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やっぱりこんな高校来るんじゃなかった。まさかこんなところで会うなんて、思ってもみなかったから。
入学式を終えて戻ってきた教室では、早速できた友達が、おそらく他の子も、同じ話題で盛り上がってる。
「ちょ、さっきの見たっ?」
「生徒会長でしょ? マジかっこいかったよねー」
あーあー、やんなるよ。今から転校とかできないのかな。そう思いながら、目の前に集まった三人ほどいる女の子たちを見つめていた。
気楽で、良いなぁ。
「ね、亜紀ちゃんは? あの生徒会長かっこよかったよねぇ」
「あー、そうかもね」
一番最初に私に話し掛けてきた希美に呼ばれて、私はあははと顔だけで笑った。どうか気付かれていませんように。
まだ高校生活は始まったばかりだというのに、私、暗いな。疲れてるみたいだ。
私が適当に相槌を打っていると、担任だという先生ガラリと勢いよくドアを開けて入ってきた。定年間近ですという雰囲気のおじさんだ。初日だからか、わりかし静かなクラスメイト達はすぐに席へと戻っていった。私もそれに従う。どうでもいいけど、早く帰りたいと思う。下手したら、見つかってしまうから。
「――じゃあ、今日はこれで終わりだ。号令、はまだいないから、出席番号一番のイイダ」
「キリーツ、レイ」
「さよーならー」
ざわざわと教室が喧騒に飲まれていく。誰の視線にも止まらない内に教室を出ようと、私は真新しいスクールバッグを引っつかんだ。
「あ、亜紀ちゃん、一緒に帰ろうよ」
「あ、ごめん希美、またこん――った」
「あ、いた」
後ろを向きながら返事をしていたら、ドアに立っていた誰かにぶつかった。この声って、もしかして。
顔を見る間もなく腕を掴まれて、私は無理矢理歩かされた。
「は、え、ちょっ」
まずい。非常にまずい。
「は、離してくださいっ」
「ヤだよ、また逃げられちゃたまんないもん」
あ、ヤバい。こういう強引なとこ、全然変わってないんだ。
手を掴まれて歩いていく廊下、通り過ぎていく人の話し声がうるさい。
――本当は、二度とこの土地に戻ってくるもんかって、思ってた。
《亜紀ちゃん、今度は引っ越さなきゃいけなくなっちゃったの》
そういって私は父の仕事でフランスへ行くことが決まった。当時の私は小学六年生。お隣りで仲良しだった優は中学二年生で、引越しは次の春が来るころだといわれていた。
あの時はもう、優には彼女がいた。
まさか、こんなに早く戻ってくることになるなんて、思ってなかった。
「あ、亜紀?」
「あ、お母さんっ」
助かったとばかりに私は声を張り上げた。私の手をとっていた人も、びくりとして足を止めてくれた。
私に気付いた母は、小走りに近づいてきた。
「ごめんね亜紀、お母さんまたすぐ戻らなきゃいけないみたいだから、しばらく家空けるわ」
「え、ちょっと」
「お金はあるでしょう? じゃあね、って、この人誰よ?」
ちらりと私の隣りの人物に目をやって、母は嬉しそうに笑った。そういえば、まだ、腕を掴まれたままだ。痛い。でも、私も、振り払う気になれなかった。
だって、嬉しかったのも本当だから。
「あ、お久しぶりです、おばさん。優です」
「あっらー、本当にっ? もうっ、見違えちゃったわ、すっかりかっこよくなっちゃってー」
男の子って変わるのねーなんて、年甲斐もなく頬を染めている。ホント、困った人だ。
「じゃあまた、亜紀のことよろしくねー」
「――っ、よろしくしなくていいっ」
いってしまってから、はっとして手で口をふさいだ。いっちゃった。勢いに任せてしまったとはいえ、まずかったかも。
「もう、やぁね、この子ったら照れてるのよー。亜紀、荷物は優くんのお母さんに頼んであるから、早く取りに行きなさいね、これ鍵よ」
突き出されたなつかしい鍵をしぶしぶ受取る。あぁ、本当に、帰ってきたんだ。帰ってきちゃったんだ。
引越しのことは、前日に迫ってもいえなかった。
《優の彼女、美人さんだね》
《まーね。亜紀と違って》
最後の夜、久しぶりに入れてもらった優の部屋は、それまでとあまり変わっていなかった。いつも彼女が来ていたり、友達がいたりで追い帰されていたから。
だから、嬉しいはずなのに、なんだか悔しかった。
《じゃ、私、いらないね》
きっともう、あのときには好きだったんだ。どうしようもないくらい。それが恋だったと気付くのには、しばらくかかった。気がついた頃にはもう、それが当たり前の感情で、鏡に映った自分を自分だと認識することのように、深く深く根付いたものだった。
忘れるとか諦めるとか、そういう次元で話ができるようなところを通り過ぎたところに、あった。
「じゃ、またね亜紀。なるべく電話するようにするわ。優くんも、またね」
「はい、おばさんも、気をつけて」
手を振って上機嫌で去っていく母の後ろ姿が、妙に憎らしくなった。
父はまだひとり、フランスにいる。どうして私ひとりで帰ってきたのか、すべては両親の勘違いと行き過ぎた心配によるものだった。
確かに、知らない土地に馴染めなかったのは本当だ。学校以外の外出は怖くてできなかった。そしてそんなときの感情の出し方も忘れてしまった私にとって、そこは苦痛ばかりだった。日本に帰りたいだなんて、否定するわけじゃない。けれど、帰りたくない理由の方が強かった。
《まあ、いなくても変わんないかもな》
日本に着いてから、私は意地でもホテルから出なかった。
母は何回かあの家へ戻っていたらしい。私達が、ではなく私が、日本での生活を始めるために。
母はきっと、父のいるフランスへ戻るんだ、さっきのも。私の両親は、今でも仲が良いから。もしかしたらそのために、私が邪魔だったのかもしれない。心からそう思っていないとしても、そういう風に考えてしまう自分が、かなしい。
ホテルへ戻ってきた母は、優のお母さんとも話をしたと楽しそうにいっていた。だから、嫌な予感は最初からしてたんだ。
日本の高校に関してなんの知識もなかった私は、母が決めた高校を受けた。それ以外の高校の情報は、存在すらも一切教えてもらえず、かなりしぶしぶだった。
この土地へ帰ってくることも、この高校へ入ることも。
入学式で呼名なんてしなければわからなかったのに。
「亜紀」
名前を呼ばれて体がふるえた。こんな感覚、久しぶりだ。固く決めていたのに、泣くもんかって。
たとえ目の前にしたって、私の心は揺れない。
「帰るから、離して」
「亜紀、話がある」
「こっちはない」
あ、背伸びたんだな。
久しぶりに見た優の顔を睨みつけて、腕を乱暴にふった。私の顔を見て驚いたのか、それとも睨まれて怯んだのか、よくわからなかったけれど、とりあえず優は掴んでいた腕を離してくれた。
「もう、二度と会いたくないの」
私はもう、戻らない。
あんな風に取り残されるような思いは、充分だ。
私は揺れない。揺るがない。
幼馴染という言葉が幼少期に仲が良かった友達というなら、私と優はまさにそれだ。
でもそれは所詮、幼い頃の話なのだから。
私にしてみれば、再会は早すぎた。あの家に戻るのは、大学生になってからと決めていた。
できれば彼氏が出来てからって、思ってた。
別にもてなかったわけじゃない。確かに今まで彼氏なんてできたことないけど、好意をもって接してくる人はいた。
問題は私のほうだ。
《じゃあ、亜紀いなくっても変わんないんだね》
《んだよ、急に、》
《ううん、ばいばい》
かなしいと思ったのは私だけだったように。
「亜紀っ」
呼び止める優の声を無視して、私はその場を走って後にした。帰るんだ。懐かしいあの家へ。
大丈夫だってば。
もう戻らないって決めたじゃないか。
《亜紀はその幼馴染が好きなんだね》
そういった彼は、やさしく笑ってくれたけれど。彼は、いつだって私を許して、笑って、言葉をくれたけど。
どうして私は彼を愛してあげられなかったんだろう。この三年間で私を支え続けてくれたあの声を思い出す度、どうしようもなく居た堪れなくなる。
時間が解決してくれるなんて嘘だ。
ならどうして、私は変わらない。私の気持ちは。
戻らないなんて、私にできるの?
