ダメなこと
「ここで、導体棒にローレンツ力がはたらいて……」
物理の教師が説明しながら黒板に大きな文字で答えを書いていく。出てきた解は数字ではなく、分母分子あわせて7つの文字から成り立っており、並みの高校生ならやる気を一気に削がれているところだろう。
終業式の翌日、夏休みの初日、けれど俺達は当然のように教室に集まっている。
夏休みといえど平日の午前中には三時間の夏期課外が入っている。それを不満に思う受験生は丸々高校には誰もいない。実際、教室の皆は必死になって先生の板書を写す……、いや、訂正しよう。
三時間目のラスト2分、集中力はなくなり、なのに物理の難問をやっている。ほぼ先生の独壇場だ。
「次、(8)。これは(6)で求めた解を利用して……」
この物理の大問は()が10まである。俺は(6)で説明についていけなくなった。今はとりあえず写すだけだ。周りもそうだ。とりあえず写すか、諦めて突っ伏して寝ているか、まあQ帝大以上を志望していないなら難しすぎて要らないレベルの問題だ。
俺はそっと朝倉の様子をうかがう。俺の席から右前方、桂馬の動きの場所に彼女の席がある。朝倉は先生の板書を写さずに、かといって眠るわけでもなく、じっと眺めていた。
「だから(8)の答えは……計算するとこうなるわけだ。」
先生が答えを書くと同時にチャイムが鳴る。必死に板書を写す者、帰宅の準備を始める者、大半の生徒がどちらかの行動をとる中で朝倉は筆箱から赤ペンを取り出すと丸をつける動作をした。
「えー、この問題の解答解説は教卓の上にプリントを置いておくので各自で取りに来て(9)、(10)までやるように。」
あまり期待していない感じで先生は教室を去っていく。実際、クラスの4分の1ぐらいはプリントを取りにいかない。プリントを貰う人も後で復習するかは甚だあやしい。
俺もとりあえずプリントを取るために席を立つ。それと同時に、隣に座っている岸が話しかけてきた。
「なあ田口、今の問題分かった?」
「いや、(6)から先はさっぱり。」
「なんだ田口もか。」
「岸も(6)かよ。」
岸と俺は元テニス部のペアで大の仲良しだ。
「でも岸が分からないなんて(6)からは相当ムズいんだな。」
岸は頭がいい。学年順位は三十番前後をいつもうろうろしていて、TK大志望だ。高二の時にTK大のオープンキャンパスに誘ってくれたのも岸だった。
「まあとりあえずプリント取りに行こうぜ。」
岸につられて一緒に教卓へと向かう。
教室はそこそこにうるさい。夏期課外に文句を言う男子たち、今の大問を分からないとわめく女子たち。
その中で1人静かに朝倉はプリントとにらめっこしている。そして何かを理解したのか、赤ペンでノートに書きこんでいく。
「やっぱ賢いんだろうな、朝倉さん。」
俺の目線の行方に気づいたのか、岸が突然言ってくる。
「さ……さあ、賢いんじゃない、多分」
さすがに朝倉が学年1位であることは言えない。朝倉も望んでないし、俺がそんなことを知っているのも変な話だ。平穏な学校生活のためにも口を滑らすわけにはいかない。
「岸はもう帰るのか。」
荷物をまとめている岸に俺は尋ねる。
「まあ、って言っても図書館に寄るけど。」
「図書館って北の?」
「ああ。田口は南にある図書館にいつも行くんだっけ。ほんと、俺達は勉強するしかないよな。」
「ほんと、ほんと。」
そうだ、俺達は勉強するしかない。大抵の丸高生はそこに疑問を抱かない。
岸と教室を出る間際に俺は朝倉のほうをちらりと見る。朝倉はまだプリントと格闘していた。
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たわいもない話をしながら岸と学校を出て、すぐに南北に別れる。
俺はいつも通り学校のすぐ横のコンビニでパンを買って、国道を自転車で駆け抜け、ショッピングセンター、そして墓地と、見慣れた通学路を通り、最後に少しそれて図書館へと入る。
