とある街の雪降る季節に_千聖
それは、とある冬の日。
小さいけれど綺麗な街には、今日も静かに雪が降り、赤い屋根も、公園の青いすべり台も、真っ白な雪で覆われている。
見渡す限りの白い世界の中で、僕と年の近い子どもたちがみんな楽しそうに走り回っているんだと思う。あんなふうに雪の中を駆け、転げて、遊んで。白い息を吐いたり、頬を赤くじんじんとさせながら笑いあう楽しさは、一体どんな感じなんだろう。
僕は今日も一軒家の二階にある子ども部屋から、そんなことを思いながら外の景色を覗く。部屋は暖かくて、手を這わせた窓はこれでもかというほどに結露していた。
小さな溜息を吐いて、パジャマ姿のままふかふかのベッドに倒れ込む。僕が生活している場所は、ほとんどこの場所。勉強だってするし、ご飯は家族みんなで食べるけれど、それ以外は大抵、この部屋の、このベッドの上。子どもらしく元気に外で遊ぶ大多数の子どもたちとは正反対の生活かもしれない。
僕はお母さんが用意してくれたリンゴを一口かじって、また窓の外を眺め始めた。
――冬は、嫌い。
寒いのが嫌いだから外に出ない、なんて理由じゃなくて。
昔から、からだが弱かった。入院と退院を繰り返して、それでも、最近になってそれは少なくなってきたと感じるけれど、普通の同年代と同じだなんて言えない。こんなふうに寒い冬の季節は、たとえ楽しいはずの冬休みを迎えたって、ほとんど外にも出られない。雪の中で遊び回るなんてもってのほかだと、お母さんにはきつく言われていた。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか、眺めることしかできない冬が大嫌いになっていた。
「僕もいつか、あの中で遊べるかな」
僕がもし元気だったら、自分の背丈よりも大きな雪だるまを作れるんだろうか。お父さんとお母さんを困らせることもなかったかもしれない。僕はまだ子どもだけど、僕のことで色々と大変な思いをさせてしまっているのも知っている。あとどれくらい大きくなったら、皆を心配させなくなるんだろう。
もう一度甘いリンゴをかじって、窓辺に戻る。そこには、さっきまではなかったものがあった。
「うさぎだ!」
窓を開ける。暖かな部屋の中に冷たい空気が混じった。ひょっこりと顔を出したのは、赤い目の雪うさぎ。
吐く息が真っ白になって溶けていくのも、手が冷たくなるのも気にしないで、僕はそのうさぎを持ち上げる。すべすべで、陽の光で雪がきらきらして眩しい。外に出ないから、他の雪うさぎなんて滅多に見ないけれど、この雪うさぎはすごく丁寧で、上手だと思った。
「すごい……誰が作ったんだろう。ここ、二階なのに」
空いた窓から顔を出して、辺りを見回す。見えるのは一階の屋根だけで、もちろんそこに人が居るわけない。と、思ったけれど、居た。
僕より何歳か年上に見える女の子が、屋根にしゃがみ込んでこっちをじいっと見つめていた。
驚いて変な声を上げながら、ベッドに倒れ込む僕を見て、女の子はけらけら笑う。
「だっ、誰? ここ、二階だよ?」
「……あははっ、驚かせちゃってごめんね。私はフウカ。キミはチサトくんだよね?」
変な間の後に、女の子は答えた。
僕の名前を知っているみたいだけど、僕はこの子を知らない、と思う。僕が通っているのは小さな学校だから、上級生だとしてもどこかで見るはず。でもこの女の子を学校で見たことはない。
「何で僕のこと……」
女の子はしばらく長い髪の毛をいじりながら、斜め上を見上げた。
「うーん……前に少しね。あ、そうそう、その雪うさぎ、気に入ってもらえた?」
そう言って、女の子は僕の手の中の雪うさぎを指差した。暖かい部屋の中に持ち込んだせいで、少し溶けかかっているし、何よりいい加減手が冷たくて痛い。僕は雪うさぎを屋根の上に置いた。
「これ、お姉さんが作ったの?」
