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一流役者  作者: MENSA
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第一章

 

第一章

 

     1

 

 芝村がかまえる事務所は、横浜市中区の翁町の一角に建つ、中堅ビルにあった。地上十二階建ての最上階の一角だ。横浜公園がすぐ手前にあり、その先にはスタジアムが見えている。

 ブラインドのかかった、清潔な事務空間。ゆとりがもてるように緑が多いのは、芝村のこだわりだった。窓際にはハンギングまで吊り下げられている。それでも事務所らしい雰囲気を残しつつ、それについての頑なさがないのは、探偵事務所にありがちな、仰げさな呼び込みをする広告文字がどこにもないからだろう。そう、ここは営業や呼び込みなどは一切しない、隠れ屋のような事務所なのだった。

「例の調査の件、片付きました」

 芝村の席によってきたのは、上背と同時に肩幅がありながらも、線の細い感じがする、比較的顔の小さな男だ。肌は、浅黒く、なめし革のような光沢さえある。形の定まらない、古傷も多い。

 芝村は調査報告書をとりあげた。中身を精査する。頁は、わずかに五枚ほどで、最初の一枚以外は、ほとんど整理できていない煩雑な模様となっていた。

「これで、すべてか?」

「はい、初期捜査は、それだけです。いつものとおりに、できたはずですが……何か不満があったのでしょうか?」

 眉をひそめると、一見して、弱々しい雰囲気が強まった。だが、そんなはずはなかった。この男はプロボクサーの資格を持っていた。一枚脱げば、その下はひきしまった筋肉の塊だった。龍崎一斗。それが彼のリングネームだ。しかし兼業に過ぎず、二年前のデビュー戦以来、勝ち星からは遠ざかっていた。

「何やら、後方の書類には余計な記述が多いようだ。整理ができていないから、読むのも面倒になってくるぐらいだ。何があったんだ?いまだからこそ、口頭で頼むとしよう」

「ターゲットには、いくつもの前歴がありました」と、彼は背筋を伸ばして言った。「その移動回数は、実に十五回を数えます。もしかしたら、もっと多いのかもしれません。書き込んだのは、それらのことについて、です」

 前歴とは、ここでは戸籍や本籍を移動させることを言う。その回数が多ければ多いほど、ターゲットに黒い影があることをそれとなく意味する。あるいは、そうした嗜好のある人間とも受け取れなくはなかったが、しかし、そうした例外であるという可能性は、今回の場合、低かった。

「十五回か……」と、芝村は書類をじっと眺めた。「掘り下げてみる必要はありそうだ……とは思うが、今回の依頼は、そういうことではない。その人物を、依頼人の前に連れてきさえすればいいのだ」

「容易に、そちらに足を運んでくれそうにもなさそうです」

 彼はおずおずといった具合に、縮こまって言った。自信のなさそうにふるまうのは、この男の元来からの気質だった。

「いわく、があるってわけか?」

「自分の予想では……そうです」

 津路由季子

 それが、ターゲットの名前だ。

 この女は、現在、長野県石ノ蔵町というところに籍をおいている。いわば過疎地で、周囲を起伏の激しい山地で囲まれた盆地は、雪が降り積もって街道を遮断されれば、集落のいくつかが、即刻陸の孤島と化するところだった。若者定住支援制度として、宅建築工事などの支援、および家賃補助などの政策を実行して、町の限界集落化を凌いでいる。近年は、農業就農奨励金を支給するなど、町民の高齢化にともなう離農者の補填を、政策でなんとか繋ぎ止めようとしていた。

 そうした政策でまかなっていかなければいけないような、そんな小さな町に彼女は暮らしているのだ。

 怪しむべき点は、いくつもあるはずだった。しかしながら、先入観は排除しなければいけなかった。頼りにしていいのは、正確に判断できる材料だけだ。それでもって、目的を遂げることだけに、気持を向けなければいけない。

 それにしても、彼の進言は無視することはできなかった。調査に直截あたった、当の本人だ。感じた不穏は、その人にしか分からないものがある。いやしくも現役のプロボクサーだ。彼の鍛え抜かれた勘には、天性のものがあることにはあった。

「ならば、足を向けさせるための努力をしなければいけないってことになるか」

 芝村は書類を机において、前屈みになった。

「努力とは、なんでしょう?」

「潜入捜査だ」

 龍崎に固化があった。芝村はそれを見て、にやりとする。

「いわくがあるといったのは、君だ。俺は、それを信用しているということだよ。これぐらいはやっていいはずだろう?」

 芝村はやるときは、思い切りやらなければ気が済まない性分の持ち主だった。

「もちろん、相手を連れ出すための潜入捜査だ。徐々に中身を見ていこうと思っている。それで、連れ出すきっかけを計ることにする。これならば、特に問題はないはずだ」芝村はそれから息をついた。「もちろん、手間がかかるやり方だ。しかし、今回の依頼は、慎重にやらなければいけない。失敗してはならない事案なのだ。相手の不興を買った時点で、それでもう終わりだ」

 親子の再会。

 それを果たすためには、一筋縄ではいかない。まして、理由があって決別したという者同士の場合、いっそう難しい壁が立ちはだかっていると考えなければいけなかった。たいていの場合、これは結びつけない方がいいことの方が多かったりする。しかしながら、二者のうちの一方が、強くそれを望んでいるとあらば、多少強引になっても、その可能性を模索しなければいけなかった。それをする立場にある。だからこそ、手間を怖れるようなことがあってはならなかった。

「依頼主の容態……よろしくないんですよね?」

「余命、三ヶ月ということだった」と、芝村は神妙に言った。「それは、事前に報告したとおりだ。だが、逆にいえば、あと三ヶ月もあるということだ」

 彼は口をもぐつかせた。

「医者の予想は、確かなものではありません。こういうのは、目安に過ぎないはずです。……不測の事態がいつ起こるか分かったものではないということです。こればっかりは、誰にも予想できないことです」

 怪我の多かった今シーズンを思いだして彼は言っているにちがいなかった。それだけに、妙な切実さを感じさせるところがあった。

「もちろん、分かり切ったことだ」と、芝村は勢いではね付けた。「依頼人の顔を見てきたのは、この俺だ。彼女は生きていける。乗り切れるだけの精神力と体力はまだ残されている。顔にあった生彩から、そう判断している」

「でしたら……」と、彼は改まった顔で言った。「本当に、潜入捜査をやる、と」

「そういうことだ」と、芝村はうなずいて言った。「龍崎くん、君は、ひきつづき彼女の調査を頼む。いったい、背後に何があるのか、それを探ってみてくれ」

「あの……」と、彼はおずおずと言った。「調査の方はやりますが、潜入捜査の方はどうやってやるというのでしょう? ターゲットの住んでいる所は、過疎地ですよ。隠れるところや、観察するところなんてどこにもありません。そのはずです」

「そういうのは、町に融け込めばいいんだ。それしかないだろう」

 勢いのいいコール音が鳴る。事務所内の女子職員が進んで出た。その他にも、コール担当の婦人が応対に出ている。事務所は、きれいな分業制となっていた。人を雇いたがらない、私立探偵では珍しい方の風景といっても良かった。

「そう、俺は近日中に、石ノ蔵町の住民となる。そういうことだ――」

 彼の顔が要領を得た色にすり替わった。芝村は早速、転居手続きを手配するよう、彼に申しつけた。

 

     2

 

 石ノ蔵町は、長野市から北東に向かった山脈の裾沿いにある。いくつもの温泉があり、慰楽地として知られていた。その日も地熱の蒸気をたえまなく、噴き上げていた。オフシーズン真っ直中のスキー場の青々とした姿が、近場の山で見受けられる。役場は、旅館の看板に囲われたその直中にあった。

「いやあ、あなたのような若いお方がね、入って下さると助かるわけですよ。もう、こちらとしては、大歓迎ですから、いつでも来てくださいっていう感じです」

 対応は、企画商工課の岡島という男だ。はげあがった頭から、足先までころころと太った、それが田舎気質たっぷりの柔らかさとなっている、実に人当たりのいい男だ。

「まだ、転居するとは決めたわけではありませんよ」と、芝村はつとめて、冷めた声で言った。「あくまで、体験をしたいということで、どんなものか見に来ただけです」

「十分、それでも歓迎ですよ」と、彼はもみ手をして言った。「どうぞ、町の隅々までたっぷりと御覧になってくださいな」

 彼はそれから、貸し物件を搭載したファイルブックを開きはじめた。隠し立てなく堂々と芝村の手前でやるため、物件の詳細がまる見えだった。

 この時、芝村は各欄の住所をしっかりと見ていた。そして、津路が暮らしている家と地名が一致する頁を見つける。過ぎてしまったところを、今のところ、と言って、彼の物件探しの頁繰りを差し止める。

「これです、……これが気になりますね」

 芝村は、頁を示して言った。それは、サンルームとテラスが大きく取られた、立派な田舎屋だった。だが、老朽化が激しく、縁台傍の窓が外されているその他に、敷き詰められた畳まで剥がされている様子だった。水道は、明らかに旧式のそれだろう。風呂だって、下手をすると釜焚きかもしれない。一応、電気は通っているという記述が見られた。

「これはちょっと」と、岡島の顔が苦笑いになった。「これは、かなり予算を投入しないと厳しい物件です。雨漏りはするわ、虫がわいているところはあるわで、掃除しただけではどうにもならないものなのです」

 元々、農家夫妻が住んでいたところのようだったが、それも昭和の話だった。こういった移住民に提供する用の物件として、町に所有権が移されたものなんかではなく、放置されたものが相続者の管理放棄によって、そのまま回ってきたというような、不良不動産というやつであった。

