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辺境の村の幻獣保護官  作者: 和花
第三章 見習い保護官と準保護官
21/82

3-1

 水霊日の午前、金星は書斎で教本と睨めっこしていた。

 毎週この日は、アンナ特製のパイを手土産にして、アルベルトが勉強を教えに来てくれるのだ。初歩から学ぶとはいえ、西方語は覚えにくく、なかなかはかどらない。

「やっぱり語学って難しいですよ」

 ぽつりと愚痴がこぼれ出る。聞こえたのか、金星の向かいに座っていたアルベルトが、読んでいた本から目を離してアドバイスしてくれる。

「ようは暗記だからね。力技で頭に詰め込めばいいんじゃないか?」

「暗記……ですか。幻獣の名前だったら、覚えるのは得意ですが……」

「興味をもてば覚えやすいよ。例えばさ、えっと、レインの名前だけど、レインは東方語で言うと雨という意味の言葉だよ」

「レイン先輩は雨という意味なんですか。どちらかと言うと、氷のイメージが……」

「俺がどうかしたか?」

 突然の声に驚いて、持っていたペンを取り落しそうになる。書斎の扉からレインが入ってくる所だった。傍らにはフィアの姿もある。

「べ、別に先輩の悪口なんて言ってませんよ! アルベルトさんと勉強しているんです」

 慌てて弁解したら変な言い訳みたいになってしまい、金星は気まずくなって目をそらす。壁にかかる時計はすでに正午を回っている。

「あっ、もうお仕事の時間ですね」

 午後からは仕事だ。レインは迎えに来てくれたのだろう。本を閉じて立ち上がると、フィアと入れ替わるように部屋を後にする。

 金星が扉を閉めようとした時、中から淡泊なフィアの声が聞こえてきた。

「アルベルト・エルグレム。例の話は聞いているか?」

「ええ、彼から聞きました。俺は貴女たちに――」

 アルベルトはいささか緊張した面持ちで彼女に向き合っている。会話の内容が気になったが、先に行くレインは拠点から出るところだ。金星は扉を閉めて慌てて彼を追った。

 外に出ると視界いっぱいに瑞々しい草原が広がっていた。見上げる空は快晴だが、なんだかじめじめとした空気を感じる。周囲の草も少しだけしなびているように思える。

 季節はリルの月から夏の香りが漂うジンの月へ変わっている。

「もうすぐタラニスの季節だ」

 レインが立ち止ってぽつりと呟いた。追いついた金星は首を傾げる。

「タラニス?」

「梅雨のことだ。うっとうしい雨が続く時期だな」

 彼の唇がわずかに不満そうに曲げられる。

「レイン先輩は雨が嫌いなんですか?」

 西方語で雨の意味を持つ名前なのに、と思いつつ尋ねる。レインは柵に近づいて弦を弾きながら「そうだな」とぽつりと答えた。どうしてか寂しそうな響きで、雨のせいで仕事がはかどらないから嫌いなわけではないようだ。

 扉を開けてアンクタリアの中へ入ると、金星は黙って湿原を歩いた。

 湿原の出口でレインは振り返った。

「この湿原は、別名を雷湿原と言われる。雨の日は近づくな」

 どうしてか雷を引き寄せるらしく、危ないのだそうだ。アンクタリアによく足を踏み入るようになったが、まだまだ金星の知らないことがたくさんある。

 虹の森ではときおり小動物をみかける。しかし金星は、まだ幻獣には出くわしたことがない。彼らは人を嫌っていて、滅多に姿を現さないのだ。

 金星の仕事は、癒し手の力を生かして、怪我した動物や元気がない植物へ演奏を聞かせることだ。他にも生態系の調査や、空気や環境が綺麗か見回るなど、ほとんど歩くばかりの仕事だった。

「あっ、そうだレイン先輩。リリファの花畑で、わたしを連れていきたい場所があるって、言っていませんでした?」

 レインは立ち止まって真剣な瞳で金星を見つめた。なんだろうと思いつつ、金星もびしっと引き締まった表情になる。

 そのままじっと睨めっこみたいになるのだが、先に視線を外したのは金星だ。

(レイン先輩が何か言おうと考えているのはわかるんだけど、こんなに見つめられると……恥ずかしいよ)

 故郷では気安く話す人ばかりだったから、無口なレイン相手はたまに戸惑ってしまう。彼は必要以上のことを語らないので、どこまで踏み込んでいいのかわからない。自然と下がっていく金星の視線が黄色の花をとらえた。

「レイン先輩! 黄粉花が咲いていますよ!」

 先ほどの問いかけた言葉すら忘れて、地面に膝をつけて花を眺めた。うっすらとした黄色の花びらは細くて針のよう。中央の大きい花粉はそれに守られているのだ。鼻を近づけると、どこかで嗅いだ柔らかな香りがする。

「昨日まで藁納豆のようでしたのに、今は花びらの細い百合みたいです」

 レインが訝しげに視線を下げた。

「あのですね、納豆とは東方の食べ物で、藁に包まれた粘っこい……えっと、パイにいれたらおいしそうですよ?」

 納豆を知らないのだと思って言うと、レインは呆れ気味に首を振った。それから何とも言い難い目で金星を見る。

「お前は、この花が今日咲いたとわかるのか?」

「え? もちろんですよ。だって、昨日は咲いてなかったですから」

 金星は立ち上がると、歩きながら森の景色を見渡した。同じ道でも、時間帯や、一日が過ぎるごとに違った姿を見せてくれる。ゆっくりと、でも確実に変化しているのだ。少しだけ立ち止まって観察すると、それがよくわかる。

「あの木に住んでいる栗鼠は、今は木の実を捜しに出かけています。赤ちゃんが生まれたばかりで、昼前に食べさせているのをよく見かけます。あちらの枯木には最近、狐が住みだしました。あっ、先輩、見慣れない足跡がありますよ!」

 草陰に小さなへこみを見つけて、地面にかじりつくようにして調べる。三本の細い足跡は鳥のものに見えた。

「それは、シシラギ鳥の足跡だ。交尾の時期だから降りて来ているんだろう」

「へえ、シシラギ鳥って、侵入者を知らせてくれる鳥ですよね」

 初めてアンクタリアに入った時、アルベルトに説明して貰ったのを思い出す。とんでもない声で鳴くというから聞いてみたいものだ。

「……お前はよく周りを観察しているんだな」

 思いのほか優しげな声に、金星は姿勢を正して向き直る。

 青灰色の瞳が心なしか暖かく見える。驚いたことに、無愛想な先輩がわずかに唇を綻ばせた。

(わわっ、一瞬だけだったけど、笑った、よね?)

 そうすると急にレインが同年代の少年だと意識させられて、落ち着かない気持ちになる。それに褒められたようで嬉しい。金星は頬が緩むのを抑えるのに苦労した。

(仕事中だもの。真面目にしなきゃだね)

「金星、黙って俺についてきてくれ。今日は、森奥の岩山へ行く」

「はいっ!」

 金星は明るい返事とともに、姿勢を正して元気に敬礼を返した。

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