「はい、どちら様でしょう」
押したインターホンからはくぐもった、懐かしい声がした。いろんな雑音が混じっていたけど、すぐに誰だかわかった。
といってもこの時間、この家に、他の誰かがいるはずもないから当たり前なのだけれど、とにかく私はその声を聞いて、また現実を再確認したわけだ。
「おばさん、あたし。亜紀です。預かってもらってた荷物取りに来ました」
そういうとブツッと切れる音がした。だんだんドアの辺りに人の気配が増していくのがわかる。
「あ、亜紀ちゃん! いらっしゃーいっ」
「こんにちは」
勢いよくドアが開いて、笑顔のおばさんが顔を出した。あたしは軽く頭を下げて挨拶をする。笑顔は崩さない。
優のお母さんはやっぱり、いつもキレイだ。年を感じさせない、年齢よりはるかに若く見える。おそらく肌のせいだ。目元とか口とかは、優にそっくり。
目に毒、記憶を刺激、心に毒。
「女の子って変わるのねー、見違えちゃったわっ。上がっていかない?」
どこかで聞いたような台詞、そう思って私はふっと笑みをこぼす。母と同じようなことを、いってるんだ。
「いえ、片付けとかしなくちゃいけないし、荷物を引き取ったらすぐ帰りますから」
不快を感じさせないように、笑顔だけを浮かべる。なるべく家の中は見ないように。知らないことは多い方が、傷つかないんだって知ってる。
「あら、そうね。おばさん、何か手伝うことあるかしら」
おばさんは話しながら玄関先に置いてあった荷物を渡してくれた。大きく膨らんだ黒いボストンバッグは、手にするとずっしりと重かった。
「いいえ、母が少しは片付けておいてくれると思いますし、大丈夫です、あ、荷物ありがとうございました」
「いいのよ、気にしないで。困ったときはいつでも来てね」
「はい、ありがとうございます、じゃあ」
「ええ、またね」
胸の前で小さく手を振って、ドアが閉まる前に優の家から離れた。
帰ったらまず掃除をしなくては。
《泣きたいなら泣けばいいじゃないか。亜紀は人形じゃないんだから、流せるでしょう》
手にした家の鍵がひんやりと冷たい。鍵穴に突っ込んで回すと、ガチャンと大げさなくらい鍵の開く音が響いた。
開けてみれば、昼なのに当たり前に暗い。やっぱりまだ、空気がこもってる感じがする。まずは家中の窓を開けるところからはじめよう。
こんなの、望んでなかった。一人暮らしみたいで確かに気は楽だけど、ここはしんどい。
「どうしろっつーのよ、ひとりで」
こんな広い家で。
何も忘れてない私の心が、軋んでいるじゃないか。
忘れよう、今は。彼のことも、優のことも、全部忘れてしまえばいい。
楽に、なりたい。
まずはリビングかな。冷たいフローリングを踏みつけて、昼間なのになぜか暗い廊下を歩いた。
窓を開けて空気を入れ替えただけで、家の中はずいぶん居心地が良くなった。日の光を吸い込んだ室内には、数時間前までの暗さは見当たらなかった。
私達家族が家を空けていた三年の間、度々優のおばさんが見にきてくれていたらしい。そのままだったベッドのマットレスや敷布団をベランダに干しながら、ちょうど目の前の優の家を見た。
この家は、三年前で時間が止まってる。人の気配を少しずつ取り戻していくのを感じながら、そんなことを思った。
埃をかぶった家具やテーブルを拭きたくて、置いてあった雑巾を手にキッチンの流しの前へ立った。ところが、蛇口をひねっても水は出てこない。すっかり忘れていたが、電気や水道は母さんが頼んでおいてくれたらしいけど、明日にならないと繋がらないんだっけ。じゃあ今日はどうすればいいんだろう。お風呂も入れないのか。
「無用心だね、亜紀」
キッチンの流しの前で私は硬直する。
まさか、どうして。
ああ、そういえば、玄関の鍵、かけてなかったっけ。
キッチンの入り口に優は立っていた。さっき話した時と同じ、制服のままだ。
「入ってきたの俺じゃなかったら、貞操の危機かもね」
日が翳ってきているのか、逆光なのか、顔がよく見えない。ただ優が発する声には、かすかな怒気が含まれているようだった。
何をしにきたんだろう、優が私に用があるとは思えない。
だって私は、はっきり拒否の言葉を口にしたはずだ。大体三年も前に別れたただの幼馴染みに、これ以上かまうなんて、そう、さっき優が教室に来たことの方が、奇跡みたいなものなのだ。
「なにか……?」
「電気とか水道、まだなんだろ。母さんが今晩はうちに泊まりに来いってさ」
「あ、わかった。ありがとう」
ああ、なんだ。そういうこと。優が私に用があるわけじゃないんだ。おばさんがいったから、来たんだ。この家、まだチャイムもならないしね。
もう少し掃除をしてしまいたかったけれど、暗くなってきた室内では何もできないと諦め、手に持っていた雑巾を蛇口にかけた。ふうっとため息をひとつ。帰ってから全然座ってない。
戻ってきた日からずっと、休まった思いなんてしてない気もする。
「亜紀」
思ったよりもずっと近くで声がした。心臓からびくんと身体がふるえた。振り返ろうと思ったけれど、また
「亜紀」と、さっきよりさらに近く、背後から、私の頭の上から声が聞こえて、動けなくなった。
「な、に。どうしたの……?」
「亜紀」
私を囲うように、優は流しに手をついた。何度も何度も、名前をささやかれる。首を、髪の毛を、耳を、優の息がかすめていく。――くらくらする。
「亜紀」
息がかかるほど近くに、動けばすぐ触れられるくらい近くに、優がいるんだってわかる。ふるえて、痺れていく身体。意識しないと呼吸もままならないくらい、私が分裂していく。
「亜紀、楽しいことしようか」
「な、にいって」
つつつ、と優の手が膝から太腿をなぞる。制服のスカートがめくれ、私はその手を止めようとあわてて手を伸ばした。
「いっ――」
伸ばした腕を簡単に掴み上げられる。振り払おうにも痛いくらいに強く、掴んでくる。
「今度逃げたら、許さない」
捕まれた腕から掴んでいる腕へ、視線を移していく。右側の唇の下に小さなほくろ。あの薄い唇が私の名前を呼ぶ。すっと通った鼻筋。私を映している茶色い瞳。
私はよく泣く子だった。
転んでは泣いて、冷やかされたらうるんで、家に誰もいなくて泣いた。
あの頃は、理由がたくさんあった気がする。
優は中学に上がるまで、両親のいない日には必ず自分の家に帰る前に私の家へ来てくれた。
《亜紀、どこ? また泣いてるの?》
