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一流役者  作者: MENSA
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第四章

 

第四章

 

     1

 

 横浜の事務所は、相変わらずの風景だった。依頼要請の着信音が鳴りっぱなしで、FAX受信の音がそれに重なっている。応対する職員に、書類整理に明け暮れる職員……。誰ひとり、暇している者はいない。忙しい振りをしているというわけではないのだ。ここは、実質、対応しなければいけない依頼が日々、どっさりとやってくる。しかしながら、仕事は選択式で請け負っており、応えられるのは全体の5%にすぎない。

 芝村は出掛け用に被った山高帽をハンガーラックに掛け、自分の席に向かった。席に就くなり、さっそく近づいてくる男があった。龍崎だった。

「帰ってたのか?」と、言って芝村は椅子を回転させて彼に向き合う。「敬三の件は、解消したのか?」

「いま、その報告にきたのです」

 芝村は机に寄り掛かった。

「それで?」

「由季子の件は報告していません。そのままです」彼の顔には感情はなかった。「それで、彼の心の傷の部分についてだけ、語り尽くしました。向こうは望んでいませんでしたが、しかし自分が引くつもりはないのだと分かると、そのうち、なびいてきましたよ。傷は、予想以上に、深いものでした。彼自身、死んでも死にきれないという思いでいるようです。それを、無理に抑圧しているわけです。ある日、彼が発狂するというようなことがあったとしても、おかしくはないのかもしれません。しかし、いまは均衡を保てています。叶うかどうかも分からない希望を持つことで、自分を持ち堪えさせられているのです」

「君は、その希望を支えてやった?」

「できたのかどうかは、さだかではありませんが……」と、彼は声のトーンを落として言った。「そのつもりです。希望の部分を大きくしてやるつもりで彼をなだめつづけました。結果、彼は前向きになれたようです」

「成功というわけか」と、言って芝村は仰け反った。「だとしたら、敬三はしっかりと生きていけるだろう。心の中に生きている由季子の姿をせおって」

 芝村は立ち上がった。都心の風景がのぞめる窓辺による。今日は、一段と明るく見えている日だった。

「ある意味、彼が背負っている由季子は、もう由季子じゃないのかもしれない。だが、それでいいんだ。幻想を背負わせて、それでその男の活力になるなら、その形がベストだ。あえて、現実を言い伝える必要などはない。……君も、そのことは少しは分かったんじゃないか?」

 彼を振り返ると、ひきしまった顔でじっとしていた。

「今日は、その事を伝えたかったのです」と、彼は言った。「芝村さんの言いつけは、間違いではありませんでした。間違ったことをそのままにしたり、真実を隠したままにするというのは、なんだか

彼らの意思を踏みにじっているようで胸のうちが晴れず、納得できないことばかりなんですが、しかし、時にはそういうのは必要なのだ、と思いました」

「彼は、すでに別の人生を生きている。もしかしたら、あたらしい妻を見つけるのかもしれない。抱えている幻想は、やがて彼の中で小さくなっていくだろう。代替えの希望が彼の中で成長して、それが彼の新しい活力となるんだ」

「しかし、悲しいものですね」と、彼は顔を心もちうつぶせて言った。「実の親子なのに、すれちがったままで終わっている、というのは。幻想が維持されることは納得できても、そういう感情は、自分の中に依然として残っています」

「打ち捨てよ」と、芝村はきびしく言った。「そういうのは、必要のない感情だ。情念で苦しめられるというようなことが、我らの仕事ではとんでもない足枷になる場合がある」

「そういうものでしょうか?」

「とあることが元で、親子や、兄弟などの縁が断ち切れたなどという話は、この仕事をしているとさして珍しいことなんかではない。なかには、憎しみがために、縁があること自体をいまいましく思っている人間もいるぐらいだ。その人物と血の繋がりがあったとしても、巡り合わせ的にたまたま一緒になってしまったという考えぐらいに収めて、いつでも縁を切る準備をしているといった具合だ。その者についていえば、復縁は難しい。むしろ、解放するそのために、関係を断つ方向に導いてやるのが、最善だったりする」

 芝村は背を向けた。

「しがらみにこだわっていると、いつまでも前に進まないということだ。探偵の仕事にしたって、そういったものに囚われると、まず足下がすくわれる。結果、もろもろの膠着状態が生まれ、商売が成り立たなくなる……そういうことにもなってくるんだ」

「何にも囚われないということは、つまり、独立した自分の意思を持て、と。……そう、芝村さんは教えて下さっているんですね?」

「独立した意思……それは、すばらしい着眼点だ」と、芝村は彼を振り返る。「ある意味、人は孤立した生き物なのだ。根っこから、繋がっている存在など、どこにもいない。死んでいくときは、一人ぼっちなんだ。その後に築かれる繋がりだって独立した意思から、派生的に生まれていくものに過ぎない。

 探偵の場合、特にそのことが言えるのかもしれん。君の中にだって、独立した意思はあるはずだろう。それに嘘をついてはいけない。だから、俺がいま考えている事が合わないというのならば、遠慮などせずに、いつだって関係を断ち切るべきなんだ」

「自立の精神……そういったものは、自分の中にあると言えば、その通りなのです」と、彼は言った。「ですが、芝村さんと考えている事が合わないということは今のところないんです。誓って、ないんです。ですから、関係を断ち切るつもりはありません。もうしばらく、といいますか、ここにいさせてもらえませんか?」

「君を追い出したいというつもりでいるわけではない」と、芝村は言った。「いやになるまでいればいい。いて欲しい。ただし、いやな仕事も押しつけるようなこともあるのかもしれん。それは、覚悟しておいたほうがいいだろう」

「仕事をいやだと思ったことはないですね」と、彼は気楽な風情になって言った。「納得できないことがいくつもあって、それがいま、ひとつひとつ解消されているといった具合でしょうか」

「君は、意外と懐疑的な男なんだな」

「最初からそうでしたよ」

「いや、本心を隠していたはずだ。この俺は、顔を見ればだいたいの性格が読めるほうだと思っているからな。……君には、及ばない程度なのかもしれんが」

「ご謙遜を」と、彼は低く言った。「仮にそうだとしましても、自分は結局、それをいかせない男ですから、能力の程度は低いのかもしれません」

「いま、仕事は?」

「たまっています。……いえ、これは逃げではなく、事実です」

「当たり前だ」と、芝村は言葉で小突く。「やってもらいたいことがある。それらをさしおいてな」

「なんでしょう?」

「青峰だ。彼と連絡を取ってくれ」

 芝村は彼がいま、探し求め回っている跡部という男のことについて龍崎に話した。現在由季子に成りすましている女の本名である一ノ瀬ますみの仮の夫であり、現在はホームレスになっている可能性が高いというこれまでに予測した推理のすべてを明かしていく。

「ホームレス捜しですか? これは、難しそうですね」

「能率重視の探偵には割に合わない仕事だ。だからこそ、君に参加してもらいたいと思ってな。しらみつぶしで、聞いて回ってほしい」

「東京中のですか?」

「関東全域だ」

 彼は弱った顔を見せた。

「それは、ちょっと厳しいですね……」

「方法は、ふたつある」と、芝村は彼に微笑みかけた。「ホームレスたちに食事支援をしているNPO、あるいは炊き出しをしている地元教会を訪ねること、あとは、無料または定額診療制度を活用してホームレスたちを診察している医者を訪ねること、だ」

「後者の方が、可能性が高いように思えます」

「そちらだったら、関東勤労者医療協会を訪ねればいいだろう。もしかしたら、跡部を知っている人間がいるのかもしれない。もっとも、彼は戸籍を売って逃げている可能性が高いので、医者に掛かっていたとしても、本名を名乗っていない可能性もあるんだがな」

「顔写真……は、青峰に求められますか。それでも、通じる可能性は低そうですね」

「根気がいる闘いになるだろう」

「やりますよ、芝村さん」と、彼は強い意思を滲ませて言った。「ちょうど、やる気になっていたところですから、飛び込んでいけます」

「由季子の無念を晴らすつもりでいるのか?」

「まあ、そんなところです」

「だとしたら、それはよしておけ、と言っておくよ。やはり私情は、禁物なんだ」

「やりにくくなるから……なのですよね? でも、自分は多分、甘い人間で、そのやりにくさと付き合わなければ、気が済まないのです」

「探偵には、向いていない男だな、君は」

「引き抜いたのは、芝村さんです」

 芝村は頭を掻いた。

「俺には、人を見る目がやはりなかったようだ」

「そうではないって、証明しに行きますよ。では、行ってきます」

 彼は小走りに出て行った。その姿を見送るなり、芝村は取り残されたような気分に見舞われた。かしましい依頼要請のコール。そのさなかで、しばらくじっと考えごとに耽った。

 

     2

 

 津路伸也が跡部晋作の戸籍を略取しては、成りすましている人格について、職業履歴が割り出された。

 いずれも季節労働者という扱いで、ワンシーズンのみの従事という形が取られていた。そのうちの一つがスキーのインストラクター兼、場内の管理者であった。現在は、シーズンオフなため、当然その職業は休業状態である。同じ仕事に就いている男の一人が、横浜市内の流通会社に勤めていた。

「こういう男ではないでしょうか?」

 芝村は現在の津路伸也の写真を、跡部晋作と称してさしだした。よれよれ作業着姿の彼はそれを受け取るなり、じっくり確認した。

「彼じゃない」と、すぐさま答えた。「なんか、似ているけれど……ちがうよ。跡部さんは、なんかこう、外国人っぽい人なんだ」

 彼の説明では、こうだった。顎髭と、口ひげを蓄え込んでおり、それらは綺麗に切りそろえられている。気難しそうな目許に、寡黙そうな口許。外国人風に見えるのは、着こなしにそうした厳格さがあるというばかりではなく、髪の毛から眉間まで、ほぼ自然な具合に脱色されているからだった。

「でも、似ているんですよね?」

「似ていますね」と、彼は写真を眺めつつ言う。「顔の形なんか、まったくそうですよ。でも、雰囲気なんかはまったく重なりませんね。こういう明るい感じなんかではないんです」

 彼はそれから写真を返しつつ言った。

「うちのほうに、集合写真が何枚かあったよ。それ見れば、分かるはずだ」

「是非に、見せていただけませんか? 彼をどうしても、と求めている人間がいるのです」

 彼は職場を振り返った。トラックの発着場は、搬入された荷物で積み重なっているありさまだ。明らかに人手が足りていない様子だ。

「いまは、無理だな」と、彼は言った。「仕事があがった午後の六時以降なら、なんとかなるかもしれない」

「分かりました。その時間でよろしいので、お付き合い下さればありがたく思います」

 芝村は彼から住所を求めて、それで辞去した。

 町をしばらく、練り歩く。その途中、携帯が鳴った。龍崎からだった。

「跡部さんを診察したことがあるというお医者様が見つかりました」

「そうか。場所は?」

 彼はその場所を言った。東京足立区の梅島で開業医をしている和久という男だった。

「わかった。いますぐ、そちらに向かう」

 携帯を切って、芝村はすぐさま走り出した。

 

 和久のクリニックは、密集する住宅街の一角に佇んでいた。看板もあがっていない、実につましさを極めたような、庶民的なところだった。

「ホームレスたちばかりを救済しているものですから、一般の病人はこの事情を了承してもらった上できてもらわないと、びっくりして帰ってしまうわけです。ですから、クリニックという看板をそのうち、下げようとなったわけです」

「口コミだけで、人はくるのです?」

「それが、まあ毎日来ますよ。なかには、お金を持ったホームレスさんもいらっしゃいますね。とはいっても、無保険ですから、三割分ほどしか払えませんので、結局、無料診察という形を取ることになるわけですが」

 和久は、才気にみなぎった男だった。風貌こそは、齢七十近いという通りに年老いていたが、精神だけは十も二十も若い。そのまま、大学の教壇に立って、教鞭をふるってもおかしくはない勢いがあった。

「跡部という男のことでしたな?」と、和久が顔をあらためて言った。「荒川河川敷で、青空診察をしたとき、その男と出会っている。それが、最後の出会いだ。いまから、三ヶ月ぐらい前か」

「それ以前にも、このクリニックに掛かったことがあったのですね?」

「そうですね、彼はここを訪ねています。完全に文無しで、しきりに診察料のことを心配していましたね」

「容態は?」

「血圧が高めということで、薬を出しておいた。それだけです。精密検査をすればもろもろの悪い箇所は出てきましょう? なにぶん、不衛生で不摂生極まった生活をしているわけですから、健康でいるはずがないのです。厚生労働省が委託調査で割り出したホームレスの寿命をご存知ですか? 六十にも届かないのです。それが、実態でしょう。跡部さんもまた、その寿命に近づいている男性の一人です」

「彼は、どこにいますか、分かりますか?」

 彼は首を振った。

「幾人かの患者さんについて、出張診察をしていますが、それ以外のお方は、まず身分を名乗りませんので、どこで何をしているのかは分かりません。なかには日雇いの仕事を得てこれで糊口を凌いでいるというお方もいらっしゃいますがね、跡部さんはどうもそういう仲間ではなかったように思えます」

「彼を知っている仲間なんかは?」

「いませんよ」と、彼は首を振って言った。「なんでしたら、どうです? いまから、廊下で待機して、その人を求めるというやり口は?」

 持ち掛ける彼の顔は、実に柔らかなものだった。

「いいのですか、診察の邪魔になりませんか」

「けっこうですよ。邪魔にはなりません。そういう、アットホームなところですから、気軽に構えてもらってけっこうなんです。跡部さんが、必要なんでしょう? 彼を求める人がいるというのは、これはわたしにとっても彼にとっても、大事なことです」

「重大なことです」と、芝村は言った。「彼は戸籍を売って、今の身分になってしまったわけなのですが、その売られた戸籍が、ある男によって維持されておりまして、これが持ち主に返されるということになればですね、彼が元の生活を取り戻せる機会がぐんと増えることになってくるはずなのです」

「それはすばらしいニュースだ。是非とも、彼のために力を貸してあげて欲しい。もっともすんなり戻るというようなことにはならんだろうがな」彼はそれから、顔を引き締め直した。「存分に、ここで情報収集をすればいい。いまここで、一つ注意しておきたいのは、訪ねる人たちの個々のプライベートに干渉するというようなことだけは、差し控えてもらいたいということです」

「それは、重々承知していることです」

「なら、問題はない」

 と、彼は朗らかな顔を見せた。

 それから、二時間あまり来院してくるホームレスたちに情報を求めつづけた。彼らの回答はいずれも焦点から外れたもので、役に立たないものばかりだった。外に待機させていた龍崎にこれを委託し、芝村は事務所に引き返して、いくつかの事務処理をしてから、約束していた男の自宅へと駆けつけた。彼は写真を用意して待っていた。

「これです、どうぞ」

 差し出されたのは、六切サイズの集合写真が一枚。Lサイズのペア写真が六枚だった。いずれも、イベントのついでに取られたもので、形式的なものなんかではなかった。肝心の跡部の姿はすぐに見つかった。カメラを避けるように、常に脇役といった映り方をしている。

 たしかに、外国人風なありさまだった。その箇所だけ、ドイツの古風な肖像写真のようだ。まるで、津路伸也とは重ならない。彼の姿を間近で見てきた芝村には彼とすぐに分かったが、それにしても見事な変装だった。

「彼には奥さんがいるんですが、奥さんのはさすがにありませんよね?」

「奥さん、ですか?」と、言って彼は廊下の向こうで待機していた妻に振り返った。「彼女のものはあったっけ?」

「一枚ぐらいは、あったはずよ」と、彼女は言った。「それも必要なの?」

「見せていただければありがたい」と、芝村は頭を下げて言った。「どのようなお方なのか、それを確かめさせてもらうだけでよろしいので」

 婦人は気兼ねなく応じて、奥手に引っ込んでいった。

 三和土の上に取り残された芝村は、男が見守るさなか、写真をあらためて見直した。津路伸也の変装。

 キャラクターを作って演じているのは、確かなはずだった。それが、ずっと隙なく維持されているという状態は、どれほどの困難なことなのか。彼の骨を砕くというまでのなりすまし振りには、舌を巻かざるを得なかった。やはり、常人のそれを逸したものを彼は持ち合わせている。

「彼は、どういう性格の男ですか」

 と、芝村は写真を手に問いかけた。

「その写真から受ける印象のとおりだと思いますよ。多くは語らない男です。じっと、人の語るところを観察しているような……そういう、不思議な男です」

「彼とは、あまり話したことがないのですね?」

「釣りの話はしょっちゅうしましたがね。アウトドアをよくするみたいです。奥さんを連れて、二人でキャンプをしているというようなことを、いつかに語っていましたっけ。そうした、キャンプ仕様の炊事や、その手の段取りをするのが好きな人のようです。山登りもやっているということでしたので、これは、筋金入りというべきでしょう」

