第二章
第二章
1
その日、南信州の小さな村まで出て行って、カラマツの林に囲われた小さな湖に向かった。用意していた釣り具をセットし、釣り糸を湖面に垂らす。行楽シーズンなので、フル装備の釣り人たちが桟橋の上にちらほら見受けられた。陸釣りだ。自前のセットを放って、そのうちの一人に、芝村は近づいていった。
「お父さん、釣果のほうは、どう?」
「まだ、一匹だけだ」
小さいクーラーボックスには、中型のヘラブナが泳いでいた。背びれがピンと立っていて、凛々しさが感じられる一匹である。活きの良さを見るに、いましがた釣り上げたばかりのもののはずだった。
「あんたは、どうなんだ?」
「いま、きたばかりですよ」と言って、芝村は彼の傍らに勝手に座った。「それにしても、暑いですねえ。……ねえ、福山さん?」
男――福山は、びっくりしたように、芝村を見た。
「あんた、誰だ?」と、訝しい顔つきを見せる。「どこかで、お会いしたことがありましたっけ?」
「初対面ですよ、福山さん」と、芝村は微笑みかけて言う。「あなたを捜して、ここまで来ました。釣りが趣味ということで、いろいろ巡って探して回っていたんですよ」
「何の用だ」と、彼は顔色をさっと変えて言った。「おれは、あんたに何かをしたというような覚えはないぞ」
「ご安心を、仕事について聞きたいだけですよ」
「仕事?」
「二本松興石株式会社……、これがあなたがつい先日まで勤めていた職場ですね? 言ってみれば、採石場ですよ」
「なぜ、そのことを……?」
彼の口は、あんぐりと開け放されたままだった。滑稽さを深めるように、クーラーからヘラブナの跳ねる音がぴちと鳴った。
「まあ、座ってくださいよ」と、芝村は彼に座るよう催促する。「お伺いしたいのは、あなた自身のことではなく、会社のことです。そして、そこに勤める、同僚たちのことです」
「ああ……そう……」
彼は要領を得ないままに、ゆっくりと腰掛けた。
「例の採石場には、津路伸也という男が働いていたはずです。それで、彼と接触したことが何度か、ありましたね?」
「伸也か……季節労働者だよ、お互い。あいつとは、面識がある。いや、面識があるというまでではないかもしれんな……」
「どういう男なんです?」
「そいつのことを調べているのか? もしや、警察さん?」
「そんな大げさなものじゃありませんよ。ちょっと御参考までにお聞きしたいというやつです」
それから彼は考え込んだ。
「あいつは、もの静かな男だよ。上司に叱りつけられても、じっと観察するような目を送るっていうかなんというか、素性の読めない男だ。上からは、きっとことごとく嫌われている。あんなに、扱いにくい男はないのかもしれんな」
「命令を聞かないということなんです?」
「聞くよ」と、彼は言下に言った。「聞くけれども、根っこに反抗心のようなものがあるっていうか、きっと、人から指図を受けるのが嫌なんだろうな。そういう男だ。でも、反抗していく立場にないということは自覚しているらしいから、何か、こう……耐えるように、接するんだよ。あいつの内側には、いろいろなものが閉じ込められているんじゃないか」
そういった抑圧型の側面が、あの男にあるとは思わなかった。これは、あるいは社交的な側面を見せていた彼には、意外な素顔といっていいのかもしれない。
「面白い話ですね」と、芝村は相手の気持を引き立てるように言った。「もっと、聞かせて下さいよ」
「いや、特にこれ以上は、なにもないよ。……あえて言うなら、部内で喧嘩になったことがあったか。そう、あいつの邪慳さは、同じ従業員にも及ぶんだ。俺とは喧嘩になったことはないが、あいつと同じ年代のやつは、最低一度はトラブっているはずだ」
「協調性がないんですか?」
「ないな」と、彼はきっぱりと言った。「まるでない。だから、あんな労働力だけが求められるような汚れる仕事をしているんだよ。……今のこの時期も、あの現場にいるんじゃないのかな。俺には何となく思い浮かぶよ、むっつりした顔で、黙々と作業に明け暮れるあいつの姿がな……」
「彼について、福山さんはどう思っているので?」
「よう分からんが」と、言って彼はフィッシャーマン仕様の帽子を脱いでは、また被った。「かわいそうなやつだと思うよ。人生何を楽しみに生きているんだろうって思ったことがあった。一度、釣りに行かないかとさそったが、断られちまったよ。あいつもきっとやるはずなのによ」
中州に掛けられた桟橋の上を、幾人かの釣り人が渡って、帰っていく。持参のクーラーは皆、軽そうだ。天候は絶好だったし、湖面も穏やかさが保たれていたが、魚たちの機嫌は悪いようだった。
「では、誰とも付き合っていなかったということでいいですね?」
「そうじゃないか」と、言って彼は自分の釣り糸の先をぼんやり見つめた。「あいつと親しく話しているやつはいなかったよ、すくなくとも俺が見ている前では」
芝村が受けた印象とは違った彼の像を、福山は抱いている。職場では、素の顔を見せることはしなかったようだ。それは、働くということに関して伸也自身、強い不満を持っていることの表れではないのか。
「彼の奥様にお会いしたことは?」
芝村は話題を変えてみた。すると、彼はおや、という顔つきになった。
「あの男、結婚していたのか?」
「ええ」
「知らなかったよ」
「一度も、話題に挙げたことがなかったのです? たしか、彼の指には結婚指輪が嵌められていたはずですが」
「いや、そういうのは見ていない」と、彼は言う。「まちがいないよ。あの現場は手をいっぱい使う仕事だからな、そういうのを身につけていれば目につくはずだ。俺は、それをつけていたとは認識していない」
外していたということでいいだろう。
これは、素性を隠すためにやったことなのか、それとも単に作業をするにあたって、相応しくないと外しただけなのか。
あの男の印象は、愛妻家だ。それも、かなり熱心な類の。だから、由季子が見ていないところでも、指輪の装着は徹底するのではないか。芝村は腑に落ちないものを感じていた。
「指輪の話なんですがね」と、芝村はひき続き、彼に持ち掛ける。「作業をする前は、これはどうでしょう。そういう身に付けていたものを外して、それを何かに収めるというようなところを見たことはなかったのです?」
「ないない」と、彼ははね付けてきた。「あいつは、そういうちゃらちゃらしたものを身に付ける習慣のない男だと思っているよ」
休憩時間は、何度か一緒に昼食を伴にしたことがあったようだ。
その際、剥き出しの彼の手元を確認している。それは観察の目によるものではないが、一度や二度というような回数ではなかったとあらば、いやでも気がつくはずだった。何より、話題に乏しい環境に彼らはいたのだ。身の上話につながる要素があれば、そちらに自然と食いついたことであろう。それがなかった。
これは、どういうことなのか。
彼は、そのとき、普段のスタンスとは違った気持ちでいるということの表れであって、そこに伸也の秘密がこめられている可能性があるとはいえないか。それだけの意味が、あったとしてもおかしくはない事実と受けとめて良いはずだった。
「良い情報を授けて下さいました、感謝しますよ」
芝村は立ち上がって言った。
「あいつを、どうするつもりだ? 何か、やらかしたのかよ」
「特に」と、芝村は肩をすくめた。「これは、ちょっとした素性調査ですよ。なにぶん、秘密が多い男ですので……そのあたりは、あなたにも理解できることでしょう?」
「まあ、考えるほどにおかしな男だけどさ。でも、内情はそこまでではない。あいつは、本当はもっと気が優しい男なんだ」と言って、彼はまた、釣り糸の先を見つめた。「思うに、理想家だと思うんだよ。思ったようにならないというだけで……」
その時、誰かが遠くから呼んでいる声がした。釣り人の一人だった。彼がいるその場所は、芝村がセット一式をおいていったところだ。
「掛かったらしいぞ、行ってきなさいよ」
と、彼から催促された。
「まったく、都合のわるい介入ですね。こちらも、うまくいかないようで……」
芝村はくすぶった思いを引きずるように歩いて、それからそちらへと駆けていった。
2
ロードスターは、西に向かっていた。長野の市街地の方向だ。だが、その中枢までいくつもりはなかった。幹線道路をある程度進み、脇道にそれて、そこからは地図に載っているかも不明なつづら折りの道を突き進んでいく。
「どこに向かうつもりですか?」
助手席に乗っているのは、龍崎だった。今日は合流の日だった。
「採石場だ」
「採石場」と、彼は繰り返す。「伸也の勤め先ですか?」
「その通りだ。二本松興石は、この先行ったところにある」
「ずいぶん、ひどい道を通っていきますね」
「ダンプ道というべきか。一般車両用の道ではないことは確かだ」芝村はそれから彼をちらりと見た。「成果報告のほう、聞こうか」
「はい」と、彼は気持を切り替えた。「由季子は母親を失っています。それで、篠代婦人の元へと引き取られたということになっています。そうです、由季子は篠代婦人の養子というわけです。それは、いまから三十四年前の話です。ちなみに、篠代は父親の妹にあたり、由季子とは叔母姪の間柄にあたります」
ここまでは、最初に依頼を受けた際、聞き受けていたことだ。ここから先が、ずっと気に掛かっていた。
「なにがあった?」
「事件です」と、彼は鋭く言った。「父親の方が知人宅にしのびこんで、そこにあった金庫から金目の物をもちだそうとしたところ、相手に見つかり、これを殺害しました。被害者の婦人もその場所にいたわけなのですが、そちらには手を付けず、逃走。そのまま行方をくらましました。警察の捜査がはじまるわけですが、一番の目付先が、奥方だったわけです」
「そこにアクセントをおくってことは、その奥方は、自殺でもしたのか?」
「そのようです」と、彼は淡々と言った。「監視途中に家を飛び出し、崖から飛び降りて亡くなったようです。おそらく、今後の行く末に悲観したのでしょう。父親はその後、自ら出頭して逮捕されています。奥方の死を受けて、さすがに出て行かなければいけないとなったのでしょうか。その後、三審の裁きを受けて、最高裁から二十一年の懲役判決が下っています」
「二十一年ということは、もう務めは終わっていることになる。そして、その歳月から計算すると、彼が出てくる前に、由季子が篠代の家を飛び出したということになってくるか。父親の名前は……?」
「加持敬三です。そして、奥方が加持千絵子。加持は、奥方の方の姓です。そうです、敬三は、婿入りしたんです。加持の両親については現在、母親だけが存命のようですが、敬三が姓を戻していないところをみるかぎり、つき合いはあるのではないでしょうか。信頼関係がある程度残っているということです。事実、服役中に、二人が何度も接触したらしき、形跡があることを確認しています」
「加持家の事よりも、敬三だ。こちらの本格的な、洗い出し情報は?」
「まだです。いま述べたことがすべてです」
「もっと、詳しく調べてくれ、重大なことなんだ。余裕がないんなら、別の人間を当ててもいいが?」
「いえ、自分がやります。いまのところ、手が余っていますので、引き続き、任せていただけませんか?」
「任せるも何もない、手が空いているなら君がやればいい」
「分かりました」と、彼は顔を引き締め直して言った。「それで調べる要点に、注文がありますか?」
「注文は……ある」と、芝村は言った。「由季子と、敬三の接点について、だ」
「もし、由季子がこの男の出所を嫌って、あるいは怖れての家出だったというのでしたら、接点なんかあろうはずもないといったことになってくると思いますが……」
「何か、裏があるかもしれない。その可能性を探って欲しいという意味で言ったんだ。もし、接点がゼロならば、それはそれで、いい。二者の関係が強く隔たっていることを意味するだけのことだ。あと、篠代と敬三の接点も調べなければいけないか。もちろん、篠代婦人に調査を掛けていることが知られてはならない。本人に接触して……というのはおろか、彼女に近い人間にこれを求めるというのもNGだ。それは、分かっているな?」
「もちろんです」と、彼は敏捷に応じた。「その点、細心の注意を払って、情報を求めていこうと思っています」
「それで、最初の印象としてはどうだ? そういうのがあるのかどうか?」
「接点ですか?」
「そう」
道はどんどん狭くなって、傍らの窪みが深くなっていた。砂利が跳ねる音が、車底の下からはげしく鳴り響いている。