リビングでうずくまって、階段の途中に座り込んで、洗面台の下で、私はいろんな場所で泣いた。特別声を張り上げるわけではなく、体育座りをして小さくした自分の身体を抱きしめながら、こぼした。すすり上げた。
《あ、見つけた》
必ず、見つけてくれる。
時には意地悪に、帰るフリをして。
《今日は何があったの?》
側に、いてくれた。
私はいつも、一番だった。
《……あき、なってなんか、ないも、う》
優はしゃくりあげる私を笑って、意地を張って顔をこすり、泣いてないと主張する私を笑って、そうして頭をなでてくれた。
動かない私を引っ張って部屋まで連れて行ったり、リビングのソファへ座ったり、ひどいときには意地でもその場から動かない私を、まだ小さい身体で抱きしめて、私が眠るか笑うまで、側から離れないでいてくれた。優は、そういう人だった。
「何いってんの、優。放して」
成長しても泣き虫は変わらなかった。ただ、泣いてもしょうがないことだけはわかった。
優は中学へ入ってから、前みたいに家へ来てくれなくなった。
「なんでフランス行くこといわなかったんだよ」
「いう必要がなかったから」
「は? どういう意味だよ」
「どういうって、そのままの意味だよ」
私は今でも泣き虫だ。ただ、堪えることがうまくなっただけ。涙を流さなくても、私は泣けるようになった。
彼は泣いている私を見て、いつも困ったように、かなしそうに笑った。
《またそういう顔をするんだね、くやしいな》
涙が流れないことは、どうだってよかった。ただ彼がそうして笑ってくれる度、胸が痛んだ。涙を流せなくなったんだって自覚するから。
結局私は、泣くことで優の気を惹きたかっただけだったんだって、わかってしまった。泣いたら側にいてくれると、知ってからずっと。
「……いいや、もう」
そういって、優はあっさり私から離れた。
「母さん張り切ってるから、早く来てやって」
キッチンの入り口まで歩いて、優は少しだけ顔を私へ向けた。その顔は、よく知っていた。彼が私へ向ける笑顔に、よく似ていた。
玄関のドアが閉まる音が聞こえるまで、私はぼうっとそこに立っていた。
「――っ、なんだってゆーのよ……っ」
どうして優が、だって、あれは。あの表情は。
「嘘つき……っ」
やっぱり、帰ってくるんじゃなかった。
込み上げる熱を噛み殺す。私はその場へしゃがみこんで、しばらく動けなかった。
まるで昔、そうして優が帰ってくるのを待っていたときみたいに。
苦しくて、うまく、考えてあげられなかったんだ。自分のことも、優のことも。私はずっと、堪えることに必死だった。ずっと。
***
「亜紀ちゃん、遠慮しないでたくさん食べてってねー」
「はい、いただきます」
私とおばさんと優、三人で囲む食卓はどことなく不自然だった。優は最初から、一言も言葉を発しない。これでいいはずなのに、また胸が軋んだ。
いつも年の差が気に入らなかった。いや、優が中学に入ってから、同い年でないことがこうやって私達の時間を少しずつ噛み合せなくしていくんだと知って、さみしかったのだ。
「……ごちそうさま」
私がまだ茶碗に盛られたご飯を半分も消費しないうちに、優は私よりも大きな茶碗を空にして、さっさと片付けてしまった。私がいるから、なんだと思う。
「あ、優。ヒマなら亜紀ちゃんの布団だしといてくれる」
「ん……どこに敷くの」
「あんたの部屋」
「は?」
私もおばさんのその言葉を聞いて「え」と箸を落としそうになった。あんたの部屋って、優の部屋で寝るって、こと?
「しょうがないじゃない、急だったからあんまり片付いてないのよ。あんたの部屋が一番スペースあるし」
「リビングでいいじゃん」
「ダメよ、寒いわ。風邪ひいちゃうわよ」
「あ、あのぅ」
優が眉を寄せておばさんといい合ってるところに、私は小さく口をはさんだ。二人が私へ視線を向けるのがわかる。
「お風呂借りたら、私、帰りますから」
「そんな遠慮しないでいいのよ、亜紀ちゃん。四月っていったってまだ夜は冷えるし、あんな広い家で寝たらそれこそ風邪ひいちゃうもの」
「でも」
優の部屋で寝るくらいなら、風邪でもひいたほうがマシだ、なんてことはとても口にはできなかった。
「気なんて使わなくていいのよ。それに、昔はよく一緒のベッドで寝てたんだしっ」
「そういう問題か?」
「とにかく頼んだわよー」
そういっておばさんはにっこりと優に向かって微笑んだ。私はといったら、呆気にとられて何もいえなかった。優は一度視線を私へ向けると、「……わかったよ」といってダイニングから出ていてしまったから、さらに頭が真っ白になった。
昔は平気でその腕を掴めたのに。『好き』だと口にするのに、恐怖や打算を感じることもなかっただろうに。
私達はいつから、変わっていったのだろう。
なんとなく話さなくなって、なんとなく会わなくなって、なんとなく離れた。そこには意味なんてなかったように思う。
ただなんとなく。そうしているうちに、時間が過ぎてしまっただけ。そうしている間に、知り尽くしていると思っていた世界は変質してしまった。彼女とか部活とか、フランスへ行くことが。
ただなんとなく、ただなんとなく。そうしていろんなものが消えていった。なくなって、変わってしまった。時間は、止まることなく流れていくから。
それでも、よかった。
私と優の間には、どんなことがあったって消えない何かがあるのだと、信じていたから。
信じて、いたから。
お風呂からあがると、ドキドキしながら優の部屋へ向かった。家の中のすべてが懐かしく、変わらないものを見つけることが嬉しくもあり、変わっていった私達がかなしくもあった。
優の部屋の前に立つ。なかなかドアに手がかけられない。私って、臆病だったのか。
ドアノブを掴んで、大きく深呼吸をした。それからまた大きく息を吸って、唇を噛んで、ガチャッとドアを開けた。
「あ、あの、お風呂、あがったから……どうぞ」
開けてから、そういえばノックをしなかったなと思った。
さっき吸い込んだ空気を一気に吐き出すように、つっかえながら話した。真っ直ぐ目が合ってしまったから、余計に舌がもつれたのだと思う。ヤだな、どうしてこんな風にならなきゃいけないんだろう。
「あぁ、ありがと」
ふっと顔をそらせると、優は用意していたと思われる服を引っ掴んで私の横を通って部屋から出て行った。
この人は、どうしてこんなに平然と振る舞っていられるのだろう。私ばかり翻弄されている。
まだこんなにも、私の胸は傷つく。
いつも私だけだ。でもじゃあ、さっきは何?
