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1.
大きな旅行鞄を抱えて金星は乗合馬車に飛び込んだ。
固い背もたれ椅子に腰かけながら、見慣れた景色を目に焼きとめる。赤茶色の煉瓦で舗装された道。朝日を受ける建物はみんな白色で、整列した食パンのように並んでいる。
故郷の鏃国はゆっくりと後ろへ流れていき、やがて朝もやの中に消えていった。
二時間ほど馬車に揺られて見えてきた大東帝国首都・帷子で、今度は汽車に乗り替えなければならない。帷子は幻獣保護官の試験の時に来た都市だ。金星は中央にある大時計を気にしながら、汽車へと急ぐ。
にゃあん、と駅前の大通りでまだらの猫と白猫に呼び止められて、金星はその場に屈んだ。同じく汽車へ急ぐ人々が、怪訝な一瞥をよこしてくる。
「にゃあ、にゃーん」
「猫くん、お腹が空いているのね」
野良猫だろうか。痩せ細った様子は、ろくに食べ物をもらえていないことを如意に示している。
こんな時のために、いくつか動物の食べ物を持っていた金星は、ポケットに入れた煮干しを彼らの前にぱらぱらとばらまく。
「おやつ代わりの煮干しをどうぞ。生魚じゃなくて、ごめんね」
獲物に飛びつく鳥のようにがっと食べ出す二匹に、金星は「じゃあね、猫くん」と小さく手を振って立ち上がった。
帷子からフロンフルバニア駅までは汽車で丸一日だ。
金星は空いている窓際の席に座って、旅行鞄から昼食を取り出す。白い柔らかな丸生地のパンに羊肉や卵、たっぷりの野菜を包んで巻いたものだ。それを食べて、竹筒に入れられたジャスミン茶を一口飲む。これらは、育ての母である月夜が用意してくれたのだろう。
(……結局、おばさんもおじさんも、喜んでくれなかったな。もしかして、わたしが保護官見習いになって応援してくれたのは、幼馴染の高原だけかも)
その幼馴染も、にっこりと優等生みたく笑いながらほざいた言葉が、
「余りの見習い枠に引っかかるなんて強運の君らしいよ。どうせすぐに首になると思うけど、それまで精々頑張ってきなよ」
だから複雑だ。
そっとため息をついた金星は、出発前夜の養母と養父を思い出す。金星は、出発前夜になってやっと、見習い保護官としてフロスベルへ赴任する事を告げた。養母の月夜は心配だからやめなさいと金星を窘め、養父の木葉も感心しないと顔をしかめた。
二人が心配してくれているのは痛いほど分かった。だけど、育ての親が反対しても諦められない。早朝にこっそり家を出てきたが、昼食を入れているところを見ると、二人には金星の行動などお見通しだったようだ。
昼食を食べ終えてふと目を落とすと、バスケットの下に小さな紙があった。
『頑張ってきなさい。無理して、怪我をしないように。月夜も同じ気持ちだ』
紙には木葉の文字でそう書いており、金星の頬がほころぶ。
(うん、頑張ってくる! ありがとう。おじさん、おばさん)
汽車がフロンフルバニアに到着すると、今度は乗合馬車で田舎方面に向かい、そこからさらに馬車業の男を雇って、ずっと奥の辺境に行ってもらう。
フロスベルに行きたいと言うと、御者台の男は露骨に顔をしかめた。
「また、毎年恒例のあれか。で、いつごろ迎えに行けばいい?」
「えっと、わたしは、フロスベルで働くことになったんです。それで、しばらく帰れませんから、迎えはいりません」
「そいつは服でわかるぜ。毎年ここへ来る幻獣保護官は、みんな、丈夫そうな針草繊維の服を着ているからな」
「じゃあ、どうして迎えに来る時間を聞いたんですか?」
御者台の男は皮肉気な笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。
馬車は緩やかな坂を下り、道らしい道もない草原を突き進んだ。途中で、馬車の窓から蛇行する川とその奥に広がる村が見えた。保護官たちが住まう拠点は、そこからさらに一時ほど馬車を走らせた先にあった。
「おい、着いたぞ」
金星は馬車から降り、男に礼を言って運賃を渡す。
フロスベル拠点がある場所は草原だった。西に沈む赤い光に照らされたのは、見渡す限りどこまでも広がる若草色。その中に、ぽつんと二軒だけ家が建っている。
近くで見ると、それなりに大きい家だ。屋敷と言っても差し支えない。入口の前にある段差を上って、金星は扉の取手についた、ドラゴンの頭を模した金の呼び鈴を鳴らした。少し離れた場所にある小さな家には呼び鈴がないので、倉庫か何かだろう。
しばらく後、扉の向こうから固い男の声が返ってきた。
「……誰だ?」
「こんばんは、夜分にすみません。わたしは今春からここで働くことになりました、幻獣保護官見習いの金星といいます」
「お前が今回のフロスベル配属か。お前一人なのか?」
「はい。そうです、けど……。えっと、何か不都合でもあるんですか?」
