エピローグ
エピローグ
若者定住支援制度の仮契約を解約し、セルフビルドの住まいは、石ノ蔵町の役場担当者である岡島に返された。土地が合わなかったということではない。目的を果たしたいま、住む理由が無くなったというのに過ぎなかった。
「離れるのが、惜しい土地ですよ」
と、芝村は屋外にて開かれている、セレモニーに参加しながら言う。
「本当に、そうおっしゃられるなら、このまま所有してもらったっていいんですよ」
「いえいえ、もともと契約した目的が、よこしまなものでしたから、そのまま居住んでしまうと、これは、町民たちへの侮辱になります。そういうことだけはやってはいけないと、自分の中で固く決めていましてね、これは、請け負えません」
「そうですか、残念です」と、岡島は悄気返って言った。「こちらとしても、あなたの正体、そして、目的さえ分かっていましたら、もっと気に入ってもらえるよう、働き掛けたんですがね。……まあ、すべては後の祭りです。我らは、とんでもない、宝物を逃してしまったようです」
「宝物なんて、とんでもない」と、芝村は言った。「自分は、この町にとって、悪、というべき存在なのです。仮契約期間のお詫びだって、言ってみれば、私からの押しつけのようなものですからね。……でも、製作者は、この町の人間ですから、これは必ずしも悪いことではないはずです。作品だってどこに出しても誇れるような、立派なものです。きっと気に入ってもらえると思います」
住んでいたセルフビルドのログハウスの敷地内、とっつきにある彫刻ブロックは、いま、大きな白布が被され、その端々が、紅白の縄につなげられている。贈り物とは、倉橋が制作した御影石による、オブジェだ。いたずらな仮契約のお詫びとして、これを役場の方に、献上する手続きをしたのだった。
「それでは、オープンお願いします!」
拡声器でのアナウンスが、入る。離れた集落から歩いてやってきた町民、総勢五十名近くが見守るさなか、白布は一気に解放された。
どよめきが起こった。
御影石の特徴がふんだんに利用された、美しい丸みを帯びたフォルムの翼のオブジェがそこにはあった。静かながら、躍動感にあふれている。量感がたっぷり取られていて、どっしりとした安定感が、居座っている。それなのに、翼という概念がすりこまれることによるものか、軽やかさが感じられ、見ているだけで精神が昇華されていきそうだった。
「よっ、お見事!」
町民から拍手が起こった。
その中心に立っているのが、倉橋だった。おもはゆそうにしている。彼の面目は果たされた。いままで、敬遠されていた人間からも、一目をおかれる存在になれたはずだった。
「いやあ、すばらしい」と、岡島が作品を見上げながら言った。「このようなものを、本当にもらってしまっていいのかどうやら……」
「契約済みですから、すでに、町のものですよ」と、芝村は言った。「これが縁で、そのハウスにも人が入ってくれれば、いいですねえ」
「一番に決めますよ、わたしは」と、岡島は気合いを見せる。「こうなれば、もはや町一番の物件ですから、もう積極的に推します。というより、美的感覚をやしなうには、最適の物件となったんじゃないでしょうか。日本中、探し回っても彫刻と一緒に暮らせる物件など、滅多にみられませんよ」
「一番の財産は、彼ですよ」と、芝村は町民と談笑している倉橋を示して言う。「彼は、ここ一ヶ月、夜通しで制作に挑み、そして仕上げてくれました。血の滲むような、努力ですよ、それこそ。彼こそが、この町の財産なんです。あなた方は、わたしなんかよりも、そして、移住者なんかよりももっと、大切なことを忘れていませんか」
「いや、おっしゃられるとおりです」と、彼は頭を掻いて言った。「財産は、掘ればたくさんありますね、この町にも。もっと、気づかなければいけないことは、たくさんあるんでしょう。それだけは、今回、先生にはたっぷりと教えていただきましたよ」
「先生ではないですって」と、芝村は、手で制して言った。「この町にとって怨むべき存在なんですから、そういうのはなしです」
「見て下さいよ、町民の皆様を」と、彼は周囲を示して言った。「誰も、あなたのことを責める人なんていませんよ。むしろ、感謝しているぐらいです。献上のオブジェはこれからも愛されることでしょう……と、聞きにくい話なんですが、ご依頼人のお方が、お亡くなりになられたんですって?」
「ああ、そうだ……亡くなられた」と、芝村はトーンダウンして言った。「一週間前のことだ。でも、その顔は、迷いなんてありませんでしたよ。こう言うと、叱られそうですがね、幸福そうですらありました。事実、彼女は二ヶ月前に、望みを果たせたわけなんですから、心残りはなかったはずです。担当医師も、こう言っていました。とくに、苦しまれる様子もなく……と」
「そうですか、苦しまれることはなかったなら、それが一番ですね」と、彼は配慮を示しつつ言った。「なんにせよ、そうした形で、依頼が閉じられるというのは、悲しいことですね? 後には、何も残らなくなるわけなんですから」
「そうでもありませんよ」と、芝村はオブジェを見上げながら言った。「彼女の精神は、きっとここにあるはず。由季子の精神と、遺骨がここにはあったんです。ですから、それに導かれてここに、きているはずでしょう。……そうそう、この目の前のオブジェが、翼であるというのも、なんだか感慨深い。まるで、彼女のために用意された翼のようですな」
「これは、意図して依頼したのではなかったのです?」
「いえいえ」と、芝村は手を降って言った。「彫刻家、倉橋さんの自由意志によるものです、つまり、成りゆき上そうなったというだけに過ぎません。彼はこの風土を愛しているそうですから、そうした風土愛からねりあげられたものと言ってもいいでしょう」
「いやあ、本当にいいものがもらえましたよ」と、彼はあらためてオブジェを見つめ直して言う。「そうした、依頼人のモニュメント的な存在であるとも考えれば、思いはますます深まるというものです」
「私は、この地を離れますがね、こいつには会いに来ますよ、ことあるごとにね」
「何度も来て下さいよ」と、彼は言った。「とくに、何もないところなんですがね、まあ、おもてなしぐらいはできますよ」
「この土地で、一番好きだったのは、水でしたな」と、芝村は言った。「思い出すと、また喉が渇いてきましたよ。あー苦しい。そういえば、今日は、なんで、こんなに暑いんですか?」
「暑いですね、三十五度を超えるそうですぞ?」と、彼は手庇を作って言った。「昨日は、涼しかったんですがね、まあ、天気の機嫌というやつは、本当によくわかりません。……おっと、水のほう、用意がありますよ。ちょっと待ってて下さい」
彼は役場が用意した、セレモニー準備室に走っていった。取り残された、芝村はオブジェを見上げて、それに付き合った。できあがったばかりの品を見るのは、いつだって新しい気持になれる。
数年後、またこれを見に来ても、その気持ちを得られることだろう。そして、その気持を得にくる人間は、自分だけではなくなる。年毎にそうした人間は増えていき、やがて、人が後を絶たないスポットになるのかもしれなかった。その中に、例の夫妻が混じることになるのは、想像するまでもないことだ。
岩佐由季子。
彼女の精神は、ここにこそあるのだから――
(了)