優の部屋に入ると、右側に優が寝るベッドがある。そして開けたドアの目の前に、私のために敷かれたのであろう布団があった。
ベッドの奥には、さっきまで優が座ってた椅子に机。数冊のノートや教科書、さっきまで優が読んでいた本、それから雑誌のようなものが無造作に置かれていた。
カーテンの閉められた窓、机の反対側には本棚があった。
なんだかな、本当、変わってない。記憶のままの部屋と、同じ。
私はしょうがなく、優のベッドに腰を下ろしてみた。スプリングの軋む音が静かな部屋に響く。
私は肩にかけていたタオルで、地肌をもむように頭を拭いた。指を動かす度に肩を少し越した真っ黒な髪の先が揺れ、しずくが飛んだ。腕や首に飛んで、とても冷たい。
「なくなりたいな……」
記憶から、私から、今ここから、なくなればいいのに。
こてんと体を倒すと、ふわりと優の香りが鼻腔をついた。
どうして、あぁ、私これだけで、どうしてこんな、安心できるんだろう。
抗えない。緊張の糸、切れたかな。
目を閉じた、そこには、やさしい暗闇があるだけだった。
望む言葉をくれる、彼はいつも。でも、望む人ではなかった。
今でも、夢に見てしまうから。
何も知らなかったあの頃の私には、もう戻れない。
少し暗くなった部屋、わずかに開いていた部屋のドア、幼い私には刺激が強すぎる光景。
荒い息、艶めかしい声、声、声。
《まあ、いなくても変わんないかもな》
心臓がバカみたいに騒がしく、口から出るくらいに激しく、脈打った。でも背筋は、頭だけは一本芯が通ったみたいにしんしんと冷たかった。
慌てて逃げ帰ることもできず、だからといってそこで立ち尽くしているわけにもいかず、私は視線を床へ下ろした。
手が震えるほど強くこぶしを握り締め、音を立てないように階段を下りた。踏みしめたはずの階段には感覚がなく、ふにゃりとしていて、このまま私はこの家に沈み込んでいくんだと思った。
その度聞こえてくる彼女の嬌声が、私を現実へ連れ帰した。
《優の彼女、美人さんだね》
《まーね。亜紀と違って》
あぁ、なんて。
私、ひとりなんだ。
「――き、亜紀っ」
怖いのだ、私は。戻りたくない、忘れたい。
もう誰かを想って泣くなんて真っ平ごめんだ。
愛したって愛し返してくれる保障もないのに、好きになるなんてバカだ。
誰かに身体を揺さぶられているような気がする。寝苦しさからんんと呻き声を上げて、静かに目を開けると、そこは暗闇の中にあった。誰かが私の顔を覗き込んでいる。
「亜紀? 大丈夫か」
未だ視界はぼんやりとしてはっきりしなくて、なんとなく声で優だとわかり、名前を小さく呼んだ。
どうしてここに、と思ったところで、そういえば優のベッドに横になってからの記憶がないな、と思い直した。
もう一度「優?」と呼ぶと、大きな手が私の髪を掬った。
「怖い夢でも見てたのか」
「……なんでわかるの?」
「だってすごいうなされてたから。心配で起こしちゃった。ほら」
優は私の頬を包み込むように手を当てた。指先が冷たい。
「泣いてる」
「うそっ」
そっと手を離して見えた優の手が、いった通りほんのり濡れていて、またやってしまった、と思った。
こうも自分は成長していなかったのかと、心の中だけでため息をつく。
こんなところで眠ってしまった私がいけないのだけれど。
「どんな夢だったの?」
暗闇の中で、優が笑っているのがわかった。居た堪れなくなるようなその視線。
私はもう、あの頃みたいに、絶対の信頼を置いてすべてを話すことなんてできない。もう戻らないって決めたから。もう戻れないって、知っているから。
「さぁ、どんな夢だったかな」
「俺には話せないってこと?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ話して、悪い夢は人に話すといいんだろ」
いえるわけがない、と思う。優はじとっとした目で私を見てくる。月明かりのお陰か、視界にこれといった不自由はなかった。
私は何かいおうと開いた口をまた閉じて、頭の中で必死に言葉を並べた。
「……夢は覚えてないけど、きっと不安になったんだよ。だって、ほら、これからほとんど一人暮らしになるわけだし、私にあの家は広すぎるし……だから」
「じゃあ寝言で俺の名前呼んでたのは?」
「――っ、」
いわれた瞬間、頭が真っ白になった。今まで一度だって、そんなこといわれたことなかったのに。どうしよう、寝言で優の名前をいうなんて、まるで好きだとでもいってるみたいじゃないか。
あんたのこと寝てても考えてるって、いったようなもんじゃないか。
もしこれが日常的にあったものなら、あの夢を見る度泣いていた、その度に優の名前を呼んでいたとしたら、それはかなり恥ずかしい。
「うそうそ、ジョーダン」
「あ、な、なんだ。もう、びっくりしたじゃ――」
時間が止まったかと思った。鼓膜をふるわすものが、何もなくなった。
白々しいほどの静寂と、一気に下がった室内の気温。
でも優がその指先で触れた下唇の輪郭だけが、妙にはっきりとしている。
目が優の瞳へ捕らえられて、動かせない。
まるでそこに私の意思はないみたいに。
「……ちょっと、カマかけてみたんだけど」
心地いい低音が、頭の中へ流れ込んでくる。笑い飛ばしてしまえば良かったのだ、そう悟った。だがそれも、できない。
また私は、繰り返してしまうのだろうか。
「亜紀って、俺のこと好き、だよね」
愛したって、愛し返してくれるわけでもないのに。
「……好き、だろ?」
動揺のあまり、頭が真っ白になって、視界まで白く見えてきて、言葉という言葉を忘れてしまった。
「何もいわないってことは……肯定?」
ええ、そうです。
私は今も、こんなにあなたが好きですから。
「――ちがっ、びっくりしただけだよ。会わない間に自意識過剰になったんじゃない?」
でも、もう、戻らない。
「……ウチの母親もさ、俺のことホント、わかってないよね」
「え」
「ヤリタイ盛りの男の部屋に、女の子寝かせるんだからさ。亜紀も亜紀で無防備だし」
あぁ、なんだ、やっぱり。私は、これが知りたかったのかもしれない。
戻れないんだと、身をもって実感するために。
優の手は、パジャマの上から私の太腿を触っている。動くにしたがって布が擦れ、あまりにもやさしく触れる優の手はそれだけでやらしく、くすぐったいような感覚を与えてくる。
手の動きは止まることなく、身体の中心をなでるようにして、胸まで上がってきた。
「……抵抗、しないんだ」
「だって、やめてくれるの?」
「さあ……亜紀次第じゃない?」
そういって笑いながらベッドへ腰掛け、私のパジャマのボタンを外していく。全部は開けず、肌蹴た服と服の間から手を差し込んできた。
ブラジャーを包むように優の手が触れているのが見えた。
「……生徒会長さんって、もてるんだろうね」
「どうしてそう思うの」
「手つきが慣れてるんだもん」
「別に、そんなことないけど」
「でもクラスの女の子達に早速騒がれてたよ」
「ふーん」
まるで興味がないみたいに、優は手の動きを止めない。なんとなく優を見たら、ばっちり目が合って、すぐに逸らしてしまった。いつから見ていたんだろう。
私が逸らしたのがきっかけになったのか、優は背中へ手をまわしてきた。あっと思ったときにはブラジャーのホックが外されていた。
「――っ、ねえっ、私ヤだよ、止めて、優」
「イイじゃん、別に。俺のコト好きなんでしょ?」