「フウカでいいよ。そう、私が作ったスペシャルうさちゃん!」
「すごく綺麗! ねえ、僕にも作り方――……」
言いかけたところで、遠くから足音が聞こえた。毎日毎日、それも何度も聞いて、すっかり聞き慣れてしまった、お母さんが階段を上ってくる音。目的は様々あるだろうけど、二階に来れば必ず僕の部屋に顔を出す。別に女の子、もといフウカちゃんを見られるのはいいが、屋根の上に子どもがいるなんて光景を見たらひっくり返ってしまうかもしれない。
どうしよう、と思っていると、フウカちゃんは僕の頭を手の甲でぽんと叩いて笑った。
「また明日ね」
それだけ言って、フウカちゃんは立ち上がり、屋根から家の傍の木を器用に伝って、降りていった。
同時に、お母さんが部屋の扉を開ける。そんなに長い時間窓を開けていたつもりはないけれど、それでも、暖房をつけているはずの部屋がかなりぬるくなっていることに気付いたようで、僕のベッドに駆け寄って来た。僕も、もう手遅れではあるけれど、慌てて窓を閉める。大丈夫、体調に変化はない。
お母さんは僕の両肩やら頬に手を添えた。もう随分見慣れてしまった心配顔が目の前にある。
「やだもう、身体冷えちゃってるじゃない。具合の方は大丈夫?」
「へ、平気。ちょっと空気入れ換えてただけだよ」
お母さんは僕から離れる。安心したように深く息を吐いた。
こういうのを、“過保護”って言うんだろうな。いつも“いい子”でいようとはしてるけど、どうしても僕が我慢できなくなって、お母さんの言いつけを破る度に身体を壊していたから、お母さんがこんなふうに周りの環境に過敏になってしまったのは僕自身のせいでもあるんだろうけど。
もちろん、お母さんに心配をかけさせたくはない。でも、僕はやっぱり、外の世界に出て、皆と同じようになりたいと、そう思わないわけじゃない。
お母さんを安心させる言葉を選んで口にしながら、ちらりと窓の外を見た。雪うさぎの赤い目が、じいっと僕を見つめている。そうだ、フウカちゃんは「また明日」と言ってくれた。明日もこの部屋に閉じ籠るのだろう僕に、また、会いに来てくれるのだ。
僕はまだフウカちゃんのことを何一つ知らないけれど、それでも、まるで、外の世界から僕を迎えに来てくれたみたいで嬉しかった。
翌日、お母さんが買い物に出ると、フウカちゃんは約束通り家の一階部分の屋根に上り、僕の部屋の窓を軽く小突いた。その手には新しく作ったらしい綺麗な雪うさぎが乗っている。ちなみに、昨日彼女が持って来てくれた雪うさぎは、夜のうちに降った雪に埋もれてしまって、形も残っていないようだった。
窓を開けると、フウカちゃんはにっこり笑って、「こんにちは」と顔を出した。
「本当に来てくれたんだ」
「当たり前でしょ。約束だもんね」
機嫌よさそうにフウカちゃんは言った。
耳あて付の深紅のニット帽から、腰まで届く長い黒髪。同じく深紅と黒のチェック柄のマフラーと、黒くて分厚いカーディガン。それに対して、冬場に出歩くには薄すぎるように見える生地のズボン。目がぱっちりしていて、人形みたいな顔。何度見ても、僕はこの女の子を知らない。もし会ったことがあっても、それは僕がもっと小さい頃か、たった一度きりだったかのどちらかなのだと思う。
フウカちゃんは僕に、手袋と何か防寒具を持ってくるように言って、服のポケットからナンテンの実と葉を幾つも取り出した。
「さて、早速作り方を伝授してあげよう! あ、ちゃんとあったかくしててね」
「お母さんみたいなこと言うね」
「……身体壊したら大変なんでしょ。って、押しかけてる私が言えることじゃないか」
フウカちゃんは小さく笑って、その辺に積もっている雪を窓辺の近くまで掻き集めて来る。屋根の上で滑って怪我してしまいそうでヒヤヒヤするけれど、そんな不安を余所に、フウカちゃんは身軽に動き回りながら雪を手に嬉しそうな笑みを浮かべていた。
