3-9
「……心配して損しました。あっ、だから勝手に行動しちゃだめですよ!」
金星は呆れと怒りが入り混じった気持ちで高原の腕をつかむ。
おとなしく待っているように言おうとする金星の耳に、低い羽音が聞こえてきた。遠くのから黒い塊が向かってくる。確か、この辺りはミツバネクロ蜂の生息地だ。さっと血の気が引いた。高原の腕をつかんだまま、走り出す。
ミツバネクロ蜂の単体にはそれほど強い毒性はない。しかし、これほど大群に襲われると……まずい事態が予想できる。
高原もそれを察したのか、金星の手を取って率先するように走る。
「たしか蜂は、薬品の臭いが嫌いだったよね」
「ええ! それはアンクタリアでも同じです!」
大きな葉をつけた縦に長い木は、鼻につく薬特有のにおいを発している。薬液樹だ。二人はその下に逃げ込んだ。遠巻きにこちらを窺う蜂たちに、金星はリュックから出した拳大の玉を投げつける。
煙玉だ。もくもくとあがる黒煙の向こうで、羽音はまだ聞こえてくる。高原がもう一つ、二つと煙玉を投げる。それでやっとブーンという音が遠ざかっていく。完全に聞こえなくなると、二人はほっと息をついた。
(びっくりした。でも、どうして急に襲ってきたのかしら?)
ミツバネクロ蜂はおとなしく、普段はめったに人を攻撃しないはずだ。
それに、蜂は煙を嫌う。すぐに逃げなかったのも不自然だ。
「うーん、高原はどう思い……あっ、足は大丈夫?」
病気は嘘でも怪我したのは嘘じゃない。心配そうな金星をよそに、高原はポケットの錠剤を口に入れる。
「痛み止めがあるから。それより、これからどうするんだい?」
「それは、アルベルトさんを待って……って、戻らないといけないですね。高原はどこから来たか、場所わかります?」
「聞くまでもないよね。金星は逃げる時、迷わないように地図を書くからねえ」
皮肉気な言葉が返ってくる。虹の森は広大な上に、目印になりそうなものはない。これでは、アルベルトと合流するのは難しいだろう。
「じゃあ、どうするんですか!」
蜂は事故とはいえ、元々は高原が嘘をつくのが悪いのだ。金星は恨みがましい視線を幼馴染に向ける。しかし、高原はきわめて冷静だった。
「ほんとに筆記が苦手なんだね。狼煙があるじゃないか」
「うぅ……。いちいち腹が立ちます」
小さく呟いて、金星はリュックから狼煙を取り出した。保護区で何かあった時に、仲間の保護官に知らせるものだ。ただし、枝葉が邪魔して森の中では使えない。
「砂漠は東の方にあります。それで、日の位置はあちらですから……ええと、多分、砂漠はこっちですよ」
「さすがに、それくらいの常識はあるんだね」
「わたしを、馬鹿にしているんですか?」
「へえ。さすがに、それくらいはわかるんだ」
金星はひと睨みして立ち上がる。時刻は午後を回ったくらいだ。アルベルトはそろそろ拠点についたころだろう。
(まったく、高原ってば、どうしてあんな嘘をついてまで、アルベルトさんを嫌うのかしら。……やっぱり、保護官じゃないのに保護区へ入っているから?)
高原は遅れてついてくる。ときおり、彼は何かを気にするように立ち止まって後ろを見た。ポケットから出した手から、何か粉っぽいものがこぼれ落ちている。
森は湿っぽく、草のにおいが強く鼻をつく。それは雨が降る前のにおいに似ていて、金星の足は自然と早くなった。
砂丘へ出た金星は、オレンジ色の上に灰色の空を見つけた。たちまち、辺りは昼とは思えないほど薄暗くなり、あっと言う間もなく、大粒の雨が降ってくる。
「まずいよ金星。高いところへ行かないと、鉄砲水に飲まれるかもしれない」
砂漠は水を吸わない。洪水が起きやすい土地なのだ。
「わかりました。ちょっと待ってください」
金星は屈んで雨から手帳を庇いながら、ページに素早く目を通す。砂漠で雨にあった時の避難場所を書いた覚えがある。
森の中に高くなった場所があると見つけたその時、頭上で、雨の音に混じって、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
赤い色が混じる大鷲が、金星たちの様子を窺っている。羽が濡れるのにも動じず、じっと金の瞳で何かを訴えかけるようにしながら、地上近くに降りてきた。
大鷲の足に、何かきらりと光るものが見える。
「金星、何をしてるんだよ! 早くしないと……」
「ごめんなさい。ちょっとだけ待ってください」
オカリナを演奏して警戒を和らげながら大鷲に近づく。鋭い爪が伸びる足には、星のように煌めく金属が巻かれていた。
「これを、取って欲しいのですか?」
野生の大鷲には似つかわしくない物だ。おそらく人間に捕えられるかして、無理やりつけられたのだろう。金星が手を伸ばして外してあげると、大鷲は嬉しそうに一声鳴いて、飛び立っていく。
「今度は捕まっちゃ駄目ですよ~」
「金星! 後ろ!」
呑気な声の後に、切羽詰まった幼馴染の声が被さった。
いったい何があるのだろう。振り返った金星は、こちらへ飛び掛かってくる羽の生えた大蜥蜴――バジリスクの姿をとらえた。
ザァーッ、ザァーッ、と滝のような雨が降っている。
保護区を囲む柵の前で、アルベルトが途方に暮れたように立っていた。一緒にいるはずの二人は見当たらない。
「何かあったのか?」
レインは問いかけながら傘を差しだした。
振り返ったアルベルトの若草色の瞳が、申し訳なさそうに逸らされる。彼はしばらく逡巡した後、ぼつりと言葉を洩らした。
「えっと、実は……」
アルベルトは金星たちの傍を離れた理由を話す。
聞き終わったレインはわずかに眉をひそめた。
「保護官になるには、健康面も厳しく調査される。準保護官でも同じだ」
「え? でも……」
「何の意図があってか知らないが、うまくあしらわれたな」
おそらくは、アルベルトが保護官でもないのに保護区に出入りしているのが気に入らなかったのだろう。過去にも二、三人ほど、そういう輩が存在した。
湿原では雷が光り、低い音を立てている。これでは迎えに行けない。
大事がなければいいが……。
レインは知らずに手を握りしめていた。傘を叩く雨の音が耳につく。
「レイン、金星ちゃんたちはきっと大丈夫だよ。だから、湿原には近づかない方が……」
躊躇いがちな声が投げかけられる。
「入るつもりはない。たまには、ウンリュウにも働いてもらうだけだ」
レインは柵に張られた銀の糸をかき鳴らした。シシラギ鳥を通して、中にいる金星たちに言葉を伝えろと頼むのだ。ウンリュウは気づいたのか、すぐに反応をくれた。
人間には聞こえない、見張り手の音に命じられたシシラギ鳥が、特徴的な声で鳴く。
「ギィ、G-5で待機しろ! タイキ、タイキ。G-5で。ギィ」