第三章
第三章
1
津路由季子の素性調査の結果が出た。
彼女は、十五回もの転居を繰り返したその裏で、何度も住民票を移動させていた。この手口は、離婚歴を消去する詐欺師にありがちなものだった。住民票を移動させると、元々住んでいた自治体では、除票となり、五年の保存の後に破棄される。そうして、きれいに住民票から結婚歴が消え去るという流れだ。
しかしながら、この方法は、完全ではない。あたらしい住民票には以前の住所が記載されており、それをたどって、元住んでいた自治体で、住民票の除票を取得した場合、離婚歴を把握することが可能なのだった。通常は一回二回の遡及に留まり、深追いはしないために、複数回の住民票の移動があれば、分からないままに放置されるのが常だ。こうして見逃されることになると、一番最初の住所に戻っても、離婚歴がない真っ新な人間として、生まれ変わることができてしまう。履歴の消去は、役所の体質をうまく突いているという部分に悪意があった。
こうした行為を実行した事後だったとしても、結婚したという事実はどこかそこかに残るため、やはり、事実関係を掘り下げることができないというまでではない。特に、芝村のようにこの手の経歴を洗う人間にとっては、遡及手段をいくつも心得ている。
跡部晋作
この男の存在が、これまでの結婚歴に浮上していた。それも、三回結婚、離婚を繰り返した後、最終的に津路伸也に留まっている。この事実は、いったい何を意味するのか? 彼女は、詐欺師なのだろうか?
いや、詐欺師の要件を満たすには、まず先に目的がなければいけない。彼女には、なにがしかの目的を持っているとは思いにくいところがあった。だいいち、搾取を果たしたというべき、財産を彼女は持ち合わせていないように思える。すでに使い果たしたなど、大変な浪費家であったというケースもあり得たが、いまのところ、それは彼女に確認できていない。部屋を一望する機会を得たとき、増改築した以外は、目立った高級家財や、骨董品、宝石類などは見受けられなかった。あそこは、手作り品で埋め尽くされた、そういった夫妻の趣味や好みが反映された、独特の空間だったというのにすぎない。
その日の夜、電話があった。青峰からだった。
「社長、例の件、調べておきましたよ」彼はのっけから、勢いのいい舌回りを見せていた。「伸也という男に、裏はありませんでしたね。この男は、正常です。特に、これといった犯罪歴はありません」
「家族は?」
「いるようです。岡山県浅口市というところです。兄弟は、妹が一人いるようです」
「由季子に関する事件とのつながりは?」
「それは、確認できていません。まったく、ないと言っていいでしょう」
「過去を聞こう」
「岡山県内の高校を出た後、すぐさま上京しています。上京先では、アルバイトを掛け持ちしながら、劇団に所属していたようです。以後は、その日暮らしという言葉が合うような放浪生活を繰り返していたようです」
「劇団についてなんだが、……これは、大きなところか?」
この過去に、ぴんとくるものが、芝村にはあった。
「いいえ、ちがいます」と、彼は言った。「収入も満足にもらえているかどうかもさだかではない、個人主宰の小さなところでしょう。劇団『らいおんはーと』というのが、所属先の名前です」
「それについては、追ったのか?」
「そこは、ノータッチです」と、彼は言った。「今回突っ込みましたのは、彼自身の大まかな経歴です。残念なことに、そこの劇団は、五年所属して、それで辞めています。それから以降、劇団あるいは、それに関係する演劇の会社に所属するというようなことはしなかったようです」
「劇団員としては、実働たった五年だったというのか……? これは、事実なのか?」
「はい」
「上京してそこに所属した以上は、彼の希望は、それがすべてだったはずだろうに。これが違うというのなら、おれがいま思っていることは、大部分で間違っているということになってくる。……そんな簡単に足を洗うはずがないんだよ」
「いま、伝えたことがすべてです」
「そうか……」芝村は一旦、身を引かなければいけなかった。深追いするだけの材料など、あいにく手元にはなかった。「ならば、そのあいだに、何かが起こったと考えるべきだろう」
「劇団員としての彼を追いますか?」
「いや、そこから先は、自分がやる」と、芝村は言った。「その代わりに、やってもらうことことができたんだ。それとは、ある男を追うことだ」
その男の名前を、芝村は言った。
由季子の素性調査で出てきた、元旦那にあたる男――跡部晋作だ。彼のことについて、簡単なあらましを告げると、彼はなるほどと言った。
「なにか、くさい臭いしますね、その男」
「由季子が詐欺師ならば、被害者であったという可能性が高いというだけであって、その男自体には、くさい臭いはないはずだ」
「それで、由季子が詐欺師であるという線は、固まっているんですか?」
「さっき悩んでいたのがそれだ」と、芝村は苛立って言った。「結果は、まだだせない。俺の判断を採用していいならば、彼女はそうではないと決めるしかないんだよ」
「もつれそうですね」と、彼は他人事のように言った。「そのほうが、面白くなりそうですが」
なんでも、単純解決という結果をきらうこの男のことだ。複雑な線が浮上しているいま、スリルを感じているに違いなかった。
「面白くなっては困る」と、芝村は軽く吐き捨てる。「奴らに翻弄されてはいけないパターンなんだ、今回の場合は」
「とにかく、調べの方は任せて下さい。調査は、順を追ってやっていきますよ」
「なにか引っ掛かるようなことがあれば、跡部に接触してもらっても構わない。彼は、外野だ。だから、依頼人に累が及ぶというようなことはまずない」
「そうですか、だったら、接触も考えてみます。その他に注文はありませんか?」
「ない」
と、芝村は息を溜めて言った。
「そうそう、伸也の件のつづきなんですが、彼がこれまでに勤務したところの評判は、決まってもの静かな男ということでした」
採石場での彼は、上司に反感を示す、反抗的な社員ということだった。その当時は、抑圧できていたということなのだろうか。
「推定年収は押さえているか?」
「だいたい、四百万後半から五百万の中ぐらいではないか、と。すべて土木系です。そして、扱いは季節労働者ということでした。電気技師の資格をいくつか持っているようです。あと、重機免許も持っているようですね。ピンチヒッターとしては、かなり使える男なのではないでしょうか?」
「なるほど、ピンチヒッター」納得から、思わず唸り声が洩れる。「演劇でも、そういう役柄だったのかもしれんな。たとえば、大道具を作るというようなそんな感じだ」
例の彼の家の周りにあった、あの独特の趣味作品の数々は、そうした仕事に明け暮れていた時期の、希望を持ってやっていたことの名残というわけだ。また、彼がそのことにつながる創作について、芝村との対決を買ってでるなど、尋常ではない闘争心を燃やすのは、当時のプライドが絡んでいるためだったと考えることができよう。
「思い当たる節があったようで」と、彼は言った。「どちらにせよ、成功者ではないことは確かですよ。これから先、隠していたことが浮上してきたとしても、ぼくはとくに驚かないですね」
「隠していたこと? 前科所持者というような黒い部分は、確認できていないんだろ?」
「今回のは、あくまで一通り、ざらっと洗った結果にすぎません。一点集中でしぼっていけば、また違ったものが出てくる可能性はあります。もっとも、性格や気質からいえば、そうしたことに手を出す度胸があるかどうかは、これは確かなことは言えないんですがね」
「交際していた女は、これは調べたか?」
芝村は別口に切り込んでみた。
「けっこう、女癖の悪い男だったようです」と、彼は答えた。「そうしたことで、揉め合いになったというのはないようですが、そちらの評判は良くないようです」
「いつの評判だ? 岡山を出る前か、それとも出た後か?」
「劇団に所属していた頃ですよ」
「そうか、それは注目すべき情報だ。となれば、辞めた以後の噂――これについても注目してみなければいけないことになるか」
「それが、さっぱりないんです」
劇団に所属していた前後、彼に大きなことがあったにちがいなかった。それは辞めたことにも関係しているにちがいない。見るべき焦点は定まったと言って良かった。
その時、彼に何があったのか。
「調べるべき点はよく分かった、ありがとう。とりあえず、跡部の件だけを頼む。要件はそれだけだ。じゃ――」
電話を切った。
部屋の中は、こそとも鳴らない静かな空間が保たれていた。いや、すぐさま御影石を削る槌音がきこえてきた。倉橋だ。彼は今日から掘り出す作業を開始していた。休んでは、削りだし、休んでは削りだしをひたすら繰り返すこの作業は、果てしなくつづくように思えるほど、効率の悪そうなものだった。手作業なのだから、それは当然かもしれない。時期がくれば、専用の機械を使いたいと彼は言っていたが、それでも最初のうちは手作業がつづくのだろう。
芝村はしばらく、伸也のことについて考えていた。劇団『らいおんはーと』。彼に貧乏生活が沁みてしまうのは、劇団所属の結果だろうと思われる。たいてい、知名度に乏しい劇団は、所属員の皆が、食いはぐれるようなそんな厳しい生活に追いやられている現状がある。協賛費をつのれない逆境のさなかではチケット代が収入のすべてだが、たいてい満足に集客できず、会場準備費、設備費の出費がかさんで赤字で終わることのほうが多い。『らいおんはーと』も例外なく、そうした劇団である可能性は高い方と見るべきだった。
そこを、探し出して伸也の過去を洗い出して見るしかない。
最終的にそう思った。
気になるのは、いつ、いまの彼の妻である、由季子と出会ったのかという点だ。彼女との出会いでもって、女性関係がたちどころに治ったというのは、由季子の捉え所のない、奔放な気性からして、なるほど納得という部分はあるが、それにしてもなぜ、という根っこの部分はやはり残るのだった。
もしかしたら、あの婦人が由季子と名乗るようになったのは、その時期だったりするのではないか。だとしたら、本物の由季子は、その時期、彼らの周辺にいたというべきではないか。
また、槌音が聞こえてきて我に返り、芝村は窓から彼の仕事場を眺めた。つなぎを半端に着たタンクトップ姿という、男っぷりを強く感じさせる風体。口許に咥えられた短くなった煙草が、紫煙をたちのぼらせていた。
大振りなノミを目的の箇所にあて、槌を打ち込む。それで、御影石は粘土細工のように、ぽろりと剥がれ落ちる。粉気の強い、白煙が投光器に照らされて光って見えるのが、何となく格好が良かった。
あとで、差し入れでもしようか、と眺めていたが、ブロックと闘う倉橋の目つきはそれを必要としないように感じられた。これは、闘いなのだ。それを差し止めるようなことはするべきではない。せっかく養った士気を台無しにしてしまう恐れがある。
何度も、向きを変えるその彼の姿を、ただ静かに見守った。作業は、夜明けがくるまでつづけられた。
2