「自由に使える広い土地付きで、遊び心のあるような……そんな、物件を願いたいんですがね」

「遊び心、ですか。それならば、こちらをお勧めしますよ」と、岡島は頁を数枚めくって、白壁のログハウスの写真が載せられたのを示した。「こちらは、セルフビルドといいましてね、自分で決められた土地の範囲内で、ある程度業者さんに手助けをえながらも、自分で組み立てていくものなんです。一般工事と比して、建築費の二割から三割弱の軽減になるうえに、自分の手で家を建ててみたいといういわゆる、創作意欲を満たすことができます。まだ途上ですから、造りながら暮らす、そういった器用なことができるんです」

「これで、何%の完成なんです?」

 芝村は問いながら、住所欄を見ていた。案外、津路の家から遠い所を示していた。距離にして、ざっと一・二キロほど。二点をつなぐ道路は、未整備で砂利道も挟んでいるだけに、さらにはつづら折りになっているために、実際はもっと余分に考えても良かった。

「まあ、七割ほどですかね」と、彼は上向き加減に言った。「それでも、まあだいぶん進んだ方ですよ。たいてい、セルフビルドは一年から二年を掛けてやるようなものですから、残り三割分だけとなれば、かなり時間的にお得ですよ。だいたい、必要年月は、半年ほどで充分。一番時間がかかる棟上げ――あ、これは棟木をあげることですね、これが終わっている状態ですから、もう後は、大きな仕事は特にありません。もっとも、今の状態でも、暮らせますから、すべてを後回しにして、ゆっくりやってもいいんですけれどもね」

 彼は考え込んでいる芝村に、手応えありと踏んだのか、畳み掛けるごとく、ひたすらとりまとめの攻勢をしかけてきた。

 機材はすべて化学薬品を使用しない自然素材のために、健康と環境にやさしく、断熱性、耐久性に優れ、湿気の吸排出効果で室内をエアコントロールできる優れもの。冬と夏、どちらを取っても、エアコンを使わずに、快適な環境を作ることができる――。

 しかしながら、これらの体の良い条件たちに、芝村は特に関心を持たなかった。

「そんなことよりも、なぜ、これの元所有者は、工事途中でこの物件を放棄したのですか?」

「それは、勤め先の事情ですよ。元々、別荘用に買ったらしいのですが、長く住めないと分かった時点で、早い内に放棄することとなったのです」

 察するに、どうやら金持ちの物件らしかった。これに決めようかと思ったが、距離がやはり気になって、なかなか首が縦に動かない。

「どうです、百聞は一見にしかずというやつで、直接見に行きませんか、これから」

 福々しい顔つきで言うものだから、なんだか断りにくい。ようやく、首が動いた。

「そうしてもらおう」

「そうでしたか、ではいきましょう。仕様の車がありますから、そちらで移動になります」

 彼は窓から見える、駐車上の車を示して言った。白のSUVだ。側面には、町のシンボルが描かれている。山に囲まれた、意匠。分かりやすいぐらいにシンプルだ。

「いえ、それには及びません」と、芝村は指に差し込んだキーリングを示しつつ言う。「ここは、自分の車で行きましょう。私が運転するということです」

「よろしいのです?」

 彼はなぜそうするのかよく分からないといった顔つきで言った。

「けっこうです。ドライブがてら、走ってみたくてね。ここら辺は、気持ちのいい景勝地が拡がっているのを、ここにくる前にたっぷり見てきたんです。奥手の方に行ったら、もっと壮大なのが拡がっているのでしょう?」

「それはお約束しますよ」と、彼は得意に言った。「それが、ここの一番の売りでしょうから」

 

 自分で運転役を買ってでたのは、津路の自宅前を通過していく道を選択するためだった。その道はちがいますよ、と道案内役の岡島から何度も指摘されるが、芝村はあえてここを通ってみたいんですよ、と言って誤魔化しつづけた。

 なだらかな丘陵。いま、ロードスターはそれをゆっくりと登っていた。初夏に相応しい、鮮やかさの控えめな花々が赤茶けた原野に、散っている。渡る風は、満ちる熱波をさらっていくぐらいに、強かった。

「ちょっと失敬」

 と言って、スピードを落とした上で、窓をボタン一つで開けると、青臭い原野がかおってきた。鄙びた田舎ならではの、藺草を干して、それを凝縮したような臭いだ。一気に清涼感を得た。だが、目的はそれではなかった。津路の家がいい加減迫っていた。そろそろ、現れてもおかしくはない。しかしながら、その姿はどこにもなかった。

 道を間違ってしまったのだろうか。

 そう思い、また左に折れた。途端に、そっち行くと、遠回りになります、と助手席から岡島の声が飛んできた。芝村は車を止めることはしなかった。

「遠回りでいいじゃないですか。こっちに進んでみたいんですよ。もう、この際、ドライブを楽しみましょう」

「困りますよ、そういうのは……」

 彼は辟易して言った。額の汗がすごい。生き残った前髪のいくつかが汗を吸って、情けなくしなだれていた。熱を閉じ込めたような、車内の温度に反応したエアコンがフル稼働していたが、その効果の程は、ないようなものだった。

 むさ苦しい雰囲気が続くさなか、ロードスターだけは快調に進む。原野が整えられた形になってきて、しだいにあぜ道の形を呈してきた。すると、放置されて等しい、田んぼが目先に拡がった。その向こうに、丘陵を挟んで、屋敷が見える。いかにも清新といった、真っ白い洋館だ。いや、建物自体は、かなり老朽している。それを無理に白のペンキで仕上げたといった、アンバランス感のある建物だった。一方で、右手の箇所は全面サッシのサンルームになっており、こちらは増築したばかりということでいいようだった。それが全体を引き締める、とりまとめ役となっていた。

 日向を吸ってかがやくその屋敷に吸い寄せられるように、芝村はロードスターをそちらに向かわせた。

 手前すぐの道を通ると、広く取られたアプローチそばの庭に、丈の長い白色のワンピースを着た、女性が立っているのをみつけた。大きくうねった、長い(ワンレングス)。形の良い鼻がしっかり中央に収まった、整った顔がしっかり笑顔を作っている。眉と目には、凛とした強さを感じさせる印象があった。

「あっはははは」彼女は甲高い声で笑いながら、夢追い人のように回転した。「ねえ見て見て、お客さんよ。こんなところに、スポーツカーのお客さんよ!」

 彼女は自分の世界にひたったまま、芝村に近づいてきた。そして、開け放したままのウィンドウフレームを掴んで、覗き込んできた。

「ようこそ、いらっしゃい。……こんなところに、何の用かしら?ねえ、わたしを訪ねてのお客さんじゃないわよね?」

 声を弾ませて言う彼女は、なんだか妙に愛くるしく、胸を打つ何かがあった。接近しても印象が変わることはない、美しい顔立ちだった。なにより、襞だらけの白の衣装に負けないぐらいに、透明度の高い肌が彼女を魅力的に引き立てていた。

「たまたま通っただけですよ」と、芝村はとりあえず、間に合わせでそう言った。「あなたは、屋敷の主?」

「そうよ」と、彼女は強い口調で言った。「いい家でしょ。お城みたいでしょ。わたしの夢なのよ。それを叶えてくれた人が、あの人なの」

 彼女が手で示したのは、サンルームにつながるウッドデッキ下の庭で、仕事をしていた男だった。チョッキを着た、七三分けの男。少し古風な出で立ちだが、それが少しも気にならない、清潔感をまとっていた。美男だといっていい。彼は自分が紹介されたらしいと分かったのか立ち上がって、軽く頭を下げた。

「頼もしそうな旦那さんだ」と、芝村は気持ちに偽りなく、褒めそやした。「こんな洋館を提供してくれる上に、仕事好きそうな風貌ときている。さぞや、あなた方は、幸せに暮らしているとみた」

「ええ、ええ、幸せよ。たっぷりと、幸せよ」彼女は喜色一面に、捲し立てた。「これからも、わたしたちの幸せは、つづくの。ずっと、つづくの。そういうのを、わたしたちは手に入れたの」

 男は、途方にくれた様子で立ち尽くしていたが、やがてまた庭仕事に取りかかった。ちょっとした花壇を整理しているらしかった。感動屋らしき彼女とは、正反対といった、温和で、紳士的な、どのようなことにも物怖じしそうにない、大らかそうな男だ。

「ちょっと、嘘を言っちゃったかもしれない」と、彼女は舌を出して言った。「自分たちの城みたいに言ったけれど、本当は違うの。これは、町の移住者支援事業で、提供してもらったものなのよ。ボロ屋を改造して、ここまで仕立てあげたの」

「あれ、こちらにいる人は、その町役場の人だが?」と、芝村はハンカチで汗をふいている岡島を示して言った。「ご存じなかった?」

「あっはははは」彼女は、勢いよく笑った。「忘れちゃった。忘れちゃった。……というより、全然、見かけたことのないお顔よ」

「担当者が違いますからね」と、岡島が言った。「わたしのほうも、把握していなかったことです。この物件が、七年前に提供されたものである、ということだけはなんとなく覚えているんですが。かなり、当時の模様とは変わりましたね……いやはや、驚きですわ」

「あの人が、丁寧にいちから作り直してくれたのよ」と、彼女はまた、夫らしき男を示して言った。「そういうのが得意な人なの。いまもそれは継続中だけど、でも、だいぶんできあがってきたわ。良かったら、見ていって下さいな」