「その手の道具を、見たことがありました?」

「自宅のほうには、いくつかあるようですよ」

「訪れたことがあったんですね?」

「まあ、数回程度ですが……」と、彼は、懐かしい顔を浮かべた。「とても、いい家でしたよ。理想家らしい、雰囲気を大切にしたところがたしかにありました」

「多くの花で飾り付けられていたりとか?」

 芝村は津路家の、あのドライフラワーで過剰というまでに飾り立てられた豪奢なありさまを思い浮かべながら問うた。

「花、ですか?」彼は訝しそうな表情で、手を振った。「そういうのは、なかったはずですが……」

「では、どういう部屋ですか?」

 うーんと唸ってから、彼は言った。

「梁がむきだしで吹き抜け仕様の、ロッジ色が強いお部屋でした。……印象的なのは、聖人の絵図が編まれた、タペストリーですよ。

絵画というぐらいの大きなものが、壁に掛けられているんです。なにより、暖炉が設えられた家なんです。あそこは、日本人が暮らしているというようなそんな部屋ではなかったですね。北欧の建売住宅、そのものですよ」

 まるで、津路家とは様が違った。おそらく、これもキャラクター作りがために造り込まれたものなのだろう。彼らは〝演じる〟――ただそれがために、成り立っているような夫婦だ。それは、津路夫妻のほうでも同じようなことが言える。どの面を追っても、彼らの本性はどこにも存在しないということだ。

「それで、奥さんの方は、どういう人か、分かりますか?」

「大人しいお方です」と、彼は一旦目を伏せて言う。「貞淑なおかたですよ。人の反感を買うようなことはまずあり得ない。きっと、寡黙なあの旦那さんにはぴったりの奥さんじゃないですか? 何よりご夫妻ともに美男美女でいらっしゃられる。ああいった山奥に暮らしているのが、もったいないほどですよ」

 そこで、婦人が現れた。

「一枚だけ見つかりましたわ」

「すみません」

 芝村は大事に受け取って、その写真を確かめた。見知らぬ女性と一緒にグラスを持っているペア写真だ。そこに映っている、ますみは、普段に見かける彼女のそれではなかった。感情を抑圧したような、ひらたい表情。穏やかな目つきは、何かを悟ったようなそんな奥ゆかしさがある。上品さを意識したような佇まいで、それは仕草ばかりではなく、口許も徹底されているようだった。

 彼女もまた、キャラクターがしっかりと作られていた。いや、この姿でいるときは一ノ瀬ますみを名乗れることから、これこそが彼女本来の姿というべきなのかもしれなかった。どちらにせよ、一人二役というのは、徹底された計画の上で実行されているというのは間違いないことのはずだった。

「いや、参考になりました」

 芝村は写真を返した。

「もう、よろしいのですか?」

 婦人が不思議そうに訊く。芝村はうなずいた。

「確認をしたかっただけですので、もう十分です。……予想に違わぬ、美しいお方で、本当に感銘を受けました。こんなに、美人な方は、滅多に出会えない類のものですよ」

「ええ、ええ、それは間違いないですわ」と、彼女は興奮して言った。「わたしが知っている人のなかで、もっとも美人な奥様です。立ち振る舞いも上品で、気高くて、憧れているのは、わたしだけじゃないでしょう」

「直截、お話ししたことがあったのです?」

「すこしですわ」と、彼女は太い首を上向けて言った。「ほんの他愛のないやり取りを、かわしたにすぎないんですが……それでも、あの奥様は、お付き合い下さいましたわね。いやな顔をするような、そんなお方じゃないんです。だから、気さくさもあって、語りかけやすい人でした。その集まりでは、はじめて顔を合わせる人ばかりでしたが、奥様もその一人だったはずでしょうが、ちやほやされていましたわね。人を惹きつける魅力が天性的にあるんでしょう」

 そういう魅力は、演技でどうにかなるものなのだろうか。

 芝村は考える。一つの条件を満たすならば、それは可能なのかもしれなかった。その条件というのは、人生において精神的破綻まであと一歩というところまで追い込まれる、大変な苦難を経験しているということだ。厳しい試練を乗り越えている人間ほど、演技力は幅を増し、そうしたことを突破してきたことへの手応えがある人間ほど、演じる事への自信が成り立つ――役者は、経験に後押しされて、成長していく生き物のはずなのだ。

 ますみは、由季子とのあいだに、何かしらの事件があって、それを乗り越えてきた女だ。それがあるからこそ、彼女は天性の魅力というやつを完全な形で演じることで引き出すことができ、なおかつ自分のものにしてしまえているという風には言えないか。

 彼女がそうならば、伸也についても同じように言えよう

 となれば、あの夫妻は、あるいは由季子の死を乗り越えてきたという経験が活きている、彼女を越えていったところに生きている夫婦だったということになってくる。

「そういう奥さんには、是非とも会って、自分の目でその魅力を確かめたいものですな」

「きっと、感動すると思いますわ。それは、保証しましょう」

 目を輝かせて言う彼女は、その瞬間だけ若やいで見えていた。

「感動ですか。……最近、そういうことで感動しなくなっているので、本当にそうなったら、おどろきという感情になるのかもしれません」

 芝村はあらためて礼を告げ、夫妻の家を辞去した。そして、その足で、和久のクリニックに向かう。ところが、龍崎はそこにはいなかった。

「彼は、呼び出しかわからんが、それを受けて、すぐに出ていったよ」

 診察中の手を休めて、和久が言った。診察中のホームレスと思しき男性が、奇異そうな目つきを芝村に寄越していた。

「あなたもすぐ追った方がいい」と、彼は立ち上がって言った。「あなたのことだ、きっと何も言わなくとも、あてがあるはずだろうよ」

「和久先生、失礼します!」

 芝村は外に飛び出した。すぐさま、龍崎の携帯に掛けた。彼はすぐに出た。青峰の紹介により、跡部のことを知っているとするホームレスの元まで訪ねた。その男からの口述でもって、跡部がどこで生活しているか、いましがた判明したところだった。その場所は、荒川河川敷から、そう遠くない場所だった。

「合流するぞ、いいな」

「分かりました、すぐさま駆けつけます」

「まず、相手してくれた、お方にお礼を差し上げろ。そして、名刺を渡しておけ。君がそこを発つのは、それからだ。いいな?」

 芝村はタクシーを使って、最寄りの場所まで移動した。それからは、足での探索となった。行きすぎて、何度も荒川河川敷までぶつかることがつづいた。忘れられたように梅の木が二本立ち並ぶ、細い路地裏につながる土手の下だった。そこに、小型のテントハウスが建てられていた。立地的に、ぴったりのはずだった。

「跡部さんですか」と、芝村はテントの入口に呼び掛けた。「跡部さん、いらっしゃいましたら、でていただけませんか?」

 チャックが開かれ、入口からやせこけた老人がのそりと顔を出す。小柄な男で、気難しそうに引き結ばれた口は、かつてそこに彼の威厳が湛えられていたはずだった。いまは、みじめに成り下がって、不規則な皺ばかりで覆われている。

「なんだ、あんたは?」

 彼は、じっと芝村を見ていた。

「跡部晋作さんですね?」

「捨てた名前だよ、それは」

 と、彼はぶっきらぼうに言った。

 垂れ下がった幕の奥手からは、彼の生活空間が露わになっている。必要最低限度の生活ができる様式が整っていた。スピーカーの大きな、古いラジオ。映り具合の悪そうな、壊れたテレビ。これらは拾ってきたものだろう。カセットコンロをはじめとする、調理器具の充実はもちろん、簡易なガスボンベまで揃っていた。食器、箸もしっかりある。冷蔵庫の代わりらしく、すぐ近くの段ボールには買いためられた野菜が詰められていた。

「――ですが、元持っていた名前には間違いありませんね」

「確かに、そういう時期もあった……」彼の目は自らを卑下するように、冷たい色ばかりがあった。「もう、二十……何年も前の話だ」

「そんなに古くはないですよ」と、芝村は屈み込んで言った。「わずかに十五年ほど前の話です。それに、あなたはまだ、この名前を捨ててはいないはずです」

 彼は顔を上げて芝村を見た。

 疲れ果てたような彼のその顔を見つめて、芝村は微笑みかける。

「そう、和久先生。あなたは、彼のクリニックで、自分の本名を使っている。それは、つい最近もそうだ。それならば、普段仲間とやり取りする際も、自分の本名を使っているということになりましょう。あなたは、結局、自分の名前を捨てられていないんです。捨てたのは、まあ戸籍ぐらいなものでしょうか」

「戸籍……」と、つぶやいて彼は眉間に病的な皺を刻んだ。「たしかに、それは手放したよ」

「それについて、窺いたかったのです。……お聞かせ願えませんか?」

「戸籍を買い取ったやつが、なにかやらかしたのか?」

「やらかしたのではなく、買った時点で、すでに何かあったというパターンですね。戸籍を売る際に接触してきたのは、この男ですね?」

 芝村は津路伸也のポートレートを取りだして彼に示した。

「思いだせんな」と、彼は写真を見つめつつ言った。「このような男だったのかもしれんし、そうでなかったのかもしれん。だいいち、あの時の俺は、もう心が滅茶苦茶になっていたからな。はやく金を得て、どこかに逃げてしまいたかった。そういう気分だったんだ。相手が誰だったかなんて、特にどうでもいいことだった」

「接触は、どのように?」

「ネットで、だよ。当時は、そういうのを使っていたんだ」

「戸籍情報は、いくらで売れました?」

「三十万くらいか?」

 彼は考えて言った。

「相場よりも高めですね」と、芝村は言った。「なにか、条件を付けるというようなことはしたのでしょうか?」

「それはない。金さえ渡してくれれば、それでよかった」

「それでは、彼から何か求められたというようなことは?」

 芝村は用済みになった写真を懐に戻して言った。

「求められるというのは?」

「あなた自身のことについて、なにか訊かれたとか、そういうことがあったりしたのではないか、と」

「そういえば」と、彼は顔を横向けて言った。「これから、どうするのか、というようなことをしつこく訊かれたような記憶がある」

「あなたはなんと答えたのです?」

「とりあえず、生まれ変わってやると、野心をぶつけただけだよ。もっとも、そういうのは口先だけの抗いというやつで、けっきょく何一つ実現するようなことはなかったんだがな」

「その野心について、詳しくお願いできますか?」

「あんた、妙なことを気にするな」と、彼は不機嫌になって言った。「実現しなかった野心なんだから、聞き出すだけ野暮というものだろう?」

「……暖炉と煙突が設けられた北欧ハウスです。バルコニーに、ウッドデッキ付きの庭。そして、中に入ったらまず目につくのは、安楽椅子です。数々の宗教風のタペストリーに、それに準じる絵画類……、蔦模様の壁紙に、ちょっとした音楽が楽しめる小さなオルガン、あるいは手風琴がおかれてある風景……。照明は、ランプ風のシャンデリアでしょうか。いえ、寝台の傍には、それが洗面道具とともに、直截載せられているのでしょう。十九世紀初頭のヨーロッパ仕様の、古風な生活様式です」

「あんた……」

 彼は何かをつぶやき掛けたが、結局、何も言わなかった。

「奥さんがいて、その彼女の趣味は、パッチワークか、スクラップブック造り。あるいは、花壇作りでしょうか? 料理も得意で、その得意な分野は、北欧方式のそれです。ポテトとベーコンをふんだんに使う、スープなどを作るのです」

「いや……、俺には妻はいない。結婚なんてしなかったんだ。生涯、ただの一度も……」

「あなたが戸籍を売った相手はですね、あなたの名義で何回か、結婚離婚を繰り返しています」

「そうか……、そういうことだってあろうよ。関係ないことだ。俺には、関係ない。持ち主の自由だよ、それは」

「その人物が、あなたの野心を体現するように、生きていたとしてもですか?」と、芝村は彼の目を見つめつつ言った。「彼らは、不思議な二重生活というやつをしています。その片方は、あなたの希望を叶えるような、そんな生活振りなのです。裕福というまでではないでしょうが、欲がない分、まあ、満ち足りた生活ができているといったところでしょう。そうした生活は、彼らの本心を抑圧する、というようなそんな徹底されたものなのです」

「そうすることの意味が分からん……」と、彼は首を振りながら言った。「なぜ、という感じだよ。それが維持されていたとしても、俺は、何も嬉しくはないぞ。いま俺の手元に転がり込んできたところで、それはそれで困る」

「あなたへの敬意というべきなのではないでしょうか」と、芝村は言った。「彼らはどうしても戸籍が必要だった。他人のこれを取得するのは、悪だ。だから、その行為自体を肯定するようなことはどんなことがあってもしてはならない。しかしながら、それを最小限に抑える方法は、あったのです。彼らがしてきた、そうした旧来の方法に倣った生活です。彼らはストイックなまでに、これを守りつづけてきた――言ってみれば、生きながら、あなたの野心にみる、なり代わりを演じ続けてきたのです。先に述べた、旧式の生活スタイルは、あなたの野心そのものを体現するもの、ということでよろしいですね?」

「たぶん、ただしい……」と、洩らした彼の口調は消え入りそうに弱かった。「そういう生活を希望していた。当時は、だ。しかしながら、その男に、具体的な内容を語るようなことはしなかったはずだ。それなのに……」

「イメージだけで、十分だったのでしょう」と、芝村は言った。「彼らの目的は、もう一つ取得していた戸籍にこそあったわけですから、そちらがすべてであって、あなたの野心にみる希望は、あくまでも、成りすますことの参考になったというのに過ぎません。もともと、あなたには妻がいないわけですから、結婚していたなりすます側のほうにとって、あなたの人生はモデルケースには相応しくはなかったはずなのです」

「とにかく、そいつはなにをやらかしたんだよ」と、彼は急に顔つきを変えて言った。「また、この俺の生活が脅かされようとしているんだから、いい迷惑だ」

「あなたに危害を加えるつもりなどは、彼らにはありませんよ」と、芝村は口調を変えずに言った。「そして、私もあなたに対して、責めるつもりで来たのではありません。情報を確認にきたというだけのことです」

 一旦、落ち着いたものの、彼の苛立ちの気配はまだつづいていた。

「この先、その彼らに、私は挑んでいくことになります」と、芝村は真っ直ぐに言った。「そうなると、戸籍謄本不正取得や、偽造有印私文書行使などの罪で、彼らは買い取った戸籍について剥奪され、そうしたことは白紙にされることになりましょう。その際、あなたの戸籍は、存在したまま、空中に投げ出されることになるわけです」

「知らんわ」と、彼はふてくされるように言った。「そんなもの、俺に関係ない。俺は、もう、自分を捨てたんだよ。同じような事を言わせるな」

「生活に戻れるチャンスを不意にするのですか? このまま逃げ回って、幽霊人口をつづけるというのです? あなたの戸籍を取り戻すのは、簡単です。滞納している保険料も、住民票を移動させなかったということの科料も支払う必要はありません。成りすましていた人物が、これを過不足なく維持していたわけですから、結婚していたことだって、一度抹消されて、返ってくるのだと思われますから、身分証ひとつあれば、あるいは、最後に登録した役所から住民票の記録を引き出すことができ、当時の生活を取り返すことができましょう」

「元の生活は、希望しない」と、彼は目をうつろにさせて言った。「この生活のままでいいんだ。もう、戻るつもりはない」

「いずれにせよ、あなたを求めて、警察は動くでしょう。そうなれば、このままではいられなくなるはずです。戸籍情報を売ったことの罪だって、事情を説明しなければいけない。そして、軽いながらも処罰を受けなければいけない」

「余計なことをしやがって……!」

 虚空に向けた怒気は、津路夫妻へのものだったはずだ。

「聞きなさい」と、芝村は彼の肩を押さえて言う。「このような生活を続けても、あなたには何の得もありません。復帰できる機会があるならば、そうしたほうがいい。このままでは、健康を害し、そのままのたれ死んでしまう恐れがあります。担当医の和久先生からも、厳しい健康状態であるということを、聞かされています」

「行ってくれ」

 彼は身体を横向けて言った。

 芝村は彼を見守っていた。その時、遅れて、龍崎がやってきた。息を切らしているが、それはあくまで小さな程度だった。普段十キロは当たり前にジョギングしている男だ。都内のどこから走ってきても、彼にとってはちょっとした運動といった程度でしかない。

「行ってくれ」

 と、また跡部から言われた。

 芝村は立ち上がった。

「いいんですか、後悔はないんですか?」

「ない」

 芝村は身を引いた。離れても、彼の不機嫌なありさまはつづいていた。龍崎を見ると、彼は肩をすくめ、困ったような顔を見せた。

 その場所を離れ、二人して河川敷沿いの道を歩いた。跡部とのやり取りをなんとなく話していた。

「なぜ、復活する気はないのでしょう?」

 すべてを把握した龍崎が、風を受けながら言った。

「仮に、取り返しても、生活能力がないから、同じことになるのだと思っているのだろう。彼の年齢は、そっちの世界での寿命ラインに近づいていることも、意識しているはずだ」