それからフウカちゃんは、僕に雪うさぎの作り方を教えてくれた。
病院や部屋のベッドの上で、暇なときは何か工作することもあったけど、ほとんど上手に作れたことはない。お母さんは上手だねと褒めてくれたりもしたけど、自分では、不器用なんだな、と落ち込むくらいには不器用だった。
「相変わらず下手っぴだなあ」
フウカちゃんが笑う。
教わった通りに一つ、雪うさぎを完成させてみたけれど、同じペースで作っていたフウカちゃんのそれと比べると、僕のはやっぱり歪で、雪うさぎっていうよりも、雪の塊に実と葉が埋め込まれただけ、みたいなものだった。新しく作られたフウカちゃんの雪うさぎは、さっき彼女が持って来たうさぎの隣に並べられた。二つとも、丸っこい形がすごく綺麗。
「私は好きだけどね、チサトくんの雪うさぎ」
「……無理に褒められても嬉しくないよ」
本当はほんの少しだけ嬉しかったけど。
素直にお礼を言うこともできないまま、僕はもう一つ作ろうと雪の塊に手を伸ばす。
「あの、“相変わらず”下手って?」
フウカちゃんはちょっとだけ僕の顔を見つめて、首を傾げるようにして笑った。
「前に会ったときも、キミと一緒に雪うさぎを作ったんだよ。あれも下手っぴだったなあと思って」
「そう、なんだ……ごめん、僕」
「いいや、思い出さなくてもいいんだよ。チサトくんと遊んだのはその一回だけだったし、正直、私も最近まで忘れてたんだから」
何でもないみたいにフウカちゃんはにこにこしながら、手の中で雪の塊を握っていた。
やっぱり僕は思い出せない。頻繁に入院していたときを含めたら、フウカちゃんっぽい雰囲気の女の子と話したことは何度かあるはずだけど、どの子のこともあまり思い出せない。しかも一回しか会ってないって言うなら、尚更思い出すのも難しいと思う。それが申し訳なかった。
一回だけなら、たったの一回だけ会ったことがあると言うなら、どうして記憶にはっきりと残りもしない僕に会いに来てくれたんだろう。訊いてみたけれど、フウカちゃんははぐらかしたまま何も答えてくれなかった。
その日、別に何の意味も持たないような会話を繰り返しているうちに、窓辺にはずらりと雪うさぎたちが並んだ。
それからというもの、フウカちゃんは、毎日とはいかなかったけれど、決まって僕が家に一人でいるときに限って訪れるようになった。いつも同じ格好、いつも同じ笑顔、いつも窓の外から、そして、お土産みたいに、一つだけ雪うさぎを持って来る。
僕もフウカちゃんが遊びに来てくれるのが楽しみで、毎朝、カーテンを開けて真っ白な世界を眺めながら、今日は来てくれるかな、なんて考えて、たまに窓を開けて姿を捜してみたりして。いつの間にか、僕の生活の中に、フウカちゃんは必要なものになっていた。
彼女もいつも楽しそうに僕の話を聞いてくれた。綺麗な雪うさぎを作る方法も教えてはくれたけど、それでも僕の雪うさぎはいつまで経っても歪なままで、最初に比べればマシかな、と思えるくらい。雪うさぎの他にも、フウカちゃんは雪でいろんな形を作ってくれて、外に出られないから、かまくらとか向かいの家の子たちが作っていた大きな雪だるまは作れないけれど、僕は十分楽しかったし、フウカちゃんがにこにこ笑ってると、何だか心が温かかった。
そうやって、大嫌いだった冬を彼女と二人で過ごしているうちに、いつの間にか、雪は降らなくなって、春が訪れた。
春が来ると、途端にフウカちゃんの姿を見なくなった。暖かくなって、僕が普通に学校に通えているからだろうかと思ったけれど、冬休みが終わった時点で学校に通うこと自体はできていたし、そのときは帰宅後にフウカちゃんが遊びに来てくれることも何度かあったから、彼女が来なくなってしまったのは別の理由なんだろうなと思った。新学期が始まったから、彼女も学校が忙しくなってしまったんだろう、と、勝手に理由をつけて呑み込むことにした。