「実は……」と、岡島が言う。「こちらのお方は、あなたと同じ移住希望者です」

「あら、そうだったの」と、彼女は口を押さえて言った。「だったら、ちょうどいいじゃない。見ていってよ。わたしたちの夢の屋敷、存分にあじわっていってくださいな。ほらほら!」

 強引に芝村の腕を引いて、誘い掛けてくる。加減を知らない人だった。まるで、窓から引きずり出しかねない勢いだ。

「分かりましたよ、そう、引っ張って下さるな」やれやれといった具合に、芝村は言った。「いま、降りますから、どうか、焦らせないで」

 車を降りると、車内に取り残された岡島が、困ったように見ていた。

「行くんです?」

「時間がないのです?」

 彼は時計を見た。

「あるにはあるんですが……」

「お茶ぐらいいいじゃない!」と、彼女が割って入った。「適当なことを言って、断ったりすると、侮辱と見なすわよ。こんなに失礼なことはない!」

 それは決して脅迫の声色が入ったものなんかではなかったが、のそのそと岡島は降りた。直射日光を受けて、額を光らせる。いつしか、風が止んでいた。

「あっはははは」彼女は愉快そうに笑って、ワンピースの裾を翻らせた。「あなた、お客さんよ。わたし宛のお客さんよ。どう? びっくりした? わたしはね、本当はずっと顔が広いのよ。遠い所からでもお客さんが訪ねてくれるような、そんな女なの!」

 男は近づいてきて、身につけていた軍手を脱いだ。

「どうもすいません、妻が……」と、申し訳なさそうに言う。「こういうやつなもので、つき合いにくいでしょうが、どうかご容赦ください。そして、しばらくお付き合い下さい。わたしたち夫妻は、心より歓迎いたしますので」

 丁寧な物腰は、社交界でも通じそうな人当たりの良さと滑らかさがあった。まるで、そういった気風が生来からやしなわれているかのようだ。

「歓迎、ありがとうございます」

 芝村が律義に言った。手を差し出すと、気づいた彼から強い握手が返された。野良仕事をしっかりやっているという印象を受けた。また、反対側の薬指に、しっかり指輪が嵌められているのを見た。

「わたくし、芝村と申す者です。このあたりに、移住を考えておりまして、あたりをまわっている途中でした」

「それはそれは……ご苦労様です」と、彼は頭を下げて言った。「何やら、わたしらには手助けができることがあるようです。どうぞ、中へ。……あ、わたくしは、津路と申します。津路伸也です」

「由季子よ」彼女が微笑んだままに言った。「よろしくね」

 駆け足で、洋館の中に飛び込んでいった。その足取りは、羽が生えたように軽やかで、すばしこかった。

 

     3

 

 洋館の中は、植物に満ちていた。どこを見渡しても植物である。植物一色で潰されてしまった部屋もあるほどだ。通路のいちいちに設置するものだから、油断しているとぴんと伸ばした葉っぱにあたって、その整った形を崩してしまいそうだった。

 内装は洒落た洋風の飾りに支えられて、品のいいクラシックな様相に統一されている。ワックスの塗られた床板が品のいい艶を放っていて、そうした上品さを存分に引き立てていた。

 採光性のいい、格子窓に吊り下げられた、花束のミニセットのような連なり。芝村はそれらの手前にあった鉱石まじりの石やら、兜型の文鎮など、個人の嗜好が入った置物たちを手に取って眺めていた。それから、用意されたティーセットを前に、立ち尽くした。

「なあに、部屋が気になるの?」と、由季子が芝村の目線を追って言った。「ドライフラワーよ、全部。部屋に飾られているリースも、花瓶の中の花も全部、ドライフラワーなの」

「ほう、そうでしたか。気づきませんでしたよ」一口、紅茶を啜った。「さぞかし、仕込んだばかりなのでしょうな。まだ、色づきがいいものですから」

「もう、二週間前のものよ」と、彼女は得意に言った。「モレキュラーシーブという乾燥剤を使うの。植物標本にも使えるものなのよ。温度計のついた、植物保存用の容器に濾紙で挟んだのを重ねて、厚紙と輪ゴムで固定して、それで、モレキュラーシーブをつめた袋とともにしばらく密閉しておくの。そうすると、本来の色彩を保ったままに、標本が作れるの。ドライフラワーの、急速乾燥法っていったところかしら」

「それは、すばらしい」と、芝村は声を高くして言った。「本来の色彩を保てる方法があっただなんて、自分には知らなかったことだ」

「そんなことより、芝村さん、あなたいい車に乗ってらっしゃるわね」彼女はころっと、顔をすげ替えて言った。「わたしも乗せて欲しいわ。ああいう車に乗ってみたいとずっと前から思っていたの」

「こらこら」と、ソーサーごと手にかかえた伸也がやってくる。「無理な頼みをするんじゃない」

「いえいえ、乗せるぐらいでしたら、いつでもどうぞ、という感じです」

 芝村は即座に言った。彼女の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとう」娘のように言った。「あなたが、移住してくるその日が、楽しみでならないわ。すぐにでも、決めてしまえばいいのよ。物件なんてどれも同じだわ。使い方しだいで、修築しだいで、どのようにでもなる」

「いい加減なことをいうんじゃないよ」やんわりと、伸也が叱りつける。「決めるのは、芝村さん自身だ。お前があれこれいって、押しつけるようなことではない」

 彼は顔をあらため直して、芝村を見た。一度、謝意を告げるようにゆるりと頭を下げる。

「移住の話ですが、このあたりは、暮らしやすいことは確かですよ。自然は豊かですし、提供される農地だって、これまでに農家が大切に守ってきたものですから、作物の育ちだっていい。探そうと思えば、いくらでも遺産が眠っているところです。そういう意味では、お勧めできるところです」それから、厳しい目つきを見せる。「ただし、利便性はうすいので、生活に関して不融通することは、ままあります。それだけは、しっかりとご自覚いただきたいものです」

 特に、冬はたっぷりとしつこいぐらいに雪が降るようで、その事実だけを取ってみれば、ここはお気楽に移住できるところなんかではないようだった。病院も遠く、さらには環境の整備が未然なところでは、災害の危険すらもある。すべて自己管理で解決しなければいけない問題だった。

「そのあたりは、特に気にしていません」と、芝村は強気で言った。「私ならば、乗り越えられる問題でしょう。こう見えて、けっこう健康なつもりなんですよ。体力だってある程度あります。だから、困難の一つ二つぐらいでは、へこたれませんよ」

「まあ、頼もしいわね」と、彼女は微笑んで言った。「あなたのような人こそ、ここに相応しい人よ。……それで、こちらに来てどうするのかしら? 農家でもやりそうな感じには見られないんだけれども」

「実は、ちょっとしたフリーライターのようなことをしていましてね」と、芝村はその場しのぎに言った。「ですから、パソコンさえあれば、どこでも生活できる人間です。そのあたりは、特に問題ないのです。それでも、農家の仕事には興味がありますよ。もしかしたら、自分が管理できる範囲内でやるかもしれません。まあ、趣味程度でしょうが」

「その時は、この人を使ってちょうだいな」と、彼女が夫を示して言う。「たまに、山仕事やっているんですから、そういうことだけには、役に立つはずでしょう……飛んででも行かせます」

 その時、岡島は周辺をきょろきょろ見廻していた。やけに落ち着きのない動きだった。

「どうかされたんです?」

 彼女が問うた。岡島はぱっと振り返って、いえ、と辟易を示した。

「けっこう、改良されたようだな……と思いまして」

「あら、だめだったのかしら?」

「いえいえいえ、そうではなく」彼はまだ噴き出る汗を拭った。「こういう使い方をして下さるお方は、初めてだったんです。どのように、改良して下さってもけっこうなんですが、なにぶんこういうことは、労力がかかります。ですから、提供住宅について、どうしても元からあったものをそのまま使うという方が多くてですね……、ここは、その例外にあたるようだな、と思ったんです。これは、良い意味で言っているんですよ」

「まあ、それはうれしいわ」と、彼女は頬を押さえて言った。「でも、改良なんて加えていないわ。大きな工事なんてしていないもの。たしかに、サンルームは増築したけれど、それは、部分的なもの。この部屋まではいじっていないわ」

「それでは、この状態で、元あった姿のままだ、と?」

「そうなるわね」と、彼女はおっとりした声で言った。「どれも、磨き直して使っているものだわ。さすがに使えないものは、取り換えたけれども。ここの天井なんかは、そのままよ」

 梁の巡らされた天井は、きれいに整っていた。ステンドガラスさえあれば、教会の雰囲気を取り込めそうな程に、静謐な佇まいがある。銀色の格子柄で構成された天井絵が、しっくり合っている。

「これは、多くの人の参考になりそうだ」と、岡島は嬉々として言った。「できましたら、参考写真を撮らせてもらいたいぐらいですよ」

「それは、困るわ」と、彼女は勢いを落として言った。「わたしたちが望まないようなことですもの……、ここは、足を踏み込んでくれた人だけの世界なの」

「それは残念ですな」と、岡島は心もち目を伏せて言った。「これは、強制ではありませんので諦めるより仕方がない。……うん、残念だ。見れば見るほどすばらしい空間ですよ。ちゃんと自分の世界をお持ちでいらっしゃる。せめて、どのような具合にこう改良されていったのか、それをお聞かせ願いたいものですな」

「それぐらいでしたら、いくらでもといった感じだわ」と、彼女は気を取り直して言った。「でも、まだまだですよ。もっと、わたしたちには、こうしたいという望みがあるんです。それが全部でき上がるまでは、まだ五年、六年はかかるかしら。そう、ガウディの建築物のようなものですわ。すべて、オーダーメイドで、手作業のセルフですから、ゆっくり部分的に完成されていくものなの」

