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一流役者  作者: MENSA
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プロローグ

 

プロローグ

 

 その少女の顔は、ひどく警戒的で、語りかけることさえためらわせる嫌悪に満ちていた。ただでさえそうなのに、日陰に立っていることが、その気配を強めていた。

「あんまり、いい写真ではありませんね。でも、それしかないんです」

 ながく病床にある篠代婦人は言って、芝村から写真を取り返した。さっとひと撫でしては、愛でるように見やる。

「当時のことを思い出させてくれる、唯一の写真です。わたしにはそれからその子の笑顔が透けて見えるんです。二人のあいだにあった、なにもかもがこの一枚に凝縮されているんです」

 病人というのにもかかわらず、彼女の顔は、もはや健康そのものであった。ひたる空想を呼びさますのが気の毒に思われるぐらいだ。

 とてもじゃないが、余命三ヶ月と宣告された人間だとは思えなかった。脳下垂体腺腫。同時に併発した水中毒のほうは、摂生のすえに改善されたが、腫瘍の方は進行性でどうにもならなかった。毒気の強いエラー細胞は、見る間に脳幹の一部まで犯し、いままさに彼女の視神経を圧迫するまでになっていた。その状態までくると、医者はどうにも手がつけられないのだそうだ。

「失礼ですがね」と、芝村は咳払いして言った。「いま、その娘さんの写真がはっきりと見えているんですか?」

「見えていますよ」と、彼女は顔を上向けて言った。「ただ、ぼんやりとです。全体の感覚と感じが掴めるという程度に過ぎません。ある程度は、わたしの中のイメージで補っているという部分があるといえば、あるのでしょうよ。もともと、目は見えていたわけなんですから、手掛かりはいくらでもあるんです」

 その手掛かりがないものについては、見えていないということでいい。つまり、いまの自分の顔なんかは、まさにそうだ。彼女は、おおよそこういう人間だろう、と勝手にそう思い描いているだけに過ぎない。

「もう一度、その写真を見せていただけませんか」

 芝村は婦人にお願いした。いいですとも、と彼女は応じて写真をよこしてきた。

 少女――由季子の顔つきは、相変わらずだった。

 人を寄せ付けない負のイメージばかりがそこに凝り固められている。婦人の元にやってきてから二年目の六歳の写真だ。ふてくされ気味でいるということも関係してか不細工ではあったが、そもそもの顔立ちは、そう悪くはなかった。笑えば愛くるしい子だろう。おかっぱに近い重力に任せて垂れ下げた髪の一部は光を帯びて、赤茶けた色にかがやいていた。その箇所だけ、妙に目を引き付ける、柔らかい印象を放っていた。

「その子に……由季子に会えますか?」婦人の眼は、芝村をしっかり捉えていなかった。「もう、思い残すことはその子だけなんです……わたしが生きているうちに、なんとかなりませんか?」

 婦人はよよと泣き崩れた。つかの間、見せた涙は視神経から搾り取ったというような、そんな痛々しさが感じられた。

「なんとかしてみますよ」と、芝村は力強く言ってやった。「あなたの依頼を、しっかりと果たして見せます」

 婦人の顔から悲哀が失せて、感謝一筋に変わった。ひと味違った涙が彼女の頬を伝う。彼女は心から、この写真の少女を求めている――それだけは、芝村は胸に刻みつけられるように理解した。

 それだけが、彼女の救済方法だ。

 それ以外には、ない。

 果たさなければ、彼女の心は濁ったままに、その生涯が閉じられてしまう。そんなことは、断じてさせてはならない。与えられた使命はかなり大きい、と芝村は思った。だが、その分、やり甲斐があるといえばそうだった。

「この写真、お預かりしても、よろしいですね?」

 芝村は写真を軽くもちあげて、彼女に示した。

「寂しいものですわね」と、彼女は頼りないぐらいに痩せた胸を押さえて言う。「でも、ちょっと我慢すれば、あの子に直截会えるんですものね。少しのお別れ、と受け取ればなんでもありませんわね」

 目許の皺は黒ずんで、なにかを失敗して焦がしつけてしまったかのようであった。そうした涙跡がくっきり浮かんだ顔ではあったが、肌艶自体はしっかりとしている。髪の毛だって、鮮やかさを感じさせる黒色のままである。齢六十八ではあったが、彼女をうちから蝕んでいる進行性の癌腫瘍さえなければ、あと二十年は、軽く健康的に生き長らえられたはずである。そのことを確信させるだけの強さが、彼女の眼にもあるのだった。

「わたくし、死ぬことの覚悟は、できているつもりですわ」と、婦人は覚悟を決めた声色で言った。「でも、由季子を一目見るまでは、耐え抜きます。それまでわたしは、自分に抗いつづけようと思っているんです」

 彼女は育ての親だった。それでもしっかりと娘への執着は持ち合わせている。一方通行というようなことでなければいいが、という不安は芝村のなかにはあったが、しかし今回の場合、大部分で信用していいことのように思える。

「生き抜いて下さい」と、芝村は気持を殺して言った。「たえず気を緩めるようなことはせず、何がなんでも生き抜いて下さい、それがあなたの務めです」

 必ず彼女をここに連れてきますから――最後は、気迫をこめた眼で、そう伝えた。

 やる気と、心意気は伝わったらしい。彼女はゆっくりと微笑んで、それから小さくうなずいた。

 

 

 

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