさぎを手のひらに乗せる。

 そんな不安は、どうやら必要なかったようだ。

 チサトくんに見せてきた明るさをそのままに、「また冬が来たね」なんて挨拶をすると、目の前の彼はきょとんと目を丸くしたかと思うと、頬を少しずつ赤らめて、今にも泣きそうな顔を見せた。ああ、相変わらず彼にはこの姿が見えているのか。というか、そんな泣きそうな顔をしないでほしい。私まで泣きそうになるじゃないか。


「会いたかったよ、フウカちゃん」


 うん、私も会いたかったよ。

 チサトくんには、学校にも友達がいる。それなのに、素性も知れない私のことを待っていてくれたことが素直に嬉しかった。

 成仏したいか、と問われれば、答えはイエスのまま。けれど以前とは少し違う。チサトくんは、私が未練を断ち切るための材料なんかじゃない。私の唯一の友人で、この世で最も大事な友人で、死者となった私にとって、なくてはならない大切な人なのだ。

 そう感じていたけれど、やはり一度決めたことは揺らがず、私はこの冬をまたチサトくんと共に過ごし、そして、冬が終わったと感じると、何も告げることなくまた旅に出た。



 彼と過ごす冬ははとても短くて、そして、冬を今か今かと待ちながら旅をする時間もあっという間で、気づくと三度目の冬を迎えていた。私は未だ、成仏しない。

 チサトくんは、当たり前なのだが成長していた。いつでもベッドに座っているから背丈までは判別できないけれど、顔つきは少し変わってきたような気がする。

 それに比べて、私は何一つ変化しない。彼もそろそろ気付いてしまうんじゃないだろうか。だって、チサトくんと再会したときから、私の恰好も背も顔も、性格も、全てがあの頃のままなのだ。彼にとっては、お姉さんと呼べるくらいの年齢だったはずなのに、今となってはそんな年の差すら大して感じさせない。もしも生きていたとしたら、私は今何歳なんだったっけ。


「ねえ、フウカちゃん、今何歳?」


 私も分からないんだよなあ、それが。

 年齢を訊くということは、きっと、気づいてなくとも不思議には思っていることだろう。進む時間を歩み続けるチサトくんと、止まった時間を彷徨う私。生きる世界すら今は違うのだ。こんな関係、いつまでも平穏に続けられるとは思っていないけれど。

 どうにも集中力が切れて手元の雪を握ることもままならない。私は半ば強引に話を逸らした。

 チサトくんの誕生日は十二月二十四日。彼はこの日、この部屋には居ないし、私から彼にあげられるプレゼントというのもたかが知れているが、万が一に私にできることがあればしてあげたいと思う。これは本心だ。

 暫しの沈黙の後、チサトくんは小さく息を吸い込んだ。


「……僕を、外に連れ出してほしい」


 ――静寂。

 ……いやいやいや、それは、幾ら何でも無理がある。チサトくんの病状がどんなものなのか、私は全く把握できていないけれど、彼の母が外に連れ出さないのを、ただの小娘が連れ出せると? 無理に決まってる。チサトくんのことが大事だからこそ、その願いは叶えられない。もし彼の身に何かあったとして、私には助けることができないんだから。

 誕生日の話なんてするんじゃなかった、と後悔する。私にできることは、せいぜいここに来て、チサトくんと話をして、ただ雪像を作る。それだけなのに。きっと今までずっと我慢していたんだろう。外に出たくても、母親にそれを言い出さないまま、ずっと。その欲を溢れさせる引き金を引いてしまったのは、紛れもなく私だ。


「お願い、フウカちゃん! お願いします!」


 チサトくんは私に頭を下げ続ける。

 分かるよ。私だって病院に居た頃はそうだったんだから。いつだって外を眺めて、その世界に何があるんだろうって、ずっと思っていた。結局はその欲望に耐え切れず、病院から抜け出したこともあったけれど。

 精神的には彼より少し大人かもしれない。それでも私は、まだちゃんと自分をコントロールできない子どもなんだ。

 ちょっとだけ、自棄になっていた。何より、私なんかに必死に頭を下げ続ける男の子の姿を見ていられなくなったのだ。


「……分かったよ」


 受け入れてしまった。

 チサトくんのお母さん、本当にごめんなさい。貴女の大切な息子との約束を破らせるどころか、幽霊なんて非科学的なものと屋外で遊ばせることになるなんて。考えるだけで罪悪感で心が痛むけれど、願いを受け入れたと同時に輝くチサトくんの顔があまりにも眩しくて、嬉しそうで、まあいいか、と、思ってしまった。

 翌日、玄関の前で待っていると、防寒はばっちりだと言いたげな恰好のチサトくんが現れた。初対面の頃と比べれば大分背も伸びたみたい。まだ私の方が高いけれど、すぐに追い越されてしまいそうだ。


「さ、行こっか」


 チサトくんの手を取って、公園に向かう。本当なら一年程前に新しく作られたらしい大きな公園の方が人も居て、もし彼の身に何かあっても助けてくれる人が居るのだろうし、遊具だってたくさんあるうえに綺麗なのだろう。けれど私は誰の目にも映らないわけで。見えない何かとチサトくんを遊ばせて、変な噂でも生まれたら困る。だから私は、古くて小さい公園に向かった。