「わがままなんですよ、この人は」と、伸也が他人ごとのように言った。「黙っていれば、ああしろこうしろと言い出す始末ですから、常に働かされます。ある意味、五年六年じゃ済みませんよ。わたしは、ずっと働かされつづけているのではないでしょうか。その自信がありますよ」

「そりゃ、困りましたな」

 岡島の大きな笑いが吐き出された。芝村は取り残されたように、紅茶を啜っていた。雰囲気を味わうという意味では、退屈しない空間だと思っていた。

「もう、四十近い年齢だというのに、この落ち着きのなさ。どうか、振り回されるこの僕に、ご同情下さい」

 伸也が皮肉のように言うと、由季子が彼の腕を乱暴に叩いた。

「わたしは、そんな年じゃないわよ。何言っているの? ねえ?」それから、ふくれ面をした。「わたしはね、年をとらない女なの。ここにいるだけで、ずっとこのままで居続けるの。ここは、そういうところよ」

 由季子が三十八歳というのは、事前の調べで押さえていた。だから、その情報は芝村にとって驚きではない。だが、初見時、年齢を逸脱したその顔つきには、驚かされたものだった。とてもじゃないが、こんな若い娘のような女が、由季子のはずがない、と――。しかし、実際はそうだったのだ。彼女が、由季子だった。

 注意しなければいけないことがあった。この婦人は、依頼人、篠代がよこしてきた例の写真の少女と、顔つきがまるで異なっていた。別人と言っていいだろう。しかし、少女期というのは、不安定な生き物で、大人になるにつれて顔が大きく変わるなんていうことはざらで、はたまた光加減、写真の映り加減で、まるで異なって見えるなんていうことも珍しいことではなかった。その他、実質ちがっていたとしても、整形をしたということだって可能性としてはあろう。そのうちのいずれにあてはまるのかそうでないのか、いまは分からなかった。見極めは、後回しにするしかなかった。

「いやはや、奥様……、そのようなご年齢でいらっしゃられるんですか」と、岡島が大仰なまでに目を見開いて言う。「そうは見えなかったですねえ。わたしなんかは、二十代……いえ、十代の影すらあるって思ったぐらいです。いえ、これはお世辞なんかではなく、ホントですよ、ホント」

「いやあねえ」と、彼女はまんざらでもなさそうに言う。「わたしには年齢がないって、何度言ったら分かるのかしら」

「失敬……でも、びっくりですわー。ね、ね、芝村さん、そう思うでしょう?」

 向けられた水を、はね付けるわけにはいかなかった。芝村は空になったティーカップをそっと、手前においた。

「まちがいないですね」と、岡島に合わせて言う。「娘のような、そんな若々しい姿でいらっしゃられる」

「まあ、まあ……これは、喜んでいいことなのかしら?」と、彼女は含羞を頬に溜め込んで言う。「でも、やっぱり、年齢なんて認めないわ。わたしには、存在しないものなの。これから先もずっと、そういうのはわたしの中には当てはまらないものなの。ずっとずっと、そうなの」

 一人で盛り上がる彼女は、どこか浮いたような気配に包まれていた。

 この時、伸也が食い入るように、芝村を見ていた。その目は平たかったが、機微に敏い芝村には険が潜んでいるように感じられた。それもただの険ではない。何か思惑を含んだような、ぼんやりとした厚ぼったさのある陰湿な険だ。

「なにか?」

 問うと、はっとしたように、彼は身じろぎした。

「いえ……」と、受けた周囲の視線を、回避する。「なんでもありません」

「この人ね、自分の言いたいこと、言えない人なのよ」と、彼女が割り込んでくる。「ずっと治らない、病気。口の奥で、何か縫い付けられているのよ。きっと、そう。お喋りすることを、神さまから禁止されている人なの」

「そういうお前は、何かとお喋りに過ぎるんだよ」

 彼は素な様子で、彼女をからかった。すると、ちょっとしたいざこざが始まった。岡島が、笑い声をあげて、緩衝材とする。三人は、いい具合に盛り上がっているようだ。芝村は、何となく融け込めない、孤立に追いやられつづけた。

 そのまま三十分が過ぎて、引き上げることとなった。

「何も持てなしできなくて、すいません」と、伸也はハンドルを握る、芝村に向かって言った。「次がありましたら、今度こそちゃんとできるようにいたしますから」

「いえいえ、十分なもてなしを受けてしまいました。今度は、こちらから返さなければいけないほどです」

「決まったら、連絡するのよ」と、彼女が言った。「約束どおり、引っ越し用の手伝いに、この人を送るから」

「それには及びませんよ」と、芝村は手を振って言った。「仲間がいるんですよ。それに、決めようとしているところはここから遠い所なんです」

「あら、どこかしら。聞いていなかったわ」

 岡島がその場所を言った。

「ふうん」と、彼女は言った。「遠くはないわ……十分、いける」

「ご安心を」と、芝村は言った。「手伝っていただかなくとも、ロードスターには乗せますから」

「あら、良かったわ。乗せてちょうだいね」彼女は伸也を振り返った。「乗せてもらえるんですよ、二人乗りの車に! あなた、嫉妬とかしたら、だめよ」

「そんなのは、しないよ」と、彼は面倒くさそうに言った。「気の済むまで乗せてもらったらいい」

「どうして、そうひねくれたことを言うの?」彼女の口調は慣れた感じがあった。「もっと、自分の素直な気持ち、打ち明けてごらんんなさいよ……!」

 それから彼女ははっとしたように振り返った。少しの照れがあった。これは日常的に取り交わされるものであって、彼らのちょっとした遊びのようなものだと分かった。

「気になさらないで」と、彼女は言った。「そうそう、乗せてくれる日、楽しみにしているわ」

 車を出した。

 バックミラーに映る、伸也の姿を芝村は見ていた。だが、彼は顔を見られまいと意識しているかのように、背後を向いたままだった。まだ、彼女とやり取りをつづけてている。最初から最後まで振り回されっぱなしといった、最初の出会いだった。

 

「いやはや、すごい奥さんでしたね」と、それからしばらくして岡島が言った。「なんと言いますか、パワフルです。変なことを言うようですが、生きることについて真っ直ぐでいる、というようなそんな素直で、純な力を感じましたよ」

「これまでにあの人たちのことを、知らなかったのです?」

 芝村は目をちら、と横向けて問うた。

「まったくです」と、彼は前を見て言った。「後で彼らの担当の方と、やり取りしなければいけませんねえ。あんなご夫妻がいただなんて、今まで話題に上がったことだってなかったはずです。これは、ともすれば、恥ずべきことでしょう」

「にしても、彼らは、あなた方のモデルにはなるつもりはないみたいですね」

「残念ですよ。理想的な夫妻なのに」

 口先を尖らせて彼は本当に悔しそうに言う。

「もし、なってくれるとしたら、どうするというのです? パンフレットとかに採用するのですか? 広告として」

「そうですねえ」と、彼は息を吸い込んで心持ち興奮気味に言った。「パンフレットなら改築された家を……、お二人そのものにスポットライトを当てて良いのでしたら、ホームページに採用という形になりましょうか。とくに、ホームページについては、いま伸び悩んでいるアクセス数に貢献してくれそうな感じがあります。あれだけ、モデルのような御夫妻ですから、宣伝効果は大きいはずでしょう」

 彼はぱっと、芝村を見た。

「芝村さんは、どうなんです?」と、彼は訊いてきた。「ホームページをみて、そちらから連絡下さったんでしょう?」

 正直な話、すべては龍崎に任せた結果だった。芝村はその手のことに手を付けていなかった。つまり、何も知らない状態だ。

「まあ、ホームページだったと思いますよ」

「そうですよねえ」と、彼は相槌を打った。「最近は、みんな、ネットからですよ。パンフレットなんか近隣の市町村に配布し回ったところで誰も見てくれませんよ。やって無駄というほどではありませんが、まず、そういう希望者が集まるところに、パンフレットは行き渡らないのが普通です。……あ、そちら、右に曲がっていただければ」

 芝村はハンドルを右に切った。ロードスターは右手の公道に入る。そこからは下り坂がずっとつづく、一本道だった。目的地は、その先にあった。最初の触れ込みどおり、自然以外何もないところだ。それでも、景観の方は楽しめた。

「ところで」と、芝村が言った。「お試し期間のようなことは、許されるのでしょうか?」

「お試し、期間ですか?」彼は調子外れな声で、聞き返した。「つまり、何日か実際にその物件に暮らしてみるということですよね?」

「そうです」

「それは、規定にないですがね」と、彼は手元にあった、手引き書を開いて言った。「まあ、許可は取れると思いますよ」

「いいんですか?」

「はい」

 二度目に彼を見やると、歓迎という顔色がそこにはあった。

「だったら即、決まりですよ。そのセルフビルドのロッジ、暮らしてみます」

「本当ですか?」彼はシートベルトを装着したままに、前のめりになった。「だって、まだその物件見ていませんよ」

「けっこうですよ」と、芝村は言った。「これは信用の問題です。あなたは信用できると分かった。だから、説明したとおりの暮らしがそこではできるはず。あとは、ここの風土がわたしに合うかどうかの問題だ」

「気に入っていただけると思いますよ」と、彼は微笑んで言った。「自然だけは、世界一だって、自信を持って言えるところですから!」

 それから十分で目的地に着いた。

 ロッジは七割完成ということだったが外観はすでにできあがっているため、傍目には工事途中なんていうのは、分からなかった。中をのぞくと、案外狭く、所によっては窮屈そうな間取りとなっていたが、全体としては伸びやかで、善良な物件だった。何より、木の臭いがするというのは、重要なことだった。そして、借景を意識して作られた窓の配置が絶妙であった。西の山に沈んでいく、夕日をたっぷりと楽しめるはずであった。