その言葉に、かすかに揺らいだ私の心が凍りつくような気がした。心臓が掴まれたみたいだ。なんて息苦しいんだろう。
優は笑って私を見ている。嘲笑うかのように歪んだ口許が、どうしようもなくいやらしく映った。
「……好き、じゃない……もん」
肩にストラップがかかったままのブラジャーが押し上げられ、少し冷たいパジャマの布が肌に触れた。思わず私の身体はビクリと反応してしまう。それを見た優はさらに口許を歪ませ、直接胸を触ってきた。
「敏感? くすぐったがりだったもんね、亜紀は」
もう、何もいえなくなってしまった。何をどうすればいいのかもわからなかった。抵抗するべきなのかも、流されて受け入れるべきなのかも、何も。
《亜紀はそんなになってまで何に怯えているの?》
少し前、日本へ帰ることが決まった頃、彼に似たようなことをされた記憶がある。私はそのときも、抵抗しなかった気がする。
「亜紀? 何を考えてるの」
「……彼のこと」
躊躇った後、私は静かにそういった。優の顔を盗み見ると、なんだかとても驚いた顔をしていた。ごくりとつばを飲むのがわかる。
「彼って、誰? 彼氏ってこと?」
「……さぁね」
彼は彼だから、私がそういうと、優は私の身体から手を離しベッドへ腰掛けたまま顔を逸らしてしまった。
「名前は?」
「なんだったかな」
「覚えてんだろ、いいからいえよ」
「一郎、とでもいったかな」
優は急に上体を動かし、私の頭の横に両手をついた。そのまま顔も近づいてきた。
「日本人?」
「だって私、日本人学校へ行ってたんだもん。そりゃ何人かは似たような事情の子がいたわ」
「そいつとはどこまでやった?」
「さぁね」
私、何を期待してるんだろう。
ものすごい至近距離で、目が合ったと思った。
そのまま触れるだけのキスが、唇に何度も落とされた。
私はそれだけでくらくらしてしまって、ぼんやりと開いた目から熱を失っていくのがわかった。優は一旦それを確認すると、今度は舌を捻じ込んできた。
私は抵抗しない。
優の舌は私の舌を追って執拗に口内を暴れ回る。優の唾液が私の口内へ流れてくるのを感じながら、私は急に怖くなった。ベッドへ沈み込むというよりは、急に落とし穴に落とされたようなその感覚に、あっと声を上げ優の首にしがみついた。
もちろん実際は、優の口内へ声は消えてしまったけど。
私の異変に気付いた優が唇を離すと、私たちの息は同じくらい荒くなっていた。
「……どうした、怖い?」
私はただこくこくと首を縦に振った。こんなに近くにいるのに、私はどうしてこんなにひとりなんだろう。
まだ会ってからほんの少ししか経ってないのに、どうしてこんなに、好きだと思ってしまうんだろう。
あんなに固く決めていたのに。戻らないって。今だって、わかったじゃないか。優は女の子なら誰でもいいんだろうって。確認したばかりじゃないか。
「怖いことなんて何もないよ、亜紀、亜紀、泣くなら泣いて。何でそんなへたくそになってんだよ、昔はあんなに上手に泣いてただろ」
「優、には、わか……ない、よ」
私は今でも泣き虫だ。
どうして今ごろ、涙腺が弛むんだろう。ひとりでも、彼が抱きしめてくれても、優が側にいなくなってからまともに泣けた日なんてなかったのに。
私はただ必死に優へしがみついて、頭をなでてくれる大きな手にすべてを任せて、思い出したように湧き上がる声を押し殺しながら、ただ泣いていた。優はまるであの頃と同じように「よしよし、いい子だね」なんて耳元でささやく。それがまた涙を溢れさせた。
戻らないんじゃない。
だって私の心、あの頃のまま、ずっと立ち止まっていただけなんだもん。長い間押し込めてきた、凍りつけようとした気持ちは、こうも簡単に溶け出してしまった。一度生まれたその想いは、今度はそう簡単に死んでくれそうもなかった。
でも、でも、溺れちゃいけない。
「余計なことは考えるな、今は泣くのが亜紀の仕事」
変わらずにやさしい手が、そこにはあった。すべては話せないけれど、身体を委ねることは、まだ、できた。
私は泣き虫、優だけが涙の色を知ってるの。
「何があったの?」
私はただ首をふる、左右に。これ以上、この距離を保っていられる自信がなかった。
幼馴染ってなんなんだろう。ただの柵じゃないか、そんな重い特権なくったって、私はきっと優を好きになる。
名前を呼ばれるだけで、すべてを忘れてしまうくらい幸せな気持ちになれる。
きっと、何度だって。
「わ、たし……帰る、ね」
しゃっくりみたいに込み上げる息遣いを抑えようと深呼吸をしながら、巻きつかせていた腕を放した。鼻をすんすんと啜っていると、解いた手首を優の温かい手のひらで掴まれた。
濡れた目で顔を見ると、笑えるくらいに心配そうな表情をしていたので、思わずぷっと吹き出してしまった。
「ダメ、帰らせない」
「何いってるの、そういうのは彼女にいってればいいでしょ」
「亜紀、拗ねてるの?」
「なんで私が……バカみたい」
そう、私ってバカなんだよね。いいの、ひとりがお似合いだから。ライフラインすらないあの家が、私には適当なんだ、と思う。私だけを取り残して、みんな変わっていけばいい。そういうのを、私は望んでいる。三年間の空白を過ごした、あの家みたいに。
「拗ねるなよ、泣いてくれないと困る」
「普通逆じゃない?」
「そうかな。だって亜紀、意地っ張りじゃん」
意地っ張りと泣いてくれないのが困るのと、すぐにはその関わりが見出せなかった。大体、違和感もなくこうしていられることから不思議だった。離れていたはずなのに、なかったみたいだ、あの日々が。
放して、といってみたが優の方に聞き入れる素振りはない。ただそう、じっと、射抜くような視線を向けてくるだけ。困った私はため息しかつけない。
「二度と会いたくないっていった割りにはおしゃべりだね」
「話し掛けられたら答えるくらいする」
「じゃ、おしゃべりしよう」
「……いいけど」
わずかに眉を寄せて、首を傾げて答えると、優は嬉しそうに笑った。まだ手は放してくれそうにないな、と思った。
「こうするのって何年ぶりだろう」
「さあ、五年くらい経ったんじゃない」
にっこりと微笑む顔が、おばさんによく似ているな、と思った。それから優は私のまぶたにそっとキスを落とした。こんなこと、しなかったな。私達が一緒にいた頃には。
あの時いた彼女には、こうしてこのベッドの上でおしゃべりなんていって笑っていたのだろうか。
思い出して唐突に吐き気を感じた。今くらい忘れてしまっていればいいものを。愚かな自分に自嘲した。
「なんで引っ越すこといわなかったの」
「そのこと……」
「だってあれ、いう為に来たんでしょ、俺の部屋」
「覚えてたの?」
「そりゃあね」
私は目を伏せ「そう」と息と共に吐き出した。
「なあ、どうして?」
「意味なんて大してないけど」
「じゃあ教えて」
「しつこい男は嫌われるよ」
「でも、亜紀は俺を嫌わない」
「ジョーダン、もう止めてよ」
押し倒されているような状態のまま続けるおしゃべりは、なんとも居心地が悪いものだとわかった。まずどこに目をやったらいいかわからないからだ。
顔を見て話すと、目が合って困る。嘘をついていないか伺われているみたいだ。試されている。
だからといって不自然に視線を逸らすのは、認めたみたいで気持ち悪い。それに、さっきから肌蹴た自分の胸元がちらちらと視界を掠めている。恥ずかしいことこの上ない。そのうえまるで優はそういう私で楽しんでいるような雰囲気さえかもし出しているから性質が悪い。