「もう、引き返せないというわけですか?」

「本人にその気がないのだから、どうにもならない」と、言って芝村は龍崎を見た。「君は、彼を説得する意思があるのかどうか?」

「それが、新しい仕事ですか? ……かなり、手を焼きそうですが、しかしこれを請け負ってこそ、自分というものです」

「やってくれるのか?」

 彼はにっと微笑んだ。

「つい先日の仕事で、ちょっとしたことを悟ったばかりですよ。この勢いで、彼の中にも希望を植えつけさせてあげたいと思います」

 彼はテントに向かって走っていった。ひとつのことの成功を受けて、勢いづくあまりに前向きになれているらしかった。

 失敗するはずがないと強く信じた者は強い。自分を信じているからだ。だが、熱意だけではどうにもならないことだってたくさんある。彼は、跡部を説得できるのだろうか。

 テントの中の彼に訴える龍崎の模様をしばらく見た。それから、芝村は青峰に電話を繋げた。成果報告と、礼を告げるためだった。

 

     3

 

 闇に染まる、白ペイントのその屋敷は、ひたすら沈黙のありさまでいた。増築された箇所の格子枠の光が、身を刺すように鋭かった。裏手の林から伸びる影が屋根に掛かって、揺れていた。また、備え付けのしっかりしていない旧舎の窓が、映す光をぶるぶる震わせていた。

 深夜の一時手前、芝村は津路邸の前にロードスターを停め、その外観をじっと眺めていた。十分もそうしていると、不意に門灯が点った。

 フリルを大振りにあしらったネグリジェ姿の由季子が軽やかな足取りで駆けてくる姿があった。芝村はロードスターを降りた。

「どうなさったの、こんな時間に?」

「どうもこうもないですよ」と、芝村は肩をすくめて言った。「近くを通りかかったのでよってみただけです。すっかり寝ていらっしゃるのかと思ったんですがね。まさか、起きていて、さらには、ここまでやってくるとは」

「今日は、あの人がいない日なのよ」と、彼女はふくらんだ横髪を押さえて言った。「だから、寝付きが悪いの。まさにうなされていたところを、あなたがやってくるじゃない。最高のタイミングよ!あなたって、最高に気が利く人なのね? 千里眼をもっていて、わたしのすべてを見通し、包んでくれるような、そんな人なのね?」

 伸也がここにいないのは、いまから一日前の夜、いつものように彫刻制作に出ようとした倉橋が出掛けに、彼の車を見かけたことの報告を受けて分かっていた。こういう一人になる日が、彼女にはあるようだった。

「旦那さんは、どこに?」

「飲みの誘いでしょ?」と、彼女はうんざりしたように言った。「そういう仲間がいるの。わたしにきつくいわれるものだから、こういう時間に、こっそり出て行くのよ。まるで逢い引きみたいでしょ?実際、そうだったら許せないことこの上ないんだけど、でも、私はあの人のことを信じているから、気づかない振りをしてあげているの。ねえ、優しい奥さんでしょ?」

「本当に、逢い引きだったら、あなたは優しい妻なんてどころじゃありませんよ」と、芝村は言った。「逆に、うんと悪い評価がつくことになる。こういうことは、やはり早い内にやめてもらう方が得策でしょう」

「だったら、どうすればいいの?」

「彼に直截、言うしかないですね。もしくは、彼と同じようなことをあなたもして、彼を苦しめるというやり方もある」

「それって、名案ね」と、彼女はぱっと明るさを満たして言った。「ちょうどいいじゃない。ロードスターがあるわけだし。わたしを乗せなさいよ、それに。彼に思い知ってもらうの、わたしを放置していくとどういうことになるか、を」

「奥さん、本気で言っていらっしゃる?」

「もちろんよ」と、言って彼女は肩をすくめた。「冗談で言うはずがないじゃない。あまり大きく言っていないように聞こえるかもしれないけれど、彼の夜遊び癖は、深刻なの。わたしが寝るのが早い時を待ってましたとばかりに、出かけていく……もう、三年はつづいているわ。いい加減、直してもらわないと困るの」

 彼女は助手席のドアコックを引いた。ロックはかかっていなかったので、彼女はすぐさま乗った。一瞬はだけたネグリジェの裾を大胆に直すその仕草は、羞恥心の欠片もない女の手つきそのものだった。

「何しているの、連れていってくれないの? わたしの味方でいてくれないの?」

「その格好で、良かったのです、奥さん?」

「けっこうよ」と、彼女は言った。「これから行くところは、誰もいないところですもの。誰が気にして、注意するというのかしら?」

 芝村は運転席側に回って、ロードスターに乗った。イグニッションを捻って、エンジンを吹かした。すぐさま、車を発進させた。道なりに車を進める。彼女は、そのうち上機嫌に鼻歌を口ずさみだした。声は会話をはばむほど大きかった。

「奥さん、寒くはないんですか?」

 彼女は歌うのを差し止める。

「寒い? 何を言っているの? 暑苦しいぐらいよ。そう、あの人のいない日は、いつだって暑苦しいの。ばかみたいに火照っていて、目眩がするぐらいに、湿気にみちている。もう、何から何まで最悪の日よ」

「いま、そんな風には見えないんですがね?」

「だって、あなたの車に乗せてもらっているんですもの。いま、すっごく楽しんでいる、わたし!」

 そのうち、彼女は幌を解放して頂戴、と要求した。芝村は躊躇したが、しかし彼女の気分を損ねてはいけなかった。しかたなしに要求に従った。ルーフが取り払われると、彼女は開放的に腕を伸ばした。

「あー、爽快、爽快。最高に、気分がいいわ!」

 喜色一面の彼女には、まるで遠慮という文字が見当たらない。夢中で駆け抜けるように、生きている――そんな横も後ろも振り返らない、直球な具合が彼女にはあった。芝村は自分はそれに付き添う、ただの付き人のようなものだ、と思った。

「ねえ、このまま、夜街にいってもいいんじゃない?」

「どちらの?」

「隣町の」

「そこまではいけない」と、芝村は苦笑いで言った。「格好をみてみなさい。ちょっとしたドライブしかできない仕様だ」

「あなたの言うとおり、着替えていれば良かったのね? ううん、それをいわれても、そういう気分じゃなかったから、わたしは着替えることはしなかったはず」

 ネグリジェの裾を掴んで、綿布にあしらわれた、小花柄の模様を彼女はじっと見つめる。風に煽られても、それを押さえこむというようなことはしなかった。いかにも解放的で、扇情的でさえある、ありさまだ。芝村は動揺することなしに、その様を時たま見ていた。彼女も見られることを楽しんでいるかのように、その視線をしっかり見届けていた。

 何度も脇道にそれて暗い道を突き進んでいった後、芝村は彼女に持ち掛けた。

「どうです? 一つの山を、攻略してみませんか」

 突き当たり真っ直ぐ行くとY字路になっており、そこを右手を曲がると、トンネルを挟んだ山道に入る。以降伸びる一本道を突き進めば、さらに人気のない空間にロードスターは入り浸ることになる。

「いいわね」と、彼女は言った。「どうせ、暇ですもの。ずっとずっと、こうしていたい。あの人が自分で馬鹿をしていると、自覚してもらうためには、これは必要なことなんです」

「実は、彼のことを、すごく愛しているんですね?」

「それはそうよ。愛しているわ」と、彼女は艶めかしい顔をして言う。「でも、愛情っていいことばかりじゃないのよ。愛している分だけ、その反対側の、憎しむという感情も育てられてしまっているの……。わたしは、いつもこの二つに惑わされている。あの人のことを愛している分、憎んでもいるの」

「いまは、憎しみだけがあるっていうところですかね?」

「そうかもしれない。時折、バランスが崩れるのよ。愛しているのかどうかも分からなくなっちゃう。憎んでいるといえば、そうね。いまだけは、すごくきらい。会っても、いつも通りというわけにはいかないわね」

「気持ちが変わりやすい人だ」と、芝村は言った。「だが、そこが面白い。それは、あなたの魅力だ」

「そういえば、闘いのほう、どうなっているの?」と、彼女は訊いた。「全然、進行状況、見てないのよ」

「興味がなかったんですね、やっぱり」

「結果だけよ、気になるのは。具体的に成果がどうとか、そのようなことはどうでもいいの。作業自体は、すぐにでも止めてもらいたいことだから」

「結果は、まだですよ。いまも、闘っている……というような状況です。が、彼の方はどうもやる気がないようですね。完全に、こちら側の独壇場となっているといった具合ですよ」

 芝村は状況を、かいつまんで説明した。彼女は、失笑めいた笑いを湛えて、軽く仰け反った。

「何やっているか分からないから、ぜんぜん状況がわからなかったけれど、あの人、放棄しちゃっていたのね? まあ、その方が、わたしにとっては、いろいろと都合が良いけれども」

「彼について、なんですが」と、芝村は問いかける。「いつから、あのような趣味を持つようになったというのです? 彼自身は、こちらに来てから、そうしたことを始めたということを口にしていましたが、実はちがうと思うのです。……いえ、これは興味が持続していることの本当のところが知りたいというだけのことなんです」

「それだって、知らないわ」と、彼女は、突き放すように言う。「あの人に訊いてよ。本当に、何から何まで、わたしの知らない所で自分勝手なことばかりやっている人なんだから」

「私は、こう思うんです。おそらく、あなたと出会うその前からつづけられていることなのではないか、と」

 と、芝村は彼女の顔を確かめつつ言った。

「そうなのかしら?」と、彼女は気のない風に言った。「だとしたら、わたしって鈍感ね。あの人のいやな習性をすべて把握しておくべきだったのよ」

「出会った時のことは覚えていますか?」

「やめてよ」と、彼女は打ち消すように言った。「あの人のことで苛立っているのに、あの人の話ばかり……つらいわ」

「それは、すいません。……やめましょう」

 芝村はしばらく、無言を貫いた。彼女が上機嫌になるまで、お愛想をつづけた。すると、三十分後には鼻歌が復活した。たんなるお調子者のそれではない。自分の世界を作り、そこに取り込んでいこうとするような、そんな大胆で、派手派手しいものだ。結局、扇情的な気配だけ振る舞わせて、芝村に隙を与えなかった。

 屋敷前に返ってくる頃には、二時半を過ぎていた。

「楽しかったわ。付き合ってくれて、ありがとう」と、彼女は屈託なく言った。「このままだと窒息死していた。あなたは命の恩人よ」

「結局、旦那さん、帰ってこなかったですね?」

「いいのよ、あの人は。どうせ、どこぞに停まってくるんでしょ。たまにそういう日もあるのよ」と、彼女はいかにも不満そうな顔つきで言った。それからところ変わって、ぱっと明るい顔を見せた。

「逆に、チャンスだと思いなさいよ。明日いっぱい、わたしを自由にできるのよ。……ねえ、また明日も来てくれないかしら? その時は、ちゃんと着替えていくから」

「いいんですか?」と、芝村は努めて笑顔で応えた。「奥さんの方から、そんな誘いかけをしちゃって」

「今日のこれでは、懲らしめられなかったんですもの。これは、あの人が気づくまで……そして思い知るまでつづけられることなの。

それとも、気が乗らないのかしら?」

「私は一日中暇ですよ」と、芝村は言った。「いつでもお迎えに上がります」

「あなたって良い人ね」彼女は頬に接吻をしてきた。「約束よ。絶対きてちょうだいね」

 彼女を屋敷内に戻っていくのを見届けてから、芝村は車を出した。接吻は、挨拶という程度にとどまらない、大胆なものだった。彼女の唇は熱がこもっていて、肉厚だった。一度受ければ、またそうしてもらいたいという、淡い希望と快感を無条件に植えつけるものだ。芝村も、実質それは得られていた。彼女の歪みつつある愛情は、自分の元に引き寄せようと思えば、それは今ならば、簡単にできてしまうのかもしれなかった。

 

 ロードスターを自宅前まで転がしたところで、足場に腰掛けている倉橋を見た。背中を丸めたあり様で、のんびりと過ごしている。

「おや、いまお帰りですか?」

 気付いた彼が振り返って言った。手には、自前の握り飯がにぎられている。

「ちょっとした、アバンチュールですよ。これで終わりではなく、明日も同じように出て行くことになります」

「うらやましいものです」と、彼は呑気な風情で言った。「でも、まあ僕のほうもアバンチュールですよ。相手は、終始むっつりしているこいつですが」

 ブロックは、半分が削り出されたというまでに進んでいた。ここ数日、彼は休む暇を押して、打ち込んだようだった。足場のビニール袋には、崩された御影石のクズに押し潰される形で、空になった栄養ドリンクが数本入っているのが見える。ケース買いのようで、空きパックが二つ折り重なっていた。

 芝村はロードスターを近場に停め、彼に寄った。

「無理はいけないですな、倉橋さん」

「なんとなく、良いものができそうな予感がしてね、最近、興奮がために、睡眠の質が落ちているんですよ。でも、まあこれは自分にとって良い兆候か、と。これまでが、無気力で単調な日々でしたからね。この時間は、これからの自分にとって英気にもなるはずなんです。多少の無理があったところで、どうということはありませんな」

 彼は一旦、足場から降りて、芝村のところまでやってきた。振り返り、また制作途中のブロックを俯瞰する。

「残念なことが一つ。昼間は、こいつの姿を見ることができないことです」

「それなら、明日見に来ればいい」と、芝村は言った。「例の男は、いまも遠くに出たきりのままです。どうやら、明日も帰ってこないようです。ですから、問題ないです」

「よろしいんですか?」と、彼は芝村の顔色を窺いつつ言う。「それが原因ですべてが台無し……ということになったら、僕も困りますよ」

「いま、私らの仕事は佳境に入っています」と、芝村は作品を眺めつつ言った。「ですから、ばれてももう特に問題ないのです。仮にそれをやらかしても、取りつくろう策を実行すればなんとかなるはずです。それとも、そのまま終止符を打ってやってもいい」

「彼らは、いま……」

 意味を含んだ顔つきが彼から向けられる。芝村はうなずいた。

「追いつめられた鼠です。……しかし、比較的落ちついていますよ。夫婦間には緊迫した空気が流れていますが、それ以外は、いたっていつも通りといったところ」

「その夫婦間の緊迫というのは?」

 芝村は事情を話した。彼は、唸った。

「旦那は、本当に夜街に出ていったというのです?」

「たぶん、ずっと遠いところなんでしょう」と、芝村は言った。「明日も帰ってこないあたり、泊まり掛けは当たり前の、何時間も掛けて行くような、そんな場所ですよ。もしかしたら、かなりの長期滞在になるというような、そんな出張なのかもしれない」

「向こうで、何をしているのです?」

「だいたい察しはつきますよ」と、芝村は目に力をこめた。「向こうでやらなければいけないもろもろの手続きを更新しているのでしょう。人の生活が成り立ちうるには、わずらわしいことがたくさんあるんです」

「ともかく、夜街に出ているというわけではないのなら、奥さんを連れ出すのはよした方が良いのかもしれませんね」

「いいえ、約束してしまったんですよ、彼女と」

「途中で帰ってきたらどうするのです、旦那の方が?」と、彼は非難を込めて言った。「まず、彼の怒りを買うだけでは済まない事態になりますぞ」

「すでに、公認済みですから」

「彼の?」

「ええ」

「なんて、夫妻だ」彼は言って脱力したように、肩を下げた。「ちょっと、考えが及びませんね」

「ですから、手を焼いているわけですよ、こっちは。あるいは、帰ってきた彼と鉢合わせしても、特に問題は起きないのかもしれません」

「お願いですから、試すようなことは、よしてくださいよ」

「何があったところで、あなたについての依頼は取り下げませんから、ご安心を」と、芝村は微笑みかけて言った。「制作中のこれは、町の財産になりそうですから、最後まで仕上げられるべきなんです」

 芝村はロッジに向かった。

「待って下さいよ」

 と、彼が引き留めに掛かった。

 振り返ると、彼の姿が逆光に浮かび上がっていた。

「明日行くのは、よした方が良い」

「なぜです? そういう予感がするんですか?」

「そういうのはないです」と、彼は首を一度捻って言った。「仮にあったとしても、霊感のようなものがあるわけではないので、それは取るに足りないものでしかない。……しかし、よした方が良い」

「あの夫妻を試したいんですよ」と、芝村は前を見て、言った。「どこまで彼らは本気なのか、知りたいのです。アバンチュールはきっと、高い確率で結実します。私が彼女を手にしたところで、なんら意味はなさないでしょう。そこから先にいった、破滅の道はこれはどうでしょう? そうなると分かっていて、彼らはこれを放置するのでしょうか?」

「くだらないことですよ」と、彼はきびしく言った。「そんなことを試すぐらいだったら、もっと別のやり方を選ぶべきです」

「倉橋さん」と、芝村は呼び掛ける。「あなたは、あなたの仕事を果たせばいいのです。余計なことを考える必要はないはずです。何も考えずに、ただ、一つのところに向かって行って下さい」

「このままでは、心が落ち着かないですね」と、彼は言った。「仕事を果たせない状況ですよ、これは。これからの予定も白紙にしなければいけません。それほどのことです」

 芝村は息をついてから、彼と向き合った。

「ならば、お聞きしたい」と、芝村は言った。「この時間に、津路の奥さんは起きていましたよ。私が、屋敷まで出て行って、起こしたのではありません。彼女は自分で出てきたのです。これは、どういうことなのでしょう?」