 すぐさま、一時的な契約を結び、そこの暫定的な住民になることとなった。

 

 その夜、役場の駐車場内に駐めたロードスターから芝村は事務所に電話をつないだ。出たのは、待機していた龍崎である。その日あったことの内容を、端的に告げる。

「それでは、そちらに移住する、と?」

 唐突な決定に、彼も驚いたようだった。

「移住というのは正しくない」と、芝村は言った。「一時定住だ。どれぐらい時間がかかるか分からんが、一ヶ月内に決着をつけるということになるだろう」

「一ヶ月……」彼は、ぼそりと洩らした。「堪え性のない、芝村さんにしては珍しい長期間ですね」

「いつから、俺が堪え性がない男になったんだ」と、芝村は抗議した。「まあ、たしかに俺にしては長い期間なのかもしれんがな……というのも、こっちが気に入ったんだ。由季子の観察だけではなく、ちがう仕事もこちらにもちこんでやることになる。しばらくは、ここを拠点にするということだ」

「もしや、事務所を移すつもりですか?」

「一時定住だと言っている。……しかし、こっちに来てみれば、龍崎くんも気持を分かってくれるはずだ。それぐらい、こちらは快適なところなんだ」

「ターゲットとは、うまくやれている……ということも、その快適に関係があったりしませんか?」

「いや、そのなんだ……」

 芝村は口ごもった。そうする理由はないというのに、なぜかしら、舌先が上手くまわらないのだった。

「やはり、そうですか」と、彼は息をついて言った。「由季子は、かなりの美人さんだったんですね……ありがちなことです」

「勘違いしてもらっては困る」と、言って芝村は咳払いをした。「向こうはすでに既婚者だ。俺の相手は、れっきとした夫婦なんだよ。それも、固い絆で結ばれているというような、理想的な夫婦だ。たぶん、隙なんてどこにもない。……俺が持っているのは、恋愛感情云々ではなく、好奇心云々というやつだ。……津路由季子。この女は、実に面白い女だよ。俺を、存分に楽しませてくれる魅力を持っている」

 駐車上界隈は、静かだった。近くを走る幹線道路もいまは、沈黙している。それでも、温泉街から立ちのぼる蒸気群は、活発な模様を維持していた。まるで尽きるということを知らない勢いだ。町を歩く観光客のためにそうしているのか、この町は街灯が多いところだとやっと分かった。

「なにか、裏を感じたのですね?」

 龍崎は慎重な口調で言った。

「もっと、掘り下げてもらえないか」と、芝村は頼み込んだ。「経歴のひとつひとつを、丁寧に洗う感じで、だ」

「……承知しました」と、彼は抑揚なく言った。「期限はありますか?」

「特に設けてない。だが、依頼者のことがある。ざっと、二週間。……それで、どうだ?」

「提案があるのですが」と、彼は言う。「ひとつひとつを掘り下げて、それで溜めおかずに、逐一報告にあげるというのはどうでしょう?」

「それでいい。それならば、最初の報告で、どれぐらい時間がかかるか、見通しが立つことにもなろう」

「と、芝村さん、移住の契約は済ませたようですが、今後、どうなるのでしょうか? 明日からもう、そちらで過ごすということですか?」

「今日からだ」と、芝村は言った。「もう、住民のつもりでいる。なあに、安心しろ。追加準備という点で、君を出動させるつもりなんてないから」

「そういうことではなく」と、彼は冷めた口調で言った。「生活用品のほう、……そうです、家電製品とかそういうのです。こちらは、どうするのだろうかと気になりまして」

「知人にレンタル屋がいる。そいつが長野に、支店を持っていたはずだ。そこから出動させることにする。一式すべてだ」

「また、強引にやるつもりですか? 止めて下さいよ、友人であるということを理由に人を扱き使ったりするような行為は」

「知人とはそういうものだろう。付き合うということは、迷惑を掛けるということだ。君は、なにもわかっとらんね」

「怨みを買いますよ」

「それで、君はこの俺を怨んでいるのか」

「……いいえ、そうではなく――」

「だったら、それがすべてだ。俺は、誰にも怨まれていない。そういうことだ」

「あの――」

「とにかく」と、芝村は彼の言葉を奪った。「依頼の件、頼んだぞ。俺は、すでに戦闘モードだからな。んじゃ――」

 芝村は携帯を切った。これ以上話し込んでも、もつれ合いにしかならないときには、早々に退散するのが、一番の解決策だった。

 やらなければいけない仕事が、いくつかある。そのうちの一番最初にあたるのが、自分のここでの立ち位置をしっかりと確保すること――それに尽きた。

 三日は、かかるだろう。

 始動するのは、それからだ。それまでは、存分にここにある自然と付き合って、それをたっぷり謳歌するのも悪くはない。焦って、答えを得ようとしても、獲物はうまく自分の手元に転がり込んでこない。気持を整えながら、時期をはかっていく。それがベストだ。今回の場合は、特に、それが当てはまる状況なはずだった。

 津路由季子――

 この女には、いくつもの癖がある。

 

     4

 

 牧場のようにひらけた空間を突き抜けていくと、そこから先は白樺林とダケカンバ林が拡がっていた。それをも突き抜けると、今度はハイマツ樹海に、この時期の象徴である満開のレンゲツツジが付き添っている、さながら彼岸一歩手前の光景が現れる。

 芝村が運転するロードスターは、快活に新天地に向かっていた。今回の旅路は、周遊路の確認だった。観光客用に開かれた道なんかではなく、ここは明らかに生活道路であった。芝村の仮の新居は、一本道からつながって、この生活道路に通じていた。そちらに向かっていく曲がり角の途中で、一軒の家を見つけた。トラックに、2×4(ツーバイフォー)工法の住居が乗った、トレーラーハウスというやつだ。芝村は思わず車を停めた。

 物音はまったくなかった。だが、片面に四箇所ある窓のうちの一つを眺めているうちに、生活感がある、と感じられた。開け放されたカーテンの具合が、なんとなく真新しいのだ。なにより、あたりに開かれた空間に、人の気配が残っているように思われた。

 ここには、人が住んでいる。それもおそらく単数の人間だろう。

 そのうち、住居部分むこう側のタラップから人が降りてくる気配を受けとめた。芝村の車が止まったことに、気づいてやってきたらしかった。山男というにしては、温厚すぎる風貌の、ほとんどサロペットに近いつなぎ姿の男だった。白髪なので、六十は過ぎているだろう。がっしりとした体躯だったが、背丈はそう高くはないようだった。

 芝村の手前まで歩いてくると、彼は窓を開けたまえ、といった具合にウィンドウを軽くノックしてきた。

「どうしたのかね?」と、彼から口を切った。「このあたりで車を停める人など、あなたぐらいなものだ」

「実は、近くに引っ越してきたんです」と、芝村は言った。「この辺りに、人が住んでいるとは思っていませんでしたよ」

「ここで暮らし始めてから、もう七年になるか。わたしにしては、長く続いているほうだよ」

 と、彼はのんびりとした口調で言った。腰に持病の気があるのか、片方の手で押さえたり揉んだりを繰り返している。

「町の方から、土地だけを提供してもらってね」と、彼は続けざまに言った。「ただ同然で、こちらで生活をしているんだ。あんたは、あれかね? 若者定住支援制度とかをあてにした移住者かね?」

「まあ、そのようなものです」と、芝村は適当に答えた。「おじさんは、そうではないみたいですね?」

「あれは、基本、上限が設定されていないが、まあ、四十までの人だけに採用できる制度だよ。僕ぐらいになると、そういうのは対象外だ。もちろん、そんなのは最初から期待していなかったがね、だが、年をとるというのは、寂しいもんだよ」

「それで、おじさんは、何をなされているお方で?」

 彼は身体を横に反らして、トレーラーハウスを見た。

「見ていくかね、わたしの職場を」と、彼は住居の向こう側を指差して言った。「あそこには、僕の七つ道具がそろっているんだ」

 芝村は彼にたいして、特に警戒心を感じていなかった。だから、すぐさま降りて、彼の導きに従った。

 トレーラハウスの向こう側は、木工細工の世界だった。ほとんど、鳥ばかりだ。フクロウが多いのは、その世界の仕様だろう。周辺にちらばる倒木をいくつかに切り分けてこちらに運んでは、それを彫刻刀と木槌で成形していく仕事をしている。最初のうちは現代彫刻に挑んでいたが、やがて道がそれ、生計を立てられる、この仕事ばかりをするようになった。一個の彫刻細工が完成するまでには、最低、一週間はかかるということだった。もちろん、すべては町からの許可の下で、行われていることだ。できた木屑は、暖炉用に再利用したり、山に返したりとエコロジーだから、彼の仕事は町のサイクルにも適っている、無害なものとして通っていた。

 できあがった品のうち、ローマ字で〝KURAHASHI〟と木工製のプレートを抱え込んだ、鳥が気に掛かった。

「これは?」

 と、芝村が問うと、彼は思いだしたように、あっと洩らした。

「僕の名前だ。僕は、倉橋っていうんだよ。倉橋たつき。……ついでに、あなたの名前も訊いておこうか」

「芝村です。芝村剛之です」

「あなたは、何をなさっている人? 農業でもはじめるような雰囲気ではないが?」

「フリーライターですよ。ビジネス関連の。書いた記事さえ送信できる環境があれば、どこでも仕事ができるという職業です」

 彼は呵々と笑った。

「それは、便利な仕事だね。いや、うらやましい」すっかり、彼の機嫌が良くなったようだった。「それで、景気の方はどうなんだね?」

「さっぱりです」と、芝村は言下に言った。「回ってくる仕事は、ほとんど人がやりたくないような、下世話なものばかりです。だから、私自身も嫌気が差して、せめて環境だけはいいところにしようとなったわけですよ」