 幸か不幸か、人が居ない。公園には二人きりだった。傍から見れば一人しか居ないのだが、という点は置いておいて、隣のチサトくんをちらりと見ると、彼は何とも言葉にし難い興奮を表情に滲ませて、銀世界を見つめていた。

 それからは、楽しい時間だった。これ以上ないくらい、楽しい冬の時間だった。

 集中力を途切れさせると“幽霊”に戻ってしまうから、気が抜けないのが唯一大変だったけれど、それでも楽しかった。生きていた頃も、死んでからも、こんなに遊んだことはないから。そして、チサトくんの傍はやっぱり心地良かったから。

 雪の上に寝転ぶ。背中に冷たさを感じられないのが少し寂しい。少し離れた場所で寝転ぶチサトくんは、鼻の頭を真っ赤にさせて、雪の降る空を眺めていた。


「ねえ、チサトくん。キミは冬が嫌い?」


 不意に口をついて出た質問。何となく、初対面のときの彼を思い出していた。冬は嫌いだって、そう私に言った幼い彼のことを。


「……フウカちゃんが一緒に居てくれる冬は好きかな」


 随分恥ずかしいことを言ってくれる。もちろん嬉しいけれど。

 私が居なくなってしまったら、彼はまた冬を嫌いになるんだろうか。馬鹿だなあ。きっと、私はいつまでもここに居られるわけじゃないのに。

 死人のルールなんて知らないし、心霊番組の受け売りの知識しかないし、実際死んだらどうなるのかなんて分からないけど、ここに留まっちゃいけないとは思う。思ってはいるけど。チサトくんとお別れになることは、やっぱり、ちょっとだけ寂しいな。別れるときはなんて言葉をかけようか。そもそも、私の未練はいつ断ち切れるのだろうか。

 そんなことを考えながら、辺りが妙に静かなことに気付く。

 雪の上をごろりと転がり、チサトくんを見るが、彼は先ほどまでと同じ体勢のまま、空を見上げていた。


「……チサトくん?」


 返事はない。さっきまで会話していたのだから、聞こえない距離じゃない。


「チサトくん!」


 チサトくんの傍に駆け寄り、彼の顔を覗き込む。

 目を閉じている。呼吸が浅くて荒い。熱があるのか、私の手じゃ分からない。でも、これは、確実にまずい。

こんな動揺してる中で集中なんてできるわけもなく、チサトくんの身体を触れはできるものの、担いで彼の家に送り届けるなんて無理だと一瞬で判断できる。

じゃあどうする。助けを呼ぶしかない。


「誰か!誰かいませんか!」


 違うだろ私。私の声は誰にも届かないんだ。

 私にしては珍しく、かなり取り乱していた。自分が死んでいることを忘れかけるくらいには。生前、ドライな子どもだとか、何を考えているのか分からないなんて言われることもあったけれど、何てことはない、普通の子どもでしかないのだと、今更思う。

 集中力など皆無。積雪の上を、まるでコンクリートの上であるかのように駆け抜けて、公園を出た。

 買い物帰りらしい若い女性が一人。無駄だと分かりながら声をかけ続け、彼女の腕を掴む。触れた。けれど、私自身が触れたのがまずかったらしい。彼女は気味悪そうに私の腕を――彼女にとってはただの虚空だっただろうが――振り払って、足早に去ってしまった。


「どうしよう……誰かっ……!」


 どうして自分は死んでいるのか。なんて、今考えることじゃない。

 公園の前の細い路地を抜け、通りに出る。人通りは多くはないが、全くないわけじゃない。でも、どうやって公園まで連れて来ればいいだろう。気味悪がられても、無理やり引っ張ってくるか。いや、私の力じゃ敵いっこない。

 ふと、見覚えのある女性を見つけた。チサトくんの家の近くでよく見かける人だ。


「ママー、公園で遊びたい」

「今日は駄目よ、お家でお姉ちゃん待ってるんだから」


 幸運としか言いようがない。二人は公園がある細い路地へと入った。

 小さな子どもは雪の積もった地面を見つめながら歩いている。公園に行かないと言われたことに対して拗ねているのか、それともただの好奇心で足元を眺めているだけなのか。どちらにせよ好都合だ。

 私はポケットに入ったままだった幾らかのナンテンの実と葉を取り出し、子どもの目の前に落とす。ヘンゼルとグレーテルが目印にパンの欠片を落とすかの如く、公園に続く道に沿って実と葉を落としていく。子どもはナンテンの実を拾い上げた。


「ママ、これ何?」

「んー? ああ、ナンテンっていう植物よ」

「これ、いっぱい落ちてるよ」


 しゃがんで、実を拾って、駆けて、またしゃがんでは赤い実を拾う。


「こら、たっくん」


 お願い、止めないで。もう少しだから。

 子どもは赤い実に夢中で、公園の中まで辿り着く。最後の実も拾い上げた。母親もそれを追い、全ての実を拾ってご満悦らしい子どもを抱き上げる。

 お願い、気づいて。


「ママ、あそこ、誰か寝てる」


 抱えられた子どもが、ぽつりと呟いた。

 

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