「ないと思います」
「なぜに?」
「怖れて出て行ったという、可能性が非常に高いと信じているからです」
「君ならば、事件を起こした父親とはもう付き合いたくもないという感情になるってわけか?」
「必ずしもそうではありませんよ」と、彼は言った。「これはあくまで、彼女の立場を考えての意見です。私の場合で言いますと……中身を見てからということになりましょうか。なんら変わっていなければ、つき合いは断たなければいけない。変わっていたならば、そこからいちから始めたっていい……そういうことになりましょう」
「はたして、そんな生易しい考えでやっていけるものかどうか」と、芝村は感情を殺して言った。「君のそれは、空想的なものに過ぎない。実際その立場に断たされた者は、そうはいかないだろう。もっと、切実なんだ」
「つまり、どういうことでしょう?」
「被害者の立場におかれた人間の心境というやつはもっと、シビアなものだということだ。特に、由季子。いま、自分の前にいるあの女は、自分の過去そのものを人に探られまいと、守るように振る舞っている。傷は深いはずだ。葛藤はまだつづいているのかもしれない。いや、そのような振りをしているということも考えられるか?」
「彼女は、結局どっち側なのです?」
彼は鋭い顔をして、芝村を見ていた。
「きわめてグレーだ」と、芝村は言った。「そのどちらでもないところを彼女は生きている。もしかしたら、被害者であるという認識を強く持ったまま生きているのかもしれないし、そうしたことを演じて生きているのかもしれない」
「前者はともかくとして、演じることに、何か意味はあるのでしょうか?」
「何でもそうだが、ものを実行するということは、その裏には守ろうとしているなにかしらの益があるということだ。目的のない計略はない。彼女の演技は、いつ始まったのか? そこをしぼらない限りには答えは出せない。もし、家を出た十七年前から自分を偽るようなことがはじまったというのだったら、答えは単純なんだがな。つまり、津路伸也に対し、自分の本当の姿を明かしていないということになる」
「なるほど、……夫婦関係を維持するそのために、演じているということですか。いや、しかし十五回もの引っ越しはこれは、何を意味するのでしょう」
「それぞれの賃貸契約書の名義人はどうなっている? いつから夫妻の名義……つまり、伸也の契約になっているというのか?」
「実は、最初から十四回までが由季子の名義です……」
例の屋敷の契約だけが伸也名義ということだ。これは、予想もしない答えだった。
「となれば、いつ例の夫妻が繋がったのか、不明ってことになってくるか。まあ、そういうのは結婚調査を掛ければ一発だがな」
探偵事務所にとって、結婚調査、婚前調査というのはお手のものだった。料金次第で、その人物のありとあらゆる素性を掘り下げる仕事をする。結婚歴はおろか、家族構成から、人物評価、果ては借金や貯金の額、年収まで見ていく。その気になれば、病気の有無まで調べる事ができる。
「掛けるのですか?」
悩みどころだった。
問題は、依頼人がそうしたことを希望していないという点だ。そもそも、依頼内容は由季子を篠代の前に連れてくるというだけでいいのだ。余計なことをする必要はない。
「もし、やるとしたら自分が請け負うことになる。君は、自分の役割分だけをやればいい」
「分かりました」
と、彼は静かに引いた。
答えを出すのは、先送りにするしかなかった。時間がかかることが彼にも分かっている通り、特にその点について深追いしてくるわけでもなかった。
現時点で分かっているのは、由季子の素性には一癖も二癖もあるということで、もしかしたら、そのことが任務遂行に大きな障害になる恐れがあるということだった。従来の依頼とは一線を画しているのは確かだった。ここは、慎重を期さなければいけなかった。下手をすれば、由季子の術中にはまってしまう、そういう恐れもあろう。
引っ越し回数、十五回。
たしかに、これは注意すべき事項だった。そして、現状、彼女と接触して感じられる不穏が確かなものであることを認識している事実がある。
津路夫妻には、何か裏事情があるはずだった。キーワードは、伸也の方だろう。この男が彼女についてどこまで知っているかで、事情が変わってくる。
「伸也という男は、どういう男でしょうか?」
彼も瞠目すべき点がその男であると分かっていたようだった。
「できればな」と、芝村は言った。「直截見て、君の目で判断してもらいたい。意見が同じかどうか答えを比べてみるのもありだろう?」
「それはいいですね」と、彼は乗った。「自分なりの答えを出してみたいと思います」
ロードスターが巻きあげる土煙で、後方はほとんど景色が見えなくなっていた。道の悪さはさらにはげしさを増していた。
採石場は、岩山にへばりつくように設けられた、地の利点を生かしたというべき建築物だった。長いベルトコンベアーを補強する鉄柵は、どこもかしこも銹だらけで、ほとんど銹だけで構成されているといったような見てくれだった。サイディングボードでこしらえられた建造物も同じで、こちらもまた銹の波が及んでいた。全体的に暗い雰囲気のある所だった。救いなのは、コンベアから落とされた採石の山がびっくりするぐらいきれいな灰色であったことだ。
棚段式に削られた岩山の上に、クレーンと後部に鉤爪装備がついたブルドーザーが配置されている。そのすぐ手前で、作業服と、ヘルメットを装着した従業員たちが力仕事に勤しんでいた。
「あの右から三番目の……黄色のヘルメットの男だ」
芝村は遠くから指差して言った。距離にして、三百メートルは離れているはずだった。
「あの、作業着が緑のやつですか?」
「そうだ」
彼はじっと、伸也を見つめた。目を細めると、反射的に口まですぼまる。その顔つきは、戦闘前に相手を値踏みするボクサーであった。
「なるほど」と、彼は息をついて言った。「骨のありそうな男ですね」
「階級でいうと、なんだ?」
「六十一、二キロほどありそうですからね、ライト級か、スーパーライト級かのどちらかですよ」
龍崎はその下のスーパーフェザー級だった。
「ちょうど、背丈的に君と同じぐらいかなと思ったんだがな」
「背丈は同じですよ。ただ、身体のほうはまだ搾りきれていませんね。自分よりも五キロは余分な肉をたくわえ込んでいます」
「見かけだけでは、強さは分からんか?」
「そればっかりは、どうにもなりませんね」と、彼は首を傾げて言った。「とにかく、腕はいい腕をしていると思いますよ。特に右は、発達しています。あれは、かなりの膂力を秘めていそうです。難癖をつければ、左右の差がはっきりと出すぎのように思えるんですが……。なぜ、そうなったのかは、これは自分には分かりませんね」
「もしかしたら、薪割りのようなことで鍛えているのかもしれん」と、芝村は考えつつ言った。「山仕事のようなことをしているということだったから、そうした一式をもっていて、これをやっている可能性はある」
「斧使いの可能性があるんですか?」彼の目が光った。「それは、興味深いですね。背筋も鍛えられるでしょうから、パンチ力は期待できそうです」
二人はそれから、会話を何となく取り止めて工事の模様を眺めに入った。うねったダンプ道を通過する重機は、土埃だけではなくディーゼルの黒い煙を噴き上げて、あたり一帯を煙らせんばかりの馬力を見せつけていた。激しい削岩機の音。その音にいつしか慣れると、周囲の音の感覚がおかしくなるように感じられた。
「――おい、あんたら」
呼ぶ声に驚いて振り返ると、そちらには現場関係者らしき男が、厳しい顔をして立っていた。
「ここは、関係者以外立ち入り禁止だ。それを分かっての侵入とあらば、通報することになる。……なんの目的で入ったんだ?」
もうそれが決定的なことのように、彼は詰め寄ってくる。芝村には一計があった。だから、落ちついていた。
「単なるマニアですよ」
「なんだって?」
彼は顔に、不快感を強く示した。
「採石場跡地をまわって歩いているのです。ここら一帯には中新世の砂岩泥岩互層に、ヒン岩が混じり合って変質した岩石や、鉱物が拡がっているそうじゃないですか。地層調査は、事前に下調べ済みですから、把握しています。と、僕はその中で鉱物に期待しているんですよ。そうです、沸石のファンなんです」
彼は沈黙していた。
沸石ファンと聞いても、ピンとこないからだろう。しかし、当事者だけにその存在については把握しているはずだった。案の定、同情的な気配が彼から発せられていた。
「ここでは、沸石なんて取れない」と、彼は渋い顔で言った。「採掘しているのは、石英と、方解石ぐらいなもんだ。輝沸石や、濁沸石が採取されていた時期もあったが、それは昔の話だ。ここでは、そういうのはもう取れない。あっても、少量だ。そういう鉱脈じゃないんだよ。それに、跡地とかいったが、ここは現役で稼働しているところだ。あんたらが踏み込んでいいところじゃないんだよ」
「そりゃ、失礼」と、芝村は軽く言った。「跡地巡りが不発だったので、ついついこっちに足を運んでしまいましたよ」
「それでいうなら、少し遠いが、群馬の太田市にある薮塚石切場跡地にいけばいいだろうよ」
「まさに、そこですね!」と、芝村は少し大げさに反応してみせた。「これからそちらに行く予定だったのです。火山岩由来の、軽石凝灰岩の石山スポット。石切の跡が壮観で、まさに廃墟ファンにはたまらない、趣深い土地というべきか。……監督、あなたもいかれたのですね?」
「監督じゃないよ、俺は」と、彼は苦笑いで答えた。「あそこは何度も行っている。観光名所でいいだろう。その手のものが好きなものにとってはな。あと、この手の業界人にとっては勉強になるところだ」
二人の知識を動員する会話は弾んだ。薮塚から採取される石は、柔らかで加工がしやすい上に強度と耐熱に優れていたことから建築資材向きであったこと、戦前は重要な石切場として活躍し、その名は関東までとどろいたこと、しかしながら採石条件の悪さからライバルに敗れ、昭和三十年に閉鎖されることとなったことまで、歴史全体に及ぶ。龍崎は最後まで取り残されつづけた。
「本当に、そちらまで行くのか?」と、彼は言った。「遠いから、今すぐでた方がいいんじゃないのか?」
「そうしますか。いろいろ、ごつき合い下さり、ありがとうございます」と、言って芝村は丁寧に頭を下げた。「あ、ここに来たことは、誰にも言わないで下さい」
「悪意はないみたいだからな……」と、言って彼は柔和な顔を見せる。「報告してもなんの足しにもならんだろ。さあ、いったいった」
ロードスターに乗った後、二人は現場を離れた。そのスピードは、向かうその時よりも速かったが、動きは足場の安定したスムーズさが保たれていた。
「屋敷に戻るんですか?」
龍崎が言った。
「いや、石切場だ」と、芝村が答える。「さっきの話、冗談だと思ったのか? 俺は、いつだって本気だ。そして、嘘が嫌いなんだよ。一度決めたら、薮塚まで必ずいかなければいけない」
「芝村さん……なぜ、こんな時に、それを……?」
ちら、と彼を見やると、信じられないという顔つきでいた。
「いま、煮詰まりそうなんだよ、いろいろとな。それを解すつもりで、そちらまで出て行くのはありだろう」
観念したのか、龍崎はしな垂れるように、シートにもたれ掛かった。
薮塚石切場に着くまでには、太陽の傾きはだいぶん変わったが、天気の良さは時間の経過を否定するぐらいに快調だった。
石切場の壮観さは、想像以上だった。人工的に切り出された石の跡たちが、古代遺跡めいた神秘さを放っている。その頭上に拡がるリーフグリーンの樹木たちが、長い時間の経過を物語っていた。
芝村は凱旋門のようなアーチを描いた石場の前に立った。龍崎に自前のスマートフォンを手渡す。
「写真を撮ってくれ」
「なにをするのです?」
「記念写真を撮るんだよ。分かるだろ?」
「ミーハーですね……、本当に、岩石ファンだったんですね?」
彼はしぶしぶといった動きで、離れた位置まで移動する。そして、カメラを構える。シャッター音は快調に響いた。
「岩石ファンだよ、そして、石切場巡りのファンだよ」
芝村は写真の具合を確認しながら言った。
「いつから、そうだったのです?」
「今日からだ」
え、と、龍崎が前のめりになった。芝村は今日からだ、と彼に対し、繰り返す。
「たったいま、この瞬間から、俺は、岩石ファンであり、鉱物ファンであり、そして、石切場巡りのファンなんだ」