 彼は二度目に笑った。

「存分に、ここで清涼をたくわえたまえよ。ここの空気は、逸品だよ。それだけは、まちがいない。水も湧き水を汲めるところまで出て行けば、おいしいのが呑める。健康的に生きれるところだ」

 勢いに任せて、湧き水の在処を彼は説明にくれる。芝村はつき合いのつもりで聞き入った。この男は、けっこう遠くまでの土地勘を持ち合わせているようだ。困った時は、彼に訊ねた方が手っ取り早い答えを得られるはずだ。

「芝村くんは、お酒とかはいける口かね?」

 彼は柔和な顔つきで訊いてきた。芝村は軽くうなずいた。

「察するに、倉橋さんほど呑めるほうではないでしょうが……、まあ、呑みますよ」

「ここには、バーベキューができる一式がそろっている。男同士、火を焚いてそれを囲おうではないか。そういったことができるのは、この時期だけなんだよ。ここは、冬は厳しい所だからね」

「ということは冬場も、こちらで過ごしていらっしゃるのです?」

 彼は猪首を動かして、うなずいた。

「そうだ。こちらで過ごしている。暖房一式を整えて、寒さとつき合いながら、なんとか暮らしているよ。木工細工を作る仕事なんざ、ほとんどその日暮らしといったような稼ぎしか得られない。だもんだから、どこでも移住できるというような余裕などはない。土地だけの提供かもしれんが、それでも、ただ同然でここを提供してくれている町には感謝しているよ」彼はそれからため息のようなものをついた。「もっとも、恩返しをしようにも、それができるような、あれなんかはないんだがな……」

「きっと、ここで生活をしているというだけで、恩返しですよ」

 と、芝村は言った。ふさがり掛けた彼の顔が、一気に明るさを得た。

「そう言ってくれると、ありがたい。……が、町の人の本音は、そうはいかんだろうな」

「それで、この界隈の街の人と交流はあるのでしょうか?」

「昔はあったよ」と、彼は数拍遅れてそう答えた。「でも、そういう人たちはみんなここから出て行った」

「どうしてです?」

「よく分からんよ」と、彼は困ったように言った。「土地が合わなかったんじゃないか? だいたい、夏と冬の差が激しすぎる。そういうのは、精神的にも強くないと持ち堪えられないのかもしれんな。もっとも、他に理由があったということも考えられなくはないんだが……」

「倉橋さんは、他に家族は?」

「いたよ」と、彼はそっけなく言った。「でも、出て行った。……ここにくる、ずっと前の話だ。そういったことを忘れにきたということもあるのかもしれん。……と、急に、しめった話になっちまったよ。そういうのは、いいだろう? 僕も、したくない話ではあるんだ」

「いや、すいません、意図せず傷つけてしまったようです」と、芝村は頭を下げた。「と、お伺いしたいんですがね、そうです、町の人のことです。津路という夫妻については、見聞きしたことはありませんか?」

「津路さん?」と、彼は親身な声色で言った。「知っているよ。ここに来たことが何度かあった。彼らがどうしたのかね?」

「自分も会ったわけです。不思議な夫妻ですので、なんだかいろいろ気になりまして……分かりませんか?」

 すぐさま、彼のうなずきを取りつけることができた。

「分かるよ、あの夫婦は、変わっている」

「なにか、あったんでしょうか?」

「いや、トラブルのようなことがあったというわけではないよ」と、彼は慌てて取りつくろう。「ほら、雰囲気だよ。なんというか、世間離れをしているというか、周囲に流されないそういうバイタリティに溢れた夫妻だ。なにより、あれだけの美男美女夫妻なのに、外に出たがらないというのは、なんだか理解できないものがある。普通、そういった器量に恵まれた人は、開放的に生きるんじゃないだろうか」

「それは、人それぞれでしょう」と、芝村は言った。「恵まれた器量がために、知らずうちに敵を作るというようなこともあったりするわけで。ですから、夫妻のあいだにある幸せを守るそのために、ひっそりと暮らすというような選択だってありでしょう」

「そんなものか」と、倉橋は気のない声を上げる。「そういう恵まれた人というのは、やっぱり何を考えているのか分からない所があるもんだな」

 彼はのそのそと歩いて、すぐ手前にあった、自分の作品を手に取った。キャラクターづけるそのために、目を故意に大きく彫ったものだ。

 その時、野鳥が飛び立って、林のその向こうへと消えていった。彼はその様を、じっと食い入るように見ていた。

「いまのは、コガラですね」と、口にして彼は芝村を振り返った。「見ていましたか?」

「もちろん、見ていましたよ。にしても、この瞬間を見逃さない辺り、さすがというべきでしょうか。音は、そんなになかったはずなんですが」

「なんか、天性のものがひらめくんですよ、僕は」と、彼は照れ臭そうにはにかんで言った。「これを商売にしているからでしょうか。飛び立つ気配を察した瞬間、そっちに気持ちが移るんです」

「それは、家族という風に扱っているからなのでしょう」と、芝村は言う。「そして習性を把握していて、共に生きているという感じで付き合えているからなのでしょう。……だから、離れていても、通じ合っているものがどこかにあるという気持ちでいらっしゃられる」

「いやあ、あなたとは気が合うなあ」と、彼はのんびりとした顔で言った。「まさにそうなんですよね。家族、これですよ。僕は、そういうつもりで見ているんです。さっきのやつも、このあたりを周回しているやつなんですが、まあ、若いやつですよ。最近、孵ったばかりなんでしょうな」

「それで、コガラの寿命はどれほどなんです?」

 芝村は話題をそちらに移した。

「野鳥はみな、短いですよ。だいたい、五年以内に死んでしまいます。もって、七年でしょうか。……たいてい、天敵に襲われるか、病気に罹るかで、五年も持たないですけれどね」

「短いもんですね、我らに比べれば」

「まったくです」と、空を振り仰ぐ彼の顔は、寂しげだった。「消えていったあいつが、僕がこれまでに見てきた子たちの子孫だというのならば、まあ、三代目ですよ。もう、そんな時間が流れているんです」

「三代……サイクルが早いんですね。……こうしてみると、時が過ぎるということは、やはり残酷のように思えます」

 芝村はなんとなくぼんやりと言って、それとなく彼の顔色をうかがいに掛かった。思ったとおり、親身な色合いが彼にはあった。

「もう、残酷、残酷」彼は納得といった具合に、繰り返す。「でも、これに逆らってはいけないのは、もう分かり切ったことだよ、僕はそろそろ諦めて、この概念を受け入れるときがきています。いや、死が差し迫っているとかそういうことじゃないんだけどね。でもそういうのは、早い内に、理解した方がいいに決まっている。そうだろう?」

 彼の中には、平生から、ゆったりとした時間感覚が流れているようだった。

 これは、見倣うべきものだろう。そうしたことが、土地に由来する収穫だというのなら、津路夫妻にある精神だって同じく言えるはずで、彼から学ぶべきものはたくさんあるといえた。

 その後も芝村は彼と長々と会話に耽った。

 

     5

 

 高床式のロッジは風通しの良さという点においては、抜群の物件だったが、これは、引っ越し業者泣かせの構造という他はなかった。駆けつけた業者たちがひいひい悲鳴を洩らしながら、渡された十二段の階段を昇っていく姿は実に哀れだった。悪いことに、土地一帯は均されているというのにはほど遠く、どこを取っても不規則な勾配がかかっているため、家具を背負い込んだ状態でロッジ手前にたどり着くというだけでも大変な労力がかかった。

「お疲れさんでした」

 すべての搬入作業が終了したのは、午後の四時を過ぎた頃だった。昼頃からはじまったのだから、実質、四時間近くは仕事をしていたことになる。業者は、何もいわずに帽子のつばを掴んで――それが、彼なりの挨拶だったのだろう――、足早に立ち去っていった。礼節を守りつつも、抗議がこもった行動だったように思える。

 無理もなかった。芝村は徹頭徹尾、自分の仕事だけに勤しんで、手伝うというようなことはしなかったのだ。それでも持てあました時間については、カーテンを取りつけるという仕事をしたぐらいだ。うらみを買っても、それは仕方がないことなのかもしれなかった。

 小型の段ボールに詰められた、自前の荷物を二つばかり崩したところで、電話が鳴った。家具を提供してくれた、知人だった。

「お前、うちの社員たちを顎で使いやがったらしいな……」怨嗟のこもった声だった。「人の足下見て生きていると、この先ろくなことがないぞ」

「すでに、ろくなことがない人生を生きている。……だから、これ以上落ちるようなことはないから、だいじょうぶだ。気遣い、ありがとう」それから、芝村は息をついた。「いつここを出るかは、分からない。だから、確かなことは言えんが、出るときはすぐに対応してもらいたい。それを最初に言っておくよ」

「まだ、扱き使うつもりか」

 彼は悲鳴のように言った。

「それが、そっちの仕事だろうよ」

「こっちは、お前に良かれと思って、手を貸してやっているんだよ。格安でのレンタル。本当は、赤字なんだ。それも、大出血といった、それぐらいの赤字だ。そんな山中に、引っ越しする人間なんて、本当はうちらの管轄じゃないからな」

