夢みる少女
「返して!」
判定の載ったプリントを奪い取ると朝倉は敵意のこもったような目で俺を睨んでくる。日頃の学校生活からは考えられない朝倉がそこにはいた。
「あ~もう、最悪! 見られた~~」
ここが図書館であることを忘れているのか、朝倉は大声をあげる。まるで俺が悪いことをしたように周りから見られるのでたまったものじゃない。
「朝倉さん、静かに。図書館だよ。」
はっとした朝倉はすぐに黙る。それに伴って周りの目も俺達から逸れていく。
「ねえ、田口くん、学校のみんなには内緒だからね。」
小声でひそひそと朝倉は話しかけてくる。
「内緒って朝倉さんが学年1位のこと? それとも第1志望が短大のこと? それともTK大にA判定のこと?」
「全部見られてる……」
そういって朝倉は軽く放心状態に陥る。思わず本当に朝倉か確かめたくなるほどだ。
「でもなんで第1志望がF短大なんだ? 学年1位でTK大にA判定が出てるのに……」
「同じことをさっき村松先生にも言われた。」
心底不機嫌そうに朝倉はする。
「いや、誰だって不思議に思うよ。」
「私は不思議じゃないもん。それよりも数学の問題の話でしょ。」
朝倉はファイルから自分の答案用紙を取り出す。まるで模範解答をそのままコピーしたかのような綺麗な答案には当然のごとく大きな丸がついていた。
「どの大問?」
「3の(3)なんだけど……」
「ああ、これは必要十分のギロンを慎重にしなきゃいけないの。だから答案はこれだけしか書いてないけど、その裏で考えなきゃいけないことは…………」
丸高生が手っ取り早く仲良くなるためには勉強の話が一番なのかもしれない。
それから十五分、俺達は……といっても俺は朝倉の説明を聞くだけだったが、その問題に対して懸命に取り組む。朝倉の説明は本当に分かりやすかった。
「そうか! だからこのことを答案に書けばいいのか。」
「そういうこと。」
俺達は難問を解き終えた後の独特の高揚感に包まれる。この感覚を味わえない多くの人が数学を嫌いになって文系にいくのだろう。
「でもやっぱり分かんね。」
「えっ、なんで? もう理解できたでしょ?」
「いや、数学じゃなくて朝倉さんの進路。」
こんなに数学が出来て、しかも楽しそうに話す人はF短大には誰も行かない。
「別にいいでしょ。私がF短大に行きたいんだから。」
「そこ行って何するの。」
「保育士さんになるの。」
――ぶっ――
朝倉が大真面目な顔して言うので俺はつい吹き出してしまう。
「何よ、私が保育士さんになるのがそんなに変?」
「いや、そうじゃないけど」
やめろ朝倉、せめて保育士に‘さん’をつけるな。笑いが堪えられない。
「TK大なんて行ったら絶対に保育士さんになれないわ。私は保育士さんを少しやったら、その後結婚してお嫁さんになるの。」
やめてくれ朝倉、そんな小学2年生みたいな夢を語るのは。お前の解いた難問とのギャップがありすぎる。
「もう、田口くん、人の夢を笑わないでよ。」
「ふーー。ごめん、ごめん。」
「ねえ、田口くんはどこ目指してるの?」
朝倉の質問に俺の言葉が少し詰まる。ここでスッと自信を持って言えない自分が少し情けない。
「……俺? 俺はTK大だけど……まだ全然学力が足りなくて。」
「まあ進路面談引っ掛かってたしね。」
地味に痛いことを朝倉は容赦なく言ってくる。まだまだ勉強しなきゃいけない。それは自分でも分かっている。
「田口くんはどうしてTK大を目指してるの?」
「素粒子の研究がしたいんだ。高2の夏に友達に誘われて、オープンキャンパスに行ってからTK大で研究したいと思ったんだよ。」
「ふ~ん。」
興味があるのかないのか、それでも朝倉は微笑みながら聞いてくれる。こういうところは案外、保育士の素質はあるのかもしれない。
「でもそれまでは平均点ぐらいだったから、今も頑張って勉強しても簡単には上がらなくて……村松にも無理そうだって言われて。」
「え~、ひどい。田口くんの夢をなんだと思ってるの。」
朝倉は本気で怒ってくれている。まあ少し声が大きくなって、周りの目がまたこちらに集まっていることに気付いてくれると尚嬉しいのだが。
「私は田口くんを応援するよ。」
「あ、ありがと……」
面と向かって朝倉に言われるとなんだか胸がどきりとした。ありがとうの一言がこんなに言いにくかったのは初めてだ。
「なんかさ~、丸高って進学校でしょ。だから何も考えずにTK大とか、Q帝大とか目指す人が多くて少しうんざりするのよね。だから、ちゃんと夢があってTK大を目指す田口くんに私は好感持てるな~。」
その成績で保育士になりたいという朝倉だから特に感じることがあるのだろう。俺自身、去年までは漠然とQ帝大に入れればいいな、としか考えていなかった。
「でもやっぱり不思議だな。そんなに賢いのに保育士志望だなんて。」
「いいでしょ、別に。さっ、いつまでも喋ってないで勉強を続けましょ。」
そう言って朝倉は保育士になるうえで絶対に必要のない数学の本をめくっていく。
俺は模試の解き直しを全教科で行い、ときたま分からないことがあれば朝倉に質問した。
時間はあっという間に、しかし濃密に過ぎていく。
そうして夕方になった頃に朝倉が荷物をしまい始める。数学の本は借りて、家に持ち帰るようだ。
「田口くんはまだ残るの?」
「まあ、閉館までは。」
「ん、頑張って。あっ、もう一回言うけど、私の成績はみんなには内緒だからね。」
「分かってるよ。」
少しぶっきらぼうになってしまった自分がなんだか無性に腹立たしかった。
「じゃあね。」
朝倉は笑顔で手を振った。背をむけて歩きだそうとする。
「な、なあ。」
気が付けば俺はすっとんきょうな声をあげていた。このままでは朝倉と次に話すのがいつになるのか分からない。それが何故かいやだった。
「ん?」
朝倉が振り向く。今日みたいな朝倉は学校で会っても見ることができない。
「またさ、夏期課外の後とかで図書館で会ったらさ、……その……勉強教えてくれよ。」
なんでこんな言葉が出てくるのかは自分でも分からない。確かに朝倉の説明は分かりやすかった。でも本当にそれだけだろうか。
「うん、いいよ。」
俺は朝倉を直視できなかった。目線を逸らした先にあった学生鞄にはよく分からないピンクのキャラクターがついていた。そいつは朝倉が女の子であることを俺の脳に強く伝えて来やがる。
「じゃあな。」
「またね。」
去っていく朝倉を俺はずっと眺めてていた。なんだか、その日は残りの勉強が頭に入ってこなかった。