芸術作品のように配置された岩場でも、同じように写真を撮った。その回数、ざっと総計して二十回ほど。すべて、芝村の指導によるものだ。映るときは、満面の笑顔を忘れなかった。その後も、場所を指定しては、龍崎を振り回した。天候はやはり快調で、ときおり涼を取るそのために、岩肌に身体を貼り付けて、じっとした。虫の鳴き声が、風音にまじって、ちりちり遠くから聞こえていた。
奥手の神殿の柱のようなところで、一人の男が立ち尽くしている姿があった。日除け帽を被った、老人だ。屈折率のつよい眼鏡を掛けている。首が痛くなりそうな程に、顔を上向けて、岩の天辺を眺めていた。その箇所は、放置された石切の目印なのか、幾何学紋様が浮かんでいた。
芝村は彼が携帯する鞄と、その他の所持品を値踏みしてから彼に声を掛けた。
「あなた様は、もしかして学者様でいらっしゃる?」
彼は眼鏡の縁をつまんで、芝村をためつすがめつした。
「あんたは、誰かね?」
「通りすがりの観光客ですよ。芝村と申します。好奇心が旺盛すぎて、あなたの熱心振りが気に掛かってならなかったんですよ」
「いや、ただ、私はあの幾何学が意味するところを眺めていただけだ。元々は、ここが目的じゃないんだ。東武鉄道線の薮塚駅から十分ぐらいしたところに、西山古墳というのがある。その一角に、温泉神社というのがあるわけだが、これについて調べているんだ。神社に温泉という名前がつくのは、ここだけだからな。それで、ここにある幾何学と、神社……この二つに、関係性について、見ていたというわけだ」
「それは、興味深い。お教え願いたいものです」
「あんたの琴線にふれる何かがあったのですか?」と、彼は微笑んで言った。「わたしに、そのことを話させたら、もう止まらない。だから、あんたもいまのうちに、避難しておきなさいと警告しておくよ」
「いえいえ、避難はしませんよ」と、芝村は言った。「是非に、お伺いしたいことです。あなたの中にある知恵……それを、覗きたくてたまらないのです」
「まったく変わった、物好きもいたものですな」と、彼は嬉しそうに笑った。それから、目許だけきりりと引き締めた。「まず、神社なんだが、開基伝説があるのは、七世紀から八世紀の話だ。当時は山の岩窟からこれが沸いていたようだが、いきなり冷泉になってしまった。ところが里人の長に薬師如来が夢枕に立ち、信託を告げた。その通りに、温泉は暖かい湯で使用されてきたんだ。それがことの始まりさ――」
この男は、地方史を独自に研究している、地元の篤志家のようだった。守備範囲は広く、言い伝えられる数々の伝説について、相互関係を調べている。もちろん、石切場が隆盛したのは明治・大正の話であるから、石切場を巡ることで、伝説由来の手掛かりを見つけることなどは筋違いだ。だが、史跡というのは常に見逃されがちで、特に開発されてしまった石切場なんかは、盲点のもっともたるところだった。彼の自らの足を使った地道な捜索は、少なからず意味のあるもののはずだった。
男の舌は、よく回った。新田義貞が鎌倉幕府倒幕後にこちらで湯治したとする伝説に及ぶと、その勢いが俄然増した。幾何学の考察は、何度も置き去りとなった。たっぷり、二時間は付き合った。
「いや、良い話が聞けた」
芝村は老人と別れた後、龍崎に言った。
「いったい、何をしていたというんですか。完全に、脱線じゃないですかね?」
「脱線もなにもない」と、芝村はほっこりとして言った。「俺は、さっきから全力でやっているよ。ちょうど、知識をたくわえる必要があったんだよ」
石切場を出ると、すでに夕暮れに差し掛かっていることに気づいた。二人は、日陰に没して、鈍い赤を呈しているロードスターに乗った。
「これからどうするのです?」
龍崎が問うた。
「もちろん、持ち場に着くことになる」と、芝村は龍崎に目をやった。「振り回して悪かったな」
「いえ、芝村さんのことです。なにか、あったんでしょう。……今回ばかりは脱線にすぎると思ったんですが、やっぱり何か裏があるように感じてきましたよ」
彼を振り回すのは、今回が最初ではなかった。いつものことといえば、そうなのかもしれなかった。
「裏はないさ」と、芝村は言った。「新田義貞。……俺は、戦国武将のファンでもあったんだ。付け加えるのを忘れていたよ」
ロードスターは駅に向かって、順調に滑り出していった。
3
「なんで、連絡しなかったの?」
と、いきなり抗議の声を浴びせつけてきたのは、由季子だ。今回ばかりは、少し本気が入った怒りを見せていた。
「悪かった、悪かった」芝村はロードスターから手を降って言った。「荷物が多すぎて、これはいけない、と思ったんだよ。私はね、こう見えて紳士なんですよ。相手に苦労を掛けるようなことが、一番にしたくないことなんです」
「約束を破るのも、紳士なの?」と、彼女は首を振りながら言った。「そうは思わないわ。わたしは、そうは思わない。約束を守ることが、紳士の大前提なの」
「約束はしていませんよ」芝村は、負けじと言う。「良く思いだして下さい。約束ですよ、なんて言いましたっけ?」
「へりくつ屋ね」と、彼女はぷりぷりした顔を見せる。「そういうの、わたしはきらいだわ」
「旦那さんも忙しそうでしたしね。ここは、自分でやらなければいけないって、さすがにそう思いましたがね」
「全然忙しくないわ」と、彼女は言う。「ずっとひまなの、あの人は。だから、扱き使ってあげた方が喜ぶのよ。そういう人なの」
そういう伸也は、今日は屋敷内にはいない。仕事だ。例の採石場で、黙々と働いているはずだ。その時間帯も把握している。彼はあと一時間ほどで帰ってくるはずだった。それが近づいているからこそ、いまの由季子はテンションが高いのかもしれなかった。
「ねえ、聞いている?」と、問う彼女は、勢いを顔に満たしていた。「あの人は、普段何をしているか知っている? 山の中で遊んでいるのよ。くだらないガラクタあつめて、それで自分を慰めている。ちょっと、こっちに来てみて」
彼女は格子枠のはまった窓に寄り掛かり、芝村を手招きした。二階から直下に覗ける庭の風景は、屋敷正面からは死角で見えないところだ。そこには、いくつもの倒木を加工した、オブジェのようなものが独特な配列で並べられていた。顔のようなものを彫っているものもある。トーテムポールを初めて見た時の、あのなんともいえない奇妙な感覚を彷彿させる出来。しかしながら、技術力は皆無で、
美点が見出しにくい代物であった。
「くだらないでしょ」と、彼女は芝村の顔色を窺いながら問う。「ストレス解消だか、自己表現発散欲だか、なんだかよくわからないけれど、気持ち悪いったらありゃしない。一度、業者呼んで全部撤去しようとしたら、あの人、人が変わったように怒るの。笑っちゃうでしょ。ゴミのようなものに、愛着もっちゃっているのよ」
彼女はそれから、くすぐったそうにころころ笑った。そういう憎めない部分も、あるいは好きだったりするのではないか。彼女の様子から何となくそんなことを思った。
「業者をいきなり呼ぶのは、かわいそうですよ」と、芝村は彼女にあわせて言った。「あれは、立派な趣味です。認めてあげて下さい」
「あなたも、アートっていうやつに興味あるの?」
「ありますよ」と、芝村は即座に反応した。「紳士道というやつは、アートと直結しています。紳士のたしなみにはむしろこれが必要でしょう。自分を高めるための、いい手段です」
「あなたたち、もしかして、気が合うんじゃない?」
彼女は出窓の桟に軽く寄り掛かって言う。その顔は、薄く笑んでいた。
「何となくそう思いますよ。あの人と、もっと話したいところですがね」
「あの人に直截言っていいの? 作ったものを認めていたって」
「そりゃ、もう自由にどうぞ」
「面倒くさいことになるわよ。あの人、脱線したら、止まらなくなるから」
「彼以上に、私はひまですからね。脱線も大いにけっこう。声が尽きるまで語り尽くしましょうぞ」
「あなたって、面白い人ね」
と、彼女ははにかんで言った。熱のこもった目を寄越すそのありさまは、やはりひどく退行した娘のそれだった。三十八歳なんていう年齢の影はどこにも見当たらない。岡島が十代の影まで感じるとか評したのは、決して大げさではない。
「すぐ近くに引っ越してくれて、嬉しいわ。このまま永住しちゃえばいいのよ。ううん、永住しなきゃだめ」
「歓迎はありがたいですがね」と、芝村は照れを抑えながら言う。「私は一つところに留まらないような、そんないい加減な男なんですよ」
「どうして、一つの所にこだわらないの? 男の性分ってやつ?」
「どうでしょう?」と、芝村は曖昧に濁した。「男の性分と言えば、そうなのかもしれないですがね、……一番は、紳士道ですよ、やっぱり。新しいものを発見しつづける、そうして世の中に還元しつづけていく……私は、そういう義務が自分にあるのだと思っているんです」
「土地も家も……友人も、そして女もそうやって、いままで捨ててきたというわけ?」
彼女は傍らの机に腕を乗せ上げて、そこに上体をどっぷりと寄り掛けた。その目には、なぜかしら何かに陶酔したような、そんな色合いが混じっていた。
「捨てるというのは、ちがいますね」
「他に、言い方があったのかしら?」
「おいていく……微妙な違いでしょうが、それです」
「それで、わたしたちも、いつかはおいていかれちゃうの? あなたの勝手なわがままによって」
「すいません、自分はこういう人間なのです。その時期がきたら、さっと風のように去りますよ。それとも、そうなるのが分かっているという状況下では、私とは付き合えないとか、そういうことでしょうか?」
芝村はあるいは突き放されても構わないという余裕をたっぷりと持っていた。だから、堂々とした物言いとなっていた。
彼女はいまにも声を立てて笑い出しそうに、微笑んでいる。明らかに、気に入られているというような良い感じがあった。
「付き合えないはずがないわ」と、彼女は言って突飛に身体を起こした。「紳士だろうが淑女だろうがなんだろうが、人というのは徹底してわがままを言う生き物よ。未来がどうなるかだなんて、誰にも分からないし、自分自身だって分からない。未来の予定は立てられるんだろうけれど、やろうと思えばその通りにしていけるんだろうけれど、そんな風に律義に生きている人間なんて、よっぽどの優れた人でない限りには、ひどくつまらない人……わたしはそう思うわ」
お茶を煎れるね、と彼女はキッチンへと出て行った。今日も室内履きのサンダルが隠れるぐらいの丈の長いスカートを穿いていた。目にうるさいぐらいに襞でくしゅくしゅとした仕様の、水色がかった小花柄生地。対して上は、ひきしまった胸の形が露わになるシンプルな白のTシャツだ。
芝村は彼女が見下ろしていた、窓辺によった。そして、伸也が手がけたアートもどきの群を眺めやる。プリミティブな造りには、彼の内なる野心がこめられているように感じられる。
「そんなもの見ていても、身体の毒よ」と、十五分後に彼女が盆に載せたティーセット一式とともに現れた。「飲んでいって下さいな、無毒化効果は、ありませんけれども」
芝村は授かったティーカップを、何も入れずに、一口すすった。苦味が濃い紅茶だった。だが、そこが良かった。味わい深い彼女を象徴しているかのようだった。
それから一時間は談笑した。もっぱら、ジェンダーがらみのセンスの話題だった。彼女にはどちらにも属しない、独特の感覚が宿っているということが分かった。だからこそ、芝村の紳士道についても、彼女なりに理解できるものがあったのだ。
会話が一段落したあたりで、ごとごとと外からガスボンベの底を叩くような、低く鈍い音が外から響いてきた。
「あの人だわ」と、彼女が窓辺による。「帰ってきた」
彼女は、ちょっと待ててね、と言いおいて、客人の芝村をひとり残して庭に出て行った。芝村はさして気に掛けずに、出窓から直下の庭に駐まった、青のピックアップトラックを見下ろしていた。荷台には、根の伸びた切り株がのっていた。タイガーロープでくくりつけられているが、それは十分ではない。
運転席から、伸也が降りてきた。走ってきた由季子が彼を出迎える。ふたりの談笑。訪問中の芝村のことが言い伝えられているにちがいなかった。直後、伸也が二階の窓を気に掛けた。芝村と目が合う。
彼はゆっくりと頭を垂れた。その顔は、笑顔だった。採石場のそれとはまるで別人のような顔つき。芝村は、遅れて彼に応えた。しかし、すれ違うように、彼はすでに芝村を気に掛けていなかった。