「だからといって、あなたを待っていたというのは、これはちと穿ちすぎというものですぞ」と、彼はほとんどたしなめる口調で言った。「深夜遅くに起きていて、なおかつ、自分の意思で出てきたというのは、たしかにちょっとおかしな話ですが、それにしても何かしらの思惑があったというのは、あり得ないはずです。すべては、ちょっとした因果が働いたという結果に過ぎないのです」

「私は、こう思うのです」と、芝村は言った。「本来ならば、まさに今日、伸也が帰ってくる予定だったのではないか、と。だから、待っていたわけです、あの場所で、ずっと。帰ってきたらすぐ駆けつけるというぐらいの、気持ちで待機していたというわけです」

「だったら、すぐさま、出会ったあなたと出かけたことの意味がわかりませんね? きまぐれというやつですか、これは?」

「伸也が帰ってくるところと、鉢合わせしてはならない。だから、管理しなければいけない。そういうつもりだったのでしょう。今日、私が進んだ道は、街道に向かう道とは別のものです。山道です。そればかり選んでも彼女は何も文句は言わない。むしろ、歓迎というか、安心の顔をみせていました。だから、問うたのです。大きく道をそれていく選択として、山を攻略させてもらえないか、と? そうすると、快い反応をいただきました」

「ならば、明日も会う約束をするというのは、これはどういうことなのです?」

「伸也は長距離移動ですよ。ですから、帰ってくるなと、彼女から事前に連絡を受けていればですね、長い旅をもう一度引き返さなければいけなくなるわけです。どこかに泊まってもいい。しかしながら、夫妻にとっては、そういうのは好まない選択だ。行き来しているのは、ともに自分の家なのだから、どうしてあいだを取って、別のところに泊まらなければいけないのか。そういう感情になるわけですよ。ですから、他所のところに泊まりはない。つまり、とんぼ返りになります。それで、休んで欲しいとなるのは、彼女なりの彼へのせめてもの配慮でしょう」

「引き延ばし作戦ですか、なるほど」と、彼は唸った。「しかし、そこに付け入ろうというあなたの作戦はやはり同調しがたいものがある」

「手は出しませんよ」と、芝村は軽く目を瞑って言った。「相手が、乗ってこない限りは。そして、乗せてこない限りには。そういうのは、望んでいませんからね。私にとって、美人というのは、見ているだけで満足できるものなのです。手に入れたいというのは、これはちがう」

「なるほど、それだけ聞ければ、十分です」と、彼は言った。「あとは、あなたたち次第というものでしょう。忠告としては、挑発するようなことは、よしてやって下さい、と言っておきたい。差し出がましい一言でしょうが」

「どうなるかは、私も分からないですよ」と、芝村は二三歩進んで言った。「なにぶん、相手は本当に掴めない人たちですからねえ。そういうガイドブックがあれば、利用するんですが、なにぶんそういうのはない。すべては自分の判断によらなければいけない」

 最後に芝村は振り返った。

「相手に手に掛けられ、罠に嵌められるようなことがあっても、後悔はありません」

「芝村くん……」

 彼は言葉を失ったきり、しばらく茫然とした。

「何かが起こっても特に動じる必要はありません。倉橋さん、あなたはいつものように、生活を続けて下さい。面倒な手続きをしなければいけなくなるおそれがありますが、制作の方は、完成させられることを希望しますよ」

「それは、必ず、やりますよ」

「私も、やります。お互い、成果を出しましょうか。と、ここからは、お互い、ノータッチでいきましょう」

「分かりました」

 彼はうなずき、それから足場組みの下にあった、水筒を手に取った。キャップを開け放ち、そこに液を注ぐ。

「これを」

「お酒は、呑めませんよ。明日も運転があるのですから」

「水です」と、彼は言った。「ここらの、湧き水から汲んできたものです。まだ、飲んでいなかったでしょう?」

「そういえば、おいしい水があると言っていましたね。すっかり、忘れていました。大事なことですよ、これは。……いただきましょう」

 芝村は受け取って、水を口に含んだ。きりきり氷の鳴る、湧き水は身体を芯から満たしてくれる、なんにも代え難い清涼があった。一気に飲み干した後、思わず長い息が洩れた。

「これは、いいものですね」

 水を切ってから容器を返した。

「せっかく、長野にいるんですから、満喫してもらいたいと思っていたんですがね、どうも、そうはいかなくなってきたようで。この土地は、本当に愛すべき土地です。あちこち放浪生活をしていた僕がいうのですから、少しは信用してもらっても良いはずでしょう」

「無条件で、信じますよ。というより、ここが良い土地というのは、もうすでに肌で感じて分かっていることです」

 芝村は勢いよく呵々と笑った。

 彼はその様を、茫然と見ていた。

「なんだか、最初に出会った時と比べて、僕たちの立場が入れ替わったようですな。その笑いは、元々僕のものだったはずですよ」

「もしや、私の気の小ささが、移ってしまわれたか?」

「移るも何も、あなたは気が小さい人ではないでしょう。度量の広さは、すでに感じていました。目的があって、こちらに来たことは分かっていたわけなのですが、それにしても目が離せない人ですよ、あなたは。困難があっても、僕は相談の対象ではない。どうぞ、突き進んで下さい、としか言いようがないぐらいです」

「私は、常に後悔したくないんですよ」と、芝村はまだ涼の残る、口許を拭った。「いつも、それだけを頭に動いています。明日死ぬか分からない。そういう、職業です。はっきり言って、向いてないのかもしれませんね、気質的に。しかし、やりたいという意気は、押さえられないのです。だから、無理を押して、一日一日、精一杯やることで、なんとか乗り越えられています。だもんですから、明日、この命が尽きようとも、さしたることではないのです」

「むいていなかったんですか」と、言って彼は失笑した。「まあ、僕もいまの職業について言えば、向いていませんわな。実際、食いはぐれてきたわけですし……人のことは言えない。芝村くんには、人を扱う武器があるのかもしれんが、僕にはまるでない。救いがないですな」

 彼は呵々と笑った。自分でも思っていなかった笑いだったらしく、吐き出し終えてから、あれ、と言った。

「どうやら、元の調子を取り戻せたみたいだ」

「それは、良かったですね。これから、がんがんできるということで、いいですね?」

「もちろん、やりますよ」彼はまた水筒のキャップを捻った。「どうせなら、もう一杯、いきましょうよ」

「私が注ぎます」

 と、芝村は水筒を取り上げて、入れ物に注いだ。ステンレスでこしらえられたそれは、持ち直さなければいけない程に重みがあった。荒々しく氷がぶつかる音が、底で鳴っている。注いだ分を彼が豪快に飲み干すと、芝村は入れ替わりに注いでもらって飲み干した。

「力水ですじゃ!」

 と、彼は豪快に言った。

「なるほど、力水……そうですよ、力水です。私は、いま、活力が得られていますね」

「これで、何があっても、いきおいよく飛び込んでいける。せめて、しくじらないことですな。別れ水になる、というようなことだけは避けたいもんです」

 芝村がうなずくと、彼は足場組みにもどって、またノミ入れを再開した。打つ加減が間違ったかのように、激しかった。

「倉橋さん、さすがに、それは破壊ではありませんか?」

「あなたが言われたはずですぞ」と、彼は作業を続けながら言った。「お互いノータッチなのだ、と。健闘を祈っております。ですから、僕のほうも、勝手にやらせて下さいな。僕も、後悔をするようなことだけは、したくないんです」

 芝村は返事を口にしなかった。時折、身じろぎすることで見える、彼の厳しい顔つきを眺めやった。イメージしたことの形を歪みなく引き出す、容赦と妥協のない面相だった。鬼面のような、気魄すらある。彼はこの瞬間、職人になった。なにごとにも心を囚われない、まっすぐに作品制作に明け暮れる、彫刻技師。いま、無心にひたる彼の心には、創作の宇宙だけが拡がっている。

 自分も、彼につづかなければいけない。

 後悔は絶対にしてはならないのだ。とはいえ、やはり相手はあの津路夫妻なのだ。予測が読めない恐ろしさが目の前にある。

 慎重にやるというだけでは、足を踏み外すことだろう。ある程度、感情を緩くして、緊張とは無縁な精神を取り入れなければいけない。のみならず、万事に対応できる、あらゆる柔軟な要素を総動員させる必要がある。力水が、腹の底で熱を放っていた。これが、源となって芝村の精神を持ち堪えさせてくるようだった。

 

     4

 

 翌日の深夜、芝村はロードスターを駆り出した。

 由季子は約束どおり、屋敷前で待っていた。赤いタイトスカートに、ノースリーブの襟フリルの、ブラウス。手首には、トルコ石のはまった、リングが装着されている。化粧は薄目だが、目許はくっきりとしていた。チークも叩かれている。

「きてくれたのね?」と、彼女は下げたウィンドウをのぞいて言った。「待っていたわ。待ちきれないから、ここでふらふら踊っていたの。あと一時間……ううん、三十分遅れていたら、踊り疲れて、ここで倒れてた」

「いったい、何時間前から待ってたんです?」

 芝村はドアロックを解除しつつ問うた。彼女はドアを開けて、まずハンドバッグをシートに押し込んでから、自分も段階的に身体をすべり込ませていった。

「何時間かしら?」と、彼女はヘアアイロンの当てられた、髪を両手で掻き上げながら言った。「ざっと見つもって二時間前ぐらいかしら」

「二時間? いくらなんでも、気が早すぎませんかね?」

「とにかく、待ちきれなかったのよ」と、言って彼女は芝村に微笑みかける。「ほら、今日一日中、あの人がいないから暇じゃない?ずっと、苛々していたのよ。でも、今日の深夜の予定を考えると、そういう鬱屈したこと、ぽーんと飛んでいっちゃうのね。だから、その事だけを考えようってなって、そのうち、もう身支度開始しちゃっていたの」

「その調子でけっこうですよ」と、芝村はロードスターを出して、言った。「今日は、自分のことだけを考えればいいんです」

「わたしは元からそのつもりよ」と、彼女は、芝村の顔を艶めかしく見つめながら言った。「あなたはどれぐらい、わたしを退屈させないでいられるかしら? いい? わたしの心をとどめつづけるのは、これはあなたの仕事よ? とってもだいじな、だいじなあなたの仕事よ」

 彼女は手を伸ばして、片手で芝村の頬をするりと撫でた。塗ったばかりのマニキュアから薬品の臭いが漂った。芝村は、その爪先を見つめた。エナメル質な光沢のある、鮮やかな朱色だった。

「そういう色が好きなんですね? ただの赤ではなく、朱が掛かった、赤が」

「そうね」と、彼女は自分の爪先を見つめた。「花の色よ。わたしが意識しているのは、いつもそれ」

「そういえば、家中も花だらけだった。そのことを、忘れていましたよ。あなたは、花がすべてで生きているような、そんな人だった」と、芝村はしみじみと言った。「いつからそういう趣味を持つようになったのでしょうかね?」

「ずっと前よ」と、彼女は気のない風に言う。「あえて言うなら、生まれた時から、そう……。思い出せないぐらい前のことだから、そう応えるしかないの」

「それで部屋にたくさん満たすことで、あなたの心は維持されているのですね?」

「そうね、一日を生き抜くことって、本当はすごい労力が必要なのよ。そうしたエネルギーを蓄えるために、あの子たちに存在してもらっている。そして、あの子たちを毎日見かけるその度に、わたしの心はリセットされているのよ、きっと。浄化の力もあるってわけ。その他にも、たくさんのものがあの子たちにはつまっているわ」

 あの屋敷は、彼女そのものなのだ。だから、そこから彼女を引き剥がすことはできない。自らの意思で離れるようなことがあっても、彼女の精神はきっとそこにとどまりつづけるにちがいない。それぐらい、堅固なつながりが彼女と屋敷にはある。

 それが意味するところは、つまり、いま連れ出しているのは、津路由季子という女の一部にすぎず、彼女本体ではないということだ。

「これからも、それは増えていく?」

 芝村は訊ねた。彼女は、遠い目をしたままに微笑んだ。

「そうね、増えていく……ずっと。死ぬまで繰り返されるはずだわ、間違いなく。それがわたしの希望なの。止められない、心からの欲求なの。あと、十年ぐらい生きて、花だらけの世界になって、わたしはその中に包まれるようにして死んでいくの……」

「あと十年?」芝村は思わず、うわずった声を上げた。「短すぎませんか? 奥さん、あなたは、まだまだ若いお方だ。あと、四十年いえ、五十年は余裕で生きられる」

「そんなに長生きは希望しないわ」と、彼女は首を振りながら言った。「美しいままで死んでいきたいの。自分が思う、最高の姿でこの世を去れたら、最高だと思わない? 自分が萎んでいくような、そんな時間とつき合いながら、ただいたずらに生きていくだなんて、そんなの、わたしには耐えられない」

「皆、その時間というやつと一緒に生きているんですよ」と、芝村は言った。「そいつは、残酷な一面もありますが、公平という面では裁判官顔負けですよ。怖ろしいぐらいに、全員に平等に降りかかるものなのです。ですから、そいつを怨むようなことを考えるのは筋違いというものです。そうした時間と付き合っていたずらに生きていく……その選択で正解ですよ。案外、顔を眺めている時間が長いほど、自分の顔に衰えがあったところで、そんなことは気にならないものです。変化というのは分からないぐらいに、少しずつ起こっていくものなのです」

「あなたはいつまで生きるつもりなの?」と、彼女は手の甲をつまらなそうに撫でながら言う。「八十歳まで? 百歳まで? それとも……?」

「選べませんよ」と、芝村は笑って言った。「自分の寿命は、選択制ではないんです。いつかは死ぬんでしょうが、それがいつになるのか……。まあ、明日、明後日どうにかなってもおかしくはないんですがね。……希望としては、あと一週間は生き延びたいですね」

「一週間?」彼女は笑い出した。「あなた、面白い人ね。セミとか、カゲロウじゃないんですから。……でも、なんで一週間なのかしら?」

「やり残したことを、ちょうどやり終えるのが、一週間ですよ」と、芝村は片方の肩を持ち上げて言った。「冷蔵庫の中に残したもの……言い残したこと……、たまった仕事……、読みさしの本……あと、部屋に残した見られては困るものも捨てなければいけない。それらをやり終えて、ちょうど一週間。そうじゃないですか?」

「やることが多くて困るわね」と、彼女は上機嫌のままに言った。「そういう、俗気にまみれた人、きらいじゃないわ。人間って、つまらないことの塊のようなものなのよ。だから、自分を偽っては、駄目。そうでしょ」

「それには、賛成ですよ。でも、見方を変えれば、偽ることも、つまらないことの一つじゃないですか?」と、芝村は言った。「なかなか、人は正直にはなれない生き物ですよ。すべてひっくるめて、ようやく味わいが出てくる。そんな具合じゃないでしょうか?」

「もしかして、わたしに説教してる?」

 彼女は芝村の顎に手を当てて、それから接吻をしてきた。化粧と、軽く振り掛けられた香水、石鹸のにおいがした。あと、人工香料とはちがった、彼女のフェロモンの混じった体臭と思われるにおいも香った。

「奥ゆかしい人ね。あなたのような人って、貴重よ。惜しいほどに、貴重よ。いい加減、この町に永住したらどうなの? そうしたら、わたし、ずっと退屈することなしに過ごせるようになるわ」

「永住は、まだ決めませんよ。勝負です。あなたの旦那と、進行中の勝負です。これに勝ったら、そうしたいと思います。名目上、あなたを自由にできるかどうかを賭けているわけですから、負けたその時には、身を引かなければいけない」

「そのことに、こだわる必要なんてないって、言っているじゃない?」彼女はそれから、諦めたように目を伏せた。「あなたは、どうしても勝ち負けにこだわるみたいね。わたしにとっては、下らないことなのかもしれないけれど、あなたにとっては重要なことなのね。たとえ、自分の首を絞めてでも、そういう約束ごとのルールを貫き通す……。男って、閉じ込められた価値観の箱から飛び出せないように、できている生き物なのね?」

 彼女の吐息が本物にならないうちに、隣町の夜街に入って、そのうちのバーに入った。彼女はカクテルをいくつか空けた後、ジン・リッキーをやけ飲みした。周囲が振り返るほどの乱暴さだった。アルコールに強い体質ではないらしく、すぐさまできあがった。

「あなたは、飲んでいる?」と、言ってから彼女は芝村が口を付けていたカットオレンジ付きのグラスを取り上げて、飲み干す。「なにこれ、ジュースじゃない。わたしを、からかっているの?」

「運転役ですよ、自分は」と、芝村は彼女を観察しながら言った。「だから、アルコールは口にはできない。そんなことは、分かっていたはずですよ」

「でも、あなたなら、車を捨ててでも、飲んでくれると信じていたわ。わたしのいまの気分を一番に大事にしてくれる人だって、そう思っていたわ。ちがうのね? 規則やルール、そして律義に守っても人生のなんの足しなどにはならない、常識の方が大事なのね?」