『らいおんはーと』という劇団は中野区の鷺宮にあった。路地裏のような細い道に軒を連ねる、醜い補修跡が残るアパートたちに紛れた事務所は、木簡のような看板を上げていた。
訪ねると、人の声がした。閉じられた木戸の向こうからだ。夢中で叫び回るような、台詞。演技の練習中のはずだった。
どうしたものか、と迷っているうちに、声が止んで、戸が開いた。ぼさぼさ髪に着流しを合わせた、劇団員らしき男だった。緩んだ兵児帯から、すね毛の浮いた足下がはだけている。その向こうは、六畳ばかりの狭い空間に、古い家具が押し込められた、畳敷きの世界だった。ちんどんやのパレードができそうな、手作り感の強い大道具小道具が並んでいる。半分は壊れ掛かっていた。窓際には、傾いた洗濯物干しに、女性の下着と、手拭いが掛かっていた。
「あなた誰ですか?」
と、ぼさぼさ髪の劇団員が足下を直して言う。芝村は身分を名乗った。そして、伸也という男を捜しているのだという、仮定でもって来意を告げる。
彼らの練習は取りやめになった。中に請じ入れられ、ステンレスの水筒でお茶を差し出された。六人の劇団員は、汚れた壁に、丸くなるように並んだ。芝村はそれに相対する位置に腰掛けた。
「伸也のやつは、よく知っていますよ」と、ぼさぼさ髪が言った。「もう、ずいぶんと前になるけれど、たしかにうちの団員でした。もっとも彼を知っているのは、ここでは、ぼくと、りつの二人ぐらいになりましょうが」
「りつ? どの人だろうか」
芝村が意外においしい茶をすすり終えて問うと、一人の男が手をあげた。なぜ劇団員をしているのかも不明な、特徴のなさそうな男だった。ただ、明るさはなんとなくありそうだった。
「彼は、どんな人だった?」
りつ、に訊ねた。
「女たらしのある、だらしのないやつでしたよ」と、言う彼のそれには、これといったいやみなどはなかった。「でも、よく働くやつでしたね。劇団は好きだったと思いますよ。話し合えるところはいっぱいあったはずなんです」
「でも、彼はいまから十数年前、突然、辞めてしまった、そうだね?」
「はい、辞めましたよ」と、彼は言った。「突然だったから驚きましたけれど、あいつの行動は早かった。気づいたときには、もういなくなっていました。思えば、最後に会った時のあれは、挨拶だったんだ。……後から気づくなんて、おれって馬鹿だなって思うんだけれど、でも、あいつもあいつで、そういうのははっきりと言わなかったはずなんですよ」
「なんでも秘密が多い人だったのだろうか?」
「秘密というか……」と、ぼさぼさ髪が言った。「プライベートはタッチしないというのがうちらの約束で、みんな各々の生活は、自分でどうにかしていたんです」
「失礼だが、当時は、どのような暮らし向きだったのだろうか?」
「劇団を起こした時は、千人近く動員できる日もあるというぐらい、中堅な線をいっていましたよ……」と、彼は心もち、勢いを得て言った。「収入だって、それなりにありましたから、まあ、食いはぐれるというようなことだけはなかったはずです。もっとも、伸也の素行は少し荒れ気味だったから、暮らし向きもかなり安定していたかどうかは怪しいんですが……」
最盛期は、小ホールを練習場所として借りれるという時もあったようだ。その時は、劇団員も六十名を越える程の数を抱え込んでいた。それでも各々に別の職業があり、そちらと兼用で、生計を立てていたというのが、現状だったようだ。いまもそれは同じで、ほとんど趣味でやっているのに近いというのが本当のところと、彼は笑い話のように言った。
「ある意味、あいつもあの時期にここを出ていって、正解だったんですよ」と、ぼさぼさ髪は言った。「堕ちていくだけの劇団なんていうのは、みじめなだけですからね」
「おれは、みじめだとは思っていないよ」と、りつが言った。「稽古場所は、今でこそ、ここと市民センターになってしまったけれど、リピートのお客さんは何人かいるし、ある程度、楽しみにしてくれている人がいる。なにより、劇団の人、と回りからアーティストのように見てくれるというのがある。落ちぶれても、みじめな感情はどこにもないね。気持の持ち次第だよ、そこは」
「アーティストはないよ」
と、横手の男が突っ込むと、彼らは声をそろえて笑った。
「とにかく、伸也は、立派な劇団員だったんだな?」
芝村が問うと、りつがうなずいた。
「器用なやつだったと思いますよ。どこに行っても、融け込めるやつじゃないかな? おれは思う。あいつはいまもどこかで、劇団員やっているって。見つけたら、言っておいて下さいよ。また、ここに来てくれ、と」
「ちゃんと、報告しますよ。そういうことは、彼にとっても良い話だろうからね。で、演技の方はどうだったのか? 才能はあったのだろうか?」
彼らから失笑が洩れた。あるいは自嘲だったのかもしれないが、そういった野心を彼らは秘めていて、そこをくすぐった結果の失笑――芝村にはそのようにも受け取れた。
「伸也に才能があったら、この劇団、もっといい思いしているはずですよ」と、ぼさぼさ髪が言った。「演技というか、キャラクターだよね、あいつは。そうそう、キャラクターの良さといえば、あいつが連れて逃げた女も、その力を持っていたなあ」
「連れて逃げた女?」
「一緒に消えた女がいたんですよ」と、りつが言う。「一ノ瀬ますみっていう子ですよ。美人で、けっこうファンとかついていたんですが、まあ、伸也と一緒に出ていってしまいましたよ。こちらも予告なしだから、後付けで分かったんですがね」
「そのますみって子は、こういう顔じゃないかね?」
芝村は写真を一枚抜き出して彼らに示した。先日、龍崎に撮らせた、隠し撮りの一枚だ。彼らは、食い入るように見ていた。ほうっと感嘆が洩れたのは、被写体が凄絶な美人だからだろう。
「間違いない、ますみですよ」と、りつが興奮して言った。「大人になっていますね。全然、年を取っていない。まるで、一年二年しか経っていないというぐらいですよ。こんなことって、実際あるんですね……」
感慨深く、また写真を眺める。そのうち、ぼさぼさ髪と取り合いのようなことをした。
「君たちは、彼女に恋心があった? いや、正直なことを言って欲しいんだ。ほら、こういうことは、もう時効だろう?」
「いえ、そういうのはないです」と、ぼさぼさ髪が言った。「当時から、伸也と、ますみが付き合っているのは、公のことになっていましたからね」
「そうそう」と、りつが言う。「それでも、好きという感情は、あったかもしれないな。そういう人間は、周囲にはいたはずだよ。なんというか、彼女はいつもちやほやされていたところがあった」
「まあな」と、ぼさぼさ髪がりつに言う。「でもだからって、みんな、そういう感情があったわけではない。そして、伸也に嫉妬があったというわけではない。二人ともおれらと普通に付き合えていたし、それだって裏も表もない、いたって健全なつき合いだったと思うよ」
「でも、伸也は女たらしだったんだろう? その部分は引っ掛かっていたはずだと思う」
「もちろん、それは分かっていることですよ」と、ぼさぼさ髪が肩をすくめる。「でも、そのあたりは、あんまり気にしていなかった
んです。注意するっていったら、ちょっとしたこと。でも何度か、劇団員の女の子に手を出して、辞めさせてしまった。そういうこともあったんだ。放任策は悪かったといえば悪かったんだ」
芝村にこの時、もしやという感情がわいた。
「その中に、由季子……岩佐由季子という女性は含まれていないだろうか?」
「岩佐、由季子……?」りつが反応した。「知らないな。知ってる?」
彼から水を向けられたぼさぼさ髪は首を振った。
「知らない。そういう子は、いなかったはずだよ」それから彼は芝村を見た。「どういう人なんです?」
「その人の、写真はない。だから、知らないならいいんだ」
少女時代の写真を見せてもどうにもならない。ここは、そう言ってかわす他はなかった。
「その辞めた子について何だが、事後、伸也にはたっぷり問い詰めたはずだろう。彼はそれでも劇団員を追われるようなことはなかったんだ? その後も、放任策というやつをつづけた?」
と、芝村は重ねて問うた。
「もともと、女の方が伸也にぞっこんというパターンだからね。それに、性的に被害を受けたとかそういうことではないから基本、介入はできない」と、ぼさぼさ髪の回答は、あくまでも慎重だった。「なにより、劇団内は、恋愛自由だからね。いざこざは、当人同士で解決してもらうことになっていたんだよ。だいたい、その辞めていったという理由も、後から分かったようなことで、その時はどうにもならなかったんだ。彼女の回りには、仲間というサポートもあったし、決してこちらはいい加減な対応ではなかったはずだ」
「それでも劇団内での、伸也の心証は悪くなったはずだよ」
「彼については、当時のリーダーからきつく注意されていましたね。……いい加減にしとけ、と。まあ、非公式ではありますが厳重注意ってやつですよ」
「それで彼が理由で、辞めた子は、全部で何人?」
「いえ、その子一人だけですけれど」彼の目は考える態になっていた。「女たらしは、あくまで外側の顔でのことです。彼にたぶらかされた娘は、劇団内には……ほかにも、いたのかいないのか。あと一人、なんだか、思いつきそうなんですけれど、引っ張り出せない感じです」
「もしかして、お客さんじゃないの?」
劇団員の一人が言った。
「それはあり得るなあ」と、りつが言う。「伸也なら、そちらにも手を出していた可能性はあるかもしれん。あいつも、ファンがついていたしね」
「その彼についていたファンを思い出してもらえないだろうか?」
「むりむり」と、ぼさぼさ髪が手を振って言った。「十何年前の話ですよ、覚えてませんよ、さすがに。顔を見れば、ああこの人だってなるかもしれないけれど、やっぱり、自力では無理です」
「当時、彼が住んでいたところは、覚えています?」
「何度か、遊びにいった」と、りつが言った。「すごい、ぼろぼろなアパートだよ。俺らの中で一番貧乏生活だったんじゃないかな?雀荘狂いとかそういう金を使いまくるような、そんな遊び人という感じではないんですよ、あの男は。根は真面目です。でも、女はやっぱり、緩いところがあった。ますみは苦労したと思うよ。というより、彼女はいま、何をしているの?」
「田舎で、主婦をしているよ。これ以上は個人情報だから、教えられない。そこのところは、ご理解いただきたい」
「旦那ぐらいは、教えてよ」と、ぼさぼさ髪が訊いてきた。「伸也……なわけないか。探偵さんがいま、探しているわけだし」
「そこは、やっぱり教えられないんだ。すまんが、遠慮してくれ。彼女は幸せに過ごしているということだけは伝えておくとする」
それから、伸也の劇団員時代の住所の位置を教えてもらった。アパートはいまは取り壊されて存在しないはずだと言われたが、大家はまだいるかもしれない。望みを捨ててはならなかった。
「でもおかしいよね。伸也を探しているのに、ますみの写真をも持っているだなんて」と、りつが鋭いことを言う。「なんか、関係があるんじゃないのかな? まさか、ますみが依頼人で伸也を探しているとか」
「だとしたら、夫婦確定だよ」と、ぼさぼさ髪が言う。「だったら……いいんだけどね。そうはならないんでしょ。……ね、探偵さん」
