エピローグ
窓からはうららかな日差しが入ってくる。
金星は自室の机に向かって、便箋に筆を走らせていた。
『おじさん、おばさん、お元気ですか? わたしは相変わらずです。フロスベルへ来てから、早いもので三か月が立ちました。こちらではもう春が去って、草原はすっかり夏の気配を漂わせています』
月夜と木葉に送る手紙を書いていたのだが、季節のあいさつをしただけで手が止まった。金星は便せんを前に、軽く頭を抱える。
「うーん、色々ありすぎて、整理できないですね」
砂漠の底に沈みかけたとか、余計な事を書くと心配させてしまう。それに幼馴染のこともどう伝えればいいのかわからなかった。故郷の鏃国では、大貴族の灌木が密猟者を裏で支援していた事件が、噂で持ちきりだろう。
(灌木さんは簡単に許してもらえないだろうな。高原も、しばらく牢屋に入れられるだろうし、それに、使用人のみんなも……)
密猟者たちには重い罰則が与えられる。罪を犯したのだから当然のことなのだが、金星は高原が心配だった。
彼はきっと、迷っていた。
洞窟で金星に話しかけてきたのは、迷っていたからだろうし、幻獣を見て感銘を受けていたようにも思う。だから金星は、連行される高原に『幻獣が本当に好きなら、また戻ってきて』と声をかけた。振り向いた彼は一瞬だけ驚いた顔になり、それから金星を睨みつけて顔をそむけた。
(きっと、何か理由があったんだわ。もっと、高原ときちんと話をすれば、止められたのかな……)
頭を振って、暗い方向へ行きかける思考を払う。だけど、また手紙を書くのに戻る気にはとてもなれなかった。ペンを握って椅子にもたれかかる。
そんな時に、開け放した窓から小さな精霊が飛び込んできた。
「おい! こんないい天気なのに、なんで家の中に閉じこもっているんだよ? まだ、反省しますの書き取りが終わらないのか?」
「いえ。あれは何とか終わりました。もう二度とやりたくないです」
エコーに目を向けた金星は、背後の真っ青な空に気づいた。隅の方に綿を指で引きちぎったみたいな雲が浮かんでいるほかは、洗ったみたいに綺麗な青だ。
うららかな景色を眺めていると、じっとしているのがもったいなく思えてくる。
「そうですね、せっかくのいい天気ですし、遊びましょうか?」
「よし来た! んじゃ、アルベルトでも誘おうぜ」
エコーはぶんっと腕を軽く振って、窓から出ていく。金星は便箋を机の引き出しにしまいこんで、鏡台の前に行くと、軽く髪をまとめた。
拠点の前に広がる草原からは瑞々しい草の香りが漂ってくる。乾いた土の道を歩いていた金星は、馬小屋の前にいる二人の男を見つけた。
「だいたいこんなもんだろ? てか俺って、初めてにしてはうまくね?」
「乗っている途中で壊れそうな造りに思えるが?」
「いやいや、大丈夫だって。ちょっといびつだけど問題ないさ」
小槌を持ったアルベルトがしゃがみ、その隣に立ったレインが呆れたように車輪がついた木の荷台を見ている。大人三人が楽に寝そべる大きさのそれは荷馬車らしい。釘を打ちつけすぎたのか、木の継ぎ目の部分が小さくひび割れている。
「お二人とも、何をしているんですか?」
アルベルトが立ち上がって服の埃を払いながら、金星に笑顔を向ける。
「せっかくだし、金星ちゃんにフロスベルの夏を見てもらおうと思ってね。まあとにかく乗り込んでよ」
「えっと、でもお仕事が……」
「今日の仕事は休みだ」
確認するようにレインを見ると、そっけない返答が帰ってきた。彼は馬小屋へ入って、二頭の馬を連れてくる。箱の前部分に繋ぐらしい。
「さあ、乗って乗って金星ちゃん」
明るい声で急かされて、金星は恐る恐る馬車に乗り込んだ。エコーが飛んできて金星の肩へ座る。御者台になったところへ二人が座り、馬車が動き出す。
馬車はなだらかな道を進んでいった。馬で駆けるのとはまた違い、ゆったりと草原の景色が流れていく。小石が多いのか馬車はがたがたと音を立てて、揺れるたびにエコーがはしゃぎ声をあげた。
一時間くらい走らせて到着したのは小高い丘。なだらかな丘陵は小さな草に覆われ、てっぺんの平らな部分には小さな木の休憩所が造られている。レインは馬車を止めて、馬たちを外してやった。彼らもこのあたりの草を食べてゆっくりするらしい。
アルベルトは金星を長椅子に座らせて、その前の小さなテーブルにバスケットを置いた。中から飛び出したのはアンナ特製のパイだ。
「これって、甘いパイなんだよな?」
「ああ。母さん特製のチェリーパイだよ」
アルベルトの答えにエコーもご満悦な様子だ。
「ちょっとしたお茶会みたいですね」
ふいに金星の肩が叩かれた。振り向くと、レインがついてこいと言うように金星を一瞥してから歩き出す。どんどん離れていく彼に、戸惑いながらアルベルトを見ると、言って来いとばかりに片目をつぶる。
「で、見ろよエコー、この赤い色の瑞々しさ!」
「おおぅ、すげー」
エコーはパイを見るのに必死らしい。金星は少しためらった後、レインについて行くことにした。前方からの涼しい風が金星の髪を優しく撫でる。草と水の匂いを含んだ、夏の香りが鼻孔をくすぐった。
レインは崖の傍に立っていた。
「これが、フロスベルの夏だ」
覗き込んだ眼下には、一面の黄色と茶色。背の高い向日葵の花が揺れていた。強い陽射しに照らされて、これでもかと言わんばかりに咲きほこる。花畑の中央にはどこまでも青い湖が広がり、蓮の花が浮かんでいる。
白い鳥が空を横切り、湖の上に着地する。鹿や兎など、小型の草食動物も見受けられた。どこまでも透き通った音に支配された地を前に、言葉が出てこない。
金星はそっと目を閉じて、耳を澄ませて眼下の風景を楽しんだ。
「レイン先輩、わたし……この場所が大好きです」
目を開くと、青灰色の瞳が穏やかな色を含んで金星を見返した。
「これからよろしく頼む。金星」
レインがそっと手を差し出してくる。金星は迷わず握り返した。やっとレインにフロスベルの一員として認められた気がして嬉しい。
「たぶん……これから先、後悔するようなことがたくさんあると思います」
夢は叶うとは限らないと、母の言葉がよみがえる。それに叶った夢が素晴らしいだけとも限らない。金星は幻獣保護官としてフロスベルを守りたいと思ったけど、辛いことややめてしまいたいと思う事もあるだろう。夢の道には光だけでなく、暗闇も多い。
だけど望んでがんばった事はきっと無駄にはならないのだと思う。
無駄にはしたくない。
「それでもわたしは、前を向いて進んでいきたいです」
決意表明のように、フロスベルの景色を見ながら呟いた。きっと、金星の隣にはレインがいてくれて、エコーやアルベルト、フロスベルのみんなもいる。みんなと一緒なら、なんだって乗り越えられる気がした。
景色を目に焼き付けて、二人は休憩所に向かって歩き出す。
彼らの背後で白い鳥が羽ばたいて、一声大きく鳴いた。