「当然ですよ」と、芝村は言った。「それらを守れる人間こそが、本当に人を愛することができる。これは、最低限度の条件ですよ」

 由季子はバーテンダーに、カクテルのおかわりを告げた。彼は由季子の顔色をうかがってから、芝村に目配せをよこしてきた。

「やってくれ」

 と、芝村は彼のいわんとすることを跳ね返して言った。

 壮年のバーテンダーはしぶしぶといった具合に、新しい注文を作った。ソーダにレモンジュースとリキュールくわえた、ピーチフィズだ。彼女はすぐさま、それに口をつけ、一分も経たないうちに、空にした。同じ注文をした後に、次は派生酒のファジー・ネーブルを頼んだ。それを最後のオーダーに、芝村は次の店に、彼女を連れこんだ。似たような間取りのバーだ。しかし、今度は最初の店よりも洒落ていて、店主のアロハ趣味がブラックライトという形で表れていた。

 そこでも彼女の横暴な振る舞いはつづいた。

 次々に、注文を空にしていくので、そう大きくないバーはほとんど彼女の独壇場となった。芝村はとくに、止めるつもりはなかった。彼女の自由に任せるつもりでいた。

「そこまでして、飲むことに意味があるのかどうか?」

 烏龍茶を口にしつつ、芝村は問う。

「あなたが考えていることが分かったいま、こうしないと面白くならないのよ」

「やっぱり、ロードスターを捨てろ、というのは本気だったんですね。でも、矛盾もあるんですよ。あれは、あなたが気に入った車でもあったはずなんだ」

「そんなことは、いまはどうでもいいことなの。あなたが、わたしをどう思っているか、それが一番大事なの」

「連れ出している以上、本気ですよ」

 芝村は静かに言った。彼女は、疑り深い目をよこしていた。

「どこがどう、本気なの?」

「態度で示さなければいけないというのは、悲しいことだ」と、芝村は彼女の目と向き合って言った。「私は自己表現がそう得意ではありません。だからこそ、いつも別の形で自分を形作って、それとなく周囲に自分はこうである、と伝えています。とても、効率の悪い自己表現ですよ。しかしながら、他に選択肢はないんですよ。そういうことしかできない自分に、直截的なことを要求されても、それは無理難題でしかない」

「あなたの中の本気をわたしに、察しろ、と言っているわけ?」

「奥さん、あなたの怒りを買うために言っているわけではありませんよ」と、芝村は一先ずなだめに掛かる。「これは、自分の取扱説明書なんです。やっかいなぐらいに、面倒くさい性格をしていて、自分でも持てあましているぐらいです。奥さんが、お怒りになる、あるいは苛立ちを感じられるというのは、無理もないこと。……私の中の本気は、しっかりとあります。たぶん、この心臓の中に、その熱は収まっています。それを感じていただくには、肌を合わせる形でしか、やりようがないですね」

「わたしは、最初からそのつもりできたわ」と、彼女はふてくされたような態で、タンブラーをちびりと舐める。「あなたの中の誠意を感じてから……と思ったけれど、抱かれることで同時に誠意を感じろというのは、なんだか、ひどく騙されているみたいで気分が悪いわ」

「ならば、屋敷に帰りましょうか?」

 彼女は黙った後、しゃっくりをしはじめた。

「そうして」

 会計を済ませてから、彼女に水を呑ませ、担ぎ込むように、ロードスターに乗せた。フロントライトが山道という闇を断ち切るだけの移動は、ただただ空疎なだけだった。ぐったりとしたように、身を弛緩させる由季子は、何を考えているのかよく分からなかった。

腐りかけた、倒木のようだった。ひどく不機嫌になっているということだけは確かだった。

 屋敷前に到着すると、ロードスターを駐めた。

「奥さん、つきましたよ」

「降りたくないわ」と、彼女は身じろぎもしないままに言った。「吐きそうなぐらいに、気分が悪いの」

 その瞬間、突飛に動いて、ドアを開け、胃袋の中身を草むらにぶちまけた。転げ落ちるように車から降り、ドアが閉じられた。

 芝村は回り込んで、四つんばいになっている彼女の元へと駆け寄った。

「奥さん、だいじょうぶですか?」

「そんなに、飲んでいないはずよ」

 彼女は口許を拭って、立ち上がろうとする。が、また吐き気が襲って、彼女は苦しそうな声を上げた。

「中まで送っていきますよ」

 と、芝村は彼女に肩を貸して、屋敷正門前まで連れこむ。彼女は拒否する力もないほどに弱りきっていた。鍵は、ハンドバッグの中にあった。芝村は彼女の承諾を請うてから取りだし、解錠した。手摺りつきの階段を渡って、いつかに見た、彼女の寝室に連れこむ。

 ベッドに転がすと、彼女は自分から仰向けになって、額に手を当てた。

「あっははははは……」

 特有の笑いが、誰もいない屋敷に響きわたる。闇の静けさが壁まで沁みたその空間では、狂気ともとれる笑いだった。

「奥さん」

 と、呼び掛けて近づくと、芝村は首に腕を巻き付かれて、ベッドに誘引された。彼女の上に四つんばいでのし掛かる形である。

「わたしったら、本当無様ね」と、彼女は自嘲いっぱいに言った。「今日は、存分に暴れてやるつもりだったのに、それができなくなって、最後にはなんだか訳が分からなくなって、吐いてた。みっともないわね。笑いなさいよ、このわたしを」

「奥さんは、素敵ですよ」と、芝村は真下にある彼女の顔を見つめつつ言った。「無様でも何でもありません。笑うなんてとんでもない。すべては、自分の不甲斐なさが招いたことですので、これは私の方が笑われるべきなんです」

「まったく、こんなときにも紳士道ってのが、発揮されるわけなのね?」と、彼女は芝村の頭から頬を滑らかに撫でながら言う。「かわいい人。そんなあなたに、ちょっと無理を言い過ぎてしまったみたい」

「自分が言ったこと、覚えているんです?」

「覚えているわ」と、彼女は微笑んで言う。「あなたが言ったことも、合わせて覚えている。どこにも欠けている部分はないわ。わたしは、しらふそのものだったはず。……肌を合わせれば、本気が分かってもらえると言ったことだって、覚えている。いま、あなたはそれを履行したいんでしょう? 試してみる? と言いたいのでしょう?」

「そのとおりです」と、芝村は言った。「熱は、心臓にこもっています。これを解放させることが許されたら、どんなにか幸せでしょう」

 芝村は一旦、上体を立てて、ジャケットを脱ぎ取った。

 もたついた分、彼女も起き上がって、ベッド下に足を付けた。

「気分が乗らないんです?」

「煙草が吸いたいのよ」と、彼女は言った。「あなた、持っていないかしら?」

「あいにく、そういうのは持っていないですね。奥さん、我慢してもらえませんか?」

「奥さんというのは、よしてよ」と、彼女は立ち上がって、髪を掻き上げた。「そろそろ、名前で呼んでちょうだい。由季子、と。この時だけは、そうしてもらわないと、やりにくくってかなわないわ」

 彼女は部屋を出て行った。煙草を取りに行ったのだろう。芝村はそのあいだ、脱いだジャケットを丁寧に畳んだ。それでも、待ち惚けがつづいた。彼女が現れる前に、紫煙の匂いが鼻を打った。

「ラークですか?」

 現れた彼女は、ナイトガウンを羽織っていた。開いた胸元は、裸である。下までどうかはさだかではなかったが、おそらく同じように何も穿いていない可能性が高かった。

「吸わないのに銘柄のほう、知っているのね?」と、彼女はベッドに腰掛けた。「それも、臭いだけで当てるだなんて、相当な人……」

「苦手だからこそ、すぐ覚えたんですよ。吸う人は吸う。ああ、この人はラークの人だなんて具合に、臭いと一緒に記憶するわけですよ」

「ふふふ」と、彼女は肩を揺らして笑った。「わたし、この瞬間、ラークの女になったのね? あなたが嫌いな人の中にとりこまれてしまった」

「ちょうどいいんじゃないですか?」と、芝村は言った。「あなたから旦那の臭いを消すには。これがあると、どうしても気になって仕方がないんですよ」

 彼女は自分の腕に鼻を寄せて、嗅いだ。

「とくに、気にならないけれど、あなたには感じる臭いがあるってわけね?」

「ええ、もう、そりゃ、たっぷり感じますよ。あなたは、しっかり彼の女房ですよ。身も心もささげた、貞淑な妻ですよ。そういう思いに応えた、彼の臭いが染み付いています。……本当は、抱かれるつもりなんて、ありませんよね?」

 彼女は横咥えで、二三度、煙草をふかした。

「何が言いたいのかしら?」

「たとえ、セックスがあったとしても、あなたは私に気持を許すようなことはない。つまり、以降は感情を殺したあなたが、私の前に存在しているというのにすぎない。私はそれを操って、いじって、自分の性欲を処理する……たったそれだけの行為を終えるということに過ぎない」

「それで、いいんじゃないの?」と、彼女はポケットサイズの吸い殻入れに吸いさしをねじ込んで言った。「お互い、遊びだって分かっているんだから、欲求不満さえ解消すればそれでいいはずよ」

「肌を合わせることで、私の本気は発揮されると言いましたよ。つまり、寝ることは、遊びではないということです。あなたの心を、しっかりと捕まえ、それで、あなたの心と一緒にあなたを抱かなければいけない。そうでなければ、抱くことに意味なんかはないですね。ロードスターを捨ててこいと、おっしゃるぐらいだ。あなたは、安い女ではないのです。ここで、急に安くなるようなことはするべきではないでしょう。この気の変わり様は、なんです? ご自分で説明できますか?」

 彼女は立ち上がった。居残った紫煙が彼女の胸元に絡みつく。一度手で払うと、逃げ去るように離れていった。

「実は、そちらでもお堅い男でしたんですね」と、彼女は抑揚なしに言った。「つまらない人です。ここにいる意味は、ないですわ。……お帰り願えます?」

「ご説明下さいよ」と、芝村も立ち上がって言った。「あなたの心が、ここ一時間、二時間という短い時間の中で変わったことの理由を」

 彼女は背を向けたまま黙っていた。

「もしかしたら、ラークの人がいるんじゃないですかね?」と、芝村は言った。「そう、旦那さんがここに帰ってきている……息を潜めるようにして、この屋敷のなかで待機している。そうじゃないですかね?」

「何を言っているの?」と、彼女は振り返った。「誰もいないわよ。この静けさ、わからない? わたしはこの空っぽの空間がきらいなの。吐き気がするほど、ここに拡がっている孤独がきらいなの。……誰もいないわ。びっくりするぐらい、ここは世の中からおいてかれた世界なの」

「さっき吸っていましたラークは、どこから?」

「彼の部屋からよ」

「そちらにいるんですね?」

「まさか」と、彼女は目を見開いて、振り返った。「いるわけないわ。あの人は、夜街に出て……それきり帰ってきていないの……」

「夜街になんか、彼は出ていませんよ。ずっとずっと遠い所だ。日を跨ぐぐらいに、遠い所だ。それは県外だったりするかもしれない。そちらまで出て行って、予定が狂って引き返さなければいけなくなった。ところが、彼は困難を承知で引き返さなかった。あえて、遅れて帰ってきたんだ。それ以降、ずっと、この屋敷にいる。いないことになっているから、外に顔を出すこともできない。自己監禁状態だ」

「何を言って――」

「無駄だ」

 と、低い声が入口の向こうから聞こえてきた。現れたのは、嫉妬に燃え上がる、伸也だった。

「この男は、すでにすべてを知っている。それで、こんなことをするのは、我々をおちょくることが目的なのだろう。どうなんだ、ええ?」

「やっぱり、隠れていたんですね?」芝村はジャケットを取り上げて、羽織った。「ネクタイまで外さなくて良かったですよ。これを、装着するのが人一倍時間がかかるもんでしてね」

「ふざけるな」と、怒鳴った彼の目は、すべてを否定する色に占められていた。「あんた、いったい何者なんだ? フリーライターじゃないな? 警察か?」

「そんなものじゃありませんよ。個人事業主であることは、間違いありませんね。そして、フリーライターという面もこれも嘘ではありません。専業ではないというだけのことであって」

「専業は、何なのだ?」

「それよりも」と、芝村は彼から目を逸らした。「近い部屋に隠れていたんですってね。あのまま、情事に耽っても、あなたは平気だったんですか? 奥様の艶めかしい声が、はっきりと聞こえるでしょうに。ただでさえ、この静かな空間ですよ。その声の微妙な加減まであなたの聴覚にとどいたことでしょう。……それなのに、なぜ放っておくというのです? 悪いことに、私たちにはたっぷりと二人だけの時間があった。その気があれば、襲い掛かって、彼女の甘い乳房を口に含み、二人して官能に耽るだけの時間は取れたはずでしょう。言ってみれば、もう、すでに抱いたも同然の状況にあるということです」

「彼女の意思は、尊重しなければいけない。だから、許さなければいけなかったんだ」

 感情を強く抑圧するような、声色だった。爆発しそうな、予兆が端々に感じられた。

「その彼女というのは、岩佐由季子のことですね? 津路由季子、ではなく、その前の、本当の彼女のことです」

「ああ、……なんてこと」

 由季子が口許を押さえてくずおれた。伸也は厳しい顔のままに、彼女の肩を押さえこんだ。だが、立て直そうとするというまでではない。彼自身も、自分の感情を保っているのがやっとといったところなのだ。

「やはり、すべてを知っていたか。こうなる前に、ここから出て行くべきだった……」

「どこにです?」と、言って芝村は顔を上げた。「金沢の山奥にある家ですか?」

「そこまで知っていたのか」彼は歯噛みした。「なんてやつだ!」

 芝村は硬直している彼の前を悠然と歩いた。そして、ドレッサー近くにあったスツールを取りだし、腰掛ける。

「わからないことは、やっぱりあるんですよ」と、芝村は腕組みをして言った。「岩佐由季子は、どこに行ったんです?」

「それは……」

 伸也の衣服に由季子がしがみついて、その先を制そうとする。もしかしたら、泣いているのかもしれなかった。

「すでに、亡くなっている事は、分かっているんです。最悪の場合、あなたが殺したという結果が導き出されるんですが、綿密な調査の結果、殺す理由が特にないということが判明しました。よほどの、いざこざがあなたとのあいだにない限りには。……いざこざがあったというのなら、ご説明願いたい」

「あなた……」

 腰許で顔を上げた由季子の頬を、伸也は撫でる。それから、芝村の目も気にせずに、長い口づけを交わした。愛情の確認というものを越えた、熱い意思の疎通だった。

「いざこざなんてない」と、彼は芝村を向いて言った。「彼女は、…………自殺したんだ」

 沈黙が長く続いた。

 芝村は頭の中で情報の高速処理をしていた。

「自殺ですって?」

「そう、自殺だ。彼女は、自分で首をくくって、死んだんだ」

「どういうことなのです?」と、芝村は落ち着きを取り戻して問うた。「なにか、いわくがありそうですね。……あって当然ですか。その彼女の遺体は、あなたたちが処理しているはずなんですから」

「わたしが彼女を追いつめたようなもんだ」と、彼は嘆かわしげに言った。「彼女とわたしは、肉体関係にあった……彼女の寂しさを、慰めてやるうちに、心に付け入ったようなものなんだ……」

 由季子は伸也を掴んでいた手を離して、床にうなだれた。

「岩佐さんは、あなたのファンだったようですね? それも、熱心な。通い詰めるうちに、あなたと知り合いになったということなのでしょう。当時は大きくなりつつある劇団のようでしたが、まあ、それでもファンとの距離は近く、接近する機会はいくらでもあった……彼女はそのうちの一人だった」

「その通りです、大切なファンでした」と、彼は反省するようにうつむいて言う。「手を出してはならない人でした。しかし、だしたのです。だしてしまったのです。それが、破滅の始まりでした」

「なぜ、手を出したのです? 魅力的な女性だった?」

「それもありましょう」と、彼は正直に言った。「魅力的だったと思います。しかし、大部分は、自分の弱さでしょう。彼女は、相談してきたわけです。自分の過去について。あなたがわたしのことを知っているならば、岩佐さんについても調べているはずです。そうです、彼女の父親は殺人を犯しました。だから、彼女はそのことについて悩んでいました。父親が出所間近になって、会いたい……そう申し出てきたそうです。獄中からの手紙ですよ。彼女は許すことができないようでした。縁を切りたい……その思いが抑えきれないまでになったところで、彼女は家を飛び出したのです。養母の恩など、野に捨てるも同然に。これは、彼女にとって、なさなければいけないというような、そうした必然の下に起こったものでした。しかし、そのことが彼女の悩みをさらに深めてしまうこととなったのです」

「抱える意思とは裏腹に、父についてのしがらみが強くあったということでしょうか?」

 彼にうなずきがあった。

「そうですね、しがらみです。それがあったのです。殺人を犯したとはいえ、その父親から、許して良いだけの、優しさや恩を彼女は幼少時、たっぷりと受けていた……ですから、一度でも復縁して通じれば、そういうのは吹き飛ぶ悩みなのかもしれません。が、彼女は突き破れなかったわけです。そのことの苦しみが、彼女の心に一辺に……と言いますか、すべてのし掛かる結果となったのです。許すことができなかった別の理由の一つとして、一連のことを受けて、自分が罪を請け負うように、自殺した母親のことがある。……彼女は一人になるしかなかったのです」