芝村は居心地の悪さを感じていた。苦笑いで混ぜ返すしかない。
「君たちも、世間話が好きだね」と、受け流して立ち上がる。「そろそろ、お暇させてもらうよ」
「あ、玄関まで送っていきます」
と、ぼさぼさ髪が立ち上がる。
遠慮を告げたが、彼は従わなかった。玄関を出てから、耳打ちのように声をひそめて芝村に言った。
「なんか、伸也のこと、悪口のように言ってしまったようだけど、悪気があったとかそういうことではないですよ。あいつも、劇団員で、つまり一人の家族だったんです。だから、つい、口さがないことを言ってしまっただけなのです……」
「悪気がなかったことは、分かっているさ」と、芝村は入口で窮屈そうに立っている彼に言った。「……にしても、女たらしというのは、とにかく悪いイメージがつきまとうね」
ちょっと離れたところの用水路の上に、猫が座っていた。餌づけされているらしく、野良なのに大人しい雰囲気だ。劇団にも馴染みがあるらしかった。こちらを気に掛けている。
「元々は、あいつが働いていた先で噂されていたことだったんですよ。それが、移って……という感じでしょうか。実際、劇団員の一人を追い出してしまったんでしょうが、その子も、気が弱い子で、まあ、向いてなかったんです」と、言って彼は頭をもどかしそうに掻きむしった。「ひどいことを言うようですが、ここにいないほうが彼女にとって良かったはずです。職業的にもおいしいというわけじゃないですしね」
「あなたは、当時、どういう位置だったんです?」
「どういう位置とおっしゃると?」
「指導者的な位置だったのか、それとも、それに準じるものだったのかどうかってことさ」
「ああ、それですか。当時は、いち所属員です。何もやっていませんでした。ぼくが、ここを取り仕切るようになったのは、伸也が出てから、四年ぐらい後です」
「だったら、当時の団長から、そういう風にしろというように、言われていた可能性はあるかもしれない。伸也は、嫌われ者の役をやっていたということだ」
「ぼくは、そういうことはないと思うんですが……」
「演技力はどうかしらんが、キャラクター力はあったと言ったのは、あなただ」
彼の口が、あ、となった。
「でも、劇団員を追いつめていくという役などやらなくても、稽古は厳しかったですからね、そういう役など彼がやらなくたって、特に問題なかったはずですよ。ついて来れない人は、自然と辞めていくものですから」
「そんなものかね?」
「ええ……、自分が知っている限り、これは、まちがいないことかと。それで、なぜ、嫌われ者役をやっていただなんて、思いついたりしたのでしょう?」
「こういう考え方が浮かんだんだ」と、芝村は言う。「彼は嫌われ役を買ってやっていたが、それは実は彼の表向きの顔で、本当の素顔はちがう。その本当の素顔を知っていた人間が、彼の魅力そのものを十分に知っていたため、彼に惹かれていた。いわゆる、ギャップ萌えとかいうやつだ。そういうのが彼にあった……ファンも含めて、幾人かの女性たちに見初められるというのは、やはり何かがあるべきなんだ」
「ギャップ萌え、ですか……」
彼の顔つきが渋くなった。
「それとも、プレイボーイというイメージはやはり崩せないんだろうか?」
「うーん、どうでしょうか……」
彼は腕を組んだきり、何も言い返せなくなった。十数年前の出来事の、辻褄あわせ。それが彼の中で行われたところで、混乱が起こるだけにしかならない。無理なことを、訊いてしまったようだ。あとは、自分で答えを掴みにいくしかないのだろう。
「私は行きますよ。……彼を追っていたとする、ファンがやっぱり気になるんです。これを追い掛けなければいけないのですよ」
歩き出すと、猫が追い掛け繰る素振りを見せたが、途中で止めた。それから、思い直したように、劇団のほうへと歩いていった。
3
教えられた場所にアパートはなかった。そこにあるのは、立体駐車場と、司法書士の看板が上げられた事務所だけであった。
行き合わせに窓口に立っていた駐車場管理人と接触する。アパートの大家を捜していると告げると、彼は自分がそうだと言った。
「ここには、六部屋あるアパートが二棟建っていたんだ。この界隈は、アパートばかりだった。でも、一気にそれらは取り壊されて、無くなったよ。もともとアパートじゃないものを作り直して、アパートに仕立てたものばかりだったから、最初からあんまり造りのいいものじゃなかったんだ」
「探しているのは、この人です」と、芝村は伸也の姿写真を取りだして彼に見せる。「彼は、そのアパートに住んでいた人です。津路伸也さんです」
「たぶん、契約者だ」と、彼は写真を目から遠ざけながら言う。「とても、いなせな男だった。舞台役者をしているとかどうとか言っていたが、そういう活動をしていたのは見たことはない。けれど、普段から輝きがあったのは、確かだよ」
「彼のところに、女性はきていましたか?」
「交際している人がいたはずだ。あと、仲間たちもしょっちゅう、遊びに来ていた。苦情を言ってくれというようなことを頼まれたこともあったはずだ」
「騒ぐのが好きな男ですか?」
「素行不良とかそういうことはいわんよ。礼儀正しいし、紳士な一面もある。気っ風がよすぎて、……ああいう男は、なんていうか、頼まれたらなんでも、断れない男じゃないか?」
いまの彼と比すれば、本質的に変わっていないのかもしれなかったが、それでもやんちゃだったという部分はあったようだ。
「飛躍しますがね、出て行ったのは、いつ頃でしょう?」
「わからん」と、彼は首を振って言った。「資料は、もう保管期間すぎたから、処分したよ。手元にはない」
「夜逃げというようなことは、ないですよね?」
「夜逃げ?」彼は失笑で返した。「そういうのは、ないよ。礼儀正しい男だと言っただろう。ちゃんと出ていく時は、挨拶があったよ」
彼は言ってから、首を傾けて考える仕草をした。
「そうそう」と、思いだしたように、言う。「夜逃げと言えば、同じ時期、近くのアパートでそういう話があがったのを思いだしたよ。津路くんがうちを出て行った時期と、ちょうど重なる。まさに、ちょうど、だ」
「詳しくお聞かせ願えますか? それは、男性ですか、女性ですか?」
芝村は、ある予感を得ていた。
その話には、きっと、つながりがあるはずだ。
「女性だよ。まだ、若い女性だ」と、彼は言った。「荷物をそのままにして、本人だけいなくなっちまったんだ。誘拐されたとかそういう噂が立ったが、結局、手掛かりはなし。なんでも、その後、見つかったとか、連絡があったとかそういうことで済んだみたいだけど、やっぱり、夜逃げだったみたいだ」
「理由は、なんだったんです?」
「わからねえ」と、言って彼は、老人斑の浮かんだ、頭を押さえた。「男と女のあれじゃないの。痴情のもつれとかいうやつだ。なんでも、その部屋には、何度も男女の出入りがあったみたいだっていう噂を聞いたことがあった」
「そのアパート、場所分かりますか?」
「もうないと思うよ。探しても、無駄だよ」
彼は首を振って言った。芝村は腕にしがみついた。
「頼みますから、なんとか特定できないでしょうか。その人物こそが、自分の探している人の可能性があるのです」
「困ったな……」
彼は管理人室をバイトに委任し、それから芝村を導いて、自宅にまで引き込んだ。
町内会の連絡簿を引っ張り出してもらい、そこから噂になったアパートの割り出しが始まった。すぐさま特定された所有者と接触を試みると、アパートはまだ存在していることが分かった。
手前に大きなアパートが建ってしまったため、隠れてしまったというだけのことだった。津路伸也が暮らしていたところから、二百メートル離れていた。老朽化は進んでいるはずだったが、何回かペンキで塗り替えをしたのか、表面上それを感じさせなかった。どことなく湿っぽい雰囲気に満ちているのは、壁の吸湿性が関係しているはずだ。
「もう、十何年も前の話だ」
ほとんど、目が見えていないというような、老人だった。生活臭が沁みた上下は、何年も彼の人生と付き添ってきた相棒のはずだった。ものを大切にしそうな、そういう気質があるように、感じられる。
「だが、そのことは、覚えているよ。当時は、けっこう大騒ぎになったものだ。とはいっても、わたしが勝手に騒いだようなものなのかもしれんがね。借り主が突然消えて、行方不明となれば、やはり穏やかではいられない。後にも先にも、ああいった事件が起こったのは、わたしの管理人人生の中ではあれだけだよ」彼はそれが習慣のように、上唇を舐めた。「あれは、ドアが開け放されたままだ……という連絡を、同じ住民から受けたことから始まった。聞けばずっと、開いたままでいる、と言うじゃないですか。それで、勇気を奮って中の人に呼び掛けながら入っていくと、誰もいないんだ。その時点では、事件性があるかどうかは分からなかったので、半日は待ちました。夜遅くになっても変わらなかったから、その時、はじめて警察さんに告げたんだ。……捜査の方は、翌日からはじまったよ」
「やってきた警察官は、単数だったんじゃないですか?」
「そうだったな。単数だった。あんまり、事件性の高い案件と扱っていなかった。捜査時間も短く、すぐに撤収していった。それから、二時間後くらいかな、連絡がきたんだ。役所のほうで、住民票が抜かれている……本人がそちらに接触したようだ、という連絡だ」
「事件性はない、とその時、判断されたのですね?」
彼はゆっくりとうなずいた。自分の身体を支えるように、側壁に手をあてている。
「直に、本人から連絡があるはずだ、と警察さんは言った。そしたら、そのとおりになったよ。三日後くらいに、本人からの連絡を受け取りました」
「その住民の名前は、なんですか?」
「ゆきこ……、そう、由季子だ。岩佐由季子さん……覚えている」
案の定、彼女の名前が出てきた。後に夫婦となる津路伸也と一ノ瀬ますみと同時期にこの界隈から失踪したという、岩佐由季子。この時点で、彼女がなにがしかの事件に巻き込まれたとする可能性は、高いはずだった。
この失踪は、彼女の意思によるものかそうでないのか、問題の焦点はそこに尽きた。
「岩佐由季子さん……彼女は、どういう人物ですか? 写真とかはお持ちでしょうか?」
彼は首を振った。
「写真などはないよ。人物……となれば、気が弱い人、そんな感じだったかな。おどおどしているわけではないんだが、警戒心を目に光らせているんだよ、あの子は。こちらが優しく語りかけても、結局、それは変わらなかった。なにかしら、ぬぐい取れない不安でも抱え込んでいたんだろうよ」
その不安は、扶養先を黙って飛び出したという背徳と、罪を犯した父がいつ現れるか分からないという恐怖からくるものだろう。当時、彼女は、そういったことに神経質になっていて、周囲の目を常に気にしていたようだ。
「それでは、友人関係は少なかったんですね?」
「恋人はいたようなんだ。部屋に男の人を連れこんでいる姿を何度か見かけたことがあった」
「どういう男でしょう?」
「それが、いい男でね。男のわたしもうらやんでしまうぐらいですよ。わたしらがよく映画に出ていった頃の、俳優さんと通じるような感じがありますかね」