なんとなく、ここにいるのが焦れったいように思えたが、庭先に出て行くことは躊躇われた。茶を飲んで、時間を潰した。十分後、ようやく伸也が芝村の前に現れた。
「ようこそ、紳士さん」
と、彼は手を差し伸べてきた。芝村はカップを傾けたまま、その手を握った。会話のだいたいは、由季子から彼に伝えられたのだろう。十分かそこらで伝えられる内容など、限られているはずだったが、あの由季子のことだ。かなり細かい内容が如才なしに告げられたのかもしれなかった。
「引っ越しは、済んでしまったようですね。どうして、呼んでくれなかったのです?」
彼の抗議は、笑顔の下で発せられたものだった。
「いえ、もうご勘弁下さいよ、旦那さん」と、芝村はカップを置いて言う。「さっき、奥さんにしぼられたばかりなんですから」
「まだ、搾り足りないほどよ」と、奥から由季子が顔を出して言う。「あなた。もう、何もなくなってやるぐらいに、しぼりあげて下さいな」
伸也が呵々と笑った。
「すいませんねえ」と、彼は芝村に悪気のない、のんびりとした謝りをした。「うちの奥さんは、ねちっこいですから。一度なんかやらかすと、延々とそのことについてうらみがましく言われつづけます」
「おあいにくさま、ねちっこい性格は、これからもつづきます」彼女はそれからころりと、伸也に対し顔つきを変えた。「なにか、飲む?」
「なんでもいい。あるもので」
「わかったわ」
と、彼女が消えていく。
部屋には伸也と芝村が残された。しばらくの間の後、彼が気に掛けてきた。
「どうぞ、スツールにお座り下さいな」
「いえ、立っていたいんですよ」と、芝村は窓際にこだわった。
「わたしは、座らせてもらいますよ」
と、彼は近くのテーブルについた。木工細工のごてごてとしたテーブルだ。工芸教室で使われていたものなのだろう。窓際方面の隅には、万力が備わっていた。
「アートが趣味だったんですね」と、芝村が口を切った。「今日もまた、その題材を持ってきたようで」
「いやはや恥ずかしい」と、彼は言って後頭部を押さえた。「単なる趣味ですよ。……由季子には、悪趣味となじられていますが、まあ、趣味です。これで何をしようというわけではないんです。自分のためだけにやっています」
「いつからはじめられたので?」
「こっちに来てからですよ」
「そういう気持にさせる風土ってことでいいんですね、ここは」
「たぶん、そうだと思いますよ」と、彼は流すように言った。「芝村さんも興味があれば、もしかしたら数ヶ月後……いや、数週間後にははじめているかもしれない」
芝村は笑いを飛ばした。
「はじめていたら、面白いですね。これまでにない、自分の再発見にはなる」
「興味は、あるんですね?」
「ありますよ」と、芝村は勢いよく言った。「細かいことを言えば、専門は〝木〟じゃありませんね」
「なんです?」と、彼は興味を示した。
「〝石〟ですよ」
「ほほう」と、彼は柄にもない声を上げた。「それは、面白い。いや、興味深い。……あなたのような人が、そういう興味があるとは思わなかったですよ」
打って変わったような、明るさが彼全体から発せられていた。
「石に、関心があるのです?」
問うと、彼の顔色に、はっとしたものが浮かぶ。
「まあ、その……」と、悩ましそうに、もだえる。「そういうことですよ、石に興味があります。とはいっても、これを趣味の題材にとりあげたことは一度もないんですがね」
「希望はあるということで?」
「まあ、そうです。あります……と、あなたは、石を題材に、何かを作ったことがあるのです?」
「作ったことは、ありませんよ。が、……これを御覧あれ」
と、芝村はスマートフォンを取りだして、画像集の一枚を掲示して見せた。それは、薮塚石切場にて撮影した一枚である。
「これは」と、彼は芝村のスマートフォンをほとんど強引に取り上げるように眺めた。「群馬の薮塚じゃないですか……、これはいったい、どうしたというのです?」
「どうしたもこうしたもないですよ。興味があるから、行っただけです」と、芝村は言ってスマートフォンをとり戻す。「アートのような空間でしたよ。ああいう情緒溢れる、スポットは貴重ですね。癒されるとかそういうレベルではない。自分が初期化される、原点というべきでしょうか。そうです、アートというのは、根源的にそういった原始に立ち返る魅惑というものがあるはずなんです」
それから、薮塚の魅力をたっぷりと語った後、その界隈にまつわる伝記と伝説をおりまぜて、話を膨らませていった。すべては、例の石切場で出会った、地方史に長けた男の受け売りだった。それを我がことのように話すには、一片たりとも怯んではならなかった。さいわい、話題中の新田義貞について、伸也は強い関心を示したため、リードを保つことができた。
「あなたは、話せる人だ」と、伸也ははつらつとして言う。「わたしと同じ趣味というか、同じ感覚を持っている人のようだ。まさか、こんなところでそのような人と出会うとは思っていなかった。それでいつから、そのような嗜好を持つようになったというのです?」
「それは難しい質問です。例えば、このような説明はどうでしょう」と、芝村は人差し指を立てる。「ある日突然人が変わったように、打ち込むことができるものがその人に現れた場合、それは果たして、その人にとって、なんの脈絡も関係性もない、そういう乖離したものだったのでしょうか? 自分はそうは思わないんです。何かしら、細い糸のようなものが、その人の中にずっと通っていて、それがある日ひょんなことから方向性を帯びて外側に引き寄せられ、それがその人のものとなってしまう――そういう具合ではないでしょうか。つまり、夢中になるものや、夢中になってしまったものは、どこかそこかでその人の中でつづいてきたものだということです」
「それは、遡れないことだと芝村さんは言いたいんですね」彼は好意的に受け取っていた。「その考え方は、大賛成ではないですけれども、まあ賛成です。夢中になれることには、原始体験が絡んでいるはずなんです。でなければ、なかなか定着しないことでしょう。趣味というのは、労力もお金も掛かりますからね」
「なにより、家族に迷惑が掛かる」と、由季子が現れて言い添える。「そういうことも忘れちゃだめよ。むしろ、それが一番なのかも」
彼女が茶を差し出すそのあいだ、伸也はばつが悪い顔をしていた。
「そういうことで、話を台無しにするのは止めなさい」と、早速茶をすすって言う。「いま、いいところだったんだよ」
「さっきのお返しですよ、あなた」と、彼女は悪びれた風も無しに言う。「もっと、気の利いたことを言って欲しかったら、あなたがまずその手本を示して」
「いいから、いまは出て行ってくれ」と、伸也は由季子を追い払う仕草をする。「しばらく、二人で話したいんだ」
「まあ」
と、彼女はいきり立って、それから部屋を出て行った。
「奥さんは、大事にしないと」芝村は取り換えられた茶から立ち上る湯気を見つめつつ言う。「彼女ほど、気の利く人はいないんですから」
「困りますよ、由季子を無意味に褒めそやしたりするのは。それとも、彼女に興味があったりとかそういうわけではないですよね?」
「とても魅力的な人だ」と、芝村は言った。「私に限らず、多くの人が彼女を見かければ、まず内から溢れ出るその魅力に虜になる、なにより、それに見合う器量の持ち主でもある。ここで、興味がないというと、その彼女の魅力と美貌をないがしろにしてしまう恐れがある」
「なるほど、それがあなたの紳士道ってやつですか?」
「お気に障りましたか? これはあるいはあなたを据えおいた発言とも受け取れましょう。しかし、私は、そういうつもりはありませんので、そのあたりは最初に言っておきたいと思います」
「分かっていますよ」と、彼は受け流す。「手を出すようなことがあれば、それが一番紳士道にもとる行為になる。そうなりますからね。本当の紳士というのは、誰にも傷をつけない中間の立ち位置を守ることでしょう」
「グレーです。私は、いつだってグレーですよ」と、芝村は、自分の胸に手を当てて言った。「あなたの言うとおり、誰も傷をつけません。……しかし、やっぱり人間ですから、間違いはあるのです」
「間違いは起こってはいけません」と、彼は注意するように言った。「それは、分かり切ったことですよ。間違いは、つまずきという程度だったとしても、それは十分な破壊力を持つものです」
「そういったフラストレーションは大事ですよ」と、芝村はあくまで、彼の気持を逸らす。「すべてをエネルギーに変換して、趣味にぶつけるのです。そうすることで、それは一つの形になります。私が言いたいのは、それですよ。これから先、競争してみるのも悪くないですね。もちろん、趣味に投じる情熱度の競争ですよ」
「あなたの話は、ひやひやもんだ。わたしを瀬戸際ぎりぎりまで追いつめてくるような、そんな際どいものがある。いや、これがわざとなら、たいしたもんだ。度胸が人一倍二倍座っていらっしゃる」
彼は何を思ったのか、突如額を押さえて笑い出した。それは、やがて狂い笑いというまでになった。
「なになに、なにがあったの」由季子が部屋に駆けつけてきた。「みっともない笑い、やめなさいよ。ねえ、あなたったら」
由季子に揺すぶられて、彼の平静が取り戻される。
「いや、久し振りに面白い人に出会ったんでね。たいしたもんだよ……、ここまで感情を揺すぶられるなんて、たいしたもんだ」
気に入られたのか、それとも敵として認識されたのか、芝村はじっと彼を見ていた。どちらでも構わなかった。いずれは、この男を追いつめていくつもりでいたからだ。彼と真っ向対決。それは、早々に始めなければいけなかった。いや、もう始まっていると言ってもいいのかもしれなかった。
「由季子」と、彼は彼女に言う。「悪いけれど、趣味は加速するよ。これから、良いものを作らなければいけないんだ」
「なんでそうなるの」彼女の眉間は、きつく寄せられていた。「お願いだから、やめて。みっともないことやめて。ここで、普通に暮らせればそれで良いじゃない。何が不満なの?」
「不満だらけだ」と、彼は喜悦を湛えたままに言う。「もう、じっとしていられないかもしれん。そういう気持になってしまったんだ。今日から、ライバルができたようなものさ」
「ねえ」と、由季子は芝村に言った。「それって、あなたも本気なの?」
「私は、あなたがたに付き合うつもりですよ。でなければ、ここにいる意味はないように思えるんです」
「紳士道から言っているとしたら、間違いだわ」と、口走った彼女の顔は、強張ってさえいた。「この人に付き合う必要なんてどこにもないから」
「これは、おれらの話なんだ」と、伸也が由季子に言う。「おまえには、関係ない話さ。そうだろう? 芝村さん」
「本気になりすぎてもこまりますよ」と、芝村は落ちついたままに言う。「あくまで内側にたまっているフラストレーションを発散するだけの闘いです。それ以上のものはない」
彼が興奮しているのは、由季子への過剰な愛情のためのはずだった。しかし、芝村は彼女には手を出さないという約束はするつもりはなかった。あくまで、曖昧に濁し、彼の本性を引き出していく作戦を採らなければいけない。
「よろしい」と、彼は言った。「それ以上のものは、特にない。そのとおりだ。どちらが勝ち負けということもないんだ。我らは、これからもいつだって、腹を割って話し合える友だよ。……まちがいないですな?」
「もちろん、そうだ」と、芝村は伸也にうなずいた。「なんでも話し合える仲ですよ、すでに。私たちは、大部分で人生の目的が一致しているのですから」
由季子は何も言えず、もどかしそうにしていた。
「余興はさておき」と、彼は茶を勢いよく呷ってから言った。「友人として、あなたを手助けしたいところだが、……いま、困っていることはなかったのです?」
彼のそれは実に友好的な持ちかけだった。昂ぶった緊迫感を断ち切るような笑み。一気に、ライバルモードは引いていった。
芝村は、彼に合わせることにした。
「引っ越し作業は、まだつづいていますよ。しかし、あとは自分の仕事だけです。手伝ってもらうようなことは何もありませんね」
「遠慮する必要なんてないんですよ。どんな力仕事でもやります。あなたの、望む石運びだって、やっても構わない」
「それは、さすがに業者の仕事でしょう」と、芝村は冷静に言った。「それにまだ先の話です。一応と言いますか、構想はすでに頭にありますから、まあ、いますぐ材料だけでも自分の傍に置いといてもいいんですがね。……そういえば、津路さん。あなたの材料は、ずいぶん、変わっていらっしゃる」