「なんのために、長野に支社を建てたんだ」

「もちろん、商売のためだ。だからといって何でも依頼を受け付けているわけじゃない。採算が合わない依頼については、当然、断っている。今回のこれも、本当は断るのが普通だったんだがな」

「顧客はいつだってわがままをいう生き物だ。分かっているだろう?どのような要請だって、工夫することで受け付けなければいけない。そういうことだ。君は、つまるところ努力が足りないようだ……切るぞ」

 待て、と呼び止められる。

「そこまで言われたら、もう我慢ならない。縁を切ってやる、いいな?」

 いつもこの男は、追いつめられるとそのように縁切りを申し付けてくる。これは、一種の病気なのだろうか、芝村にはそうとしか思えなかった。

「けっこう」と、芝村は言った。「回収されない家電、家具類……。これらは、大型ゴミとして処分することになる。それで構わないのだろうか? 俺としては、別に困らないから、捨てるときは思いきりいくことになる」

「それは、ないだろ……」と、彼は弱った声を上げた。「お前に貸したのは、高級家具だ。とくにソファは特注品だぞ……泣く子も黙る、ドマーニだ。そんなものを、野に捨てるというのか。いや、これは、わざとだな。お前は、それを人質にするために、借りだした――」

「貸すと言ったのは、あんただ」と、芝村は語気を上げて言った。「別にそれでなくとも良かったのだ」

「高級路線で、といったのはお前だ」

 話は平行線をたどった。

 折り合いをつけることは困難のようだった。

「……なにはどうあれ、引っ越しが決まったら、回収の方をしっかりしてくれ。それで、万事解決なんだ。よろしく」

 芝村は携帯を切った。腐れ縁の男だった。ほとんど、親戚に近い。だから、どのようなことがあっても、つき合いはつづく。利用するつもりなんて特にない。これが、二人のあいだで許されたつき合いかたというだけに過ぎない。すくなくとも、芝村はそういう考えでいた。

 まだ段ボールが片付かない部屋のさなか、執務席に腰掛け、芝村はノートパソコンを開いた。電源を点け、キーボードを打つ。ピアノランプが唯一の光源だった。たまっている仕事がいくつもあった。ほとんどが、決裁印を求めるものだ。優秀な探偵がそろっている、事務所。芝村はスカウトで導き入れた彼らを手懐けるだけでよかった。

 たいてい、私立探偵というのは、業務内容の半分が不倫調査だ。特定人物の素性調査がその後を追う。こういったものは、特殊な事情が絡んでいない限り、芝村の事務所では受け付けない。単価が安く、効率が良くないからだ。また、依頼内容の動機や目的が小粒なことが多い。それ以外の、危険を伴う業務こそ、重視すべきものだった。スリル。探偵業にそれを求めると、不謹慎なのかもしれなかった。

 しかし、私立探偵という職業の素質として、スリル感をどう自分の身に落とし込むかは、重要なことだった。そもそもこういった職業を希望する者は、幼児期にあじわった謎ごとに挑むスリルがすべての根源的な動機だったりする。芝村とて例外ではない。だからこそ、探偵としてやり甲斐のある依頼だけにしぼった、事務所を開業したのだ。探偵らしい探偵事務所、それが、芝村探偵事務所だ。

 原体験としてのスリルが、とりわけ現実的な男が、所属員の中にいた。青峰だ。この男は、八歳の頃、近場で殺人事件がおこった体験から、その手のことに強い興味関心を持つようになった。

 彼は今、どこにいるのか。芝村は携帯をつないだ。

「私だ。いま、どこにいる?」

「社長、都内、赤羽のホテルです。ちょっとした潜入調査をやらしてもらっています。ターゲットはホテル人の一人です」

 芝村のことを社長と呼ぶのは彼だけだった。

「依頼がある。受け付けてもらえる状況なのか、どうか?」

「余裕はないですよ、社長」と、彼は言った。「ですが、同時進行で、請け負いましょう。断りたくないんです」

「君なら、そう言ってくれると思ったよ」と、芝村は言った。「ターゲットは、津路伸也という男だ。めんどいことは省かせてもらう。この人物の詳細は、事務所にある。そちらから譲ってもらってくれ」

 彼について、簡単な説明をした。すると、段取りよく呑み込んでくれた。

「調べますよ。早急に、その男のすべてを洗い出して見せます。……が、理由は聞いてはいけないんですよね?」

「聞くも何もない。そのまんまだ。特に怪しいところがあるわけではないんだよ。単なる素性調査だ。気に掛かっていることがあるというだけのこと」

「掘り下げて、何かが出てきましたら、どうします?」

「即刻、報せてくれ。対応は、こちらが取る」

「分かりました」

 短いやり取りはそれで終わった。普段にやり取りしているだけに、無駄口を叩く必要はなかった。

 時計を見た。活動できる時間はもう過ぎていた。閉じられたカーテンを開け、西の空を見る。山と林が黒に染まって一体化している姿がそこにはあった。街灯でさえ、遠くにある離れ物件。こんなところに、ログハウスを建てようとした金持ちは何を考えていたのだろう。都会の生活に倦みつかれ、交渉の一切を、断とうとしたのではないか。出家先のような、静寂が深まった空間。彼としても、そのつもりでいたのかもしれない。きっと、その男は五十は過ぎた、ある程度、世間と、それにまつわる俗悪な世情を知悉した男ではないか。

 しかしながら、因果は悪く巡るのだった。その男は、離脱しようとしたその希望を、転勤という形で断たれてしまうのだった。この屋敷は、夢の跡といった、そんな名残が染み付いたものだ。景色の哀愁は、そうした嘆きが移って、彼の気持を代弁しようとしているものなのかもしれなかった。

 

 翌朝、早くから出て行って、町役場を訪ねた。引っ越しが済んだことを報告するためである。

「いやあ、良かったよ、良かった」と、岡島は笑顔で迎えてくれた。「途中で気が変わったらどうしようかと思って、そればかり気に病んでいました」

「それは、考えすぎでしょう」と、芝村はからかうように言った。「物件めぐりの際の私は、ずっと意欲的でいたはずです。自分としては、そのつもりだったんですがね」

「もちろん、それは、感じていましたよ」と、彼は目を瞬かせつつ、言った。「これは、性分というやつで……、わたしは心配性なんですよ。もう、わたしといえば、それね。なんでも確かなことは言えないじゃないですか、物事が決まるまでは。そのあいだは、ずっと、気にもまされるわけですよ」

 交渉術について、彼は本質的に向いていないのだろう。だからといって、企画商工課の窓口担当が合っていないということではない。彼には、まだよそからやってきた者を落ちつかせる魅力がある。それについて、本人が自覚していないというのは、もったいないところだった。

「なぜ、自分に自信が持てないというのです」

「いえ、こればっかりは、どうにもならんのですよ。自信がどうこうとか、そういうことではないように思えます。わたしのキャラクターがそれだと思って下さいな。深い意味はないんです……」

 また噴き出しはじめた汗を彼はハンカチで拭う。この間とは、ちがう柄だ。曜日ごとに入れ替えているのかもしれなかった。

「さて、……本題の方なんですが」と、彼はカウンター席に腰掛けて言った。「例の夫妻担当の人、分かりましたよ。速見さんっていうお方なんですが、まあわたしよりも、一回り年下の人ですね。そのお方が、例の夫妻にあの物件を紹介していました」

「その速見さんは、どちらに?」

 芝村はあたりを見回して問う。事務所内には、反応する者はいない。

「あのお方です」

 と、彼は窓際の方を示したが、そこには誰もいなかった。そのことに気づいた彼は、おかしいな、と席を立って、控え室の方に向かって行った。戻ってきたのはすぐだった。

「速見さんです」

 と、岡島から紹介される。

 彼の隣に立っていたのは、ビジネスマン色が濃さそうな職員だった。あまり形にこだわっていなさそうな大雑把なクルーカットに、そばかすの散った、顔立ちのさっぱりとした若い男。語りかけやすさがあると言えば、そうなのかもしれなかった。

「どうも、速見です。よろしくお願いします」と、彼から名刺が渡される。「なにやら、体験学習的な具合に、紹介物件で生活をされるそうで……」

「そうです」と、芝村はうなずいた。「すでに、引っ越しの方は完了しました。崩さなければいけない荷物は、まだあるんですがね、まあ、直に終わるでしょう」

「ということは、一夜、こちらで過ごされたんですね? どうでしたか、こちらの夜は?」

「それは、なんともいえませんね」と、芝村は平たく言った。「寝床もまともに整っていない状況ですから、さすがに安心してたっぷり寝るというわけにはいきませんでしたよ」

「そうですよね……初日からそんなことを聞いても、何も言えませんよね」と、彼は自分で納得しながら言った。「まあ、一週間もすれば、どういう所か分かるでしょうか。失礼ですが、実際いつまでいらっしゃるつもりでしょう?」

「それが、決めていないんですよ」と、芝村は言った。「暮らせるかどうか、はっきりと判断できたその時に、いつまでいるか答えたいと思います。とりあえず、仮契約という寛大な措置を用意して下さって、感謝します」

「いえいえいえ」と、岡島の受け売りのような回答をする。「あなた様のようなお方が興味を持ってくださるだけで、こちらは大歓迎ですので、どうか楽しんでもらえれば嬉しいものです」

「津路夫妻のことなんですが」と、芝村は気持を切り替えて持ち掛ける。「お話しできるでしょうか?」

「彼らについて、聞きたいことがあるということでしたね。いったい、なんでしょう。お答えできる範囲内で、回答いたしますよ」

「仲良くしたいのですよ」と、束の間、彼の頑なになった態度をほぐす。「ですから、どのような夫妻か、詳しく知りたいのです。七年前に契約したということでしたが、これは正しいですね?」