伸也でまちがいないだろう。彼は、由季子の部屋に出入りしていた。二者について、ほぼ同時失踪というのだったら、彼らの失踪に由季子が同伴しているということも考えられる。
「失踪時も、男の影はやはりあったんです?」
「前後について、誰も彼女を見ていなかったから、証言者はいなかったんだ。だから、混乱は大きくなったんだ。男女のもつれがどうこうという噂だけが、独り歩きをしていった」
「それで、連絡を受けたということでしたが、あなたが直截受けたということでいいんですよね?」
「わたしですよ」と、彼は語気を強めて言った。「わたしがしっかりと対応しました。帰れなくなった、だから荷物は敷金で処分してくれ。売れるものがあったら、そちらでそのようにしてもらって、懐の足しにしてもらって構わない……それから、もう連絡することはないでしょう、ということだった」
「本人からですか?」
「と、相手は言っていたが? 本人じゃなかった可能性があったのかね?」
「いえ、あくまで訊いてみただけです」と、芝村は一先ずそう返した。「代理人ということもあり得ますし……だれが掛けてきたのかは、はっきりさせておきたいところです。由季子さんの声は、当時、しっかりと把握できていたんでしょうか?」
「それは、できていない。普段に話をするわけではないからな。それに、女の人の声は、みな同じ声という感じに思える。……ただ、当時、掛かってきた電話の声については、覚えているよ。はっきりとした声だった。朗読するように、一気に捲し立てて、それで未練なしに切られたという具合だった」彼はそれから顔を上向けて、思案に暮れた。「そういえば、あの声は、引っ込み思案というような彼女の性格とはちがっていたかもしれんなあ……」
由季子でなければ、ますみだったという答えが導き出される。彼女しかいなかった。となれば、その時点で由季子は消息不明か、あるいは亡くなっているかのいずれかの状態にあったということになる。
「当時の部屋の様子は、あなたも見ましたか?」
「それは、何度も見ていますよ。失踪時と、警察さんが来てからの現場視察、同伴……、そして、部屋のものを処分するときも、業者さんに立ち合った」
「部屋に何か異変と言いますか、不審な点はあったのです? あと、処分する際、気になるものが出てきませんでしたか?」
「異変は何もない。片付いていたよ、あの部屋は。持ち主を失ったわりには、不自然なくらいに、片付いていた。……処分については、何も出てこなかったな。売れるものがあったら……ということだったが、家財以外は、何も売れなかったよ。処分費用のほうが余分に掛かった。それでも、敷金とあわせれば赤字にはならなかった。……と、あなたは何が出てくると期待しているのかね?」
「たとえば、日記のようなもの……普段の生活を、記すものです。家計簿だっていい。あるいは、予定を記した、スケジュール帳だっていい。その走り書きのメモだって、役に立ちます」
「そういうのは、なかったね。家計簿だってなかった。カレンダーには何か書いてあったようだが、こちらは記憶していない。全部、忘れてしまったよ」
「もう一度思いだして下さい」と、芝村は彼に持ち掛ける。「部屋の様子です。……きれいに片付いていたということでしたが、ベッド、これはどうでしょう? そして、ゴミ箱これも気になります」
「ベッド……きれいだったな。机の上も、きれいだった。乱れているというか、生活臭があるところはどこにもなかった。ゴミ箱は業者さんに任せていて分からんが、警察さんはのぞいているはずだ。何も言わなかったあたり、そちらも綺麗だったんじゃないかな?
だいたい、警察さんは、本気じゃなかったからね、どうもすべてがいい加減だったように思える。それは、事後の対応も含めてだ」それから彼は、突如ひらめいた顔を見せた。「……あ、唯一、気になったといえば、風呂場だよ。そちらは、使用されたばかりなのか、湿気が残されたままだった」
「湿気が残されていた――それは、正しく言える事実なんですね?」
注目すべき情報だと、このとき芝村はそう思っていた。
「ええ、まあ、正しいはずです。見たまんまのことを言っていますよ」
「それで、当時の風呂場には、シャワーはついていらっしゃる?」
「あったよ。アパートを発注したとき、最新の一式をえらんだんだ」
「それで、シャワーの温度設定は、どのように? 風呂の中で選択できる様式? それとも、外側にボイラーがあって、それで設定するタイプでしょうか?」
「ボイラー式だ」
「でしたら、使用していたのは、風呂かシャワーかどちらかわかりませんね。風呂おけ……これは、どうです? 確認しましたか」
彼は渋面を作った。
「特に、注意深く見ていないな。何が知りたいので?」
「風呂は、入った後すぐに掃除する人は少ない。だから、直前に入ったとするならば、風呂おけの底に、髪の毛が残されているはずだ」
あ、というような表情に彼はなった。
「そういうのは、なかったよ……うん、使用感はなかった」
だったら、最後に使用したのはシャワーだったということになる。男を連れこんでいて、情交をかわそうとしていたという状況があった、というべきではないか。つまり、由季子は伸也を迎え、一夜をともにしようとしていた――
ベッドが片付けられ、ゴミ箱まで整理されたのは、これは由季子の手によるものではない。後から、証拠湮滅行為として伸也か、あるいは彼につながる第三者――ますみがこれを実行したというべきだった。
どちらにせよ、その部屋でなにかが起こったにちがいなかった。 しかしながら、荒らされた跡はなく、そして警察が入っても特に、注意するべき点はなかったことから血痕もなく、それに準じるような不審点もなかったといってよかった。なにかが起こったというのならば、どこかに手掛かりとなる要素の一つぐらいは見つかってもいいはずだが、それがなかった。
由季子の身に、いったいなにがあったというのか……?
「彼女の部屋は、どちらですか?」
芝村はアパートを振り返って問うた。老人は窮屈そうに突っかけを引きずりながら、芝村の前に進み出て、上方を指差した。二階の奥手から二番目。そちらには、いま誰かが住んでいるようで、古びた壁に合わない洒落た郵便ポストが掛けられていて、そこにチラシが何枚か差し込まれていた。
あの部屋で、いまから十数年前、変事があったのだ。なんとなく蒼白く光る壁が、冷たさを呈しているようで、アパート全体がいかにもとっつきにくいものに見えていた。
「このあたりは、夜、誰かがやってきても、なかなか気づかれにくいように思えますね」
芝村は周囲を見まわしながら言った。通りに面してアパートがまっすぐに建てられていない。その分、差を詰めるように隣のアパートが建てられていて、あたりは煩瑣な仕組みでなりたっているように感じられた。その割には、人気が少なく、あたりは静まり返っている。
「夜中に歩く人はいないよ」と、彼は言う。「このあたりは、治安がそう良くないらしいからね。不審者情報が町内会の回覧にことあるごとに報告されている。まして、女性の独り暮らし……となれば、いっそう注意が必要だ。契約者さんには、いつも気をつけるよう声かけはしているのだが……」
「過去に、そういうことがあったのです?」
「まあ、あったよ。追いはぎのような暴漢が現れたとか、そういうことだ。でも、さいわい、怪我などはなかったようで、大事に至らなかった。こちらでそういうことがあったのは、最近で、二年前の話か」
「由季子さんがいた当時はどうです?」
「変わらない。だが、実際そういった被害があったとする報告はなかったよ」
彼はもの言いたげに芝村を見ていた。彼女本人が失踪したのは、そうした被害に遭った結果だったということはまずないよ、とそう言いたいにちがいなかった。しかしながら、それは受け入れられるものなんかではなかった。彼としては、彼女から事後に連絡を受けた以上、それが作為によるものだったとしても、その声の主を信用するしかないはずだった。
「その子が、元気で過ごしてくれていると、いいんだがな……」と、彼は目を伏せて言った。「おおかた、何かあったのだろう。わたしとしては、何もしてやれないが、とにかく元気でやっていて欲しい……」
「そうですね、元気だといい」
芝村は無感動に合わせた。
内心では、そういった言葉とは逆の感情が起こっていた。この時点で、もう由季子とは出会えない可能性が高い。
彼女は、このアパートでこそ、亡くなったはずなのだ。
ロードスター内で、夜景を横手に打ちひしがれる感情に任せているその折、携帯が鳴った。龍崎からだった。
「敬三と接触のほう、終了いたしましたので、ご報告させていただきます」
「遅いぞ。何日かかっているんだ」
芝村は沈む口調を抑えられずに、暗い声で言った。その様に、彼が案じないはずがなかった。
「なにかあったのですか?」
「由季子は、今日でもって、絶望的だとはっきり分かったんだ。……彼女は、生きていない」
数拍の間の後、慎重な声が聞こえてきた。
「殺しがあったんですか?」
「そこはまだはっきりとしない。そうではないという可能性も、残されている。俺としては、そちらに振れていくことを祈っているところだ。どちらにせよ、由季子がどうなったかについて、津路夫妻は詳しく知っているだろう」
「では、追いつめていくんですね?」
「そうなる」と、芝村は幾分、生彩を取り戻して言った。「由季子のためにも、依頼人のためにも突き詰めていくことは大事だ」
「依頼といえば……果たせなくなってしまいますね、この状況だと」
「そちらは問題ない。いますぐ取り下げるというわけではないのだから、余計なことは考えなくていい」
「分かりました」と、言って彼は静かに引っ込んだ。「……と、報告の方なんですが、よろしいでしょうか?」
「頼む」
芝村は、息を吐いて、気を引き締め直した。
「敬三は、由季子に対して、手紙を出していたようです。それも、複数です。彼女に対する愛情は失せていないようで、涙ながらに訴えておりました。とても無骨な男です。娘とコミュニケーションを取ることに、器用そうではないイメージがある男です。話しているあいだは、ずっと気持が昂ぶったままでした」
顎髭もまともに剃らないような、そんな容貌の濃い、醜くすらある風体の男が目頭を熱くしているというような風景を、芝村は何となく思い浮かべた。悪に手を染めたが最後、彼の周囲を構成していたものの一切が崩れ、彼の手から失われるにいたった。そのことについて、彼が未練を感じないはずがない。特に罪をつぐなった後のいまでは、なんとか許してもらいたい、取り戻したいという、感情が強くあるはずだった。
「返事は受け取ることができたのか?」
芝村は感情を抑えて言った。
「いえ、由季子からは一度もよこされることはなかったようです。代わりに、妹の篠代婦人から手紙を受けたようです。それは、もう干渉するのはよして欲しいという、警告でした」
「彼は、それに反発したんだな?」
「そのようです」彼の声は、敬三の暗い感情をかすめ取ったように、沈んでいた。「何度も、説得と言いますか、そのようなことを繰り返したようです。彼のなかにある愛情が本物であるということを認めてもらいたかったのでしょう」