いくら身体が弱くて遊びの誘いに乗れないと言っても、学校に友達が全く居なかったわけじゃないし、入院したときにお見舞いに来てくれる子もいる。それでも、フウカちゃんは特別だった。理由は分からないけれど、会えなくなったことが、素直に寂しかった。
フウカちゃんに会えないまま、春、夏、秋があっという間に終わった。
再び街に初雪が降って、どんどん景色が白くなった頃。あと数日で冬休み。冬休みに入ってしまえば、またどこにも出られなくなるんだろうな、と少し憂うつになり始めながら家に帰ってきたときのこと。
ポケットに入っていた合鍵を取り出して家の中に入り、真っ直ぐ二階の自分の部屋に向かう。外と変わらない寒さにぶるっと体を震わせてから部屋の窓辺を見ると、あの綺麗な雪うさぎが、僕をじっと見つめていた。懐かしい、といっても一年前だけど。ずっと見たかった挨拶代わりのうさぎがそこにあった。
窓を小突かれる前にこちらから鍵を開け、窓を横に滑らせると、待ち望んでいた彼女は、一年前と何も変わらない装いと笑顔で言った。
「また冬が来たね」
いろいろ訊きたいことはあった。どうして会いに来てくれなかったのかとか、この数か月何をして過ごしていたのかとか。それでも喉の奥がきゅうっと締まって、吐き出そうとしていた言葉は何一つ出て来なくて、やっと振り絞って伝えられたのは、「会いたかったよ」の一言だけだった。
フウカちゃんは僕の言葉に随分嬉しそうな顔を見せてくれた。
「良かった、忘れちゃってるかなって思ってたんだけど」
「わっ、忘れるわけない! フウカちゃんは大事な友達で、本当は、ずっと会いたかったのに」
何を言えばいいのか分からなくなって、顔が真っ赤になってる気がする。
それでも彼女はからかいもせず、少しだけ困ったような笑みを浮かべて「ごめんね」とだけ呟いた。
その後、何日間かかけて言葉を交わして分かったことは、フウカちゃんは冬にしか僕に会いに来れないということだった。理由を訊いても、他にやらなくちゃいけないことがあるとしか言ってくれなくて、あまりしつこく訊くのは嫌だったから、その理由で納得することにした。
今年の冬も、去年と同じようなペースで、フウカちゃんは僕の家に来てくれた。雪の積もった木を登って、僕の家の屋根に足をつく。挨拶代わりの雪うさぎを欠かすことなく、僕にあの笑顔を見せてくれる。石像を作りながら、僕の学校の話を聞いてくれたり、逆に彼女も、春から秋にかけて行ってみた場所の話なんかをしてくれて、元々そんなに長居出来ないみたいだから、少しずつ、何日かかけて話をしてくれた。時間が経つのはあっという間だった。
季節には、はっきりとした終わりはないと思う。最初から来てくれる時期を決めておけばいいんだろうけれど、フウカちゃんはそういう提案もせず、ただ、何となく春の気配が近づくと、ぱったりと僕の前から居なくなってしまった。何か一言くらい言ってくれればいいのに。
彼女と過ごす冬はとても短くて、そして、冬を今か今かと待ちながら過ごす時間もあっという間で、気づくと、フウカちゃんに出会ってから三度目の冬を迎えていた。
お母さんからは、お兄ちゃんの顔になってきたなんて言われているけれど、多分フウカちゃんを待っている間の顔は、前と何も変わらないんだろうなと思う。相変わらず僕は昔のフウカちゃんのことを思い出せないし、相変わらず、身体は弱いまま。彼女が居てくれなければ、退屈で嫌いな冬の季節も、何一つ変わらない。
コンコン、という音と共に、窓の外に雪うさぎがひょっこりと顔を出す。
冷たい空気が部屋に流れ込むのと同時に、フウカちゃんも笑顔を見せた。
「また」
「冬が来たね」
自分の言葉を遮られて、あからさまに不機嫌そうになるその顔が面白くて、思わず笑ってしまった。
