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それから数時間ほど森の中を歩き回って、くたくたになったところで帰路につく。金星が頼んで、行きと違う道を行ってもらう。仕事する場所を早く全部見たかったので、多少遠回りになっても、別の所へ行きたい。
「まあ、どこを通っても、最後にはあの湿原に出るんだけどな」
ふいに鬱蒼とした森が途切れて、砂漠地帯に出た。サリア砂丘というらしい。この辺りは、水の精霊が避けて通るし、雨もここには降らない、変わった土地だという。
「砂漠といえば、バジリスクですね。やっぱり、いるんですか?」
バジリスクは絶滅を危惧される幻獣であると同時に、ブラックリストにも載る危険生物でもある。冠に似たトサカを持った爬虫類で、触れたものを石に変える。同じ幻獣のコッカトリスとは雌雄関係にあたるらしい。
「彼らはあまり見かけないし、こちらからちょっかい出さなきゃ大丈夫だよ」
「そ、そうですか」
やはり生息しているらしい。金星は幻獣が好きだが、昔読んだ物語の中で強敵として暴れていたバジリスクは、少々苦手だ。触れただけで石化するなんて、恐ろしすぎる。
せわしく砂地を見回していた金星は、乾いたオレンジ色の砂礫の上に、灰色のヤモリを見つけた。手のひら大のヤモリ。その後ろ脚に血がにじんでいる。
アルベルトの横をすり抜けて傷ついたヤモリに近づく。
「待って、逃げないで」
やわらかな声音で呼びかけて、金星はヤモリをそっと両手に持ち上げた。
「あなた、怪我しているのね。ちょっと待ってね」
血の滲んだ後ろ足は、ほとんど千切れかかっている。後ろから追いついたアルベルトもそれを見て眉をしかめた。
「いったい、どこで怪我したんだろうな……って、金星ちゃん?」
「ごめん、アルベルトさん。その子をちょっと預かってください」
「えっ? ちょっと預かってって……ええっ?」
差し出されたヤモリを受け取ってわたわたするアルベルトをよそに、金星は首にかけたオカリナを手に取った。いつも肌につけている楽器は、癒し手の能力を使うのに必要なものだ。
幻獣保護官には三種類の能力がある。
幻獣を操って危険のない場所へ逃がす護り手。幻獣の傍に危害を加える人間を通さないための見張り手。そして幻獣の怪我を直す癒し手だ。
それらの能力は、保護官が音を媒介にして幻獣に伝えるのだ。幻獣が純粋な生き物で、言葉の影響を強く受けることが関係している、と考えるのが一般的だ。
音が幻獣たちに影響を与えるため、見張り手の弦楽器や癒し手の管楽器は保護官の証とされている。金星の持つオカリナにも、保護官を示すマークがつけられていた。
(この子は幻獣じゃないみたいだけど、保護地区にいる動物だから、もしかすると保護官の力で癒せるかもしれないわ)
金星はオカリナに口をつけた。
(大丈夫……大丈夫よ。わたしは、保護官見習いなんだから、癒し手の力を使えるはず)
ゆっくりと、息を吹き込んで音を奏でる。
砂の大地に響き渡るのは、軽快な音楽。
金星は音楽を奏でながら、とにかく傷が治ってと思いを込める。元気に歩き回るヤモリの姿を思い浮かべてオカリナを吹く。
――と。白いほんわかした光が、アルベルトの両手に乗ったヤモリを優しく包み込んだ。
「おい! 金星ちゃん!」
弾んだ声に、音楽を止めて閉じていた目を開ける。元気になったヤモリは素早くアルベルトの手から下りると、かさかさと森の方へ消えてしまった。あの様子なら、怪我はすっかり治ったようだ。
金星は不安げだった青白い顔に、精一杯の喜色を浮かべてみせた。
「アルベルトさん、うまくいきましたよ!」
金星はガッツポーズしながら柔らかい黄色の砂漠の上をくるくると踊った。
と、右足がずぼり、と不吉な音を立てる。
右足の次は左足。
動かそうとしても、砂を蹴るばかりで、足が上がらない。
それどころか、あっという間に腰のあたりまで砂が来て、どんどんと体が沈んでいく。波にさらわれたように、足元から砂漠の中央部分に引っ張られる。
「な、なんですかこれっ! 沈みませんよね? 流砂は砂より人の比重が重いから沈まないとか、聞いた覚えがありますよ!? 安心してもいいですよね、コレッ」
パニックのあまり、頭に浮かんだなけなしの知識を絶叫する。
「フロスベルにそんな常識、通じないって! とにかくこれにつかまって」
アルベルトが三メル離れた場所から、沼地で使った長い棒を伸ばしてくる。彼の立つ位置が、流砂に巻き込まれないぎりぎりの場所だろう。金星は必死で右手を伸ばした。
(もうちょっとで……きゃっ!)
届きそうなところで、バランスを崩して転倒する。左手をついて体を支えようとするが、柔らかい砂に手を付ける場所はない。とっさに横を向いて顔面から突っ込むのを避けたものの、じわじわと口元に砂が上がってくる。
あまりの事態に、頭がパニックになる。
(このまま死ぬの!? わたしは保護地区で初任務にして殉職するの? まだ幻獣を一目だってみてないのに。やりたいことだっていっぱいある。ああっ、よく考えたら帷子の餡子屋で今度発売する新作の柘榴餡抹茶氷菓子も、チョコクリーム黒蜜洋菓子だって食べてないよ! それなのに……!)
なにより、養父母を悲しませてしまう。それに、アルベルトだって……。
(わたしは砂で窒息死するんだ。まだ餡子屋の蜂蜜檸檬水だって飲んだことないのに……あ、そうだ! どうせ死ぬんだったら、この砂漠を全部蜂蜜檸檬水だと思おう!)
それはよい考えに思えた。金星は頭を必死で落ち着かせて、周りを蜂蜜檸檬水だと思い込む。そう、わたしは飲みきれないほどの蜂蜜檸檬水で溺れ死ぬのだ。それだったら、惨めな死にもちょっとは納得できる。
「アルベルトさん、わたしはいま蜂蜜檸檬水の中で……」
そこで金星は普通にしゃべれることに気づいた。いつのまにか、体の下に柔らかい感触があった。砂の下を動く紫芋みたいな土竜が、金星を砂漠から押し上げていた。そのまま砂漠を泳ぐようにして、アルベルトの近くまで来る。
金星を安全な砂の上において、土竜は再び砂丘へ戻っていく。
「とにかく、無事でよかったよ。ありがとう、レイン」
金星はぺたんと座り込んだまま、アルベルトの視線を追う。
砂漠の入り口に、仏頂面のレインが立っていた。この熱い砂丘の中でも、黒装束は変わらない。レインは砂丘に突き刺していた剣を鞘に戻す。薄い青灰色の刀身に、散りばめられた銀の輝きが、ゆっくりと黒い闇の中に飲まれていく。
優秀な護り手に与えられるという、星くずの剣だ。剣が持つ不思議な力で、ある程度の生き物たちに命令ができると聞いた。
「ありがとうございます。鋼爪土竜さんとレイン先輩が助けてくれたんですね」