通じない愛情。それほど、もどかしいものはないのかもしれない。
「それで、手紙を出すことは、やめたのか?」
「やめざるを得なかったということでしょうね。由季子は手紙を受けた事で、精神的に動揺する気配が強くなった、と篠代婦人からの手紙にはそうあったようです。だから、彼女のために、もう筆をおいてくれ、と――そう要請されたようです。さすがに、彼もそれに配慮せざるを得なくなったはずです」
その事実を知った敬三は、どんな感情になったのだろう。出所後、自宅に寄らず見知らぬ土地で再出発するほどだ。強い抑圧の感情をもつにいたる、相当たる決意が宿ったにちがいない。獄中での慟哭もあっただろう。だが、それは彼の行いの報いの一つなのだ。彼自身が受け止めなければいけないことのはずだった。
「気になることが一つあるんだが、彼は由季子が家を出たことは知っているのかどうか?」
「知らないはずです」と、彼は言った。「何回目かにさずかった篠代婦人からの手紙を持って、交流はおえられたようです。その中には、彼女に関する情報は乗せられていなかったと、彼は言っています」
「総計のやりとりは?」
「彼が記憶しているだけでの話ですが、送付分は由季子への手紙が、五通。篠代婦人への手紙が三通です。受け取り分は、篠代婦人のみに限って、同じだけ交わされたのではないか、と。本人は、そのことについて詳しく思い出したくないというようなことを口にしていました」
思い出すことに苦痛を伴うということだ。
それだけ、彼にとって辛辣な内容が、手紙には書かれてあった。思いだしてもらうことに、強制はすべきではないはずだった。
「わかった。ご苦労さん。……こちらに、帰ってきてくれ」
「敬三の追加情報を求めないのです?」と、彼は訊いてきた。「まだ、不十分なような気がするのです……」
「何を求めるというのか?」
「彼が動いたとする、可能性です。由季子を殺めたとする動機がなり立つ状況ですし、追う理由はありましょう」
「無駄だ」と、芝村は言った。「彼が動いた可能性は、低い。由季子が姿を消した時期、彼はまだ牢の中だったはずだ。思ったよりも早い段階で、由季子は事件に巻き込まれている可能性が出てきた」
「では、敬三は外す、と」
芝村はしばらく考えた。
「もし、君が望むなら、現地にとどまらせてやってもいい。それは、アフターケアというやつだ」
龍崎は言っていることが分からなかったらしく、ごにょごにょと言葉にならない声を繰り返した。
「彼の心を、ケアするんだよ。傷ついた心を癒すには君の付き添いが必要になってくる。彼の心の中に存在する、由季子をしっかり育てあげるんだ。そうして、彼の人生を豊かなものにさせてやらなければいけない。間違っても、現実の由季子のことは伝えてはならない。彼女が事件に巻き込まれたことも、同じだ。すべては、直結しているんだ。だからこそ、彼には負担が大きい」
「ずっと、報せないままにしておく、と……」
「それが、賢明な選択だろう」
「しかし――」
「間違っていないはずだ。彼は、もう罪をつぐなった男なんだ。獄中では、ずっと懺悔をつづけてきたはずだろう。でなければ、出所後に抑圧生活なんてできない。これ以上、その男を苦しめるような選択は避けなければいけない。その男には、自分なりの幸せを掴んでもらわなければいけないのだ。もっとも、犯した罪については、これからも心に留めておかなければいけないんだろうがな」
「わかりました。……付き添えるだけ、付き添いましょう」
と、彼は遅れて言った。決意を秘めた言葉ながら、抵抗感を幾分感じさせる返しだった。納得できていないところがあるようだった。
「名分は、観察ということでいいだろう」と、芝村は言った。「そのあたりは、解釈次第で、君の裁量が許される」
「つまり、……どういうことですか?」
「俺の言いつけを守るかどうかは、君次第だということだ。そもそも、これは依頼とはまったく関係のないことでしかないのだ。時間外労働というやつだ。だから、本来は接触自体も、避けられるべきなんだ」
「そのあたり、委任して下さるということは、自分のこと、信頼して下さっているということなんですね……?」
「それは、ちがう」と、芝村は言った。「勘違いするなよ、龍崎くん。君は、なぜこういうことをしなければいけないのか、ということが根本的に分かっていない。だから、分かってもらう必要があると俺は思っているんだ。信頼というよりも……君を、ためそうと思っている、そういうことだ」
「そうでしたか」と、彼は無感動に言った。「……とにかく、彼ともうしばらく付き合っていきたいと思います」
電話は終わった。
彼の最後の声は、何だか思い詰めたように暗かった。自分で結果を選ばなければいけないことについて、重圧を感じているのだろう。選んだ選択について、どのような結果がもたらされるか彼自身に考えてもらわなければいけなかった。これは、彼にとっていい経験になるはずだった。芝村にはある種の確信があった。
4
「いい車ね、オープンカーなんて、ずっとずっと久し振りよ」
彼女の愉快そうな嬌声が林に消えていく。周囲に人家はまるでないから、景色そのものを独占した気になれているからこその、その喜悦を含んだ声音のはずだった。
「光栄ですよ、奥さん」と、芝村は言った。「あなたのような美しい人を横に乗せられるだなんて、それだけで私は、心が満たされます」
「あら、いいこと言ってくれるじゃない」
彼女は微笑んで言う。面積の大きいサングラスの下から覗ける目は、喜色一面だ。つばの緩くうねった帽子はいわゆる女優帽というやつで、すこし気取ったところがある人間にしか合わない高潔なところがあったが、彼女はそれを見事に被りこなしていた。
「これは、本気で言っていることです」と、言って芝村は彼女をちら、と見やった。「せめて今日だけは、彼のことは忘れて下さい。いま、この瞬間だけは、恋人同士だということです。私は、そのつもりでいますから」
「わたしだって、そのつもりでいるわよ」と、彼女は前を見て言った。「でなければ、うん、と楽しもうという気持になれないもの」
「そう言っていただけると、嬉しいものです。しかし、旦那さんには危険な言葉ですね。知られたらこれは嫉妬では済まされない」
「どうでもいいことよ」と、彼女は帽子を押さえて言った。「わたしを自由にしたいなら、精神から自由にして欲しいの。そのためには、あの人のことを、思い出させるようなことをするべきではないわ。そういうことから、断っていくべきなの」
「了解です」と、芝村は言った。「以後、彼のことは封印したいと思います。あなたのことだけを考えます」
「うん、いいわね。のんびり行きましょうよ」
彼女は腕を取って、快活に笑った。少女のように、無邪気だった。ドライブ中は、このままずっとハイテンションでいつづけるのだろうか、と少し不安を感じるぐらいだ。だが、それを突き通してこそ、彼女というものだ。超越したものがあるからこそ、彼女は魅力的な存在なのだ。
なだらかな坂を延々と上り、それから小さな山を登りつめていく、カーブ道を走る。その先にあった、湖畔にぽつねんと建つ、洒落た飲食店に車を駐め、屋外の席に向かい合って座った。白く塗られたウッドデッキ。虹色のパラソルがまだ真新しくて、いかにも雰囲気が楽しめるところだった。カタカナ語のメニューを適当にさすと、グレープフルーツをしぼった、サイダーがだされた。一口含むと、その他にも添加物が入れられている、奥行きのある味わいがした。
「これまでの、恋人のこと聞いていい?」と、彼女はうっとりしたように言った。「どうしても、知りたいのよ、その辺のこと」
芝村はしばらく、ストローから口を離さなかった。
「たいしたことはないですよ」と、首を傾けて言った。「いつも、最終的には振られてばかりなんです。どうも、女の人のハートを掴むのが下手なようでしてね、最後には罵られて終わり、そんな具合です。ドラマのコメディー役ってところでしょう」
「うそばっかり」と、彼女ははにかんだままに言った。「そういうのはすぐに分かるわ。だって、女ですもの。発される魅力というのは誰にでもあって、それには奥行があるの。あなたは、厚みのある人ね。じっとしているだけで、惹き付けるものを持っているわ。嘘を言っても駄目。ううん、そういう嘘も許されるような、そんなような人なの、あなたは」
「どう評価されようと、それを受け入れるとしますよ」と、芝村は言った。「しかし、発される魅力が誰でもあるというのは、これは私にとって、意外な一言ですね。そういうのは、磨かれてはじめて存在するものじゃないでしょうか。それとも、これは、そうしたことが前提で言った言葉であって、私のこれは余計な一言だった?」
「余計でもなんでもないわ。……磨かなくても、魅力的な人はやっぱり、魅力的」と、彼女は言った。「どうしてか分からないけれど、なにかが身体の内側にあって、それをやしなって維持しつづけるだけで、魅力は完成されていくように思えるわ。魅力とは、天性のものなの」
「たとえば、父親」と、芝村は指を立てて言った。「そういう存在でも、その魅力は当てはまるのかどうか?」
「考え方次第よ」と、彼女は言った。「父親が好きな人は好きだろうし、そうでない人は、その対象ですらない」
「奥さん、あなたは、どちらで?」
彼女は芝村をじっと見ていた。その眼は、どこまでも余所行きだった。
「父は、好きではないわ」と、彼女は言った。「とくにわたしの場合は、軽蔑すべき存在。わたしが自由でいようという精神を持つにいたったのは、その存在から反発するように抗った結果なの……と、こんな話、やめにしない?」
彼女は立ち上がった。ウッドデッキの欄干に寄り添い、湖面を眺める。乗り合い式らしき小舟釣りのグループがいくつか見受けられる。時間の間隔を緩めたように彼らの動きは、単調で、ほとんど静止した状態に近かった。
「ほら、あそこ。いま、何か釣れたみたい!」
彼女は沸き返って言った。夢中で指差して実況するその姿は、見ていて飽きない。やはり、娘のようだった。芝村はなんとなく、彼女を観察しつづけた。そのうち、手を引かれて、同じく欄干に並んだ。彼女と同じ風景を楽しんだ。
「なんとなく、あなたの好きなタイプが分かった」と、芝村は言った。「一緒になって、夢中になってくれる人だろう?」
「そうでもないわ」と、彼女は考えつつ、言う。「そういうのは、わたしだけ空振りしてても構わないことなの」
「外れた……」と、言って芝村は大げさに、落胆して見せた。「こういうのは、けっこう当てるのが得意なつもりだったんですけれどもね。落ちついた人のほうが良かったみたいですね」
「それも、駄目よ」と、彼女は言った。「なんでも、中間の方がいいわ。どちらにも片寄らない、何をとっても行きすぎではない性格の人。よく、結婚するなら普通の人がいいとかいう人がいるけれど、普通の人って、かなり貴重だわね。めったにいないのよ、そういう人」
「そういえば、私も片寄っている」と、芝村は彼女の目を見て言った。「……そして、あなたの旦那さんも片寄っている」