「私のキメ台詞なんだけどなあ」
フウカちゃんに会うのも三年目。僕も少しだけ成長して、思うところは色々ある。
彼女は絶対に、僕の家族に会おうとはしなかった。友達としてちゃんと紹介してみたかったし、何より、窓じゃなくて玄関から入って来て一緒に遊んでくれれば、もっと長い時間一緒に居られると思うのに。提案してみたり、お願いしてみたりしたことはあったけれど、折れることなくその度に断られた。決まってフウカちゃんは、“僕だけ”にしか会いに来なかった。
そしてもう一つ。フウカちゃんは、初めて会ったときと何も変わらない。その服装も、マフラーも、帽子も、髪の長さも、多分、身長も。初めて僕が彼女を見たとき、何歳か上のお姉さんという印象を抱いた。それが今はほとんどなくて、僕が成長したせいもあるのかもしれないけど、年の差なんて、周りから見たら分からないんじゃないかって思うくらいで。初めから考えれば、フウカちゃんだって中学生か、下手をしたら中学卒業くらいのはずなんじゃって思うけれど、僕が知っているその年齢の人たちは、こんなに子どもっぽくない、気がする。
僕はフウカちゃんのことが大好きだったけれど、彼女のことを、何も分かってはいなかった。
「ねえ、フウカちゃん、今何歳?」
「ええ? 女の子に年齢訊くのは失礼だぞー」
「……子どもなんだからそんなこと気にしないでよ」
「女は何歳だってレディなんだから気を付けなさい、なんてね。さて、ところでチサトくん。今年の誕生日はいつも通り?」
さらっと話題を変えられたのが気に入らない。だからと言って責める気もないんだけど。雪うさぎを作るだけじゃなくて、フウカちゃんはいろいろと器用だ。
「いつもと同じだよ。昼はお母さんと買い物に行って、夜はクリスマスパーティーと僕の誕生日のお祝いだって」
僕の誕生日は十二月二十四日、クリスマスイブ。
イベントが二つ重なっていて、そのときばかりは、僕も賑やかな街の中に出掛ける。前日の時点でも準備があるから、二日間は確実に、この狭い部屋の住人ではなくなる。準備のために出掛けるだけで、遊ぶわけではないのだが。僕が部屋にいないから、これまでの二十四日は、フウカちゃんには会わない日だった。
「うーん、そっか。今までお祝いとかできなかったし、もし何かお願いごとがあったら……前夜祭みたいになっちゃうけど、聞いてあげるよ」
ミニ雪だるまを雪うさぎの隣に作りながら、フウカちゃんはそう言った。
どくん、どくん、と心臓が高鳴る。元々彼女には、雪うさぎの作り方を教えてほしいっていうお願いをしていたけれど、もし、それ以外のことで何か叶えてくれるのだとしたら。
暖房の効いた部屋に、流れ込む空気は冷たくて気持ちいい。手を伸ばせば、この冷たさの中に飛び込める。今なら。
「……僕を、外に連れ出してほしい」
言い切った瞬間、フウカちゃんはぎょっと目を丸くした。当然の反応。
「いやあ……それは、ちょっとなあ。お母さんとの言いつけは守らなきゃダメでしょ。何が起こるか分からないんだから」
フウカちゃんは困ったように指先で頬を掻いた。
分かってる。分かってるんだ。今僕は、いけないことをお願いしている。とても、無責任なことを言っている。お母さんに迷惑かけたくない気持ちはもちろんあるけれど、やっぱり、手を伸ばせば届く距離にある外の世界に飛び出してみたくて。それに、フウカちゃんは、いつまで僕のもとへ遊びに来てくれるんだろう。それが分からなくて、何よりも大切な彼女との時間が、近いうちに終わってしまいそうな、そんな予感すらして。
気づけば僕は、必死に頭を下げていた。
「チサトくん……」
ああ、今、フウカちゃんを困らせてしまっている。でも僕は、この頭を上げられなかった。
どれくらい、時間が経ったか分からないけど、暫くして、フウカちゃんは小さな声で僕の名を呼んだ。顔を上げて見えた彼女の顔は、眉が八の字になっていたけれど、目と口元は笑っている。小さな溜息を吐いた後、彼女は言った。