「今、彼女は?」
「どうしてそんなこと聞くの」
「いるならちゃんと相手してもらってよ。私、ヤダからね。服着たい」
「どうしてヤなのさ、俺じゃ不満?」
「そういう問題じゃないと思うけど」
優は返事をしない。代わりにまたじっと見つめてくる。逃げたいのに逃げられない。閉じ込められたような気分にさえなってくる。
「勘違いもいい加減にしてよ、ふざけてるなら帰るから」
「このままこの家に住む気ないの?」
「ない、なんで住むの? 意味わんない……もういいでしょ、おしゃべりはオシマイっ」
やっぱり無理にでも家へ帰れば良かった。そうしたらこんな醜態さらすこともなかったのに。こんな気持ちになることも、なかったのに。
「また、ひとりで泣くの?」
「泣かないってば」
会話を続けていたら、いつか飲まれそうだ。いや、もう飲まれているのかもしれない。優のペースに。
まだ何も知らなかった頃の私が、ひょっこり顔を出してしまいそう。
ぎしぎしとベッドのスプリングが悲鳴をあげて、優の顔がまた近づいてきていると気付いた。
首にキスをしている、何度も。髪の毛が肌に当たってくすぐったい。
顔をあげたから終わったのかと思ったら、今度はなんの躊躇もなく噛み付かれ、悲鳴をあげそうになった。が、なんとか踏みとどまり、今ある自分の状態から目を逸らそうと思った。
誰かいる。
少しだけ開いたドアの向こう側で、誰かがこっちを見ていた。
あれはきっと、私だ。
ぼんやりとそう思った。
「あっ……」
これは違う。私が、あの子が、誰かが、そう叫んでいる。
「キレイになったよね。入学式のとき、びっくりした」
嬉しそうに笑ってる優の顔を見て、私はまた言葉を失ってしまう。嬉しいと、思ってしまう自分がいて、嫌悪した。
私はいつから、こんなだらしない考えを持て余すようになったのか。
「泣くの?」
私の変化に気付いた優は、また私の髪の毛へ手を伸ばす。それだけでどうしようもなく幸せで、それがまた私を苦しくさせる。
もう、戻れない。
一番になりたかった。一番だった、昔みたいに。優の一番近くにいたかった。
もう、戻れない。一番だったあの頃にも、幼馴染みにも、きっと戻れない。今、許してしまえばきっと。
それも、いいかもしれない。中途半端に開いたドアの隙間の向こう側にいる私へ、あの頃の私へ、笑ってみせた。
「……なかないよ」
泣かないよ、あの日の私がそうだったように。
今だけは、一番近くにいれる、私が優の一番になる。それは私が、ずっとほしかったものだから。
***
肌寒さを感じて目が覚めた。
身体を動かそうかと思ったのだが、肩あたりに巻きついた腕がそうさせてくれなかった。
半分開いた口、かわいい顔してるな。
私、なんでこうなっちゃったんだろう。
今になって、なぜだか後悔ばかりが胸を締め付ける。
まだ、私が一番だよ。
抱きしめられている体の間から腕を出して、真っ黒な髪をなでる。短いな。その顔を見ていたら、鼻の奥がつんと詰まって目頭が熱くなった。
どうしたらいいんだろう。
一粒だけ涙をこぼしてしまった。好きだから、幸せだって普通はいうんだろう。目覚めて一番に好きな人の顔が見れるんだから。でも、わからない。優が何を考えているのかが、一番。
おばさんに見つかったら、そう思って隣で寝ている男を起こすことにした。
名前を呼びながら身体を揺らすと、不機嫌そうに眉を寄せ低く唸る声がした。腕に力がこもる。まるで起きたくないとでもいうようなその態度に呆れてしまった私は、軽く頬をつねった。よく伸びるほっぺただ、と思いっきり引っ張っていると、痛みに驚いたのかすぐに目が開いた。
「あ、おはよ。服着るから放して」
「荒っぽい起こし方するね、痛かったんだけど」
「優も早く服着たほうがいいんじゃない」
私が眠るはずだった布団の上に、無造作に投げ出された服を一枚一枚拾って身につけていく。優はそれを、顔に笑みを浮かべながら見ていた。
「なに?」
「キレイ」
「ジョーダン」
急に昨晩の記憶が蘇える。
昨日も何度もそういってた。あんたは一体その言葉を何人にいってきたの、眠りにつく前にそう聞いた。優はただ笑って「誰にも」そういって私を抱き締めた。
だけど信じることができなかった、優は決して嘘つきではなかったとは思うけれど。
私が着替え終わったのを見届けると、優ものそのそとベッドから這い出して服を着た。優はそのまま制服へ着替えるようだった。
時計のない部屋だったので「何時?」と訪ねると、優は携帯を見て「六時過ぎだよ」と答えた。
「私、帰らなきゃ。制服持ってきてない」
「ふーん。朝は食べに来いよ?」
「ん、そうさせてもらう」
なんだかまぶたが重い。きっと昨晩泣いたせいだろう。冷やさなかったし、いや、冷やせなかったし。
何をやっているんだろう、ふとその言葉が頭を掠めた。それを考えることは、今の私にはとても息苦しいことだった。
結局、私はひとり。なにも変わってない。こんな風に身体を許してしまう自分が、情けなくて、誰かにかわいそうだといわれているみたいだ。
それでも抵抗なんてできない。
あのときは、愛してくれた彼への懺悔のつもりだった。
じゃあ昨日は?
問うまでもない。そんなの、わかりきったこと。でも、もう、ダメだ。
それに私の気持ちといったら、すっかり優にばれているし。まだ肯定はしてないだけで。
でも、優は違う。そんなことわかってる。それなら精一杯演じてみせようじゃないか。私はただの幼馴染で、お向かいに住んでいて、でも幼馴染から少し外れてしまっただけ。
なんでもないのだ。なんの意味も、なかったのだ。だから忘れなくては、今すぐに。そうしなくては、きっともうなにも出来ない。
家へ帰ってまず、洗面所へ向かった。パジャマのまま外へ出るのは、多少恥ずかしかったがしょうがない。
蛇口をひねると、かなりの時間がかかったが水が出てきたので安心した。これで今日からはこの家でまともな生活が出来る。
しばらく流しっぱなしにして、自室へ向かう。裸足で歩いた階段は、思っていたよりずっと埃っぽかった。一体昨日私はなにをしたのか。お母さんも階段までは掃除してくれなかったんだな。
部屋へ入るとそこだけ不自然にきれいな制服がハンガーにかけてあった。
まだカーテンのない部屋で着替えることに抵抗を感じながらも、昨日もそうしたのだからと思ってパジャマを脱いだ。確か今日だか明日辺り、帰ってきてから揃えた家具類が届くんだったっけ。
制服を取ろうとハンガーに手を伸ばしたら、窓ガラスに映る自分の裸体が視界を掠めた。所々に赤い跡が見えて、急に恥ずかしくなる。あぁ、だから私は、何をやってるんだろう。
目を閉じても浮かび上がってきてしまうその光景を振り払うように、頭を左右に振った。それから何かに追いたてられるようにして制服に袖を通した。
私は、間違ってる。
今ごろ後悔したって遅い。
私は一度トイレへ向かった。昨日まで干上がっていて気味の悪いそこだったが、何度か水を流すと普通の水洗トイレになって安心する。水が流れるか、一番心配だったのだ。
昨日とほとんど中身の変わらないスクールバッグを手に、もう一度洗面所へ向かった。ボストンバッグから取ってきたタオルを横において、顔を洗う。濡れたままの顔をあげ鏡を覗き込むと、なんとも情けない顔を、今にも泣き出しそうな顔をした私がいた。
――しっかりしろっ!