「あの人のこと言わないって言ったじゃない」と、彼女は表情に怒りを見せずに言った。「そういうこと、やっぱり意識してしまうのね」
「彼からあなたを本気で奪おうと考えているなら、それは、避けられないことですよ」芝村は言って、強引に彼女の手を取った。「私ら、二人の関係は、まずそこから始まるんです。やっぱり、どうしてもそうなるんです」
「本気でそう思っているなら、こんなのじゃ、だめ。もっと大胆にならないと」
言った彼女の顔は、本気かどうかよく分からないような、中間の顔だった。芝村は深意を探ろうと見つめたが、無駄だった。彼女の方が一枚も二枚も上手だった。
「大胆さだけなら、負けるつもりはないですよ」と、芝村は言う。「許されるのでしたら、もっと過激に攻めたいところです。その時には、もしかしたら、乱暴というまでの行動を取るのかもしれません」
「その意気よ」と、彼女はやはり読めない表情を維持する。「でも、まずその欲望は昇華してもらった方がいいかしら。闘ってよ、あの人と。わたしは、勝った方になびく、たったそれだけの女……。ずるいかもしれない、なんだか、ずっと卑怯な選択をしているように思える……でも、わたしは中身のない女よ。成り行きに任せて生きているの」
「なるほど、成り行き」芝村は深く考えるのをやめた。「私もそうすれば、なんだか気楽に生きれそうな気がする」
「それをしたいの? わたしの真似をしたいの?」と、彼女は問い詰めるように芝村を見て言った。「だったら、感情線を断ちなさいよ。何かを感じることをやめるの。それで、すべては解放される」
「感情線を断つ……、むずかしそうだ」
「簡単よ。何も考えないだけなんだから」
「闇をイメージするのです? それとも、宇宙?」
「どっちもよ」と、彼女は微笑んで言った。「あるいは、それ以外。あなたの好きなように。そういう方が落ちつきやすいの」
芝村は目を瞑った。
何も考えない時間をつづけた。彼女はそれを差し止めようとしなかった。だから、延々と果てしないほどその行為をつづけた。こうした二人だけの時間には相応しくはない行動だろう。時間がもったいない。だが、彼女には許されているような気がしていた。
目をおもむろに開ければ、案の定、じっと見守っている彼女がすぐそこにいた。
「どうだった?」
「駄目でした」と、芝村は言った。「雑念がからんできて、そっちに転がりそうになる。むいてないようですね」
「すぐさま実行するあたり、あなた面白い人よ」と、彼女は心もちうわずった声をあげる。「いままで、見たことがないわ。きっと、ものにできるはずよ。向いていないとかは関係がないわ」
ひたすらプッシュする彼女に、以後もつづけることをむりやり約束させられた。
「感情線を断つ――、どうやったら、そういった特技が身につくというのでしょうか?」
芝村の漠然とした問いに、彼女は困ったように、短い息をついた。挙げ句には、注意深く考え込みだした。
「環境的なものかしら。……わたし自身、よく分からないわ」
「最初からあった、と?」
「そうね」と、彼女は言った。「最初から、あった。そうだわ。あったのよ、……わたしのなかに」
それから、デッキにちがう客が入ってきたのを機に、席に就き直した。会話は途切れ途切れにしか弾まない。すぐさま、会計をすましてロードスターに引き返した。風が強くなっていた。幌を被せてのドライブとなった。周遊コースから外れ、いくつかの集落を突き抜けていった。
二人が津路夫妻が暮らす屋敷に戻ってきたのは、午後の六時を回った頃だった。まだ、明るさが強くあった。あと、一時間は余裕で維持されるはずの、力強い光に充ち満ちている。
「あなた、帰ってきたわよ!」
ロードスターから降りるなり、敷地内に彼女は笑いながら飛び出していった。例によって、何回か回転するあたり、怪我に配慮するという心配など、彼女には持ち合わせていないように思える。
屋敷横手の庭場に、伸也は立ち尽くしていた。光沢の強い、ベロア生地のチョッキを身につけていた。彼女を迎えても特に感慨なく、まくし立てられる話に付き添った。へえ、へえ、と相槌を打っているように見えた。
芝村も降り、彼の元へと歩んでいった。
「妻を喜ばせてくれて、ありがとう」と、伸也から口を切った。「さぞかし、振り回されてへとへとになっただろうに」
由季子からの抗議を受けつつ、彼は茶を誘い掛けてくる。芝村は体よく断った。が、彼らは二人して引き留めようとするのだった。
結局、中に入ることとなった。
たわいのない、三人のやり取りが、平然とつづく。妻を持ち出したことについて、責め立てる影など、彼にはなかった。まるで、そのことが据えおきにされているかのようだった。彼との間にあったこれまでのことを、忘れてしまったのかと思わせてしまうほどだ。
「楽しんでいただけたのです?」
伸也が二人きりになったのを機に芝村に言った。
「引っ掛かっていましたよ……ずっと」
「何が、です?」
「あなたのことです」
「そんなことは気にする必要はないはずですよ。連れ出す以上は、思い切り楽しんでくださればいいのです」
「よく分からないですよ」と、芝村は頬を掻いて言った。「なんだか、常識感覚に欠ける人と付き合っているようで、自分がおかしくなるようだ」
「常識はないかもですねえ、わたしたちのあいだには」と、彼は緊張した笑いを零しつつ、言う。「一歩間違えれば、不貞行為ですよ。それを公認しているわけですから、普通の人には付き合いきれない――もっともなことです」
「わたしは、普通の人ではない、と?」
「悪い意味で言ったのではありませんよ」と、言って彼は口直しに茶をすすった。「もちろん、良い意味です。あなたは、普通ではない。なんだか、そら恐ろしいぐらいに、堂々したところがある」
「別に、堂々となんてしていませんよ。素に生きているだけです」
「それこそが大事なんですよ」と、彼は言った。「彼女は、わずらわしいことを考えている人間を毛嫌いしています。計算高い、腹黒い、高圧的……まあ、そんな感じの人間ですね。そして、彼女は寂しがり屋なんです。それも、極端な。だから、わたしは彼女を楽しませなければいけない。実質持てあましているからこそ、あなたという存在は貴重なんです。今後も、楽しませてあげて欲しい」
「楽しませる……それはいいんですが、代償は付きものですよ」と、芝村は言った。「あなたが先に言った不貞行為……それに発展する可能性があります。それについては?」
彼は口を引き結んで、じっと芝村を見すえた。そののち、ひときわ長いまばたきがあった。
「信用していますよ。そういうのはないって。いつかは、あなたは危険だ……と思ったんですが、ここにきて、あなたは彼女を楽しませるという面では、彼女にとってずっと良い人だと思い直したんです」
「楽観屋ですね? 忠告しますよ。……わたしも、人間です。何が起こるかなんて保証できない」
芝村は窓際によった。そして、出窓の下から覗ける、伸也の創作現場を俯瞰する。そこには破壊された創作物たちが、無残にも横たわっていた。それも、作品を台無しにするというような、ただの破壊ではなかった。柄の短い斧なんかで、めちゃめちゃに掻き回したという具合の荒れようだった。
このさまは、彼の嫉妬の感情を表しているのではないか。そう、連れ出している最中は、やはり我慢していたということだ。自らの感情を抑えてまでして彼女の自由を優先する――夫の彼には辛い選択といえば、そのはずだった。
「なぜ、こういう状況に?」
芝村は問い詰めるつもりで彼に言った。
「ただ、うまくいかなかっただけですよ」と、彼も横に並んで俯瞰に掛かった。「アーティストたちを尊敬しますよ。こんなに作品を作ることに忍耐が求められるとは思わなかった。だいたい、わたしには美的なものを作り出すだけの技術がまったくないんだ。これほど、苛立たしいこともない。だから、八つ当たりするしかなかったんだ」
鼻に皺を寄せあつめた後、彼は壁を蹴った。
「そういえば、あなたの制作状況の方はどうですか?」
問う、彼の顔には怒りはなくなっていた。感情をころっとすり替える男だ。
「見に来ればいいでしょう」と、芝村は言った。「いつだって歓迎しますよ。徐々にやっているわけですが、進行状況は、まあ悪くないです」
「して、完成日は?」
「わかりませんね」
首を振って言った。事実だった。委託している以上、限定的彫刻家の倉橋の気分次第でそれは決められることとなる。
「今度……といいますか、近くを通った時、見ていこうと思います」
「どうぞ」と、芝村は言った。「できれば、アポがあった方がいいんですが。と、奥さんはどうなさるので?」
「こういうのは、我らだけの闘いだろう? 確かに、彼女を賭けているという部分はあるのだろうが、それにしても彼女には関係のない話なんだ」
「少なくとも、闘いを見届ける義務が奥さんにはある。あるいは、そうした楽しませ方も彼女に提供したっていいだろう」
「彼女が感興をもよおすやり口というやつは、実に限定的と言っていい」と、彼は真顔になって言った。「その中でそうしたやり口は、好まないだろう。彼女規定の限定の中に含まれないということだ。そのあたり、あなたは彼女の嗜好というやつを、根本から理解できていないように思える」
「では、彼女の中にある、さびしさというのはなんでしょう? 正体は教えてもらえないので?」
「はかりしれないものだ」と、彼は言った。「だから、口では言えない。彼女は、それそのものだといっていい。いつだって、どの行動にも彼女の根にあるものが関係している。関係のない行動はないと言ってもいいほど。あなたは、行動中、そのことに気がついていたのでは?」
由季子のとらえどころのない、奇妙な行動。それらに裏があるといえば、そうなのだ。だが、深くは受けとめることはしなかった。全体を把握しようとしていただけだ。
「気がついていたら、もっと意識して付き合うことができていたはずだ」
「あなたは、どうも嘘をつく習性があるようですね」と、彼は眉根を寄せて言った。「あなたはそんなに鈍い人ではないはずだ。自分でもそうした観察眼があるのだと口にしていたではないですか」
「実質、どうなのかは彼女が良く知っている」と、芝村は言った。「口ではそう言いましたが、頭の方はそうよく回る方ではありませんよ。もしそうだとしたら、彼女をすでにものにできているはずでしょう。実際は、それができていない。それどころか、振り回されるだけで終わった。彼女は私よりも先をいったところに生きているような、そんな人だった」
「たしかに、彼女をものにするには、時間がかかるだろう」と、彼は言った。「もしかしたら、ずっとそれはできないかもしれない。しかしながら、彼女の正体を掴むこととそれは、関係がないと自分は見ている」
「正体を掴めないままに、抱くことも可能、と?」
「そうだ」
「何を根拠に?」
「自分がそうだから言っている」
彼の目は、揺るぎがなかった。彼自身に苛立ちがあるのだろうか、と思った。彼女の正体を掴めないことからくる苛立ちだ。きっと、持てあましているというのは、大部分で本音にちがいなかった。