「……分かったよ。ただし、ちょっとでも具合が悪くなったらすぐに帰ること。いや、帰らせる。それでもいい?」
僕は何度も何度も頷いた。
嬉しい。フウカちゃんを困らせてしまったことには謝りたい気持ちでいっぱいだけれど、それを上回るくらいの大きな喜びで、僕の心は満たされた。
それから、次にお母さんが出掛けて、家に一人になったとき。僕はいそいそと服を着込み、マフラーと手袋をして、珍しく玄関前に立っていたフウカちゃんと合流した。初めてまともに隣に立ってみたけれど、明らかに昔より身長差は縮まっていた。まだ少しフウカちゃんの方が大きいけれど、彼女自身は、出会ったときと何も変わっていないように見える。
フウカちゃんは僕に手を伸ばして笑った。
「さ、行こっか」
手袋越しにその手をとって、フウカちゃんと共に公園へ向かった。
冬の公園に来たことは何度あっただろう。片手で数えられるくらいだったかな。真っ白な雪が積もった公園はとても綺麗で、色とりどりの遊具は雪に埋もれて遊べられはしないみたいだったけど、僕の中のわくわくは全く静まる気配もなかった。
クリスマスを間近に控えていて準備に追われていること、近くにあるもう一つの大きな公園に子どもたちが集中するせいか、積雪に足跡一つついていないこの公園には、フウカちゃんと僕の二人だけ。僕らの秘密の場所みたいで、瞳の奥のきらきらと、心臓のずっと奥のざわざわがうるさくて、僕はフウカちゃんの手を引いて雪を掻き分けるように公園の中に入っていった。
楽しい時間だった。これ以上ないくらいに、楽しい冬の時間だった。
自分より年上のはずのフウカちゃんも、すごく子どもみたいな笑顔で、白い世界を駆けた。念願だった自分の背より大きな雪だるまをブランコの隣に作って、独りじゃ可哀想だって言って、その周りに小さな雪だるまをいくつも並べてみたりして。相変わらず僕は不器用で下手っぴなままだったから、ちょっとだけ、フウカちゃんには笑われてしまったけど。
二人きりでかまくらを作るのは難しいから諦めたけど、その代わりに、ふかふかの雪の上に寝転んで、広い空を見上げた。降ってくる雪がすごく綺麗だった。
冷たい空気に晒されて、心臓か、肺の辺りか、それとも喉の奥か、はっきりとは分からなかったけど、違和感があった。でも、まだここに居たい。大丈夫、久しぶりに冬の外で長居したから、きっと不安になってるだけなんだって、また我儘になって、僕は違和感を押し殺した。
「ねえ、チサトくん。キミは冬が嫌い?」
隣で寝転がっていたフウカちゃんが、僕に尋ねる。
「どうして?」
「初めて会ったとき、チサトくんが言ってたんだ。冬は嫌いだーってね。まあ覚えてないだろうけど。今はどう? 少しは好きになった?」
「……フウカちゃんが一緒に居てくれる冬は好きかな」
「ははっ、何それ。ちょっとだけ嬉しいかも」
フウカちゃんは笑いながら雪の上を転がった。
昔の僕はそんなことを言っていたのか。正直に言うと全然覚えていない。でも、見てるだけの冬が嫌いだったのは昔からだから、フウカちゃんにそれを話したのは事実なんだと思う。
でも、今は本当に好きだ。フウカちゃんに会えるこの季節が。僕が生まれたこの季節が。世界が白に染まる、この季節が、好きだ。
小さな呼吸はどんどん速まって、心臓が飛び出そうなくらい脈打つ。苦しいなあ。雪の上にあるはずなのに頭の中が熱くてぼうっとする。駄目だ、ここでこんな風になったら。フウカちゃんに迷惑がかかる。お母さんにも、迷惑がかかる。でも、指先まで重くて。動けるのかな、これは。なんて考えてるうちにどんどんぼんやりして。駄目だってば、目、閉じたら。
フウカちゃんが僕の名前を呼んだ声が耳に入ってすぐ、僕の意識は途切れてしまった。