3-10
シシラギ鳥の鳴き声は、下手くそなバイオリンが軋む音と、機械的な響きの人間の声に似ていた。
その声に驚いたのか、バジリスクが金星から離れた。じりじりと後ずさり、小さな灰色の瞳が忙しく周囲を見回す。その隙をついて、高原が倒れ込んだ金星を起こした。
「……歩ける? 金星」
「あ、はい。今は何とか……。G-5って言っていましたね。多分こっちです」
強張った体を起こして、雨の中を再び森へ走る。生き物たちも避難したのか、動物どころか虫すらもいない。保護区内には、無数の休憩所が設けられており、シシラギ鳥が告げたのは小さな洞窟だ。周囲にシシラギ鳥が集まっているので、すぐに見つけられた。
(バ、バジリスクに触られたら、石になるん、だよね?)
洞窟の中へ入り込んでから、カンテラで照らして確かめてみる。押し倒された時に打ったお尻が痛いくらいで、他に異常はない。
高原はほんの少し心配そうに金星をちらちら見る。
「バジリスクの石化を防ぐのは、黄粉花。薬として飲んだり、体に塗ったりするんだけど、使った覚えはある?」
「いえ、ないです……けど」
バジリスクに触れて石にならないなんて、ウンリュウとフィアが真面目に働くよりもありえないことだ。
(うーん、黄粉花って、黄色い針みたいな花のことだよね……?)
そう言えば、あの花の匂いをどこかで嗅いだ気がする。しばらく考えていた金星は、あっ! と声を上げた。
「いきなり何?」
「石鹸ですよ。温泉の石鹸! 黄粉花はあの石鹸のにおいと同じです」
フィアに使えと言われた星形の石鹸だ。彼女はこの事を予想していたのだろうか? もしかするとフロスベル任務の人は、みんな石化対策をするのかもしれない。拠点に帰ったら、聞いてみよう。
岩を叩く水の音が洞窟内に反響する。雨はまだやみそうにない。
じっと金星を見ていた高原が、ふと遠い目をした。
『ふうん。君は、みんなに認められて、愛されているんだね。何の不満も、悩みもないみたいで羨ましいよ』
東方語を使っているが、この前と違い無意識に発したらしかった。
高原の言葉は本心からのものに聞こえた。そう言えば、彼も保護官の最終試験で落とされたのだ。何か迷いがあるのだろう。
(意地悪だけど、何だかんだで高原も一生懸命だし、力になれればいいけど……)
そう思って口を開く。不慣れな西方語よりも、伝えやすい故郷の言葉を使った。
『わたしにだって、悩みはあるよ』
『まぬけ面の君に悩み? それってなにさ?』
高原は何かを悩んでいる。彼はそれをこんな風にしか表せないのだ。だから金星は怒らずに真面目に答える。
『フロスベルに来る途中、帷子で痩せた猫を見かけたの。餌がないんだろうね。わたしは、ポケットの中の食べ物をあげることしかできなかった』
高原は嘲笑を引っ込めた。
静かな鳶色の瞳を見つめながら、金星はゆっくりと言葉を続ける。
『それから、精霊祭……って、高原なら知っているよね。精霊たちは三日間こちらに来ただけで、あとは封じられているの。おかしいと思っても、どうすればいいのか、わからなかったわ』
現状を変えたくても、どうしようもないことがある。仕方がないと、割り切らなければならないことが、この世界には溢れている。そんな時に金星は自分の無力さを痛感した。母親ならば、きっと、もっとうまく何とかしてみせるだろう。
『人間の居場所が増えるにしたがって、動物たちが住みなれたところから追いやられる。なのに、わたしは、仕方がないと言う事しか思いつけない。だって人間も動物も、どちらも悪くないから』
生活が便利になるにつれ、文明は進化していく。
道は舗装され、工場は煙を吐き出す……そこで生きられない、幻獣や動物は住処を離れるしかない。かといって、動物たちのために文明を捨てれば、増加した人間たちを管理しきれず各地で混乱が起きるだろう。
綺麗な空気でしか生きられない幻獣と同じで、社会がなければ、人間たちは暮らせないのだ。
『みんなが笑って暮らせれば、いいのにな』
それは、それだけは本心からの言葉だった。些細な願いの、何と難しいことだろう。
きっと誰もが心の隅で望んでいることなのに、その願いは遠すぎて叶わない。人間も幻獣も……動物たちは何かを奪わずには生きられないのだ。
『難しいね、高原。わたしも迷ってばかりだよ。選択できないことばかりだよ。生きるって、とても大きいことなんだね』
『……君はそれでも、真っ直ぐ進んでいるじゃないか』
拗ねた口調が幼い子供みたいで、金星は微笑ましくなった。
『昔、お母さんが言っていたの。あっ、高原、ちょっとカンテラを消して』
『はあ? 何を言いだすんだよ』
『いいから!』
光草は激しく揺すると、光を消して普通の草に戻る。
薄暗い闇が舞い降りた洞窟。ごつごつした岩壁も転がる石ころも黒の中に溶け込んで見えない。
……と、――星空が広がった。
四方でほのかな輝きを放つのは、ぼんやりとした青の石。洞窟の側壁にまじった夜光石が静かな光で二人を包み込む。まるで夜の世界を逆さまにして、満天の星の真ん中に立っているようだ。
『星みたいでしょう? それで昔ね……お母さんが星空を指さして、言ったの。あの星のように目の前に道はたくさん広がっているけど、落ち着いて考えると、進むべき道は一つしかないんだよ。って』
だから、迷いながらもたった一つを選んで進んでいく。
金星はまだその道を見つけられていないけど、いつかは選びたいと思う。
『高原にもあるでしょう。たった一つの道が』
『そうだね……』
柔らかな声。しかし鳶色の瞳は暗く、一片の光も宿っていなかった。