ばしゃばしゃとまた水をかぶる。初めからこんなんでどうするんだ。乱暴に顔を拭くと、スクールバッグを持って向かいの家へ向かった。
「あ、おはよう亜紀ちゃん。ご飯できてるわよ」
チャイムを鳴らすと、笑顔のおばさんが出てきた。その笑顔を見たら、少し胸が痛んだ。自分が笑えてるのか、心配だった。
朝食にはトーストにスクランブルエッグ、サラダが出された。外国暮らしだった私への気遣いかな、と思ったが考えるのは止めた。
七時三十分が過ぎる頃には、優と家を出た。
何もいわなくても優の機嫌がすごくいいことだけは伝わってきて、私は困ってしまう。そんな態度をとられたら、期待してしまう。私がここにいることを、喜んでくれているんじゃないかって。
「亜紀、何考えてんの?」
「優の知らないこと」
「うわー、ヤな感じ」
駅までの道が、やけに長く感じられる。昨日も通ったけれど、駅前以外に大した変化は見受けられなかった。改札が新しくなったとか、本屋がコンビニ変わっただとか、そういう感じ。
通勤ラッシュで電車内はかなり込んでいた。あちこち押されつつも、バランスを崩すと優が支えてくれた。
電車なんて、しかもこんなに混んでいるのに乗ったのは初めてだった。優がいなかったら一駅で降りたか、人の流れに抗えずに降りるはずの駅を通り過ぎてしまったかもしれない。
「大丈夫?」
「ダイジョバナイ」
「日本だけだもんな、電車混むの」
「うん、苦し、い」
また電車が大きく揺れた。ドミノ倒しのように隣の人に押されて、流されてしまう。その度に優の腕を、身体を感じる。
こんなの、誰だってときめくよ。いきなり、近すぎる。
すし詰め状態の車内から、優に連れられて降りた。息苦しくてすっかりアナウンスを聞き逃していたが、高校の最寄り駅に着いたらしかった。
「大丈夫か?」
「う、なんとか……」
中年サラリーマンの整髪料の匂いとか若いOLのきつい香水の匂いや化粧品の匂い、二日酔いと思われる人から発せられる酒の匂い。そういう様々な匂いに私はすっかり酔っていた。
昨日は泊まっていたホテルから直で来たので、反対方向の電車に乗ってきた。だからここまで電車は混んでいなかったのだ。
唯一の救いは優がいたことだ。これからはひとりであの電車に乗らなきゃいけないと思うと、とても大丈夫とはいえなかった。
「気持ち悪いのか?」
「ちょっとね……」
「休んでく?」
「いい、そんな重症じゃ、ない」
外の空気を味わうように何度か深呼吸をした。気分はそれで大分落ち着いた。
改札を抜けると同じように登校する生徒がたくさんいた。あまりの気持ち悪さに忘れていたが、きっと降りたときにもこの中の何人かとすれ違ったんだろう。
ぼうっと歩いていると、空いていた右手が何かに包まれた。それが優の手だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「……優?」
「なんか、小さいときみたいじゃない?」
「へ?」
「小学校くらいのときはいっつもこうやってさ、学校まで行ったじゃん」
「あぁ……そうだった、ね」
今みたいに、私は優に手を引かれながら、真っ黒なランドセルを見つめていた。
同じように顔を少しだけあげて優の背中を見る。変わらない、私より高い背とか、短いけど黒く光る髪が揺れることとか。
隣で歩いてたらきっとわからない、優の背中がこんなに広くなったことだって。
あの頃は、全部私だけのものだった。昨日の夜だって、きっと私だけのものだったと思う。そう願っている。
でも、事実は違う。今は、違う。もう私は、この人の一番にはなれない。
広い背中の後を追ってまだ慣れない通学路を歩きながら、私は唇を噛み締めた。
***
「あ、亜紀ちゃんいたーっ」
教室に着くと息を切らした希美が走ってきた。何人か、昨日話した女の子もいた。
「おはよう」
「おはよっ、てか亜紀ちゃん会長と知り合い?」
「え……なんで?」
「あたし中学の時の先輩と来たんだけどね、あの会長が一緒に登校してたってすごい噂になってて、先輩のお友達さんが来て……しかも手まで繋いでたって!」
「あー……」
なんか、めんどくさそうな展開。
「知り合い、だね」
「どういう関係っ? 付き合ってるの?」
確か佳織という名前の子が、誰より意気込んで聞いてくる。
髪もほとんど色の抜けた金に近い色をしていて、化粧も濃い。私はこういう子があんまり得意じゃない。
もうひとり、茶色に染めた長い髪にパーマをかけてる子は菜津子といった。その子も佳織ほどではないが、穴が開くんじゃないかと思うくらいに私に視線を送っているのがわかった。
希美が一番マシだ。どうしたらこういう人達が集まるんだろう。類は友を呼ぶっていうのに。出席番号のせいで席が近かったからか。
「別に、たまたま電車が一緒で」
「でもさ、昨日も一緒にいなかった?」
「あぁ」
そういえば昨日、優は教室まで来てたから、希美には確実に見られていたはずだ。
希美は私と、主に佳織のやり取りに、心配そうな視線を送っている。
「親同士が知り合いで、呼びに来てくれただけだよ」
「ホントに? ホントにそれだけ?」
「うん、それだけ。特に何もないよ」
「なーんだ、つまんなーい」
「でもさ、それなら会長紹介して!」
「は?」
「だって知り合いなんでしょう? 会長めっちゃカッコいいし」
紹介って、優になんていったらいいんだ。しかもそれって、佳織だか菜津子だかは知らないけど要は近づきたい、彼女になるっていう目的があるってこと、だよな。
「……そのうちね」
そういうのって、優は喜ぶのだろうか。どういうのが好みだとか、私は全然知らないし。
私が適当に会話を続けていると、二人は嬉しそうに騒ぎ始めた。きゃあきゃあ甲高い声が耳につく。化粧の匂いが不快に香る。
「持つべきものは友達だよねっ!」
――利用できる、でしょ。めんどくさいな。学校なんて。いや、女って。
「ねぇでも、手を繋いでたのは本当なの? 普通そういうことする?」
「え」
ちょっと、希美ちゃん。そういうのはわざわざ口に出していわなくていいんだよ! 頭の中で叫んだ。黙ってたら佳織も菜津子もご機嫌なままだったのに。
二人のまとう雰囲気が、わかりやすいくらいに変わった。睨まれている、今顔を見たら、私は何をいわれるのだろう。
私が返事に困っていた所で、タイミングよく担任が教室へ入ってきた。お決まりの席へ着けって台詞、教壇に担任が持ってた荷物、おそらく日誌や出席簿なんかを置くのとほぼ同時にチャイムも鳴った。
おかげで私は無事に解放された。希美は隣の席だから近いが、佳織と菜津子は私がいる席とは反対側の希美の隣の列に席があるので、話し掛けられる心配はない。
朝のSHRは担任の間延びしてどこの訛りだかわからない調子で進められた。今日もまだ授業はない。
「えー、今日はこれから体育館で入会式やってもらう。終わってから四限までは先輩方が委員会説明に来てくれるからな。それから五限は体育館で部活紹介。えー、六限は部活の自由見学の時間。その後帰りのショートあるから教室に戻ってくるようにな」
そんなめんどくさいことするんだ。でも佳織と菜津子からは逃げられそうだな、こういうこと考える私って不謹慎なのかな。あれ、不謹慎ってこういうことに使わないっけ。友達思いじゃない? でも昨日会ったばかりの友達を大事にしろってトコに無理があるわけで。
入会式は以外に早く終わった。先輩方が学校紹介がてらスキットをしたり、新任の先生の紹介だったり。問題は、教室に帰ってからの委員会説明だった。
その委員会の委員長と副委員長と思わしき人が代わる代わる入ってきて委員会についての説明をするだけなのだが、イヤなものは一番最後にやってくる。
「生徒会です。今、書記が不足してます」
どうして、一年生に生徒会役員の勧誘がくるんだろうか、問題だろう。
「今度の選挙は三日後に立候補者受付をして、それから一週間後に選挙となります」
しかもだ。教室のほとんどの女の子が説明してる二人をじっと見詰めているのだ。
「ぜひ生徒会役員立候補、お願いします」