芝村は出窓を振り返って言った。彼は、動かなかった。
「拾ったんですよ」
「どこで、です?」
「周辺の山ですよ。捨てられているものがたくさんありますからね。土地の所有者に、許可はあらかじめ取っているので、いつでも持っていって良いことになっているんです。そうそう、口利きをして、芝村さんもそうして良いと、許可を取っておきますよ」
「それには及びませんよ」と、芝村は言った。「同じものを選ぶというのは、なんだか納得がいきませんからね」
「やはり、石にこだわるんですか?」
「なにか、まずいことでもあったんです?」
「いえ、特に。自由にどうぞという感じです」
採石場で働いている事実は、やはり表には出したくないようだった。彼が自分から動いて関心を示し、自ら語り出すことを期待していたが、これは無理なことのようだった。
「さっそくなんですが、もし、買うときは、市街地まで出て行くということもあるのかもしれません」
と、芝村は言った。すると、彼は横手の部屋をちらと気に掛けた。おそらく、家電話を意識したのだと思われる。
「わたしから、業者さんを紹介したっていい」と、彼は言った。
「それだって、自分でやりなければいけないことでしょう」
「また、紳士道ですか?」
「いえ、単なるこだわりですよ。私は、本当に凝り性でしてね。こだわるものは、うるさいぐらいにこだわるんです」
「いやな、人ね」と、由季子が頬に手を当てて言う。「そういう変なこだわりって、わたしからすると、なんだか気味の悪いものにしか受け取れない」
「由季子」と、伸也がたしなめる。「いまのは、いけない」
「いいんですよ、旦那さん」と、芝村は手を差し伸べて言った。「これは事実ですから。こだわりにうるさい男は、たいてい女性に嫌われます。彼女の嫌悪はむしろ当然でしょう。まして、それが人様に迷惑が掛かる、特異な趣味に関するこだわりだというのならば、なおのこと許せないものがあるはずでしょう」
「まるで、自分のことが言われているようで……、引っ掛かるよ」
伸也は芝村を気ぶっせいに見ていた。
「むろん、これは私自身のことについて言ったものです」
「いちいち引っ掛かるんだが、しかし、芝村さん、あなたは憎めないお方だ。それがどうしてなのかは分かりませんがね」
「それは、一つ。私自身、あなた方のことを認めているからでしょう。事実、あなた方ご夫妻は、自分の中でとっても魅力的なそんな、お二人です」
「見え透いたお世辞でしょうけれど、でも悪くないわね」と、言う由季子はやや強情ともとれる色を顔に湛えていた。「わたしたちを踊らせるツボでも押さえているのかしら」
「そんなのは、押さえていませんよ」と、芝村は言った。「それを知っていたら、もっと自在に翻弄しているはずですよ」
「本当は翻弄できているんじゃないの?」と、彼女は疑り深く聞いてくる。「紳士道でそれを抑えているってわけよ」
「それぐらいの賢さは、あるかもしれんな」と、伸也が言った。「なんだか、どうも手玉に取られているような気がしてならない」
「買いかぶりですよ」と、芝村は言って肩をすくめた。「自分はむしろ未熟な人間です。尻尾を巻いて逃げたことなど、これまでの人生において何度あったことか……そうです、恥が怖いのです。人に笑われるのが、怖いのです。だもんですから、本性は隠すのは当たり前で、相手が適わない人間だと認識した瞬間、その人の前からそそくさと、立ち去ることにしています。つまり、私があなた方の前を立ち去るときは、あなた方に及ばないと判断したその時だ、ということになります」
「あっはははは」彼女はあの、特有な笑いをあげた。「面白い方ね。そうやって逃げ回って、それこそ恥じゃないのかしら」
「感じ方の問題ですよ」と、芝村は得意になって言う。「相手が恥だと思っても、自分は逃げるが勝ちと思っている場合もあります。自分なんかは、そうですよ。逃げて、勝ちに持っていく……まあ、狡いやり口ですがね、そういうこともできるんですよ」
その後も、由季子を快調に笑わせつづけた。彼女をリードすることは、芝村にとってそう難しいことではなかった。そのあいだ、伸也といえば、微笑んだまま、冷めた茶をちびちびと舐めることを繰り返していた。感情を抑制している様相だった。
4
「え……石ですか?」と、速見が聞き返す。「飾り石のような、そんなものを入れたいってことですか?」
「オブジェだ」と、芝村はカウンター台をこつこつ器物で叩きながら言った。「自分で削って、それでそれを家の看板にする」
「看板って……」
彼はしばらく呆けていた。
近くにいた役場の人間も会話を耳にしていたらしく、芝村を気に掛けていた。このような注文をしてくる相談者など、はじめてのことにちがいなかった。彼らが頭に押さえているマニュアルのどれにも対応しない、要請だ。困惑と混乱はある意味避けられないことなのかもしれなかった。
「彫刻家でもはじめるつもりですか?」
「彫刻家? そりゃいい」と言ってから、芝村は手を打った。「うまくいけば、それをはじめてみたい。……とはいえ、今の段階は、趣味にすぎないから、なんともいえない。というよりも、仮契約じゃ、そういうことをやったら、だめなのです?」
「駄目ということはありませんが……」速見は、眉間を詰めた。「もし、最終的にこちらに決めて下さらなかった場合、それはどうするのです? オブジェは」
「できれば、残していきたいんですけれどもね」
彼は唖然としていた。奥から、くすくす女子職員のひそみ笑いが洩れ聞こえている。
「そう、できれば残していきたい。仮契約で暮らしている今の住まいは、セルフビルドだ。あと、三割の追い込み作業が残っている。実は、それは家だけではなかったんだよ。庭の整備や、その他の追加設備もまだ残されていたんだ。オブジェもそのひとつということですよ。それで、今回のこれは、そちらの方を先にやるというだけにすぎないんだ」
「まあ、未完成の物件というのは正しいんでしょうが。解釈の仕方次第では、外側もいじっても問題ない……ということにはなりましょう」
「だったら、許可をいただけるんです?」
「自由にして下さいとは、言えませんよ、さすがに」彼の声は小さくなっていた。「本当にそれをする気でしたら、度が過ぎない程度にお願いしますとだけは言っておきましょう」
「どうしたのです」と、岡島が奥手から慌てて駆け込んできた。「なにやら、ものものしい気配を受けたので……」
「実は――」
速見が事情を説明に掛かる。岡島の顔色は、分かりやすいぐらい困惑の態に変化した。
「大胆ですね、オブジェ導入とは……」岡島は軽くながらも、右頬を引き攣らせていた。「基本的に景観破壊というのは、困りますがね。だいいち、冬場は雪に囲われますから、それが障害になるという場合もあるんですよ」
「そうならない範囲内での、計画ですよ」と、芝村は言った。「さすがに、常識外れのようなことまではしませんので、ご安心を」
「しっかし、なんでまた、そのようなことになったのでしょう」
岡島は相席に腰掛けて、言った。額に光り出しそうな兆候が見受けられる。
「ロッジで暮らしているうちに、物足りなさがぐんと突き上げてきましてね、それで、これはいけないとなったわけですよ」
「動機は浅いですね」と、彼は冷ややかに言った。「でも、あそこは本当に何もないですからね、そういう感情が起こっても、まあ不思議じゃありません。職員といえど、あそこに直截暮らした人がいるわけではありませんから、そのあたりは暮らしている人しか分からない何かしらの差があるはずなんです」
「繰り返しますがね、オブジェ設置ったって、悪いようにする気はありませんよ」と、芝村は真剣に言った。「悪意からはじまってやることじゃないんです。これは、自分のために必要なことだからこそ、やるのです。もちろん、全力です。お金も掛かりますから、それは当然でしょうよ」
「分かりましたよ」と、彼はあっさり折れた。「許可するも何もないですが、御自由におやり下さい……、その代わり、大事が発生しても、自己責任になりますよ。回収費用も出せませんので……、そのあたりはご了承いただきたく思います」
芝村からの了解を取りつけると、彼はファイルを繰って、業者の選定に入った。芝村はそれを制した。
「業者の方は、あてがあるんですよ」
「もう、決まってたんですか? 早いですね」
「そういうのは、予算編成からはじまりますからね、業者ごとの値段を下調べするのは当然ですよ」
芝村は立ち上がった。
「話はそれだけです。報告だけに来たんです。オブジェ制作は、日ごとに進めます。見に来て下さいよ」
彼の顔に、期待はなかった。困った人だという、持てあました具合だけがあった。それは、速見も同じだった。
しかしながら、役場の同僚たちについては、必ずしも悪く受けとめているという風ではないように思われた。終始なごやかムードが保たれたままだった。
5
クレーンつきの五トントラックが吊り下げる彫刻用ブロックを、芝村と龍崎は見上げていた。全長三メートルにも及ぶ、巨大直方体。いざ、現場に届けられてみると、それは場違いという程までの突起物となっていた。その唐突さは、周囲に対し、威圧的ですらあった。
「こんなものをどうするのです?」
龍崎が問う。芝村は口許だけに笑みを湛えた。
「もったいないがな、加工して、この家のシンボルにする。そういうことだ」
「そういう趣味があっただなんて、知りませんでしたよ。普段から、美術館や博物館巡りをしているのは知っていましたが、実際やる趣味があっただなんて、押さえていませんでした」
「誰が、俺が彫るだなんて言ったんだ。俺は、何もやらん」
「どういうことなんです?」
その時、業者が近づいてきて、芝村に言った。
「場所は、あれで良かったんですか? もう少し、敷地内に入れた方が良かったんじゃないでしょうか?」
「あれでいい」と、芝村は言った。「ちょうど良い位置に収まってくれたと思うよ。うん、調度いい。いい仕事をしてくれた!」
業者は、会釈だけして小走りに現場に戻っていった。すぐさまブロックを固定したワイヤーを片付ける作業に取り掛かる。
「芝村さん、誰が、これを彫るんです?」
龍崎が後ろから言った。彼の顔は、不安そうだった。
「だいじょうぶだ」と、龍崎の肩を叩いて言った。「君にやれ、とかそんなことを言い出したりはしない。専門の業者を呼ぶつもりだ。そう、一人の彫刻家と話がついている。現代アートにも通じた、男だ」
「委託制作ですか? そういうのは、料金が高くつくはずですよ」
「問題ない」と、言って芝村は肩をすくめる。「依頼したのは、そちら筋では生計もままならない、売れ残りの男だ。しかも、強いこだわりなんてないから、どのようなことだって請け負ってくれる。実際、要請したら、気安く応じてくれたよ。それなら、任せておくれよという具合にね」
「どこでそんな人と出会ったというのです?」
「案外、近くにいるもんなんだよ、それが」
彼は不思議そうに、目を細めていた。日射は強まっていた。射る光線の端々が、虹色に光っていた。
業者の帰り支度が整ったところで、一台のライトバンが敷地前に駐まった。扉部分に破れた箇所があって、そこから銹が浸食しているおんぼろのバンだ。
「いや、ようこそ、倉橋さん」
芝村は降りてきた男を迎えに出た。照れ臭そうにしている彼の、幅が広い上に厚みのある手を握った。
「あなたをさっきから待っていたんですよ」
今日の彼は例によってつなぎ姿だったが、暑さに負けてのことか、上半身を脱いで、腰許に巻いていた。
白髪を光らせながら、手ひさしを作り、彫刻ブロックを見上げる。
「いやはや、けっこうな買い物をしましたなあ」と、言う彼の口調は実にのんびりとしていた。「こりゃ、大変なものだ」
「これをみて、創作意欲は湧いてきませんか?」
彼はブロックを手で触り、撫で始めた。
「これだけの御影石をみれば、さすがに湧かないというわけにはいきませんな。やり甲斐はありますよ」
芝村は龍崎の視線に気づいて、彼に振り返った。
「このお方が、これを彫ってくれる人だ。つい最近であった、このあたりの友人なんだよ」
「どうも」と、倉橋が手をあげて、龍崎に言った。「芝村さんとのつき合いで、仕事を請け負うことになりました。ご迷惑をおかけすることになりましょうが、ここは一つよろしくどうぞ」
龍崎は曖昧に愛想を返した。どう反応して良いのか分からないらしい。
「これは、どこで購入したものなんです?」
