3-2
季節外れの冷たい風が背中を撫でる。
金星は慎重に蟹歩きで足を進めていた。両手は岩肌をつかんでいる。
断崖絶壁ふたたび、である。
(なんだかわたし、ここへ来てから、クライミングばかりしている気がする)
ゆっくりと細い道をつたった先には洞窟。レインは光草のカンテラで奥を照らした。貴族の屋敷が楽々建てられそうな大きな穴を、金星はレインの後を追って歩いていく。
最奥の行き止まりにつくと、レインは足を止めた。
「レイン先輩、今日はここでお仕事を――」
言いかけた金星は、それを見つけて言葉を止める。
部屋の中央には巨大な竜。この大陸において、レッド・ドラゴンと称される幻獣だ。
見上げるほどに巨大な体は、とても暗く深い場所から掘り出した真紅の宝石を散りばめたかのようだった。美しい鱗がカンテラの光を受けて輝く。真紅の瞳は人間を超越した何をか秘めたまま静かに黙し、金星たちを見つめる。
砂をこする音がして、金星は反射的に目を向けた。レインが星くずの剣を地面に刺してドラゴンを見上げていた。静かな青灰色と深い真紅が交差する。
「火焔の一族よ、しばらくの間、居住を荒すことを許していただきたい」
ドラゴンはのんびりと首を下げて目を閉じた。
レインは剣を仕舞って金星に来いと合図する。ドラゴンの背後、カンテラに照らされるのは、きらきらとした色鮮やかな宝石たち。翠玉、紅玉、蒼玉、金剛石や月長石が、両手でやっと抱えられる大きさの卵を包み込むようにして輝いている。
「ドラゴンの卵は壊れやすい。それを強化するために、ドラゴンは卵を宝石で固める。物語で、洞窟の奥で宝石を守ると書かれているのは、この習性から連想されたらしい」
卵は二つあった。ドラゴンはほとんど卵を産まないというから、これはすごいことだ。金星は何か言おうと口を開くが、言葉が出てこない。
じっと卵を見つめ、それから親であるドラゴンを見上げた。逞しい真紅の体。思わず平伏したくなる圧倒的な存在感。
――これが、幻獣だ。
なんて美しいのだろうと思うと同時に、黒い靄も胸中を駆け巡る。
(ドラゴンが……わたしのお母さんを……)
過ぎ去った過去が頭をかすめて、金星は小さくかぶりを振った。
それからレインを見て、にっこりと微笑む。
「きっと、ドラゴンの赤ちゃんを生まれさせてあげましょう」
とっさに口をついたのは、本心からの言葉だと思いたかった。
「悪かったな」
保護区から出たところで、レインがぽつりと言った。
「亡き母君の事を思い出させただろう」
「え?」
「ドラゴンのことを楽しそうに話すお前を見て、卵を見せてやりたくなったが、もしかすると、お前を傷つけたかもしれない」
金星はしばらく呆然と、頭の中でレインの言葉を反芻していた。思い出すのはリリファの花畑での会話。あの時、自分は何を言ったのだろうか……。
「ええっと、わたしの母は今も生きていますよ?」
勝手に故人にされてはたまらない。とりあえず訂正すると、レインは罠に引っかかった獅子のように、きょとんとした表情になった。
「生きているのか?」
「はい。あ、でも最近は会っていませんね。母は幻獣保護官の仕事が忙しいので、わたしはほとんど母の妹の……月夜さん夫婦に育てられたんです」
年に一度帰ってくるか来ないかの母を、月夜はよく怒っていた。各地を飛び回っている母は、お土産と言っては妙な木彫りの細工や羽根でできた民族衣装を家においていった。月夜はなんだかんだ言いながら姉の持ち帰って品をきちんと部屋に飾っている。
金星も母と何度か話をしたことがある。思い出すと、自然と苦い感情が巡る。母は金星を、自分の娘だとは知らない。
レインはただ不思議そうに金星を見ていた。
「ならば何故、お前はドラゴンが嫌いなんだ?」
彼の口から飛び出した言葉に、金星は目を見開いて顔をあげた。真っ直ぐに向けられる青灰色の瞳は何もかもを見通してしまいそうで、とっさに視線をそらす。
「えっ……ど、どういう意味ですか?」
口から出たのは戸惑いの言葉。
だけどレインは誤魔化されたりしなかった。そっと、呆れ気味のため息をつく。
「ドラゴンだけじゃないか」
そして彼は、金星を貫く言葉の刃を放つ。
「お前は、幻獣が嫌いなんだろう?」