「養母のことは?」

「言っていましたよ。そう多くは語っていませんでしたが、やはり、裏切ってしまったという罪悪感を負っていたようです」

「そういう辛い過去にあなたは、付き添ってやった。彼女の心を理解するうちに、道を誤って身体でもって彼女の心にある孤独を慰めるようになった……。その時には、あなたはそこにいる、由季子さん――いえ、一ノ瀬ますみさんと交際していた状態だった。そうですね?」

「弁解のしようもありません」と、彼は生唾を飲んだ「本命は、彼女だったわけです。ますみだったわけです。それなのに、自分はいちファンである、岩佐さんに手を出してしまったのです。言い訳はいくらでも思いつきますよ。彼女の破裂しそうな精神を支えるには、こうするしかなかった……それが、一番でしょうか」

「関係は、一回二回ではなかった。泥沼だった。そうですね?」

「はい……」

 暗い部屋でも青ざめているのが分かる、顔つきだった。

「岩佐さんにしても、ますみさんという存在を知らなかった。だから、新しい人生が始まるのだ、と期待感を持った。しかしながら、ある日ひょんな事から、あなたの身の回りのことを知ってしまい、そうはならないと分かってしまった。――そのとき彼女は、寄る辺のすべてを喪った形になったということだ」

「実は……」彼の唇は、ひどく乾いていた。「彼女が自殺したその日、わたしはまさに、彼女の部屋にいたのです」

「どういうことです?」

「寝た後、シャワーを浴びて、落ちついた頃、彼女は自分で首をくくったんです。その時、わたしは彼女のベッドで寝ていました。気づいたのは、翌朝です。なんとなく寝付きが悪く、五時前に起きてしまったんです。すると……洗濯場の方で、彼女が……」

 岩佐由季子の自殺は、突飛なものだった。予測できないほどに、突飛だった。

「遺書は?」

「ありません」と、彼は塞いだままに言った。「何も、残すことはしませんでした。部屋も、普通のままです。わたしがそこにいたこと以外、すべてが普通でした」

「それで、どうしたのだろうか?」

「あの……」と、彼は弱った顔で何とか言った。「煙草を吸って良いですかね? 落ちつきたいんです」

「構わないですよ。あるなら、自分で吸ってもらってけっこう」

 彼は懐を探って、ラークを取りだした。一本抜き、吸い出す。慣れていない吹き出し方だった。滅多なことがない限り吸わないのだろう。

「それから、ますみを呼び出しました」と、彼は煙草を指で挟んだままに言った。「自分ではどうにもならないので、彼女にきてもらったんです」

「あなたは、彼の浮気について、知っていました?」

 芝村はまだ床下にてうなだれている彼女に問う。のそのそ、と彼女は反応した。

「知りませんでしたね、当時は。でも、いろいろ噂になっていたところがあったから、そういうのもあるんじゃないかって、覚悟はあったわ」

「それじゃ、連絡を受けた時は、さして驚くようなまでではなかったのではないか」

「驚かないはずがないでしょう」と、彼女は背を起こして言った。「でも、彼が本当にピンチなんだって分かったから、駆けつけざるを得なかった。それで、すべての事情を短い時間のあいだで聞いたわ……、理解したわ。これは、どうしようもないことだって思った。わたしたちは次の行動に出なければいけなかった」

「遺体を隠そうと思ったんですね?」

「そうよ」と、彼女は虚空を見つめつつ言う。「彼女の死は、誰にとっても不幸な結果しか導き出されない。遺骨となって、帰っていく先が例の父親のところだったら、彼女にとっても報われないことのはずだった。この人にとっても、ファンに手を出した、そして自殺までさせてしまったということで、汚名がついてもう、再起は無理。それだったら、わたしが彼女そのものになってしまえば良かったのよ。岩佐さんの遺体を隠した上で、わたしがすべてを受け継いでしまえば良かったの。それで、すべては幸福のうちに収まる……だしたのは、そういう答えだった」

「以後、あなたは、岩佐由季子に成りすまして生きていくことになった……結果だけは分かっていましたが、内訳はそうだったんですね。それで、遺体はどこに隠したんです?」

「彼よ」と、彼女は顔を横向けて伸也を見た。「それは、彼に任せたわ」

「寝袋に詰めた上で、山の中に埋めました。一時安置場所というつもりでしたので、自分でも分かりやすいところに埋めたのです」

「一人でやった、ということでいいですね?」

「はい。由季子……いえ、ますみは力がない女ですから、自分がやるしかなかったんです。もっとも、自家用車をとりよせてそれに積むまでの見張りは、彼女が請け負ったわけなんですが」

「埋めているあいだは、これは一人ですね? となれば、奥さん、あなたは見張りの後、それまで何を?」

「部屋の中を片付けていましたわ」と、彼女は芝村を見て言った。「ベッドの整理から、ゴミ箱まで彼がいたという痕跡を消さなければいけなかったの」

「それをしているあいだ、あなたは岩佐由季子がどういう女性か、一つ一つの道具といいますか、遺品を手に取って、感じ取っていた。そうですね? 特に、ドライフラワーの花なんかは、彼女のもっともたる趣味だった」

「とても、清潔な女性でした」と、彼女は目を伏せて言う。「わたしとは、比べものにならないほど、繊細な精神の持ち主だったようです。机の中から本棚まで、細かい気遣いに溢れかえっていました。本のしおりまで、自分で作るほどです」

「あなたが、わたしに見せた顔……出会った時から、今日までのこの時間に見せた顔、それは、岩佐由季子のキャラクターになりきったものだと思う。しかしながら、その口述からすると、すこし合っていないのではないか?」

「彼から、どのような人かを聞きましたよ。もともと、なんにも囚われないような、大らかな気質の持ち主で、例の父親の事件さえ彼女になかったら、もっと自由に振るまって生きていたようです。それが、精神の中で抑圧された彼女の本当の人格です」

「抑圧だらけの人でした」と、ここで煙草を吸い終えた伸也が言った。「よほど事件が起こってから悲しいことがつづいたのでしょう。本来の自分を発揮できない悲しみ、彼女はそういうことでも悩んでいたのです」

「もしかしたら、自殺は複合的要因で……という、見方でもなりたつんじゃないですか?」

「いえ、自分が原因でしょう……」と、彼は顎を引いて言った。「近くにいたんですから、直截的要因が自分にはあるはずなんです。肌を重ねているうちに、彼女はわたしの中身について少しずつ知っていった……。わたしは、それについて……特に恋人がいることについて、弁解なりなんなり口にするべきだったんです。実際はしなかった。なすがままに放置した……結果、そうしたことが、突飛に起こったのです。いえ、こういうことは、予想できたのかもしれません。自分が悪いのです」

「責めない方がいい、自分がつらいだけだ」と、芝村は彼に自らの感情を断ち切らせる厳しさで言った。「様々な感情が、彼女にあったというのが、本当のところだろう。君だけが悪いというわけではないように思える。言ってみれば、そういう特殊な環境に、彼女は運命的に生まれついてしまったんだよ。……と、酷だが、つづけるとするよ。彼女との最後のやり取りは覚えています?」

「陽気に振るまっていましたね。それこそ、ベッドの中で大笑いするというような、大胆な振る舞いです」

「ある意味、それが本当の彼女だ、とあなたがたは受け取った。だからこそ、岩佐を演じるときは、その彼女がモデルとなった――そういうことなのでしょう」

 芝村はしばらく、彼らの前を行ったり来たりと、せわしないありさまを見せた。それからぴたりと足を止め、伸也を見た。

「あなた方は、岩佐由季子の戸籍管理、近辺整理など、身の回りを整えてから、それから引っ越しを繰り返します。そして、その後に、跡部晋作という男の戸籍情報を手に入れて、成りすまします。そうです、あなた方は、戸籍の二重管理状態を続けていたんです。正しいですね?」

「間違いないです」と、彼は強張った顔で言った。「由季子のものは、ますみがなりすまし、自分は跡部の戸籍を自分の裁量下で管理していました……自分らは、他人をよそおった、そんな人間なんです」

「分からない事があるんだ」と、芝村は強く言った。「跡部の戸籍を手に入れたのは、これは分かる。それ以前に手元にあった、あなた方のものを含めた三つの戸籍を管理するそのために必要なものだったのです。役所の方では、この三つが維持されるそのために、入れ替わり結婚離婚を繰り返していたとする記録が残っている。本来ならば、跡部の戸籍を手に入れたその時点で、これで万事、解決したことになったはずだ。二つペアができるんだから、重婚状態にならない。ところが、跡部の戸籍を手に入れた後も、結婚離婚を二三度、相互に入れ替えるなど、繰り返している。これはなんなんです?」

「二重管理状態を疑ってきた者がいたんです」と、彼は言った。「ですから、その場しのぎとして、跡部の戸籍を使った、結婚離婚のシャッフルを試みたわけです。その時は、なんとかやり過ごせたわけなんですが、まあ、危なかったです。原因は住所です。同じだったわけです。ですから、今のこの状態には、無理があるということで、二つの住所を持とうとなりました。わたしらが、二つの住まいを管理するようになったのは、それからです」

 整合性のある証言というべきだった。これで、芝村の中にあった不明な点のすべてが解消されることとなった。

「ときに、戸籍を利用された跡部さんとは、直截接触している。彼は、いまどうしているか、知っているだろうか?」

「いえ……」

「ホームレスだよ。残念なことに、貧困から抜け出せない状態が続いていて、本人もあきらめている状態にある。以後も、あなたがたが彼の戸籍を管理したところで、なんら問題は生じなかったことだろう。しかし、彼からそういったものを買い上げて、なりすませば、当然彼としては元の生活には復帰できなくなる。いくら、彼の野心を満たすような、そうしたなりすましを実現したところで、それが彼の直截的な慰めとなるわけではない」

「もちろんそうです」と、彼は口許をもどかしそうに動かしながら言った。「不正であることは、最初から承知の上で実行していますから、せめて自分たちが納得する形で管理していこうとなったわけです。罪悪感は、……これは、正直なところどうでしょう? 岩佐さんの死体を遺棄したことから比すれば、大きな事ではないのは確かで、そういう意味では、反省や自覚が足りないのかもしれません」

「まあ、それでも買い取る相手に対して、誠意を示したいという気持ちがあったのは……これは、本当でしょう。あなたについて、言わなければいけないことや言いたいことはたくさんありますが、とりあえず私は、信用しますよ」

 彼はうつむきがちの顔をのそりと上げた。芝村は続けざまに言った。

「私が先に、由季子について、あなた方が特に殺す理由がなかった――と口にしたのは、そうした誠意を形にしようとしていた事実関係が、第一にあったからです。あなたは、そういう意味では、誠実な人間だったのです。もちろん、死体を勝手に遺棄したなどという件については忌むべき事でしょうが、ここでは、あなたの気質を言っています。それで、こうした人間が、殺人など犯すでしょうか、という疑問については、自分はそれはないと判断しました。人柄について、表面上は危険性なしと見た、ということです。

 それで、締めくくりとして本性を暴き出すその瞬間だって、どうすればいいのか、と最後まで悩んでいましたが、結局、場当たり的にあのような手を使って挑発するという形になりました……その件につきましては、無礼があったことを、今ここでお詫びしておきたい」

「そんなことで、謝ってもらっても……困りますよ」

 芝村は戸惑いを示す彼に、微笑みかけた。

「最終的に、二つの所帯が完成するわけだが、相互管理をするのは、これは大変だったでしょう?」

「わたしら二人の夫婦生活が一応成立して、維持できる状態でしたから、そのことの幸せを考えれば、二つの管理は決して苦なんかではありませんでした。同時期、岩佐さんの遺体も掘り返して、骨壺に収め、自分たちの手元に押さえています。彼女は、この屋敷の地下に眠っているんです」

「この地下に……」芝村はその場所を何となく想像した。「その真上が、あのドライフラワーの多い部屋だったりするんでしょうか?作業場ですよ。あそこは、空間そのものが彼女の棺のようなものになっているというわけだ。もしかしたら、サンルームの増築は、彼女のためだったということもいえるかもしれない」

 ますみの顔に、かすかな微笑みがあった。

 彼女としても、そのつもりでドライフラワーを過剰に作っていたのだろう。となると、あれは、彼ら夫妻が幸せであるということの、由季子への感謝の徴でもあったということになってくる。

「それにしても、あなた方には恐れ入る」と、芝村は二人に向かって言った。「いくら演技とはいえ、自分の精神を殺してまでして、私に挑むとは……信じられないという思いしかない。本当の意味で、役者魂の底力を見た思いですよ」

「先程の、彼女のことを言っているのです?」と、伸也が問う。「だとしたら、あれぐらいは普通ですよ。ここはある意味、舞台ですからね。キスする、抱かれる……それも、演技の範疇です」

「当人はそのことに没頭したところで、見守っているあなたは、そうはいかないでしょうに」

「抑圧は難しいです。が、耐え抜かなければいけません。例えば、スクリーンの中で濡れ場シーンがあって、実の妻が情事に耽っていたとしたら、そのことについて、彼女に問い詰めるべきでしょうか?それは、ちがうと思います。スクリーンの中には、我々は入っていけない。だから、その世界に嫉妬したところで、無駄なことなのです。スクリーンの中の彼女は、プライベートの彼女とは別者です。切り離さなければいけないのです。それと同じです。わたしは、雑念を断って、鑑賞者を装っていなければいけませんでした」

 彼は演じているあいだは、彼女のことを役者の女と見ていた。だからこそ、どのようなやり取りが目の前でかわされても、耐え抜かなければいけなかった。感情を持つこと自体おかしなことだった。もしかしたら、時折、嫉妬の感情を燃やしていたのも、これは、彼なりの演技なのかもしれなかった。二人とも、精神的な意味では、芝村よりも常に上をいっていたということだ。

「これで、概要のすべてが分かりましたよ」と、芝村は言った。「とくに、お二人が徹底して、役者魂を持った人間でしたことがよく分かりました。てっきり、岩佐さんの件があってから、あなた方は、役者の道から離れたと思ったのですが、実は、ちがった形で進行させていたわけです。金沢の方では、またちがった役を演じられているそうですね?」

「妻のためです」と、伸也が彼女を盗み見て言った。「巻き添えにしたのは、自分です。ですから、彼女には救いがなければいけない。向こうにいるときは、素の彼女でいられるような設定になっています。逆に、わたしはと言いますと、別の人格を演じることになっています……と、あなたには分かっていることなんでしょうか?」

「調べはついています」と、芝村は言った。「外国人風な生活スタイルに合った、そういう人格だということだった。これは、跡部という男の希望を叶えるような、そんなもののようですね。しかしながら、これはますみさんの希望を満たすようなものなんかではないことは確かだ」

「環境がどうであれ、素のわたしは、そこに適応できますよ」と、ますみが言った。「ある意味、彼と同じなんです。一緒に生活できさえすれば、それで幸せなんです。彼の脚色の入ったなりすましだって、気になりません。わたしは、そういう環境に慣れて生きてきた女ですから……」

「劇団所属時から、そういうのが当たり前で過ごしてきたんですね」

「もう、それだけが自分のすべてですから」と、伸也が言った。「自分からこれを取ると、何も残りません。それは、彼女も同じです。由季子さんの意思を引き継いで、生きていこうってなったのは、わたしたちにとって、自然な運びでした。悪賢い知恵を働かせて、彼女を利用しようだなんて思ったことは、一度だってなかったはずです」

「それは、演技を目の辺りにしていた、私が良く知っている。カマを掛けてもあなた方は、やはりというか、動じなかった。最悪の場合、あなたが憤激して、我を失うあまり私を手に掛ける――というような場合もありえなくはなかったが、分別は最後まで維持された。それがありながら、把握した人柄、気質の件もあわせて、どうしてあなた方を疑うことができましょう?」

「やっぱり、この人が屋敷内にいるって、分かっていたんですね、最初から?」

 ますみが問う。

「分かりませんでしたよ、正直に言うと」と、芝村は言う。「気づいたのは、あなたの態度が激しく変化する様を見てからです。どうも、おかしいとなった。あなたは、家に帰りたがっている。私にはそのように思えました。おそらく、彼に助けてもらいたかったのでしょうか? これは演技の範囲内なのだ、と公認を得たかったのでしょうか? たぶん、後者ではないか、と思いますがね」

「意地悪なお方」と、彼女は目を細めて言った。「楽しんでいたんですね、わたしの変化を。あのまま抱かれていたら……、わたし、恥を掻いていたのかもしれない。いえ、演技だって分かっているセックスも、経験した方が……わたしにとっては、よいことだったのかも。でなければ、あなたに精神的リードを譲ったままで終わってしまう……」

「負けず嫌いなんですよ、彼女は」と、伸也が言った。「火をつけさせるようなことをしては、いけません。それに、いまこうして挑発的なことを言うのは、まだ眠ったままでいる、岩佐さんの嫉妬でもあるわけです」