今日の図書館は普段通り空席が目立っていた。今までの俺なら1人向けの席で空いているところに適当に腰掛けていた。
だが俺は自然と探していた、2席とも空いている相席を。
なんで? と問われれば朝倉に質問したいからだろう。
なんで質問したいの? と問われれば物理の大問がわからなかったから……だろう。
なんで先生に質問しないの? と問われれば……朝倉に質問したいからだろう。
……ええい、俺は考えるのをやめる。なんにせよまずは復習だ。一限の数学だって簡単じゃない。二限の英語だって予習と解釈のずれがあった。それに明日の予習だって……
俺はノートを広げながら、いや、コンビニで買ったパンを頬張りながらノートを広げる。
夏の終わりの模試でTK大にC判定を出すためは時間なんていくらあっても足りない。食事中も勉強し、勉強の気分転換に違う科目の勉強をし、睡眠以外は勉強に捧げなければならない。
10分、30分、1時間、俺はひたすらに勉強する。当然だ、そのために図書館に来たのだから。
しかし1時間経ったのにもかかわらず、幸か不幸か、隣の席は空いたままだった。
俺はふらりと席を立つ。気分転換に館内をぐるりと散歩……しながら他の席を見る。
朝倉はいない。
課外が終わってからけっこうな時間が過ぎている。朝倉は家にまっすぐ帰ったのだろうか。だとしたら俺ってなんだか虚しい……いやいや、俺は勉強しにきてんだから。朝倉が来ないからなんだってんだ。
あ~~もう。休憩しよう。そうだよだから散歩してんだよ。そうだ、外の自販機でジュースでも買おう。
ポケットの中から財布を取り出しながら俺は出入り口へ向かった、そのとき
「あっ」
と先に言ったのは俺だった。
「あっ」
と後に言ったのは汗を拭きながら入ってくる朝倉だった。
「やっぱり、田口くんここで勉強してるんだ。」
やっぱり、
朝倉は俺が図書館にいると思ったうえでここに来ている。そう捉えるとなんだか無性に嬉しい。
「ねえ、席どこ?」
「あっ、こっちこっち」
取り出した財布をこっそりとポケットに入れ直して俺は自分の席へと戻る。
1人用の席も、相席も、空席はまだ残っている。けれど朝倉は俺の隣に座った。
「ねえ、田口くんは(10)解いた?」
「いや、まだだけど……」
というか(6)から分かんないんだけど……
「あのね、解答に先生が手書きで解説している箇所があるんだけどね、なんか微妙だからさっき先生に質問してたらね、」
「ちょ、朝倉さんストップ」
俺が手を前につきだすと朝倉は少し首を傾げる。それに合わせて程よい長さの黒髪もふわりと動いた。
「なに?」
「俺、(6)から分からなかったんだ……」
ああ恥ずかしい。なんで保育士志望の女の子のほうが俺より賢いんだ。いや、そもそもなんで俺より賢い女の子が保育士志望なんだ。
「(6)?それならマクスウェル方程式を感覚的に分かっていれば簡単で……たしかあの本に……」
そういって朝倉は座ったばかりの席を立ち、たくさんの本棚の向こうへと消えていく。
あれ?マクスウェル方程式って電磁気分野を習ったときのイントロ部分で先生がチョロっと言ってた……本格的にやるのは大学で、高校の電磁気は実はそのさわりだって……
「あったよ~」
戻ってきた朝倉の手には鈍器にもなりそうな分厚い本、『物理を味わう~電磁気編~』という税金の無駄遣いと図書館が文句を言われても仕方のないものがあった。
「これの第三章ぐらいに……」
「ねえ朝倉さん?」
「ん?」
「これ、いつ読んだの?」
ぱらぱらとページをめくる朝倉に俺は素朴な疑問をぶつけた。どこの保育士志望がマクスウェル方程式を自発的に理解しようとするのだ?
けれどこの直後、俺は自分が地雷を踏んでしまったということに気付かされた。
「え~とね、高2の1学期。あの頃はまだ……」
そこまで言ってから朝倉はなんでもない、と明るく笑って首を横に振った。それにつられて黒髪も強く揺らいでいた。