もしかしたら、すでに心は離れていて、彼はそれを繋ぎ止めるだけで精一杯という状況なのかもしれなかった。
「まるで、夫婦ではないようなもの言いだ」と、芝村は言った。「興味深い間柄ですよ、そういうのは」
「れっきとした夫婦ですよ」と、彼は意固地でさえある口調で言った。「ちょっと、特異なところがあるというだけのことです」
「これから、彼女に積極的に攻勢を掛けていくことになる」と、芝村は面と向かって言った。「そうすると、私のことを怨みますか?」
「何度も言いますがね。……どうぞ、お好きなように」と、彼は言った。「寂しがり屋の彼女の心を満たしてやってください」
「身体で慰めるのも、許す、と?」
彼は黙った。
怨みがましい色が、眼の奥にあった。最初に出会った時に見送りされたあの眼だ。また、ここで甦った。いや、あの時よりも執念深い色合いが、いま彼の眼底にはあるはずだった。
「――と、奥さん、さっきから静かなんだが、だいじょうぶでしょうかね」
芝村が言うと、部屋の奥手の静けさを、彼は気に掛けた。そして、はっとした顔をするなり、駆け足で消えていった。
数分は沈黙が続いた。
日はすでに落ちていたが、代わりに蒼白い光が辺りに充ちていた。林にそれは被さって、木の幹を磨き上げるようだった。事実、樹皮のめくれた箇所は、鋼のような光沢が認められた。
芝村は彼が消えていった方を追って、寝室に立ち入った。折れ木を利用した造花の飾りと、ドライフラワーたちに満ちた、花の世界だった。クィーンズサイズのふかふかのベッドの上に、整えられたように横たわっている由季子の姿がそこにはあった。すやすやと心地よさそうな寝息を立てている。
「お休みだ」と、ベッド前に立ち塞がっていた伸也が振り返って言った。「疲れ果てて、どうにもならなくなったんだろう」
「まったく、読めない人ですね」と、芝村は彼女の寝顔を見つめつつ言った。「これからも振り回されそうです」
「彼女を慰めると言いましたがね、あなたには無理ですよ」と、彼は背中で言った。「わたしだけです。ほんとうの意味で彼女を癒せるのは、このわたしだけなんです。それ以外は、道化のようなものなのです」
彼女の寝顔を見つめる彼は、どこかしら悲しげな様子があった。
5
遠回りをして町まで出ていき、そこで一升瓶の酒を三本ほど買い込んだ。酒屋の店主はのりのいい男で、何気なしに持ち掛けた話に興が乗ると、漬け用の空き瓶で作った、蜂酒を分けてくれた。自家製で、副業として蜂の巣を取る仕事をやっているということだった。
これらは、倉橋への報酬となる。彼は、今日も投光器に照らされて、ノミ入れに明け暮れていた。
「差し入れです、おいときますよ」
と、言ってからそっと酒瓶を並べて置く。すると、彼は振り返った。そして、足場から降りて、芝村の前に立った。差し入れの酒をまず、確かめる。たちまち顔をほころばせて上機嫌になった。蜂酒に歓声を上げたのはもちろん、あわせで買った純米吟醸も好みだということで、喜んでくれた。
「これは、うまいんだよな」と、酒瓶の底を眺めつつ彼は言う。「真冬の寒くてどうしようもないときには、これを飲んで寒さを凌いだものだった」
芝村は制作途中の、御影石のブロックを眺めていた。まだ、全作業の三分の一も進んでいない状況だ。だが、鳥の翼を意識したオブジェは、頭を出していた。そこからどんどん完成していくのかと思うと、感慨深いものが得られるのだった。
「まだまだかかりますよ」と、彼が後ろから言った。「本当なら、一年二年掛けてやるものなんですがね、でも、期限が決められている以上は、急ピッチでやらなければいけません」
「予定どおり、二ヶ月以内にはできるのです?」
「さあ、どうなりますことやら」と、言って彼は頭を押さえた。「あなたが、こうして酒なんかよこすものですから、そのせいで余計に予定が大幅に狂いそうですよ」
彼は薩摩焼酎をもちあげて豪快に笑う。本当は、そうしたいのだろう、と芝村は思った。制作している自分が彼は好きなのだ。だから、ずっとこの時間を守っていたい、そう思っているはずだった。
「どうせなら、時間を掛けてもらっても構いませんよ」と、芝村は言った。「競争をしているわけなのですが、向こうは早くも脱落気味というようなありさまです。そもそも、勝負にならないような闘いでしかなかったのかもしれませんねえ。堅実に、完成させる――そういうことだけを意識してもらえば、それでいいという状況になってきました」
「まあ、それでも、二ヶ月以内には、仕上げて見せますよ」と、彼は今度は純米吟醸の透明度を確かめつつ、言う。「今のわたしに必要なのは、勢い、これだと思うんです」
彼はそれから酒を元に戻して、制作現場に着いた。タオルの鉢巻きを締め直す。足場に待機している彼の道具は、刃の反り具合と、長さがそれぞれ異なる十二本のノミだった。鋼鉄製の釘のようなものもある。木槌は一つだけで、打面は割れて大きく開いていた。機械による専用工具はない。どうやら、手作業一徹でつづけるようだった。
ノミ打ちが始まると、あたりの静寂が強まった。
「時に、倉橋さん」と、芝村は彼の背中に呼び掛ける。「作業中、車が通るというようなことはありませんでしたか?」
彼の手が止まった。
「ずっと向こうに見える県道に車が通るぐらいで、ここの脇道は誰も通っていないはずですよ」
「その車というのは?」
「普通のセダンですが」
「ピックアップトラックのようなものは見かけませんでした?」
彼は手首で、額を拭った。装着している軍手は、汗と摩擦で真っ黒になっていた。
「あったようなないような……」
「もし、きたら要注意ですよ」と、芝村は言った。「すぐさま、作業をやめてもらえませんか?」
「相手が偵察にくるというのです?」彼の顔には、あり得ないというような気配があった。「こんな夜中に、ですか?」
彼には、芝村の正体と、滞在目的の大部分が語られていた。だから、事情を彼は把握していた。身体に負担を掛ける作業条件を提示しているだけに、理由をきちんと説明しなければいけなかった。
「何を考えているか分からないような、そんな相手ですよ。油断ならないのです。万に一つの可能性ですが、用心するに越したことはありません」
「なるほど、そうですか」と、言って彼はまた作品に向き直った。「それならば、注意しておきましょう。実際、その車が現れたらどうするのです? わたしは、すぐさま対応できるかも怪しいものです、何分、この体格ですから……」
「夜くる、ということは、ライトをつけなければいけないということです。そのライトに早く気がつけば、なんとかなりましょうよ」
「そういうことですか、それなら早い段階で気づくのかもしれません」と、言って彼は一旦開始した手を休めた。「しかし、作品の死角側に回り込むと、向こうの道が見えないんですよ」
「明日あたり、鏡を買ってきますよ、百均で」と、芝村は足場組みの鋼管の一つを指して言った。「そのあたりに、鏡を括りつけることはできませんか?」
「できないこともないですがね」と、言いながら彼は、作業用のアイ・ガードを装着した。「面倒なことになりそうですね。昼間には全部外さなければいけないんでしょう? 毎日、脱着をしなければいけないということです」
「外さなくてもけっこう」と、芝村は言った。「それが、防御用のミラーであるなんて、まず相手には分からないでしょうからね」
「だったら、付けますよ。支え棒をいくつか使って格子組にして、それを支持体に、粘着テープでぐるぐる巻きにすればいい」
「でしたら明日の晩までには、鏡を五枚用意しておきます。設置のほう、頼みますね」
「分かりましたよ」と、彼は手をあげて応えた。「でも、鏡について問われたとき、どうするんですかね?」
「色々な角度から比較検討するために必要だ、と、そう説明するつもりです。倉橋さんも、合わせていただきたい」
「案外、僕自身、作品の検討に役に立つのかもしれんな」
彼は自嘲めいた風に言った後、作業に耽った。
それから二日後の三時過ぎ、青峰から連絡が入った。
「社長、跡部晋作の件についての報告ですよ」
「どうだった?」
「跡部は、千葉出身の男です。関東内あちこちを転々と移動して回った後、現在は金沢の方に籍をおいているようです」
「金沢か、てっきり長野にいるのかと思ったんだがな。まあいい。それで、いま、どうなっている?」
「結婚をして、所帯に落ちついているようです。たぶん、安定した生活を得られたのでしょう。とはいっても、彼本人を訪ねたわけではありませんので、そのあたりは確かにいえることではないのですが……」
「配偶者の名前は?」
「ますみです。一ノ瀬ますみというのが、旧名です」
この女は、由季子を装っているあの彼女の本当の名前のはずだった。本人から離れて、そちらに彼女の戸籍が渡っているというのは、これはどういうことか。
「一ノ瀬ますみを調べてみたか?」
「はい、調べています」
「一番最初の結婚は、津路伸也とだ。それも、平成八年から、だいたい十二年のあいだにしているはずなんだ」
「その通りです、社長」と、彼は言った。「平成九年の七月に籍を入れています。しかし、その後、結婚、離婚を数度繰り返し、それから少し後に、跡部と籍を入れています。その跡部とも、結婚離婚を繰り返しています。同じく、由季子と相互の入れ替えです」
「相互シャッフルが、二パターンに分かれて実行されているということか」
「そうですね、跡部を介す前と、跡部を介した後の、二パターンですね。一応言いますと、現在の一ノ瀬ますみは、三度目に跡部と結婚をしたきり、それで固定となっています。それ以降は、すり替えの事実はありません。その状態は、八年間続いているという形になります」
「そちらでも、住民票を抜いて引っ越しを繰り返すという、トリックが使われていた?」
「はい、そのようです、社長」と、彼は言った。「かなり、念入りな感じがあります。しかしながら、どうも全容は掴みかねるところがあります」
「そもそも、目的が見えないからな。……少なくとも、詐欺目的ではないことだけは、たしかなんだ」
「でしたら、これはなんなのでしょう?」
「そこが、肝だ」と、芝村は言った。「これから、答えを出していかなければいけない。ここでひとつ、訊いておきたいんだがな、金沢の現住所について、これはどうなっている」
「かなりの田舎みたいですね。それこそ、人が三百人ほどしか住んでいないような、そんな山奥です。ちょうど、長野の石ノ蔵町のように、若者定住制度と、農業就農奨励金を支給しているところのようです。その他、子供手当てなども充実しているようですから、若い夫婦にとっては、育児や環境という意味では、絶好のところでしょう」
彼から、その所在地の明細をただした。芝村は開いていたパソコンから、グーグルマップを呼び出して、衛星写真図をモニターに映し出した。その場所は、内陸の奥深くで、森ばかりに囲われているところだった。
「なるほど、こういうところか……」
「現地に駆けつけますか?」
芝村はしばらく腕組みをして考えた。
そちらに駆けつけて、有用性のある情報は得られるだろうか。その可能性はとても低いように感じられた。
「おそらく、訪ねても無駄だろう。そこには、誰もいないはずだ」