と、倉橋が芝村に問う。
「最寄りの石材センターから譲ってもらったものです。いろいろ業者に掛け合ったわけなんですが、どうも質の悪いものしか残っていないというようなことを言うわけですよ。そういうことは、慎重にならなければいけない。不良品がゆえに、制作に差し支えるようなことがあれば、大問題ですからね」
「それは、正しい選択ですよ」と、倉橋は言った。「御影石は、耐久性に優れていますが、加工用には優れていないので、いつ何が起こるか分かりません。粗悪品を掴まされるようなことがあれば、ツケはすべてこちら側に回ってくることになるんです」
「それで、どうなんです? 粗悪品じゃないですよね?」
彼はまた撫でる仕草を再開した。触りながら語りかけているといったようなありさまだ。
「これは、いいやつですよ。この含有鉄分の配置具合、絶妙ですな」と、彼は嬉しそうに言う。「曲線なんかを彫ればですよ、この大小のぶつぶつが、良い味を出してくれるんです」
「是非に、良い味を出せる、うんと曲線を使った作品を生み出してやって下さいよ。この石も、それを希望している、そうじゃありませんか?」
「いいですなあ」と、彼はうわずった声を上げた。「今日一日、これと睨めっこして、どうするか決めたいですよ。構いませんな?」
「けっこうですよ」と、芝村は気安く言った。「倉橋さんの気が済むまで眺めやって、それで御影石と相談して決めて下さい……。と、例の条件は守るよう、それだけは言っておきますぞ」
「分かっています。が、今日は初日ですから、問題ないはずです。注意するのは、制作時だけです」
「お分かりになっていらっしゃるのでしたら、それでいいんです」
その時、横手に業者が待機していた。
「搬出作業のほう、すべて終了いたしました」
と、彼は帽子を脱いで言った。
「ご苦労さん。あとで、会社の方に連絡を入れておくから、今日のところはお疲れさんでした」
業者は何度も礼を告げ、立ち去っていった。ブロックを積載していたときとは違って、トラックは軽やかに進んでいった。
「自分らは、ロッジの方に入りますが、倉橋さんはどうします?」
「自分はここでいいんです。放っておいて構いません」と、彼は手をあげて言った。「それと、宴会をやりたいんですがね、それを許可してくれませんか?」
「宴会、ですか?」
芝村も想定しない要請だった。
「なあに、たいしたもんじゃありません。御影石を相手に、僕が一人で酒を飲むというだけのことです」
御影石を目で愛でながら、盃をあおぐ、風流な遊びを彼はしようとしているのだろう。彫刻家としての彼はかつての姿であり、よもや彼の中で青春となろうとしていることから、それを取り戻した今、人には察せない、込み入った感情になっているはずだった。
「自由にやって下さいよ。肝心の酒の方は、どうなんです?」
「車に積んでいますよ」
「用意が良いですね」芝村は思わず、笑いが洩れた。「そこだけは、しっかりしています」
「それだけは譲れんよ」と、彼も歯間から、低い笑いを洩らしつつ言う。「そいつも僕のパートナーのようなもんだからな」
芝村は彼をおいて、龍崎とともにログハウスに入っていった。
「なんだか、落ち着かない一日だったな」と、言って芝村はできあがったコーヒーを、龍崎に差し出した。「巻き込んで済まなかったよ」
「これは、いつものことですから」と、彼はカップに口をつけて言う。「いまさら、口に出して言うことでもないはずです」
レースのカーテンをかき分けて、その向こうを見ると、昼間に上がるだけ上がった気温をみすみす空に逃してしまった空が、弱った青色を呈していた。それに合わせてのことか、浸食する夕日が、みじめなほどに力弱く見える。夜は、ぐっと底冷えするはずだった。それなのに、建てられたばかりの御影石の前に、倉橋はあぐらをかいて、語り合うように座っているのだった。朱塗りの盃は、彼の大振りな顔さえ呑み込んでしまう大きさなのに、呷るその角度は、豪快だった。腰許に待機している一升瓶は、三本だった。うち、一本がすでに空になっている。
「あのままでいいんですか?」と、龍崎が問う。「酔って暴れ狂いだして、計算違いのことが起こるというようなことだってあり得ましょう」
「きっと、嬉しいんだよ、彼は」と、芝村は贅肉が乗って、丸みを帯びた彼の背中を見つめながら言う。「今回のこれは、彼にとっては人生の一大事というぐらいの、大きな仕事なのかもしれん」
「放っておくと」
「なにかを起こせば、その時に、対応すればいい。たったそれだけのことだ。なにを気に病むことがあるというのか?」
彼は数拍黙った。
「何やら、彼とはこのわたしが押さえていない、取り決まりごとがあるようですね?」
「だから、なんだというのか?」
「教えていただけないのです?」
「あるいは、関係のないことだよ、これは」
「例の、石切場。散々付き合わされたことは、きっと今回の仕事のどこかで活用されたのでしょうが、しかし、自分としては利用されたままで終わっているわけです。この怨みは、忘れませんよ」
「君は、案外、執念深いな」と言って、芝村は目を細めた。「取り決まりったって、たいしたことじゃあない。制作――つまり、ノミ入れは夜半の十時から明け方の四時ぐらいまでって決めているだけだ」
「なぜ、夜半なのです?」
「ターゲットに制作しているところを報せないためだ」
「自分が作っていることにするわけですね」
「余計なことは言わなくて良いだろう」と、言って芝村はそれから、そっぽを向いた。「名誉までは奪うつもりはない。銅板のキャプションには、私の名前が書かれることはまずないから」
「それにしても、なぜ、彼なんです? 売れていないからですか?依頼経費が安いからですか?」
「わたしが彼に出会った――それこそが大事なことなんだ。手元に、彼がいることについて、これを有効活用しない手はないだろう。元手が安く済むから云々というのは、結局後づけのことにすぎない。深い意味はないんだよ」
芝村はカーテンを閉め、龍崎を振り返った。
「ここからは、我らの話をしよう。敬三の話はどうなったのか?」
「父親は、見つかりました。岐阜の方で、食品加工工場の職員をやっています。トウレイフーズという小さな会社です。これは、グリンピースやトウモロコシなどの冷凍食品を作る会社です。経歴を洗ってみましたところ、由季子と接触できるポイントはいくつかありましたが、しかし、実際、接触したかどうかはこれは分かりません。依頼人の篠代婦人についても同じです。どうも、彼らは互いに隔たったところに生きているというのが、自分の印象です」
「もし関係せずに生きているというのなら、拒否をしているという彼女の意思が、情報として伝えられているはずだ、敬三にな。関係断絶を告げる、手紙のやり取りがこれまでに彼との間にあったのではないか」
「考えられることです」と、彼は言った。「事実、敬三は出所後、すぐに、岐阜の方に移動していますから……山梨の家族の元を訪ねるという考えは、最初からなかったように思えるのです」
「彼が服役中に出された手紙云々は、これはどうにもならないか」
「直截、コンタクトを取るしかないでしょう」
「取ってくれるんだな?」
「要請されるとは思っていましたよ」
彼は特に感慨もなく、言った。
「なぜ、そう思ったんだ?」
「今回のこれだって、こちらまで召致する必要なんてどこにもありませんでしたからね。電話一本で解決する問題です。それなのに、芝村さんはこちらに招いた。つまり、この事実は、ここから近くの場所にまで出向いてくれということを、示唆しているはずなのです」
「君の推理力は、少しは上がったみたいだな」
「これは、推理でも何でもありませんよ。習慣から、分かったことです」と、言って彼は軽く息をついた。「手紙の云々を問い質すのは、どうすればいいのです? 彼が拒否をする場合も考えられます」
「それは、まずないだろう」と、芝村は言った。「拒否をする理由がどこにもない」
「律義に答えてくれると?」
「そうだな」芝村はうなずいて、龍崎から身体を反らした。「その男が、過去に対して強い拒絶反応を示さない限りには、ちゃんと応じてくれる」
「実際、どう思っているというのでしょう? 過去について」
「出所してから、何年だ?」
「十……二、三年ぐらいですか?」
「そう、それぐらいだ」と、芝村は顔を上げて言った。「それぐらいになるまで、音信不通。それなのに、彼らは別の人生を歩んでいる。つまり、封印しているんだよ。だからこそ、当人にとって、もどかしいような、やるせないようなそんな間ができているはずなんだ」
「そろそろ、過去に対峙しなければいけない時期にきているというわけですね?」
「まあ、そんなところだ」それから芝村は腕組みをして、目を瞑った。「敬三の方も、その覚悟はすでにできているはずなんだ」
「それで、この親子は、再び結びつくなんていうことはあるのでしょうか?」
「それは期待しない方が良い」と、芝村はかっと目を見開いて言った。「そして、強制的に干渉することでもないんだ。二人は隔たったまま、放置しておく。……それをしなければいけない状況になってきているんだ」
「その状況というのは……?」
「いまに分かるさ。そう、この後、それはいやでも判明する」と、芝村は龍崎の質問をすりかわして言った。「……それで、今日、君にここに残っていてもらいたいと思っているのだが、大丈夫かね?」
「残る? なぜですか。……いつもならば、今すぐに出て行けとでもいうのが芝村さんでしょう」
「由季子だ。彼女が、明日の昼前に、ここにくることになっている。君は、この屋敷のどこかに隠れたままに、窓から彼女の顔を見て欲しい」
芝村は懐から一枚の写真を抜き出し、角をはじいて龍崎の傍らにあったテーブルの上で回転させた。
彼はそれを手に取って、映っている少女を眺めた。
「これが、幼少時の由季子ですか?」
「そう」
「現在の由季子と比較して欲しい。……何も言わずに、だ」
「分かりました。確認しましょう」
「それまでは、ひまがつづく。二階の奥手にある部屋を自由に使ってくれ。ベッドはないが、寝袋がある。それでたっぷりと睡眠を取るんだ。ここのところ、働きづめで疲れが溜まっているはずだろう?」
「疲れなんて、たまっていませんよ」と、言って彼は軽く肩をすくめた。「ですが、芝村さんの言葉に甘えて、たっぷり睡眠をとっておこうか、と。……と、外の男は、だいじょうぶですかね?」
芝村はカーテンを開けて、御影石のブロックが立っているその場所を見つめた。倉橋はブロックを取り囲むように、工事現場用に使う鋼管を組み立てて、足場を整えているところだった。早速始動したらしい。
「作業を開始するつもりですか、あの男」と、龍崎が背後から覗き込んで言った。「止めましょうか? いくらなんでも、あれだけ酒を飲んだ男が作業っていうのは無理がありますよ」
「いや、あのままでいい」と、芝村は倉橋の背中を見つめながら言った。「彼の思うままにさせてやるべきなんだ、ここは」
足場を組み立てる倉橋の手つきはややもたついたものだったが、足腰はしっかりとしていた。酔っても自分を見失わないタイプだろう。このまま放置しても特に問題ないはずだった。
龍崎はしばらく黙ってその様を見つめた後、ぼんやりと気味に言った。
「何かしらの、閃きがあったんでしょうか?」
「だと思うよ」と、芝村は言った。「あの男は、芸術家なんだよ。そういう肌の持ち主であることは、すでに知っている。閃きと、それに向かっていく情熱だけで彼は構成されている。だから、余計な口出しはよした方が良い。彼に任せるべきなんだ。我々が口出しをするときは、注文をするときではない。作品の経過について、興味関心を持ったその時だけだ。彼の創作意欲を損なわせるようなことは、してはならない」
夜が深まるごとに、身に染み渡るような寒さが広がりはじめた。
林の奥に溜め込まれた冷気が、いま全面に解放されているようである。倉橋の中にたくわえられた酒による熱量を冷ますのには、ちょうどいい冷気なのかもしれなかった。
「いったい、何ができるんでしょう?」
「彼の精神を解放する、渾身の一作さ」
夜毎にノミを入れ、完成させていくこの企画について、いまあらためて考えてみると、なかなか面白い企画だと、芝村は思っていた。
6
明朝、十時を過ぎた頃に屋敷前にピックアップトラックが停まった。真っ先に降りてきたのは由季子だ。敷地内すぐ傍に立っている工事途中のブロックのありさまに目が留まり、彼女はその前に立ち尽くした。