「あなた……」

 彼女は伸也の腕を押さえた。

「分かっていることだ。岩佐由季子は我らの中で、ぬぐい去ることのできない。永遠の存在だ。すべては、彼女が中心になりたっているんだ」

「越えられなかったようね……その人を」と、彼女は言った。「演じても演じても、なんだか空回りするような虚しさがあった。なりすましはできても、その人そのものになることは不可能なのよ。そういった壁を感じさせられる役者というのは、本当に、どうしようもない生き物よ。役立たずなのかも」

「それでも、演じることは止められない……。なぜならば、彼女は偉大でありつづけるから……そういう思いがあるから演じるんだよ。役者は、感動と、尊敬の精神の下にあるんだ。ある意味、それらの絶対的服従者なんだ」

「……そうね」

 それから、伸也は芝村を見た。

「この生活も、今日で終わりです。警察に出頭します。すべてを自白するつもりです。演技なしで、津路伸也として償います」

「その前に、わたしのことを忘れてもらっては困りますね」と、芝村は頬を掻いて言った。「なぜ、ここにわたしがいるのか、それを考えたことがありましたか? この町にどさくさ紛れにやってきた、なんの関係もない一般人が、あなた方の中身を見破ったところで、なんの足しにもならない。そうでしょう?」

「芝村さん、あなたの正体を教えてもらえませんか?」

 伸也が真剣な眼差しをよこしながら、言った。

「これを」

 と、芝村は懐から名刺を抜いて、弾いた。それは、床を滑って彼の足場で止まった。彼はそれを拾いあげた。

「私立探偵事務所……」

「その通り、探偵ですよ」

「なるほど、そういうことですか」と、彼はうなずいて言った。「ということは、依頼人がいるんですね。誰です? そして、なんの調査です?」

「あなたですよ、目的は」と、芝村はますみを指差して言った。「そして依頼人は、岩佐由季子の養母である、篠代婦人です。彼女は、あなたに……そう、岩佐由季子に会いたがっています」

「由季子に……」

 伸也が呻く。ますみは不安そうな表情で、伸也に腕にしがみついていた。

「そうです、岩佐由季子です」と、芝村は言った。「彼女はまだ、由季子が生きていると信じています。そして、どこかで元気で過ごしていて、自分なりの幸せを掴んでいるのだと、思っているのです。彼女が、なぜ、いまこの依頼をわたしに要請したのか? 理由は簡単です。癌に掛かっていまして、余命が迫っているわけです。せめて、最後に一目会いたいのだそうです。これは、彼女の本心でしょう。そして、心残りなのです」

「しかし、彼女はいない……わたしのせいで、自殺してしまったんだ」

 伸也は頭を抱えて言った。悲鳴のようだった。

「彼女は、いますよ」と、芝村は言った。「あなたの妻です、そうです、ますみさん……あなたが演じるべきなのです」

「そんな……なんてこと……あぁ、なんてこと!」と、ますみは体勢を崩し掛けながら言った。「あなたは、平然としたそんな顔をして、そんな怖ろしいことを要請するというのです? 信じられません……いましがたあった、あのことこのことに見るあなたの余裕が、いまそら恐ろしくさえ感じられています」

「あなたは請け負わなければいけません」と、芝村は言った。「あなた方は、今しがたこう言いましたね、岩佐由季子は超越した存在で越えていくことはとうとうできなかった、と――。それをそのままにしていいのでしょうか? 今回のこれが、越えていくチャンスだとは受けとめられないのですか? それに、由季子という存在が、あなた方夫妻の幸せの象徴だというのならば、その恩に報いるべきでしょう」

「あなた……ああ、あなた……」

 ますみは動揺している。伸也は、顔を赤くして、力を満たしている。

「やるしかない……」と、彼は言った。「これは、彼女のために必要なことなんだ。そして、おれらにとっても必要なことなんだ……」

 彼は膝を折って、ますみの手を取った。

「頼む……ますみ! この役を請け負ってくれ! つらい気持は分かる。しかし、これは越えていなければいけないことなんだ……由季子が報われない。そして、何よりお母さんが報われない……」

「無理だわ。どう考えても無理よ!」と、彼女は首を振って言った。「だいたい、容姿がちがうもの。声だって、雰囲気だってちがう。養母さんといえど、成人過ぎまで彼女の元にいたんだから、顔が変わっても、分かるはずよ、声だって覚えている……だいたい、本人でないわたしが出て行ったところで、それで何になるというの? これは、彼女への偽りになるだけよ」

「さいわい、その婦人は、もう目が見えていない。癌は、眼球を内側から圧迫して、視神経まで侵しているんだ。顔が変わっても、とくに問題ないだろう。声だって雰囲気だって、問題はない。あなたが、いままでやってきたことを、そのまま表せばいいというだけのこと。それで、これが無理だとおっしゃるならば、彼女のことを、これまでに演技てきたのはなんだったのかということになりましょうか」芝村は呼気が乱れるさなか、息を溜めた。「あと、偽りと言ったが、それでけっこうですよ。余命幾許もない彼女にとっては、幸福だけが必要なんです。事実を伝えることに意味はない。これは、つい最近、わたしの事務所の者にも言ったことで、彼自身にも納得してもらったことだが、やはり、人には幻想を抱かせる必要があるんだ。幻想こそが、すべてだ。それを抱いて、死んでいく……、幸福は確かなものである必要などは、どこにもない――」

「その人の意思が尊重されていないわ……、真実を知る権利だって養母さんにはあるはずなのよ……」

「生前の岩佐由季子さんは、養母について、裏切ったことについて、罪悪感を抱いていたと言っていましたね」と、芝村は伸也に言った。「その程度は軽いものでしたか?」

「そんなはずはない……」と、彼は言った。「彼女の心深くに、残っているような、それぐらいのものだったはずです……」

「わたしが思うに、彼女の一番の心残りは、それだったのではないかと思うんですがね、どうです?」

 彼は考えこんだ。

「彼女は、こんなことを口にしていました……それは、母に迷惑を掛けたくなかったんだ、というようなことです。もろもろのことを省略した上で言った言葉だったので、なんのことかよく分からなかったんですが……いま、なぜかしら、わたしにそれがのし掛かっています」

「母に迷惑を掛けたくなかった……というのは、重い一言ですね。家を飛び出した、直截的な理由と言ってもいいのかもしれません。というのも、その時、彼女が一番に感謝していた存在が、その母であったことは、間違いないでしょうから。つまるところ、さまざまな葛藤があったはずでしょう。そうしたしがらみに囚われるその前に、彼女は例の家を飛び出した……そういうことに違いありません」

 芝村はますみに面と向かう。

「愛情があったのは、疑いもない状況になってきました。となれば、彼女の言う、迷惑が掛かるという事柄について、母には報せられるべきではないはずでしょう。由季子の真実が伝えられる――それを彼女自身が望んでいないということです。

 彼岸の対面について幸福な選択ではなくなる……というような、淡い幻想だって持ち込むのはなしですよ。我らがいま考えるべきは、

彼女が生きているあいだの最後に何を考え、何を思ったのか……ということのはずなんです。なぜならば、死後のことなどは、我らの関知外にあることでしかないのですから。今手元にあることだけを考えればそれでいいはずなのです」

 彼女は、芝村を耐えるような目でじっと、見つめていた。やがて、恐れを突き破るといった具合に、口をゆっくりと開いた。

「どちらにせよ、出頭すれば……そういう結果がもたらされることになるのよ」

「警察と話を付けるのは、こちらにはお手のものさ。何人か面識がある者がいます」と、芝村は肩をすくめる。「事情を話せば、向こうも承諾してくれるはずです。実父である宗介についてはどうなるか言及できませんが、少なくとも婦人には真実が伝えられることなしに、事態は収拾する。そのはずです。だいたい、彼女は重病人だ。精神に動揺を与えるようなことはすべきではない。そういう意味では、ドクターストップが掛かっている状態なんだ。その点について、あなたが案じる必要はどこにもないのです」

「どうしても、彼女の前に連れて行きたいようね?」

「それが、事の発端ですからね。依頼は、かならず遂行されなければいけない。わたしはね、約束だけは破りたくないんですよ。これまでに破ってしまったことはあるが、それは故意じゃない。破らざるを得なかった、もしくは、果たせなかった……そういうことだ。その時は、本当に悔しいものです。相手も悔しい思いをするから、やはり約束を破るというのは、最低の行為なんですよ。それは、肌身を持って知っていることです。この仕事をしていると、そのことが特に分かりますね」

「わたしには、そういう約束はないわ」

「いまからすればいい、その約束を」と、芝村は言って微笑みかけた。「おやおや、先程に見た、あなたの余裕……それはどこにいったのです? いま、目の前にいるあなたは、小さくて頼りなくて、息を吹きかけたら、灯火のように消えてしまいそうですよ。あなたは、そんな小さなものじゃない。息で吹き消すことなどできない。もっと大きなものです。事実、あなたの役者としての評価は、すでに関係の仲間から聞いているんです。得意な武器をお持ちなんですってね。これは、彼らが旦那さんに言ったことですが、あなたにも通じる言葉だから、いま、言いますよ――演劇にまだ興味があるなら、こちらにもどってこい、ということでした」

「その評価はずっと前のものよ……」と、彼女は声を心持ち震わせながら言った。「だから、その人たちの言うことなど、当てはまらない。戻ることにだって、意味はないわ。本当のわたしは、引っ込み思案なのよ。だからこそよ、芝居は面白かったわ。自分が理想とするキャラになれるんですもの。こんなに愉快なことはない! どんどんのめり込んだのは、もともとのわたしが小さかった証拠。灯火とか言ったけれど、それよりずっと小さいのかも」

「それでは、由季子さんは越えていけませんねえ」と、芝村は挑発のつもりで言った。「あなたは、それを越えていかないと、本当の意味で、伸也さんの妻である資格さえないのかもしれません。今回のあなた方のこれまでの人生に見るような、二つの世帯を交互に取り換えてなりすます生活は、あなた方の相互の愛情があって、はじめて成立するものです。由季子さんが中心と言いましたが、あなた方の愛情が一番に大きなものなんです。というのも、由季子さんはあなた方にとって、どれほど、超越した存在だったとはいえ、すでに故人だからです。認識違いをしていては、困ります。いまこそ、彼に対する愛情を示すべきなのではないでしょうか? 演技でもって――」

 彼女は荒い呼気を、繰り返していた。

 やがて、興奮を湛え、口先を震わせ出した。

「やるわ……最後に、わたしはやる」

「ますみ……」伸也が彼女を抱きしめる。「よく、言ってくれた」

「あなただけへの愛情つもりでやるのではないわ」と、彼女は伸也に言ってから芝村を見た。「由季子さんよ……彼女のためにもやることなの。いえ、わたしは、これから彼女そのものになるの……だから、何も考えないわ。これから、考える事を止める。すべては、空っぽ……。わたしは、由季子そのものなの――」

 

     5

 

 病院内は静けさが保たれた状態で、賑やかしい雰囲気に満ちあふれていた。事実関係を報された関係者が、そこかしこに待機していて、今日この日が、彼女にとって特別であるということがはっきりとしたありさまとなっていた。

「まあ、そうでしたのね……見つかったというのですね」と、篠代婦人は歓喜にわきあがって言う。「朝から、なにごとかと思って、心配していたんです。良いほうの報せだったんですね」

「そう、感慨に耽っている時間はありません。実は、当の本人がすでにこちらにいらしています」

「なんてこと……」と、彼女は口を大きく開けて言った。「それと分かっていたら、もう少し仕度するなりなんなり準備していたというのに……本当、唐突ですわ、探偵さん。これは、どうしてなんでしょう?」

「とくに、深い意味はありませんよ」と、芝村は言った。「こちらも予定をつめてスケジュールを合わせた結果、今日という日に決まったというだけのこと。それに、依頼された日からすでに心の準備はできていたはずですよ。唐突というのは、少し言いすぎでしょう。あなたは、今日という日が突然来るのがどこかで分かっていたはずです」

「何度か、夢には見まわしたわね」と、彼女は落ち着きを取り戻して言った。「強く願望していることは、頭の中で繰り返されるからでしょうか。本当に、そういうのは夢になるんです。たいてい、わたしが普段からもどかしい思いに耐えているように、夢の中でもそういうもどかしい思いを抱えたままに、それで終わってしまうんですわ。そういう世界でも、思い通りにならないぐらいですから、……現実は、もっと厳しいのではないか、と思い込んでいました」

「最悪、わたしが仕事を果たせないという結果も、想像していた、と?」

「いいえ、あなたのことを信用していましたよ」と、彼女は目許を和らげさせて言う。「人当たりのいい、物腰の柔らかなお方……、あなたと最初に出会った時、何かしらの予感があって、この人を呼んで良かった、知り合えて良かった、とそう思ったんです。きっと、わたしの希望は叶えて下さるでしょう、と確信しておりました。夢は、わたしのなかの不安に過ぎません」

「予感だけで……というのは、あさはかでしょう」と、芝村は苦笑して言った。「破れることだって、計算に入れておきたいところです。が、今回の場合、そういう必要はなくなったのですから、まあ、あなたの予感どおりになったというわけです」

「それで、あの子はどこに……?」

 彼女は、開いたままの入口をしきりに気に掛けた。そこには、彼女を普段に回診している、医師と、看護師が待機している。廊下の方にも人がいたが、こちらは事情を聞きつけて、立ち会いにやってきた警察官だ。むろん、彼らの素性は、篠代に報せられることはない。

「いま、連れてきますよ」と、芝村は言った。「そう慌てずに。注意事項として、下手に興奮し、取り乱すというようなことがあってはなりません、と言っておきます。一応、病院のほうでも最善の準備をしていただいているわけなのですが、これが発揮されないことを希望したいところです。どのようなことがあっても、落ちついて対応していただきたい」

「自信がありませんわね」と、彼女は胸元に手を当てて言う。「だって、ずっと会いたかった子ですもの……、ずっとずっと、希望していたことなんです」

「それなのに、今日まで彼女を探そうとしなかったのは、これはなぜなんです?」

「当時、あの子は、苦しんでいました……」と、切なそうな顔を見せて彼女は言う。「だから、解放が必要だったのです。そのことがよく分かっていました。その解放が、完成させられるためには、わたしは介入すべきではない、そう思っていました。いえ、恐怖もあったのは本当です。あの子に嫌われたのではないかという、恐怖です。それが確かな形で表れることがあったら、わたしも、首をくくらなければいけない……そうまで、考えたことでしょう」

「彼女は、あなたのことを愛していましたよ」と、芝村は言った。「裏切ったことを、申し訳ない……と、そう思っていたそうです」

「そんなこと、ないわ」彼女の目は早くも潤みだした。「わたしは……、裏切ったとか思ってなんかいない。あの子のことをずっと、心配していたんです」

「一つだけ、言っておきます」と、芝村は顔を引き締め直して言った。「彼女と会えるのは、もしかしたら今日が最初で最後になるのかもしれない、ということです。正直なことを言いましょう。あなたがすでに、予測しているとおり、彼女が十七年前、あなたの元を飛び出したのは、父親の影が迫っていることを怖れたからです。あなたは、彼に対し、つきまとうべきではない、と警告を与え、閉め出してくれたようですが、それでも彼女の中には恐怖心が拭えず残っていたのです。それで、とうとう堪らず飛び出した――その恐怖は、今も変わらずつづいているようです。あなたをおいて飛び出すぐらいですから、相当なものだったというのは、お分かりのことだと思います。彼女は、非常なレベルでの、臆病な娘なのです。

 この病室にも、現れ、鉢合わせする恐れがあるのかもしれない……そう思っています。ですから、彼女がここにこられるのは、我々が監視できる今日しかないというわけなんです」

「あの……」と、彼女は声を上げて、遮った。「敬三兄さんは、わたしのところにきましたわ。三日前のことです。何者かの連絡を受けて、事情を知った、と……。それで、わたしのところに、突然現れたんです……」

 これは、芝村の計略だった。敬三に匿名で連絡を入れたのは、龍崎だった。むろん、直接接触しているから、声を覚えていて、彼からの連絡だったと、敬三は分かっていたのかもしれない。余命あとわずか程度しかない、妹――篠代の入院先。敬三は、案の定、すぐに休みを取って駆けつけた。義理堅さだけは、人一倍持ち合わせている男だった。

「それは、奇遇ですね」と、芝村は努めて空惚けて言った。「それで、どのようなやり取りがあったのです?」

「やっぱり、自分が過去に侵したことを……ひどく繰り返していました。なぜ、このようなことをしてしまったのか、と悔やんでいましたよ。反省しているんです。その反省は、多分、いまこの瞬間もつづいているにちがいありません。思いつめたら、そればかり悩み続ける男です……そうした、不器用と言いますか、気難しくものごとを考える男なんです、あの人は」

「由季子さんのことを、言っていましたか?」

「そうですね……」彼女は畳んだハンカチで、口許を押さえた。「…………言っていました。つらそうでした。あの人が侵したことは、誰にもいい結果を残さないことだったんだって、そう思いました」