ほとんどが会長、つまり優がひとりで説明している。隣に立ってる先輩は、さっきからにこにこと笑顔を振りまいて、これまた視線を独り占めしている。
優かもうひとりの先輩か、どうやらクラスの女の子はこの二人の先輩の間で真っ二つに分裂中らしい。
「あー、説明終わった。まだ時間あるな」
「えーじゃあ俺自己紹介しちゃう!」
「は?」
「えーっと、寺嶋貫、十七歳、三年C組で会長と同じクラスでーっす! ちなみに彼女募集中なんで、あ、そこの女の子とかどう? 俺やさしくするよーっ」
いわれた子は真っ赤になって、クラスのあちこちで笑いが起こる。しかもその真っ赤になってる子は希美だった。かわいい反応だ。
「あ、チャイム鳴っちゃったー」
「じゃあこれで、失礼します」
結局、一回も目、合わなかったな。私が逸らしてたんだけど、でもやっぱりさみしい、と勝手なことを思う。
頬杖をついて床に視線をめぐらせていたら、視界が急に暗くなった。
「亜紀」
聞き覚えのある声、さっきまで聞こえていた声。それが私へ向けられた、というだけで、正直に心臓はその存在を大きく主張しはじめる。
「な、なんですか?」
ドキドキしながら、優に向かってなれない敬語を使う。
「なにかしこまってんの? 今さら」
「一応……先輩、ですから」
危ない。こんなみんなの目の前で普通に話してたら後が怖い気が、する。周りの視線がなぜか怖い。
「まあいいや。弁当、渡し忘れてたから。一緒に食わない?」
「え」
思いがけない誘いの言葉に、驚いて顔をあげた。やさしい顔、優が持っていたスクールバックから二つ分の弁当箱を出しているのが見えた。
「それ、おばさんからですか?」
「そ、亜紀さえよければ毎朝だって作る気らしいよ」
「え、えと……」
困る。そんな風にみんなの前で話し掛けないで欲しい。視線が痛い。ただでさえ優といると平常心を保っていられないというのに。
「あ、優がいってたのってその子ー?」
声がしたと思ったら、優の後ろから寺嶋先輩が顔を出した。
近くで見ると、まだ少年っぽさが残る幼い顔をしている。一年生といってもわからないかもしれない。
「へー、かわいいじゃん。いいなー彼女! 俺もほしー」
「は? 彼女って、誰、ですか?」
「えー、君が優の彼女でしょ? カワイー、ボケちゃって」
「ちが――っ」
否定しようと口を開けたら、何かでふさがれた。それが手だと気付くのに、数秒。苦しさに若干の恐怖を感じた。
「そうそう、亜紀は俺の彼女なの。ってことで失礼」
この人は、何をいい出すんだろう。
ぱっと手を放し、今度は腕を引っ張って無理矢理立たされた。そのまま教室から連れ出される。
口をふさがれていたおかげで、息が荒かった。少しだけ咳き込む。酸欠からか、頭がぼうっとしている。見えるのは優の背中だけだ。感じるのは繋がれた手の感触。
まだほとんど歩いたことのない校舎の中、どこかへ向かって手を引かれている。
頼りは優だけだ。
昔からそうだったっけな、ぼんやりと思った。
***
「どこ……ここ」
「生徒会室だよ。そこ、座って」
いわれて指し示された椅子へ座った。昔から優のいいなりだよな、と思った。口では抵抗しても、足はついていくことしかしてない。
私が優に唯一反抗できるのは、この口だけなのだ。
「なに、さっきの」
「なんの話?」
「彼女」
私がそういうと、優は教室を出てからはじめて私の顔を見た。
「お前は好きでもない奴に抱かれるわけ?」
突然の質問、少しイライラしている、怒っている顔だ。その表情に、私もイライラしてしまう。
「それは関係なくない? 抱いたらみんな彼女なの? 私、優がなに考えてんだか全然わかんないんだけど」
ぶつけてくる視線を睨み返しながら、まくし立てるように言葉を並べた。
優は立ったまま、ただ見てくるだけだった。
「なんかいってよ!」
泣かない、泣かない。私はひたすら睨む。泣かない。私は怒っているんだ。
今泣いたらきっと、いつもみたいにうまく丸め込まれてしまう。
「……ごめん、亜紀」
なにがごめんなんだ、その言葉が喉まで出掛かるのだが、どこか甘い響きを持ったその声に私の神経という神経がほだされる。動けなくなってしまう。
私はいつだって、優に弱い。
「迷惑、だったか?」
私は答えない。もう質問の意味がわからない。
「本気で、イヤ、だったのか?」
今は私の声すら余計な音でしかない。タイミングを外せばきっと、この空間は崩れてしまうだろう、そんな気さえしてくる。
「……俺より、好きな奴できたの? 俺のコト、好きじゃなかった?」
半分開いた口からは、空気しか出てこない。喉の奥で何かが蠢いているけれど、それはどんな意味をもった言葉なのか、崩れた思考には判別不能。
「亜紀、答えて」
私の目には今、優しかいない。
私の中にはもうずっと前から、優しかいないのだ。
「じゅ……順番が、違うじゃん」
「え?」
「なんで、本当に彼女っていってんだったら、遊びとか魔がさしたとかじゃなくて、本物なんだったら、順番……違うじゃんかっ」
私達はただの幼馴染だけど、たまにその道を外れる。どんなに近くたってただの友達なのに、たまにその道を外してしまう。誰よりも近くにいるという錯覚。
離れていた三年間の間に、お互いに何があったのか、知らない。
それでも、それでもその間にあったことを、私は知りたいと思う。
それは多分、幼馴染みだからじゃない。好きだからだ。優だったからだ。だから私は、抵抗しなかった。できなかった。
「ごめん」
小さく、弱々しく、優は顔を伏せてそういった。優のその姿に、なぜか泣きたくなった。
好きだなんて、認めた所で好きになってくれるわけじゃないのに。
「ごめん……わかってると思ってた」
「私、優じゃない。優が私の考えてることわかったって、私は……わかんない、」
「うん……ごめんな。俺、余裕なくて」
気がつくと、優の手が私の頭にあって、変わらないその大きさに思わず抱きついた。
「だってやっと、亜紀に会えたのに」
昔泣いたときは、こういう体勢になることが多かった気がする。
抱き締めてくれる腕の温かさはちっとも変わらないのに、心なんてややこしいものがあるから見えなくなる。
言葉にしてみたらそれは呆気ないくらい単純なのに、きっと何千回、何万回と使い古されてきた言葉なのに、自分の気持ちにそれを当てはめるのはすごく難しい。
相手の心は尚更、つかめない。
「好き、なんだ。急に、何もいわないでいなくなるから、すごい心配してた。どうしてって、思った。会いたくて、ずっと会いたいって亜紀のことばっかり思ってたんだ」
そんなの、嘘みたいだ、と思う。
心臓の音が心地よい。私はこの音が好きだった。昔も、今も、それは変わらないようだ。
「会ったら、亜紀がいるって思ったら、なんかそれだけで嬉しくて、亜紀のこと考える余裕、全然なかった。亜紀だって俺と同じだとか勝手に思って、なんか、勘違いしてた……ごめん、な」
「バカ……もう、大っ嫌いっ」
「うん、ごめん。それでも俺、すっげー亜紀が好きだから。だから、もう、いなくなんないで。お願い」
「嘘つき……自分勝手だよ、そんなの」
「うん、わかってる」
少しだけ腕がゆるみ、小さく顔をあげる。優は私の顔を見ていた。そうしてやさしく、笑った。
「それでも、俺は亜紀だけが好きだから。それだけは一生、変わらない。亜紀なら……亜紀だけは、放したくないんだ。俺は、気付くの遅かったけど……亜紀に彼女になってほしい」
亜紀がこれから先、側にいないなんて耐えられない。私だけに聞こえるような小さな声で、耳元でささやいた。
恥ずかしい台詞をよくもそんな抜け抜けと。そんなの私が拒否できるわけないじゃないか。
それも全部わかってていってるからむかつくんだ。だから逃げられない。
「……ずるいよ、いっつもそうやって、閉じ込めるんだ」
その瞳の中に。腕の中に。ひとつの言葉の中に。
「好きだよ、亜紀。亜紀は?」
「……好き。だもん、バカ」
不満たっぷりに唇を尖らせて、聞こえないかもしれないくらい小さな声でいった。でもきっと伝わるだろう。優には、優にだけは。口に出さない言葉さえも拾い上げるのが、昔から優は得意だったから。
その後は、きっとずっと一緒。
=END=