その首が一度も下りないうちに、芝村は玄関から彼女に近づいた。
「どうですか、これは? 最高の材料を用意しましたよ」
「あなた、相当、本気でいるわね?」と、彼女はやっと振り返って言った。「かなりの負けず嫌いと見たわ」
「私は、負けず嫌いなんかではないですよ。意地っ張りなだけです。やると決めたら、全力でやらなければ気が済まないのです。それにどういう結果がつこうかは、自分にとって何も関係がありませんね」
「それって、あの人に負けるようなことがあっても構わないって事?」と、由季子は声を高くして言う。「それが、あなたの紳士道っていうやつなのね? 勝っても負けても、普段どおり。……言ってしまえば、そのことについてプライドのない、無頓着な人。それじゃ、どこにもあなたに収穫なんてないってことになるじゃない?」
「私がこれに手を掛けて、作品を作っている……その行為そのものが、収穫なんですよ」と、芝村は御影石を撫でつけながら言う。「この作品に刻まれるのは、私、そのものです」
「由季子、余計なことを言って、彼の芸術精神を傷ものにするのは、よしたまえ」と、伸也が運転席から降りて言う。「言い出してから、すぐに実行する彼の精神は、実に見上げたものだ。たいてい、口だけで終わる男が多いが、彼は違う。このわたしのライバルに名乗り出るだけのことはあるよ」
彼は足場組み前まで立って、御影石の様子を眺めた。まだノミは入っていなかったが、設計図ともいうべきあたり線だけはチョークで入れられていた。そのチョークの何度も書き直されて修正された箇所を、彼は眺めていた。
「鳥の羽のようだ」と、彼は言った。「それも、閉じられた、片翼だけの鳥だ。……それをモチーフにした、抽象立体というべきか。非常に丸っこくて、柔らかい……女性的なイメージだ。マイヨールと、ブランクーシを彷彿させる。女性のエッセンスを濃くした、モダニズム風、鳥とでもいうべきか。この線だけで、物語っているなにかが、わたしに伝わってくるよ……」
彼はそれから、チョークが書き殴られて盛り上がった箇所にそっと指先で触れた。手についたチョークの粉末をものめずらしそうに見つめる。次に、実験するように指の腹をこすり合わせて揉んだ。はらはらと不揃いに散る粉末は、チョークとはちがった質感を放っているように見えていた。
「おっと、いけない」と、彼は芝村に振り返って言った。「すっかり夢中になってしまったよ。なんだか、わたしを虜にする、エッセンスが強くこの中に閉じ込められているように思えたのでね。久し振りに、本気になれるような気がする。そういう、思いをあなたから感じていますよ」
「そりゃ、良かった」と、芝村は顎を揉んで言った。「これで、こころおきなく堂々と闘えるというものですね」
「ちょっと待ってよ」と、由季子が割ってはいる。「二人で勝手な闘いをしたりしないでよ。わたしへの迷惑というのは、考えないの?ねえ、どこまであなた方の勝手なわがままに付き合わなければいけないと言うの?」
「作品を制作するだけだ」と、伸也は素っ気なく言った。「由季子には、何も迷惑なんて掛けないし、掛けるつもりはない。もし、掛けているとしたら、それは由季子が介入しすぎているというだけのことだ」
「ちょっと!」と、彼女は頬を膨らませた。「わたしがあなたたちの闘いをスルーするなんてことができると思う? そもそも、なんで、このような闘いになったって言うの? あなた方の勝手な闘いというわけにはいかないことだけは確かなの。わたしも自然と巻き添えになるような、そんな一大事なの!」
「奥さん、そのあたりで抑えて下さい」と、芝村がいさめた。「これを制作するきっかけとなったのは、別のところにありますがね、実際着手してみますと、また別の感情が自分に起こっているんです。そして、できあがったら、それらのすべての感情は拭い払われ、また新しい別の感情にすり替えられていることでしょう。その時は、当初の目的などはどこにもなくなっているのかもしれません。我々は、ライバルであったとしても、ともに刺激しあえるそんな良い関係でしかないということです」
「そんな体の良い……」
由季子の力弱いその言葉に覆い被せるように、伸也が言った。
「まあ、あなたのいうとおりですよ。目的に到達すれば、我々の中のフラストレーションは違う次元に飛び込んで、別の何かに変換されてしまうはずだ。それは、まちがいないことだろう」それから、口許を軽く押さえた。「とにかく、いまは、創作することだけに集中したいところだ。それまでは、軽く憎しみ合おうではないか」
「もっと、強くあたってくると思ったんですがね、いまのあなたは、まるで別人のようですよ」と、芝村ははにかんで言う。「あなたが言う、憎しみ合うという感情は、まるで空っぽだ」
「本気にさせてくれる、あなたが面白いと思った結果ですよ」と、彼は真剣な目をして言う。「もしかしたら、単なる創作合戦では収まらない、そういう傑作が生まれる可能性がある」
「だとしたら、いいんですがね」と、芝村はこみ上げてくる感情を抑えて言う。「どちらにしても、奥さんには望まないことでしかないんでしょうが」
「こんなところで、傑作なんて生まれたって仕方がないじゃない」と、由季子が抗議をこめて言う。「二人がどういうつもりでこれに挑むのか知らないけれど、たとえ、すばらしいものができあがっても誰もそのことについてありがたいとは思わないのは、確かなことよ」
「どうかな」と、伸也が言った。「振り返ってもらえるだけの力作だったならば、黙っていても、徐々に人に受け入れられていく流れが自然にできていくんじゃないだろうか? ……感謝は後から付いてくる、と」
「すくなくとも、わたしは迷惑です」と、由季子は、たっぷり皮肉と嫌味をこめて言う。「さっさと、この闘い終わって欲しいって、いま、思いはじめている」
「ならば、奥さん」と、芝村は由季子に向かって言った。「あなたのために、これを制作しているとしたら、どうです? その感情を切り替えることができますか?」
「わたしのために?」由季子の眼がきょとんとする。「何を言っているのかしら?」
「そのまんまですよ」と、芝村は言った。「あなたの存在そのものや、あなたの背景にあるものすべてを――そう私たちの思いから熱意まですべてを含むものです、これを作品に閉じ込めたい……それだけで、この作品はまた魅力的なエッセンスが増えるのかもしれません」
「紳士道なの、それ?」と、彼女は問う。「そうして、どういう意味があるのかよく分からないわ」
「深い意味はありませんよ」と、芝村は受け流すように言った。「奥さんが退屈しないように、奥さんのためにやるのも悪くないといったのです。そうでしょう、伸也さん。今回のこれを、我らだけの争いに収めるのは、いかにももったいない」
彼は、無表情で芝村を見ていた。
ライバル云々と認めた興奮を伴う顔つきは、いまはすっかり色を失った状態だ。
「やはり、あなたはわたしの敵でしかないんですね?」と、彼は一瞬、怖気すら感じさせる冷たさで言った。「どうあっても折り合えない壁が立ちはだかっているように感じられる……それとも、これは仕様なのでしょうか? あなたは、わたしを翻弄するために、わざとそうしている?」
「どうでしょう」と、芝村はおどけてみせた。「どのように受けとめてもらっても構いませんよ。それに、軽く憎しみ合おうと言ったのは、あなただ。なあなあの精神ではお互いにとってよくはないということもありましょうよ」
「なるほど」と、彼の口尻が心もち持ち上がった。「憎しみ……、それを今日から少しずつたくわえ込んでいくとするよ。ここで、はっきりと言ってもらおうじゃないか。あなたは、由季子を狙っているんだな?」
芝村はここで、由季子を見た。
彼女は出方を窺うように、じっと見返していた。
「その答えは、保留にさせてもらいます」と、芝村は言った。「ここで大事なのは、いつかに彼女と約束した、ロードスターにのせてもいいのかどうか、という点です」
「乗せれば、よろしかろう」と、伸也は耐え忍ぶような声色で言った。「これは、彼女の意思に委ねられることなのだから」
「夫婦なのに、しばりがないというのは、素敵なことですね」と、芝村は二人に言った。「これは、いわゆる私の紳士道にも通じる精神です」
「紳士道なんて、どうだっていいんだ」と、伸也がやっかむように言った。「わたしは、由季子の精神を尊重している。今後も、ありのままの精神でいてもらいたいと思っているから、わたしのやることなすことになびく必要なんてないんだ。むしろ、わたしが彼女のやることなすことになびいて、これに合わせていく必要がある。そういう精神で生きているんだ、わたしは」
「わたしたち夫婦は、わたしの意思がすべてよ」と、由季子が、なにくわぬ顔つきで言った。「わたしが中心でなりたっている関係なんだから、それはこれからもくずれることはない……、だから、わたしがあなたを気に入れば、この人は、それを受け容れなければいけない。そういうことよ」
伸也は歯噛みしていた。
そんな彼を楽しむように、由季子は見ていた。
「ねえ、あなた、わたしのために作品をつくってくれるというのは、本当の話なのね?」
由季子は芝村に問うた。即刻、うなずいた。
「本当ですよ。これは、ところ変わって、あなたのための闘いとなったんです」
「もしや……」と、伸也が呻いた。「このわたしたちの関係性について、あなたはすでに押さえていたのでは? そうだ、彼女中心でなりたっている夫婦なのだと、あなたは知っていたということだ」
「もちろん、知っていましたよ」
「どうして、分かったのです?」
「二人の様子を見ていて……という答えしか出せませんがね。けっこう、私は敏いつもりですよ。そういう観察眼のようなものが自然と身についている人間なんですよ。やり取りを見ているうちに、もろもろの関係性があぶりだされるように、明らかになっていく……結果、あなたがたはそういう成り立ちでできあがっている夫婦なのだ、と読めるにいたったというわけです。これは、私の中の一つの特性にすぎません」
「やっかいな特性だ……」と、言う彼の目には嫉ましい色合いがあった。「あなた自身も、持てあましているはずだろう」
「もう、持てあましています」と、言って芝村は肩をすくめた。「これがために、傷心の度合いは人一倍深いんですから、本当にやっかいなものですよ」
「しかし、それで読めたことに、付け入っていくだなんて……あなたは、あるいはとんでもない人間だ。紳士道なんて言葉を使うことも、恥ずかしい」
いつしか彼の中の嫉ましい感情が、怒りに変わっていた。この男の由季子を愛する感情は本物だと感じた。由季子という存在は、妻とはいえ、彼にとって確かには捕捉されない不安定なものだけに、執着心がことさら強くあるのだと思われた。
「取り下げたっていい」と、芝村は言った。「彼女を自由にできるというのならば、紳士道などは、不要だ。あなたのいうとおり、ここでその言葉を使うこと自体もおこがましいというものだ」
「あなた、本気なの?」と、由季子が問う。「だいたい、わたしを自由にするってどういうこと? ……そんなこと、ありえないわよ。この人でさえ、持てあましているぐらいなんだから、昨日今日現れたばかりのあなたがどうして、わたしを自由にできるというのかしら?」
「そういうのは、その人の気持ち次第でどうにかなるものなんですよ、奥さん」と、芝村は彼女の目を見つめて言った。「私の中には、あなたを虜にしたい、という熱意があります。希望があります。是非とも、そういった思いを見届けていただきたいものです。そして、ロードスターに乗っていただきましょう」
「まあ、大変な自信家ね」と、彼女ははしゃいで言った。「きらいじゃないわ。面白そう。……とことん、わたしを楽しませてくれそう。ある意味、紳士道というのは、そういうためにあるのじゃないのかしら?」
彼女はそれから、伸也を見た。
おいていかれているという気持があるらしく、彼はまた歯噛みをしていた。そんな彼の腕に、由季子は絡んだ。
「だいじょうぶよ、今のところ、あなたの方が優勢だから。それは、よほどのことがないかぎり覆らない」
「同情はよせ」と、伸也は由季子の手を剥がす。「お前は、自分の精神と、欲に正直でさえあればいいんだ。偽るようなことはしてはならない。そういう約束の下でつながった縁なんだ。それがいま、変えられるようなことがあってはならない」
「だったら、芝村さんの誘いに出ても、文句は言わないの?」