「正しいです。七年前です」

 と、彼は芝村の目をじっと見つめながら言った。

「その時、どのような感じだったのか覚えていますでしょうか。いえ、知りたいのは、ご夫妻の仲良しな程度です。岡島さんと一緒に訪ねたときは、大変に睦まじい……と言いますか、そういう具合が見受けられましたのですが、当時からそうだったのかどうか、気になっているんです」

「仲は良かったはずですよ」と、彼は記憶を手繰りながら言った。「新婚さんではないのでしょうが、さながら新居探しといった具合に、少しはしゃいでいたようにも思えます。あ、これは特に、奥様の方の話なんですが……」

「旦那さんのほうは?」

「うん、まあ……」と、彼は言い難そうにした。「普通ですよ。嬉しそうにしていたんじゃないでしょうか。ほら、あのお方は、そういう感情を前面に出すようなタイプじゃないですから……」

「まあ、そうですね」と、芝村は受け流す。「あの人が冷静ではじめて成り立つご夫妻という感じでしょうから、そうじゃなきゃ、おかしいというものでしょうか。察するに、話し合いは、彼中心で進められたのではないか、と」

「終始、あのお方がぼくの交渉相手でしたね。ですが、奥様もけっこう、話に乗っかかってきましたよ」

 きっと、由季子の方は、強引に口を挟むという感じでの合流ではなかったのか。その様が、芝村にははっきりと思い浮かぶように感じられた。

「彼らが求める物件探しについて、条件はありましたか?」

 さりげなく、その問いを芝村は差し向けた。彼が口にした、お答えできる範囲内というのが、気に掛かっていた。が、彼は深く考えず、芝村の問いに応じてきた。

「森林浴が楽しめるような、そんな所……ということでしたよ」

 具体的に言うと、人気のない場所ということでいいのだろう。

「例のあの場所は、森林浴が楽しめるようなところではなかったはずですが……」

「そうですね。単なる農家屋敷ですよ。山の中ですから全体的に見れば林の中にあるというのは正しいんでしょうが、あの一帯は、まあ田んぼばかりです」

「本人は、そこでいいと言ったのです?」

「別荘みたいなところはどうか、と今回芝村様が仮契約してくださったような物件と似たような所も紹介したんですが、こちらはだめということでした」

「なぜ、だめなのです?」

「場所的に厳しいとか、そういうことのようでしたが……。どうやら、あんまり人が通らないようなところが良かったようです」

「つまり、隠れ屋的なものを、探していた、と」

「具体的にそんなことを言っていたわけではありませんよ。別物件について紹介するたびに、注文をつけてくるわけですよ。それで、生き残ったのが例のあの住まいというだけのことです。思うに、最初からこれに決めていたというようなところがあったように思えます」

「契約主について、岡島さんも知らなかった物件だったそうじゃないですか。そんなことがあったりするんですかね? 役場の人が忘れてしまっているというような……」

 芝村はまだ近場に待機していた岡島を気に掛けながら問うた。

「一応、すべての物件についての管理責任者にあたるわけですから、そういうことはまずないのですが……例の物件につきましては、我が方に登録後すぐさま決まってしまいましたので、岡島さんも特に記憶することはなかったんですよ」

「そんなこともあるんですね」

「担当者は、三人いまして……」と、岡島が野太い声で割り込む。「それぞれ登録日に合わせて担当が決まります。管轄区とかそういうのはないんです。ですから、請け負う物件はあちらこちらに散らばっています。……こんなことを言ったら怠慢と受け取られてしまうかもしれませんが、実際、互いが認識できていない、取りこぼしはどうしても出てしまうんです」

「それで、紹介物件というのは、登録されたばかりという事実について――そうです、新着物件というタグですよ、これを顧客側に報せるというようなことはあるんです?」

「わたしどもが紹介するとき、それを売りにするということはままあります」と、速見が答えた。「いい物件ほど早く決まるのは、やはり避けられませんから、もう最初のうちに、好条件のものを挙げていくんです。芝村さんのやつは、これは好条件かどうかは、分かりませんが、一応、要求にありました、使える土地が大きくあるという条件を満たしていますから、まあ、いい物件なはずでしょう。土地とセットで渡すというのは、実はあれだけなんです」

 若者定住支援制度は、言ってみれば人口を増やすための政策だ。だから、土地つきというのは、なかなかにないもののはずだった。

「例の夫妻の屋敷もまあ、いい物件でしょうから……これも、早く決まってもおかしくはないですか。定期訪問とかは、行っていらっしゃる? 例の屋敷についてなんですが」

「最初のうちは、訪問していましたよ」

 と、速見が顔を上げて言った。

「どういう具合でしたか、訪問の時は」

「こういう改築をしたいという具体的な希望を口にしていました。特に制約はありませんでしたので、どうぞ、という具合な感じで話が進みました」

「当時から、すでに理想を持っていたんですね。いま、どのような感じになっているか、知っていますか?」

 すると、彼はすぐさまうなずいた。

「最近、あの付近を通ったのは、三ヶ月ぐらい前でしょうか。洋館のようになっていましたね。単なる木造だったんですが、屋根もトタン仕様だったんですが、ああまで改良されると、もう別物ですよ。よほど、セルフビルドを交えつつも、業者を呼んでお金を掛けたのでしょうね。そうじゃなかったとしたら、かなり手を掛けて自分たちでやっているということになりましょうか。どっちにしたって、工事中のところは見ていなかったので、本当にびっくりでした」

「あなたは、岡島さんのように、これを町の広告にしようとかそういうことは考えなかったのです?」

「それは、考えませんでしたよ」と、彼は言った。「そういうことを希望しそうなご夫妻ではありませんのは、もう分かっていましたし……そうです、あの家は、あのご夫妻だけの世界なんです。それをどうして、町の名誉にすることができましょう」

 彼が遠慮を感じているのは、二人が契約時、やり取りにしつこい注文が繰り返された結果なのかもしれない。その時のことが、今日まで彼を制約するだなんて、よっぽどのことがあったと言っていいのかもしれなかった。

「それにしても、あんな辺鄙なところにある家など、誰も訪問などしないでしょう。彼らと交流している人など、実際のところ、いないと言っていいんでしょうね」

「そのあたりは、ノータッチですから……」と、彼の顔に辟易が浮かんだ。「なんともいえませんねえ」

「この地帯は、豪雪帯なんですよね。だとしたら、冬はどうなっているんです。なんでも、陸の孤島化する場合もあるそうじゃないか」

「そうですね」と、彼は素の表情を見せて言った。「あの地域は、実は町指定の除雪車が入らない所なんです。ですから、本当に孤立しているはずです。冬場は、こちら側からはいくことはできません……」

「冬のあいだは、孤立ですか? それは、すごい物件ですな」芝村から思わず感嘆の息が洩れる。「彼らはそれが分かっていながら、そちらに移ったのでしょうか?」

「事前に、その事は伝えた、……と思います」と、自信なさそうに彼は言う。「それでも、そこに決めてくれたんですよ。彼らが意欲的に決めたんですから、こちら側からとくに言うことはなかったようなものです、はい」

 冬のあいだは、完全消息不明な状態になる、屋敷。そういえば、屋敷は真っ白いペイントが施されているのだった。あれは、雪に融合できるようなそんなエナメル質があるようなものだった。きっと、屋敷を見つけても、かなり分かりにくい具合なのではないか。

「その時期の生活がどうなっているのか、彼らにもう少し詳しく聞くべきだったな……」

 と、芝村は頭を押さえて、少し大げさに言った。

「まあ、趣味の多そうなご夫妻ですからね」と、岡島が言う。「なんとかなっているんじゃないでしょうか」

「これまでに、相談を受けたことは一度もなかったはずです」と、速見が眉間を詰めて言った。「ですから、融通していることなど、特にないんじゃないでしょうか。あのご夫妻は、ある意味、僕らにしてみれば、理想的なものですよ。しっかりこの地域に溶け込んでいらっしゃられる」

 もともと、人の手を借りるつもりなどはないつもりで、彼らはこの地域に乗り込んできた。だから、融通するようなことがあっても、相談にはでてこない。芝村にはそのように思えた。

「彼らを見倣えば、私も息の長いつき合いが、できそうですな」と、芝村が締めくくりに言う。「しかしながら、私は厄介もんですよ。一人で自活していくだけの能力に乏しい。きっと、相談回数は、多くなる方じゃないでしょうか。……もしかしたら、あなた方がうんざりして、そろそろ出て行け、というような状況にまでなってしまったりするのかもしれません」

 これは、やがて解約するためのひとつの布石でもあった。が、彼らのツボにはまったようで、二人は勢いよく声をそろえて笑った。

「それはそれで、可愛いもんですよ」と、岡島が言う。「いつでも呼んでください。手助けと、相談には乗りますので」

「僕の方も、請け負いますよ。芝村様は、大切なお客様ですので」

 二人の反応からして、なんだか相談するごとに、しがらみが強く結びついてしまいそうに感じられた。

 その点、限りなく没交渉をつづけている津路夫妻は、土地と住まいにさえ執着しなければ、いつでも見放せる条件がそろっているのかもしれなかった。

 これまでに、転居を繰り返しつづけた人生だ。例のあの屋敷が、彼らの安住の地とは限らない。いつだって、出て行ける準備が整っているというべきだった。そう、芝村の接近がそのきっかけになるという可能性だってあるのだった。

 

 

 

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