扉の向こうの声は黙り込んだが、ややあって「まあいい、入れ。鍵は空いている」とそっけなく告げる。
「お邪魔します」
玄関先に立っていたのは、金星よりも二、三歳年上らしい少年だった。金星は挨拶しようとして、ちょっと躊躇う。
少年はむっつりと唇を結んで不機嫌そうに立っている。村の友達たちが黄色い声を上げそうなくらい端正な顔立ちで、耳にかかる長さの黒髪もまっすぐで清潔そうだ。しかし、野生生物みたいに冷たい青灰色の瞳は、驚くほど無関心に金星を見ている。何より黒一色の服装が、近寄りがたい異質な雰囲気を醸し出していた。
「こんばんは。幻獣保護官の先輩ですよね? これからよろしくお願いしますっ」
「……ああ。上がってくれ」
彼はそっけなく答えて廊下を奥へ進んだ。それから角で立ち止まって、金星を見る。着いてこいという事だろうか。金星は彼に続いて石の廊下を進んで、階段の手前の角を曲がった。大きな丸テーブルが置かれたダイニングへ通される。奥には台所があって、鍋が火にかかったままだった。どうやら料理を作っている最中だったらしい。
「お前、夕食はまだなのか?」
「えっ? あ、はい。まだです」
少年は戸棚から木のお椀を二つだして、鍋から琥珀色の液体を掬った。テーブルの中央にある籠にはライ麦のパン。その隣にはスモークチーズ。
「わあっ、いい匂いですね。野菜のスープですか?」
「……そんなものだ」
心の中で祈りの言葉をささげてから、金星は少年と二人きりの食事をとった。固いパンをスープに浸して口に入れる。味付けは中々だ。食事が終わると、丸テーブルに座って少年に問いかける。
「あの……ここって、フロスベルの幻獣保護官の拠点……なんですよね?」
「ああ」
「他の人はい――」
「いない」
いないんですか? と言い切る前に、答えられてしまった。
「えっと、近くの村に出かけているというわけでは……」
「フロスベルの幻獣保護官は、俺とお前の二人だと思えばいい。文句があるならフロンフルバニアの本部へ帰れ」
「え? ここで働くのって、二人だけですか!?」
「……いま二人がフロル市へ出かけているが、あいつらは常にいないと思え。見回りをするのは俺とお前の二人になる」
金星はじっと少年を見つめた。無表情で何を考えているのかわからないが、嘘を言っているわけではなさそうだ。
しかし、フロスベルの幻獣保護観察地域は七十キロル四方におよぶという。そこをたった二人で管理しなければならないなんて、にわかには信じられない。
そういえば、試験の審査員に合格を告げられた後、フロスベルへ行けと命じられただけで、ろくに何の説明されなかったことを思いだす。
「あの、わたしを入れて二人と言うと、今までは先輩……あ、そういえば、先輩のお名前は何ですか?」
「レイン」
金星の故郷と違って、フロンフルバニアの住民は名前のほかに姓があると聞いたが、彼はそっけなく名前を告げただけだった。
不思議に思いつつも、まずは聞きかけた疑問を先に尋ねる。
「レイン先輩は、ずっと一人で保護地区を見回っているんですか?」
「……まあ、そうだ」
「保護区って結構……というかめちゃくちゃ距離ありますよね!? 大変じゃないですか!」
「そうだな。無駄話はもういいだろう。部屋に案内するから、ついてこい」
(えっ、ええ? これ無駄話なの? まだ聞きたいことがあるけど……でも先輩もお疲れだろうし、明日でいいよね)
レインはカンテラを片手に立ち上がった。釈然としないが、金星も黙って彼の後を追う。レインは階段を上がって一番右端の扉を開けた。
「ここがお前の部屋だ。好きに使えばいい」
「はい。わかりました。明日から一年、よろしくお願いしますね」
無言で去っていく背中に声を投げかけると、レインは振り向いて、なんともいえない複雑そうな表情をした。それから黙って奥の自室に引っ込む。
(わたし、なんか変なこと言ったっけ?)
金星に与えられた部屋は一人が寝起きするのに過不足ないものだった。壁際にベッドがあり、反対の壁には空色のカーテンがかかっている。小さな箪笥の上にはほのかに輝く照明。円柱の硝子の中に光草を入れて作ったものだ。
金星はベッドに寝転んで天井を見上げた。壁は新しく塗り下ろしたように真っ白だ。体の下のシーツも白で、わずかに太陽の匂いがした。
(この部屋で寝起きするんだね、素敵な部屋でよかった)
そして明日からは、仕事が始まる。銀糸柵の向こうに広がる大自然――幻獣保護地域を歩き回って、幻獣の保護管理や生態系の調査をするのだ。
(ここにいる保護官が二人って言うのが、引っかかるけど、きっとそれほど危険がないから、二人でも十分だと判断したんだよね。とにかく、わたしは早くレイン先輩の役に立てるように、仕事を覚えなきゃ!)
今日は一日中、乗り物に揺られていてくたびれた。金星は明日のことを想像しながら、ゆっくりと瞼を下ろした。