彼女はまた腕を取って、問う。伸也はひたすら耐えるような顔で、芝村を見ていた。
「言わないさ」と、由季子に顔を向けてそっと言う。「自由になさい。それでこそ、お前なんだ」
「後悔はないの?」
「あるさ」と、彼は正直に言った。「しかし、魅力が伴わないんだから、お前を楽しませることができないのだから、それまでの男ということで、一緒にいる意味はない。ある意味、断ち切れて当然なのさ」
「頭の固い男ね。本当にどうしようもないぐらい、だめな人」彼女は、伸也の脇元に頬を寄せた。それからさっと離れた。「でも、それでこそ、あなたというものよ。そう、わたしは自分の精神を貫き通す女なの。だから、自分に嘘はつけない。自分のいまの気持のとおりに、行動するわ」
彼女はそれから彼に微笑みかけた。
「安心して。さっきも言ったとおり、いまだけはあなたなの。わたしの心のほとんどが、あなたのことに占められているから……大丈夫なの。これは、本当よ……」
「いや、油断はしないさ」それでも彼の口許には安心があった。「そういうのは、継続していかなければいけないことだ」
「駆け引き次第で、一%が、十%になり、それからなしくずしに百%に高めていくことができよう」と、芝村が口を挟んだ。「そういう余地が残されているのなら、私は攻めていくだけだ」
「いまのわたしは、あなたにある気持はゼロコンマいちぐらいよ」
「それでけっこう」と、芝村は言った。「増える余地があるなら、そこから始める。私はそういう男なんだ」
「たのもしいわね」と、由季子は言った。「この人とは、またちがった魅力を持っているのは確かなようね」
「わたしとしては、そのゼロコンマいちをゼロにしなければいけない」と、伸也が芝村に言った。「あなたに、負けるつもりなどはないということさ」
「それは、こっちも同じ思いだ」
「ならば、すべては彼女の意思に委ねよう。それで、文句はないでしょう?」
「とりあえず、連れ出すということの許可は得られたということでいいんですな?」
「大いにけっこうだ」と、伸也はちらりと、由季子を見て言った。「ただし、強制はできない。彼女が拒否をすれば、あなたはしっかりと身を引くべきだ。それだけは、約束してもらいたい。どんな場合でも、だ」
「それは約束しましょう」と、芝村は言った。「そこだけは、しっかりと守りますよ。紳士道という言葉は、ここでこそ使われるべきなんでしょうね。私は、彼女に対し、強制はしない。あくまで彼女の意思に基づいた、精神を尊重するつもりでいる」
「よし」と、彼は言った。「ならば、彼女を連れ出すことを、無条件で許可しよう」
彼は由季子と目を合わせた。
「お前の自由は、我らのあいだで保証された。存分、好き勝手に振る舞えばいいさ。精神にある我らへの感情について、嘘をつく必要などはない」
「自由にさせてもらうわ」と、彼女は上機嫌に言った。「それがあなたたちへの礼儀になるわけですもの。自分の中の気持ちと正直に付き合っていくつもり」
「正面上は、ライバルという風には扱わないよ」と、伸也は由季子の肩を軽く抱きよせながら、芝村に言った。「以前にも言ったように、我らは、基本勝ち負けにこだわらない、いつだって気兼ねなく付き合える隣人同士だ。そこから逸脱するようなことはない」
「私としてもそのつもりですよ」と、芝村は、即座に言った。「もし、つき合いに障害がでようものなら、すぐさまここから出て行こうと思います。あなたから宣告してもらったって構わない。いまは、まだ正式な住民ではないから、その権利があなたにはあるはずなんだ」
「正規の住民というだけで、こちらに権利があるだなんて、いかにもおかしな話だ」と、彼は片眉を寄せて言った。「それでは、最初からわたしのほうに分があるということではないか。不公平そのものだよ、これは」
「あなたには、彼女を失うという危機感がないのか?」と、芝村はからかうように言った。「まるで、自分の首を絞めるようなことを言う」
「危機感?」と、彼は自分に向かって言った。「そういうのは、あるようなないような……」
「この人は、本当に馬鹿なところがある人だから」
と、由季子が面白がって言う。
「とにかく、わたしは彼女を愛しているんだ」と、彼はむきになって言う。「それだけは絶対なのだ。それこそが、わたしのすべてなのだ」
彼が由季子を愛しているのは本当だろう。その恋慕の姿は、最初に会ったその時から見ている。時折、粘着質な目つきをよこしてきたのは、すべては嫉妬からくるもののはずだった。
この男は、由季子を手放すつもりなんてないにちがいない。もし、彼女の心が彼から離れていたとき、彼はどういう行動を取るのだろうか。破滅的な行動に走るというようなことはあるだろうか。その可能性は、高いと言うべきなのかもしれなかった。
「どうだった?」
芝村はブラインドが閉じられた部屋に一人、閉じこもっていた龍崎に問う。
「由季子じゃ、ありませんでしたね。まるで、顔つきがちがうばかりか、別人ですよ。とくに、耳の形に注目しました。写真の少女のそれは、鋭角に尖った線があるんですが、目の前に現れた由季子のそれに、それが認められませんでした。芝村さん、これはどういうことなんです? もしかして、先に由季子について放置しなければいけないそうした状況になってきていると言ったのは、この事実を指していたんですか?」
「そういうことだよ、このことだ」と、芝村はブラインドを薄く開けて、言った。「彼女は本物の由季子ではないんだ。……整形であるかもしれないという余地が残っていたことから、これまで保留をつづけてきたが、君の口からもちがうと出てくれば、これはもう決定的だろう。龍崎くん、君は人を見極める鋭い目を持っているんだ。見誤るというようなことは、ないはずだろう?」
「まず、見誤りませんよ」と、彼は言った。「これまでに写真で見てインプットした人間は、年を取っても変装してもだいたい、見破ることができています。彼女は、別人ですよ」
「となれば、我らが目の前にしているあの女は、由季子ではないまた別の誰かだということになってくる」
「しかし、こちらの土地に登録されている名前は、由季子となっています」
「書類上では、まちがいなく彼女は、津路由季子ということでいいだろう」
「つまり、戸籍を乗っ取ったのですか?」
「その可能性が高い」と、芝村は言った。「立派な不法行為だ。そこで、次に重要になってくるのが、君の行動だ。調査を綿密に行ってもらいたい。とくに、先に言いつけた二人のつながりには注意したいところだ」
芝村は龍崎を振り返った。
「敬三と、由季子の関係性で、行方が分かるというのですか?」
「すくなくとも、失踪前後の由季子の状況がどうだったのか分かるはずだ。それで、彼女が次に取らなければいけなかった行動を予測することができる。一応、動機は成り立つんだよ。戸籍を捨てることのな」
「敬三を拒絶している、ということですか?」
彼は悲しい顔をしていた。
「あるいは、そうだ」と、芝村は力をこめて言った。「しかしながら、現状では何も言えない。残念なことに、また別の可能性が高くなっていることを認めざるを得なくなっているんだ」
「その別の可能性というのは?」
「それは、こっちの問題だ。いま、君に明かすことはできない」
「せめて、由季子が生きている可能性があるのかどうかは、教えてもらいたいところですが?」
芝村は彼に対し、背を向けた。しばらく、考え事をつづけた。
「生きている可能性は低いと思う」と、芝村は意を決して明かした。「そう、由季子はもう、どこにも存在しないんだ。本体の方を探しても無駄だろう」
「どうなったというのです?」と、問う彼の口調には、緊張があった。「もしや、事件に巻き込まれて……いや、そんなはずはないですよね。彼女は、ただでさえ敬三の件での被害者なのですから、この上に不幸が重なって、二重被害になるなんていうことはあり得ない……」
「結果がどうであるかは、まだ不明だ。だから、二重被害であるという可能性の余地は残されている」
「まさか……」
「それは、僅少の可能性だ。だから、余計なことを考えるだけ無駄なことなのかもしれん。いま言えることは、彼女の失踪、あるいは死は、敬三の事件と関係がある可能性が高いということか。そちらならば、筋が通っている分、信用できるだろう」
「なるほど、尾を引いて……ということですか。しかし、事件から何十年も経過して、そのようなことが起こるだなんて、少し怖いですね。その中で復讐が関係しているというのでしたら、浮上するのは敬三が手に掛けたとする被害者の遺族でしょうか。奥方は、その様子を目の辺りにした直截の目撃者ですから――」
「不確かな推論はするべきではない」と、芝村は言葉を被せた。「だいいち、その推理だと矛盾があろうよ。それは、奪い上げられた由季子本体の籍を、どうして、あの例の女が乗っ取り、そのまま悠々と生活しているのかという問題からくる矛盾だ」
「あの女は、過去にいわくがあり、自分のそれを捨てて、あらたなそれに切り替えた――という筋書はどうでしょう? 転居を十五回も繰り返した彼女の人生が、その根拠です」
「いわくというのは、なんだ?」
「あるいは、殺人とか、ありえませんか?」
「そういうのはないな」と、芝村は首を振って言った。「あの女は、人を殺せるようなタマじゃないよ。もし、やるとしたら、男の方だろうな」
「津路伸也ですか?」と、龍崎は強いまばたきをして言った。「彼の内情を暴いてみるほうが、解決には、手っ取り早いのかもしれませんね」
「すでに、そいつを調べる男を用意している」
「そうだったんですか」と、龍崎は言った。「そのあたりは、さすがに抜かりありませんね」
「どちらにせよ、あの夫妻にはいくつかの秘密があることはたしかなんだ。なんだか、付き合っていて、どうにもつかみかねるような、そんな浮わついた感じを受ける。それは、いま隠しマイクで聞いていて、君もそう思っただろう?」
彼はポロシャツのポケットにねじ込んでいたイヤホンつきの盗聴器を机にそっとおいた。芝村が預けたものだ。マイクは、芝村のジャケットの内ポケットに入れられていた。先程までの三人の会話は、彼に筒抜けになっていた。芝村が聞いていろ、と仕掛けたのだった。
「まあ、そんな感じはありましたね。どことなく、本気で言っているのかそうでないのか分かりかねるような、そんな具合でした」
「あの夫妻は、終始そんな感じなんだ。だから、油断できない」
「そうだったんですか。これは、やっかいですね」
「俺の見方としては、嘘は言ってはいないはずなんだ。すべて、彼らの本当の気持ちがぶつけられている、――それは間違いないはずなんだ」
「それにしても、奥さんの自由を許すだなんて、本当に、自由度が高い夫婦ですね」と、言う龍崎の口調は、冷やかすようでもあり、感心しているようでもあった。「それで、芝村さん、どうするんです? 彼女を翻弄するんですか?」
「もちろんそうだ」と、芝村は闘争心を見せて言った。「全力で、落としにいくつもりだ。でなければ、いつまで経っても彼らにリードを許したままということになる。これは、俺のすべてが掛かった闘いなんだ」
「まさか、彼女に手を出すなんてことは……」
「君は、それについて何も言うべきではない」と、芝村はその先を制した。「ここは、俺の意思だけでやっていくことなんだ。君は、自分の仕事を果たすことだけを、考えていればいい」
「……分かりました」と、彼は遅れて言った。「自分のことだけを考えて、答えを出したいと思います」
いち、事務所員だ。芝村のやろうとしていることについて、どこまで干渉して良いことなのか、分かっているはずだった。だから、彼はあえて何も言わない選択をしたのだ。
「今回のこれは、厳しい闘いになりそうだ」と、芝村は言った。「どこからだって、綻びを出すことは許されない。一瞬の油断が命取りになる、そう思っていてくれ」
「それは、普段自分に言い聞かせていることですよ」
そうか、と思った。龍崎は、まだ現役のボクサーなのだ。だから、精神的な意味合いでいう暗闘というやつは、今のこの瞬間もつづいていると考えるべきだった。彼にとって、分かり切ったことを言ってしまったようだ。彼の立場やスタンスを忘れるべきではなかった。芝村は、自戒した。
「とにかく、頼んだぞ」
「分かりました。……これから、行って参りたいと思います。判明次第、すぐに報告いたします」
彼は颯爽と、去っていった。鍛え慣れた者ならではの、力強い駆け足だった。