「今後の彼は?」

「つつましく生きていくはずでしょう。それは、いわずとも分かることです。もう、あの人は健常な精神を手に入れたのです。過去を顧みながら、それと付き合っていけるはずでしょう」

「そうした父を拒否している、由季子さん……。これは、彼女の意思です。どうか、責めないでやって欲しい。これも、会う前に伝えておきたい、注意事項です」

「破綻は、悲しいですが……やむを得ないことでしょう」と、彼女は鼻をすすって言った。「事件は、どう考えても怖ろしいことですから、心が寄り添えないのは無理もないことなのです。むしろ、あの子のそうした拒否感情がまた、あの人……兄の心を掻き乱すようなことがあってはなりません。……会うべきではないんでしょう」

「理解下さって、ありがとうございます。彼女には、会っていただきましょう。……いま連れてきますので、お待ちを」

「ちょっと待って下さい」と、彼女は手を差し出して言った。「心が、落ち着かないんです……少しだけの時間を……」

「いいですよ。お待ちします」

 静かな祈りの時間がつづいた。塵一つないといった清潔な病室は、逆光ばかりに占められていた。窓枠にさした陽が不浄の一切を寄せ付けない、神々しさと、ひたむきさを見せていた。実際には、そうした姿はなく、声もなかったが、すぐ近くで、誰かが幸福のうちに、笑っているように感じられた。

「お願いします」

 と、彼女は息を込めて言った。芝村は微笑んで、うなずいた。そして、廊下に向かう。ずっと、奥で待機していた、由季子は意思と、緊張を抑圧したような心もちで、ずっと立って待っていた。付き添いは、龍崎だ。肩に当てた、彼の縫い痕だらけの手は、優しげだった。

「由季子さん、出番ですよ」

 彼女のうなずきをもって、篠代が待つ、病室に向かった。立ち会いの警察官が何人かが、彼女に一礼をし、道を譲った。

 由季子は、病室の入口に立った。そして、ベッドにて上体を立てたままに、待っている篠代婦人と体面を果たす。婦人は、この時、ひどく小さく見えていた。悲しさに縮んで、影が薄くなったからだろうか。

「お母さん……」

 と、由季子がつぶやいて、近づいていく。篠代はすでに、泣いていた。ずっと、耐えていたにちがいない。

 二人の距離は、由季子の徒歩により、ゆっくりと縮まっていった。彼女の方も、感情を抑圧している具合だ。そこにいるのは、由季子そのものでしかない。やがて、彼女らの手の片方がつながった。もう片方は、おのおのの感情を抑えるそのために使われている。

「あなたに、会いたかったんですよ」と、篠代婦人が殊勝な微笑みを湛えて、何とか言った。「なんとまあ……こんなに、きれいになっちゃって……。あなたの輝きがはっきりと分かる、わ。幸せになったんですね……、それが、分かるような、そういった輝きですよ、これは」

「結婚をしましたわ、お母さん」と、由季子は遅れて答えた。「素敵な人が見つかったんです。津路伸也さん……というお方です。とても、優しくて、よく気づく……何より、わたしを愛して下さる人ですよ」

「よかったわ。ああ、良かった……」彼女はまたこみ上げてきた感情を堪える。「ずっと、そうであって欲しいと願っていたの。あなただけは、幸福になって欲しい……なるべきだって、そう思っていた。しっかり、それを掴んでくれていて、嬉しいわ。……何もしてあげられなかったこと、謝ります。わたしは、未熟な人間ですから、あなたに迷惑だけしか掛けなかった……情けないけれど、こんな母を許して下さい。これでも、あなたの母親をやったことを、誇りに思っているんです」

「許すも何も、お母さんは何も悪くない」と、由季子は篠代の両手を取った。「悪いのは、このわたしです。心の弱い、不完全なところのある、このわたしです。お母さんは何も悪くはありません。むしろ、立派な立派な……誇れる、お母さんでした。それは、いまも変わりません。育ててくれたこと……恩という言葉では足りない、気持を持っています。それをあだで返したこのわたしを、お許し下さい……」

 由季子は篠代婦人の手を掴んだままに、ベッド下に沈み込んでいく。気に掛けた周囲が彼女に手を差し伸べたその時、篠代が動いて、彼女の身体を支えに掛かった。力が足りず、ふらつき、二人は危うい動きを繰り返す。看護師がとりなしにかかろうとしたところを、芝村が制した。

 二人の世界を維持させるそのためには、介入はするべきではなかった。そうするのは、よほどの事態が起こったときのみである。

「裏切ったなんて、思っていませんよ」と、篠代は声を一番に張り上げて言った。「あなたの気持ちはよく分かっていました。だから、それを助けてあげられなかった、理解してあげられなかったわたしが悪いのです」

「自分を責めるのはよして」と、由季子は涙に濡れた顔を見せて言う。「勝手なことを、最初にしたのは、わたしなんだから……」

 二人は水掛け論のような、言い合いをつづけた。やがて、身体の密着度合いは強まって、二人は自然に抱き合い、言葉をうちに閉じ込めた。

「幸せで……良かったわ、とにかく」と、篠代が、屈託のない微笑みを見せて言う。「これからも、ずっと幸せでいてちょうだい」

「お母さんも、そうであって欲しいよ」

 篠代はしおらしい顔つきで、かぶりを振った。

「もう、お迎えがきているのよ、こっちは」

「聞いたわ……ひどい話よ。これだけのことをしてくれる、お母さんがそんな目になるだなんて……」

「わたしは、そうは思わないわ」と、篠代は言う。「長く生きられることが、幸福だとは思っていないから。満ち足りた人生を過ごせることが、幸福なのよ。そして、わたしはいま、満ち足りている。あなたが、過分なぐらいにその幸せを与えてくれた……、ここに来てくれて、ありがとう」

「ずっとずっと、連絡しなかった、このわたしを、許してくれるの?」

「そのことは、もう言わない」と、篠代は、にこやかに言う。「今のこの時間だけが大切なの。……なんだか、ずっと会っていなかったんだけど、つながっていたと思うの。しばらく振りの再会じゃないようよ。さっきまでは、変に緊張していたんだけど。会ってみれば、もう、こんなに元通り……」

「どこに行っても、わたしたちは、同じよ」と、由季子が言う。「いつも、お母さんのこと、考えてる……。何かに迷った時、お母さんの考えが、浮かぶの。こういう時、お母さんならこうするだろうって……それで、乗り越えられたことは、いっぱいあるんですよ。だって、成人過ぎるまで、一緒にいたんだもの……。そうならないはずがないわ。わたしは、あなたの娘です」

「そんなもったいないこと……」

 篠代の微笑みが、一挙に崩れた。年甲斐もない、涙がいくつも滴り落ちた。

「もったいないも何もないわ……、本当です。いまの幸せは、お母さんがもたらしてくれたものです。あなたの娘だったからこそ、わたしは、幸せになれたんです。あの時、お母さんがわたしを拾ってくれなかったら……ずっと、わたしの人生は、暗いままだったはずです」

「成り行きなのよ……そう、これは成り行き」と、篠代は目頭を押さえて言う。「がっかりするかもしれないけれど、でも、これはある意味事実なんです。あの状況下に追いやられて、わたしがすべきことは、あなたを引き取ること……それだけだったんです。不安ばかりがありました。結婚もしていない、できていない女が、はたして、その子を育てられるだろうかって……。あなたを引き取ることを決めたその日、何度も途方にくれましたわね。でも、実際、あなたを受け入れて、ぱっと気持が変わった。わたしがあなたを変えたんじゃなくって、あなたがわたしを変えてくれたんですよ。あなたという存在は、私の希望です。それそのものです」

「育ててくれたのは、お母さんです」と、由季子は声をつまらせて言う。「いつもひとりでしたわ、家では。お母さんは、働きに出ていたんです。いつも、そうでしたけれど、家庭の中は愛情に溢れていました。お母さんは、ずっと優しい存在でいてくれたんです。いくつもの、わがままを許して下さいましたね。不自由したことは、特にありませんでした。お母さんがくれた……愛情に溢れた、家庭。それは、いまのわたしのなかで、引き継がれていることなんです」

「ありがとう」と、篠代は、由季子の顔を寄せて言った。「それだけ言ってもらえれば十分です。しばらくは、幸せに過ごせるでしょう」

「もっと、長生きして。お願いだから」

 由季子は、篠代の手を乱暴なぐらいに握りしめた。年の差がはっきりと出た、ありさまだった。

「もう、十分生きたわ」と、篠代は由季子の背中を押さえて言う。「寿命なのよ。これにさからってはいけない。……後悔なんて、なにひとつない。いま、こうしてあなたとやり取りできたわけだし、望みは叶ったの。わたしは、静かに死んでいけるわ。誰にも知られず、そっと死ぬの。あと残された望みと言えば、それぐらい」

「お願い、……死なないで。死なないで。お母さん、死なないで!」

 由季子は篠代の膝元でうずくまって、なんども繰り返した。喉の奥が灼けそうな、そんな引きつった声だった。

「いいのよ、これでいいのよ。わたしは、幸せだというのは、本当だから」

 篠代は由季子の頭を撫でつけながら言う。その手つきは、愛でるという形に近い。写真を撫でるあの手つきだった。失われた時間が、彼女たちに甦っているはずだった。

 芝村は病室を出た。小一時間近く、彼女たちの自由に任せた。

 病院内は、世間から閉ざされたように、間延びした時間が流れていた。時折すぎる入院患者はそうした時間を漂流するような、歩き方をしていた。

「芝村さん」

 呼び掛けてきたのは、龍崎だった。

「どうした?」

「例のホームレス……跡部さんの件なんですが……」

「ああ、それか」芝村は口許を指先で撫でた。「逃げたんだろう?テントごとごっそり消えるという形で」

「なぜ、それを?」

 芝村は窓を向いた。建造物がひしめいた光景の割には、人の影は極端に少なかった。

「なんとなく、分かるよ、そういうのは」と、芝村はぽつりと言う。「どう、説得したところで無駄なことというのはあるんだ。それができる可能性は、残されているんだろうが、しかし、人というのは、楽な選択を選びがちだ。彼は、その楽な選択を選んだ……そういうことに過ぎない」

「罪を償うことを、怖れたということですか?」

「それもあるが」と、芝村は彼を振り返る。「しかし、ここでは、彼の生き方を言っている。すでに、満ち足りた生活をしているんだよ、彼は。誰もが不幸だと思っているかもしれないが、彼自身はそう思っていない。だから、そこを無理して、元の生活を取り戻す必要はないだろう。幸せを得るには安定した生活が不可欠だ。それに適わない例外もいる。それが、彼なんだ」

「あの男は、幸福だったんです?」

「だと思うよ」と、芝村は言った。「どこも、困っているような色は、顔にはなかった。幸福というのは、人それぞれってことだ。あえて、特定の価値観を彼に当てはめるのは、おかしい」

「しかし……」

「おやおや、まだ、理解できていないようだね」と、芝村は龍崎の肩をぽんと叩く。「もう少し、時間が必要かな、これは」

 廊下の向こうに、伸也の姿があった。いましがた、現れたようだった。いつのまにか、その近くにいた由季子が彼に寄って、話し込む。二人の会話は、ちょっとした報告といったところのようだ。

「御両人、お疲れ様でした」と、芝村は彼らに近づいて、言った。「立派な姿……この目で、しっかりと確認させていただきました。あなたは、本物の由季子さんでした。このようなことを申し付けたこと、怨んでいますか?」

「悲しい接見でしたわね」と、彼女はまた思いだし涙を浮かべて言う。「わたしの心の中に、深く深く、刻みつけられました……。これからもことあるごとに、今日のことは繰り返されるにちがいありません。そういう意味では、あなたをお恨みする他はありませんね」

「おまえ……」

 と、伸也がたしなめる。彼女は顔を上げて、微笑みで突き返した。

「分かっているわ」と、彼に言ってから、芝村を見た。「こうした機会というのは、滅多に与えられないような、そんな貴重なものです。あなたは、それを与えて下さいました。そのことには、感謝しなければいけません」

「それで、あなたの中の壁は、越えられたのですか? 由季子さんという、壁のことです」

「越えられませんわね」と、彼女は言った。「それは、越えてはいけないものだって、分かったんです……。わたしのなかで、彼女は永遠の存在でありつづける、そうなりましょう」

「これから、二人で、出頭する予定です」と、伸也が言った。「すでに、連絡の通り、迎えの刑事さんが待機しているんです。逃走の恐れはないということで、特に警戒はされていないようですが、包囲網のなかにいます。……罪を償って、やり直したいと思います。夫婦でもう一度、幸せを取り返したいと思います」

 彼らは、由季子の遺体遺棄、その他、戸籍関連についての合併罪に問われる予定だ。しかしながら、罪に服す念が強くあるため、やがて課せられるその罪に、素直に従うはずだった。そうした態度が、彼らの出所を早めるというようなことは、あるのかもしれなかった。

「それで、どういう夫婦を目指すので?」

「由季子さんがモデルの夫婦になりますよ」

 と、伸也が言った。

「なぜ、それにこだわるのです?」

「それは、いましがた彼女から受けた希望ですよ」

 と、伸也は彼女を見て、水を向けた。

「いいましたでしょう」と、彼女は言う。「心の中に、刻みつけられてしまったのです、と。わたしは、彼女の生き方そのものに、元あった心が吸い上げられてしまったんです……、もう、同一化したようなものですよ。そうさせたのは、あなたです。以後、わたしは、自分を取り戻すことはできない。津路由季子の精神を受け継いで生きていくことになります。……獄中では、お母さんのことを祈りつつ、過ごしたいと思いますわ。それが、娘として、できる最後のことです」

「そうか、彼女のために……」と、芝村はうなずいて言った。「あなたならば、彼女の心を救済することができましょう」

「勘違いなさらないで」と、彼女は突然の慟哭とともに言う。「決して、これは演技なんかではないんです。わたしは、心からの思いで、そう言っているんです。そうした心が一ミリでもあるのでしたら、これは逆に侮辱というものですよ? わたしには、そんな怖ろしいことはできません。心からの思いでそう言っているんです。そうでなければ、このようなことは請け負えません……」

 彼女は苦しそうに胸を押さえる。一瞬、過呼吸のようなショックを見せた。

「彼女を連れて行きますよ」と、伸也が言った。「このままだと、彼女は持ち堪えられそうにもなさそうです」

「そうしてやって下さい」と、芝村は言った。「そのほうがいいみたいだ」

 二人は、寄り添うように、長い廊下の奥へと消えていった。時折、彼女の方がつっかえ、その足取りが止まったりしたが、それを支える伸也は落ちついていた。

「これは、どういうことなんですかね」と、龍崎が誰もいなくなった廊下をぼんやり見つめつつ言った。「本当に、由季子さんの心が彼女を浸食したというべきなのでしょうか。慟哭のさま……どうも、演技ではありませんでしたよ」

「あれは、由季子だよ」と、芝村は言った。「疑いもなく、由季子そのものさ。しかしながら、分別はある。彼女の中には、ますみという人格も存在しているんだ。一種の、二重人格状態さ。強く打ち込むがために、激しい抑圧感情が彼女の中に起こっている。そして、それが彼女を支配している」

「それは、ずっと、つづくんですか? あるいは、彼女が生を終えるその時まで?」

「そのように、伸也は言っていたがな」と、芝村は答える。「どうなるかは、俺にはよくわからない。どちらにせよ、由季子という感情を自分の中に取り入れるに従って、彼女の中に篠代婦人を尊敬する親として見る、そんな感情が芽生えてしまった。彼女が、言った、心に刻みつけられたというのは、そういった部分だ。……篠代婦人は、聞いてのとおり、長くはない。やがて、土に眠るだろう。本人は、誰にも報されずに、静かに、そっと死ぬということが最後の希望だと言っていた。そのとおりになるだろう。結婚しなかった、女性だ。そして、家族はない。あるとすれば、兄の敬三だけだ。彼女の墓は、設置されても、長い孤独にさらされることだろう。しかし、ますみがそういった心を持続させれば、そうした孤独は解消されるんだ」

「なるほど……、そういえば、そうですね」と、龍崎は言った。「このまま、忘れ去られるようなことがあってはなりません。ですから、彼女がそうした心を持続させることには、意味があるということになってきます。形こそは、本来のそれと大きくはずれたものとはいえ、いずれにせよ、これは彼女の残した財産にはちがいないのでしょうから……」

「実質、相続権など発生しないから、つづけてくれれば、本当いい財産だよ。健全で、まがったことなどどこにもない財産となる」

 芝村は背を向け、歩き出した。また、事務所に引き返すつもりだった。たまっている仕事が、その他にもあった。

「つづけてくれると思います?」と、おいていかれた距離の向こうから、龍崎が言った。「罪をつぐなった出所後、そうすることに意味がなくなっても彼らは、自発的にやってくれると思います?」

「心だ」と、芝村は言った。「最終的に、心に何が残っているかで、それは決まる。彼女の心には、それがあるかどうか? ……俺は、あると思う。そう、信じている。あれは、やっぱり演技なんかではないんだ。君も、あの様をしっかり見ただろう? それが答えだ」

 

 

 

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