「そうですか」と、彼は興味なさそうに言った。「では、架空の戸籍なんでしょうか?」
「いや、架空ではない、実際に存在している。一人二役だ。それが、実行されているんだ」
「え」
「跡部は、空籍だ。これを、津路夫妻は利用している。つまり、だよ。いま、追っている津路夫妻は、ときたま、跡部夫妻と入れ替わって、二重の生活をしているということだ」
「自分はてっきり、架空の戸籍を利用して、それを元に、一つのところで交換生活を実行していたと思っていたんですが……、まさか、二つを操るだなんて」
「交換生活というのは、悪くない考えだ」と、芝村は言った。「だが、本物の由季子のほうが、すでに亡い可能性が高いと、判断せざるを得ない状況にある。その状況下で、跡部の戸籍を手に入れることに、意味があるだろうか。……実際、手に入れたんだ。だから、彼らは、二つの戸籍をあやつる、二役をこなしていると考えるべきなんだ」
「しかし、一人二役って、すごいですね。維持費だって、相当なものでしょう。これは、財力がなければできないことです」
「そのために、田舎を選んだんだろう。それも、ただで住所を提供してくれるような、そんな場所を選んだのだ」
「こうなりますと、詐欺も立件できますね。やっぱり、当の住所を尋ねた方がいいように思えますが?」
「それは、希望しない」と、芝村は言った。「むしろ、見てもらいたいことがあるんだ」
「跡部の追加情報を探るんですね?」
彼は察しよく言った。
「分かっているじゃないか、跡部だ。この男が、どこにいったのか、それを見ていかなければいけない」
「殺されている可能性はありますか? つまり、事件性の有無です」
「君はどう思う?」
と、芝村は彼に水を向けた。
「跡部が岩佐由季子と最初に籍を入れたのは、平成十一年の二月です。その前後、跡部は所属先の会社が倒産しています。この時点で、本体の彼が姿を消しているというのでしたら、戸籍を売って失踪した……という考えが妥当のように思えるんですが」
「なるほど、会社の倒産……、ならば、失踪したと考えるほうが筋が通っているというべきだな」と、言って芝村はモニターを眺めつつ、顎を揉んだ。「そもそも、一ノ瀬ますみと、岩佐由季子の戸籍について、表面上は綺麗な状態とはいえ、結婚歴離婚歴のシャッフルの事実は残ったままなのだから、一回誰かが調べれば、すぐに事実関係がばれてしまう。跡部殺害があったとしたら、当然、戸籍を細工する以前のことになってくるわけだから、彼らの戸籍いじりは、自ら怪しいものです、と訴え出るような、そんな間抜けな行為になってしまう。彼らは、そこまで愚かな夫婦ではないというのは、すでに分かっていることだ」
「戸籍を表面上まっさらにすることができる――その情報だけ押さえていて、実際は調べればすぐ分かる、というようなことまで知らなかったというのはどうでしょう?」
「ありえんな」と、芝村は、声を尖らせて言った。「度胸はもちろんそうした知恵のない人間が、どうして一人二役の二重生活を完成させられるというのか?」
「やはり、そうなりますか」
面倒なことを、あえて自分に課してやるということは、強い意思と目的がなければいけなかった。彼らには、そういったものがしっかりあった。だから、徐々に時間を掛けて、自分たちの外堀を埋めていくことができたのだ。
「どっちにせよ、私には、彼らのような生活は無理だな」
芝村は息をついて言った。
「それは、自分もそうですよ。到底真似などできません。というよりも、やはり違うパーソナリティを名乗るときは、キャラが変わるのですかね?」
「彼らはそういう経歴を持った人間だ。しかも、キャラクターを作ることに、優れたものがあるということだった」
役者の一面について、芝村は青峰にかいつまんで説明する。彼から三度、感嘆の息が洩れた。
「いやはやこういう時に、そういった才が発揮されるとは。もしや、いま、社長と接している人格も演技なのでは?」
「その可能性は高いだろう。岩佐由季子……彼女は、父親が殺人という間違いを犯して、不遇の立場においやられた、一人の被害者だ。そうした不幸な女を、演じているというような節を、彼らとのやり取りで感じている」
芝村はさらに、状況を明かしていった。由季子を演じているますみが、ただの処理という程度では拭えない、根源的な寂しさがあって、それを解消するそのために、捉えどころのないような、そんな奇態な言動を繰り返しているという彼女にまつわる話が、中心となった。伸也は伸也で、素なのか演技なのか分からないような、曖昧な態度をつづけているという話も流れからして付け加えられた。
「社長、どうせなら、思い切って、彼女を攻めたらどうです?」と、彼は言った。「そうです、ベッドまで連れこむ直前までいくわけです。そうすれば、彼らの演技はさすがに取り止められることになりましょうぞ。化けの皮が剥がれる瞬間です。夫婦の愛が本物ならば、さすがにそこまでは許されることは、ないでしょう」
「実際、攻めている。アクションを掛けているんだ」と、芝村はこれまでを思い出しながら言った。「しかし、彼らはなびかない。翻弄されまいと、私をかわしにかかる。きっと、実際に彼女を寝取るようなことをしたところで、意味はなさないだろう。彼らの演技はつづくはずだ。そういう狂気が感じられる。そうなっては、向こうの思いどおりになってしまう」
「結局、すべてを暴いたのち、彼らに答えを提示するしかないのですか?」
「最終的にはそうなる。だから、跡部を追うことは大事なんだ」
「跡部探しは、かなり難しいことになりそうですね」と、彼は息をついて言った。「ホームレスになっているというのでしたら、まず住所がないですから、同じ仲間を一人ずつ聴取していくという原始なやり方になる恐れがあります」
「それでも、やってくれるんだろう?」
「もちろん、成果は出しますよ。それがすべてですから」
それから少し話して、やり取りは終わった。
芝村は、一人二役について考え込んだ。いくつかの問題があった。他人の戸籍取得はそう難しいことではなかったにせよ、それにしてもこれを維持していくためには、周囲に二役をこなしているという、不審を嗅ぎつけられてはならなかった。彼らは、どのようにこの問題をパスしたのか。
石ノ蔵町での自宅は、冬場はほとんど放置された状態にあり、役場の人間ですらどうなっているのか、把握できていない現状があることがまず先に思い出された。除雪車ですら、まともに入っていけない地域。彼らは、まさにそんな過疎地にて生活をしているのだった。これが、意図的に選ばれたというのだったら、実に、計画的だったと言える。そういえば、役場の職員担当者、速見はそういった物件であると事前に理解を取りつけてから、契約を受けたというようなことを口にしていた。
実は、例の物件について、彼らは役場に来るその前から把握していたのではないか。そういえば、最初からそこに決めていたように思えると、速見も口にしたことがあった。やはり、作為があった結果だと見るべきだった。そうでなければ、彼らにとって都合がいいばかりの物件など、彼らの手中に渡るはずがなかった。
芝村は時計を見てから、石ノ蔵町役場の方に電話をつないだ。出た関係者に、速見を求める。彼は十分後出た。
「例のあの屋敷について、なんですが……、津路夫妻が暮らしています、あの白い屋敷です」
「ああ、はい」
「あれは、本当は私に今回、ご紹介いただいた、セルフビルドのログハウスとは、契約内容がちがったりしませんかね? つまり、若者定住制度とは、関係のない物件だったということです」
「基本的に同じなんですが……」と、彼は言いにくそうな口調で言った。「定住促進条例というのが実験的に試行されていた時期がありまして、その際に用意されたのが、その物件なんです。町内にあります財産を活用して、そこに住んでもらおうというのが、条例の主旨です。つまり、物件のほとんどは、元町民で所有者のお方が何らかの形で放置された、あるいは町に委譲されたものばかりということで、ほとんどが中古物件だったわけです。これには、当然ながら、リフォームの手当は付きません。一方、新しく用意された、若者定住制度の方は、新築住宅取得補助というのが名目なんですが、リフォームもまあ、補助の対象です。先の条例で引き取り手がなかったものもリフォームに回せますので、これで新旧あわせて、町おこしとして提供することが可能になったのです」
「先のその条例で、定住してもらった若者は何人です?」
「ざっと、十六世帯、二十三人でしょうか。後のほうが五十二世帯、六十四名と、こちらの方が断然多いです」
「津路夫妻は、二十三人中の二人ということですか。それでも実質、競争なんてものはなかったようなものでしょう」と、言って芝村は考え込んだ。「それはいいんですが、知りたいのは、やはり、彼らがどうやって例の物件を知ったのかという点ですよ。職員からの紹介以外に、伝手があったように思えるんですがね、どうでしょうか?」
「それは、なにか知らなければいけない事情があったということでしょうか?」
「うらやんでしまうような物件を手にした彼らの成功の由を押さえておきたいと思っただけですよ」
「こちらに来る以前から、熱心な家探しをしていたという印象があります」と、彼は言った。「ホームページでも、物件そのものを紹介していましたし、そうした頁について詳しく言っていましたね。
あらかじめ一つの物件に目をつけていたというような節は見せませんでしたけれど、勉強してきたんだろうという節はたくさん感じられました。おそらく、例の物件についても、一応目通しぐらいはしていたのではないでしょうか」
「ちょっと、待って下さい」と、芝村は言った。「物件そのものを、ホームページに乗せていたのですか? 条例施行時の頃は?」
「そうです。現在施行されていますように、新築住宅取得補助という形ではありませんから、最初から住むべき家が、できあがっています。ですから、物件を載せておくことができるわけです」
「そういうことか、なるほど。しかし、いまはそういうのはやっていないんでしょう? それはどうしてなのでしょうか。いまのリフォーム物件だって、載せようと思えばこれは載せられるのではないでしょうか?」
「先に、条例をあてにして移住してきた住民様への配慮と、あと、新制度では、主に、リフォーム支援というよりも、新築支援を重視していますので、リフォーム住宅だけの掲載は主旨に合わないということになり、結局、取り下げられたのです」
「疑問は、解消しましたよ。いや、ご迷惑をおかけしました」
芝村は、丁寧に礼を告げ、携帯を切った。
津路夫妻は、ホームページを見て、石ノ蔵町にある例の屋敷を探し当てたのはもはや間違いない。このやり方ならば、日本のどこにいたところで、物件の中身を押さえることが可能だ。早い段階でその存在に気付き、そして、視察に出た――そうして、彼らの新居は、確定することとなった。
金沢の方の自宅も同じだろう。ほとんど、同じやり口で決まったはずだ。しかしながら、システムを押さえておく必要がある。
芝村は津路夫妻が席をおいているとする、役場の方に電話をつないだ。