ある夫婦の話
私が彼女と出会ったのは、中学生の頃だった。ある日、私が学校から家に帰ってくると、何やら庭の方から物音がしたのに気がついた。不審に思い、庭に回ってみると、その頃大事に飼っていた兎の小屋の前に、セーラー服でおさげ姿の彼女がじっと兎を見ていたのだ。
私は兎泥棒ではないかと思い込み、彼女のもとへ駆け寄った。
「おい!お前何をしている!」
私の荒々しい声に彼女は驚いて立ち上がり、体を強張らせていた。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、私は彼女の表情など気にも留めず、いつも悪い目つきを余計に悪くさせ、厳しく彼女を問い詰めた。
「何をしているんだと聞いているんだ!もし兎を盗もうとしていたんなら、どうなるか分かっているんだろうな」
私の言葉に、彼女は何も言わず、ただ怯えているだけだった。何も言わない彼女に私は腹が立ち、ますます声を荒々しくした。
「何で何も言わないんだ!!」
すると、私の大声が聞こえたらしく、縁側から母が顔を出した。
「何をそんなに騒いでいるの」
「あ、母さん。こいつが兎を盗もうと」
「洋子ちゃんがそんなことするはずないでしょう。お母さんが見てもいいって言ったのよ。わざわざ野菜をおすそ分けに持ってきてくれたのに、貴方って子は」
私は彼女、つまり洋子の顔を詫びることもなく、じっと睨みつけた。まだ怯えてはいるが、誤解が解けたことにより、少々安堵しているようだった。
「それならさっさとそう言えばよかったのに」
そう冷たく言い放つと、母が手招きをして、私を縁側に呼び寄せた。私は素直に母のもとへ行くと、いきなり頭を叩かれ、驚いた私は、目を丸くして母を見つめた。母は洋子には聞こえぬ声でしゃべり始めた。
「馬鹿、洋子ちゃんは生まれつき声が出ないのよ。貴方同じ学校なのに洋子ちゃんのことちっとも知らないの?あのご近所の農家の娘さんじゃない」
私は幼少から、人間の醜い部分を目にして育ってきた。我が家は父が代々続く医者の家系だったので、金に困ったこともなく、顔も広かったのだが、寄ってくる人間が全て良い人間だとは限らない。金をせびりにくる者もいれば、媚を売る者、面では愛想のいいふりをして、陰で父を悪態つく者もいた。祖父が死んだ時の遺産の相続問題など、もう思い出したくもない。そんな中で育った私が、真っ直ぐ健全に育つはずもなく、幼いながらに人間の醜さを知った私は、周りの者に軽蔑を抱くようになった。自分以外の人間が、汚れきった醜い生き物にしか見えなかったのだ。学校では常に一人で行動するようにして、冷たい態度をとるようになった。特にその中でも女どもは最悪だ。自分で言うのもあれなのだが、私は器量が良い方だった。そのため、女どもは、我が家の金と私の容姿ばかり見て、厭らしくすり寄ってくるのだ。
だからその時、私が洋子のことを知る由もなかったのだ。
「洋子ちゃんは優しくてとてもいい子だから、お友達になってもらいなさいな。動物も好きみたいだし、話も合うんじゃないの?貴方はただでさえお友達がいないんだから」
母は洋子に笑顔で
「この子が失礼なこと言ったみたいでごめんなさいね。でも、悪い子じゃないのよ、良かったら仲良くしてやってね」
と言ってその場を後にした。
私は心の中で余計なお世話だと母に悪態をついた。後ろを振り返ると、洋子が鞄からノートを取り出し、何かを書いていた。何かを書き終わった洋子は、私にそれを見せに来た。ノートには『うさぎ、見てもいい?』と書かれていた。
私はそっけなく「好きにしろ」とだけ答えると、その場に洋子を残し、玄関に行き家へ入っていった。本当は兎に餌をやりたかったのだが、洋子がいるという理由で、断念して、自室に戻り宿題をやることにした。
しばらく時間が立ち、時計の針は午後五時を差していた。季節は夏。空が橙色に染まっている。流石に洋子はもう帰っている頃だと思い、台所に向かい兎の餌をとりに行った。野菜の切れ端などを持って、縁側から庭へ向かうと、そこには洋子の姿があった。まだ夢中で兎を見ていたのだ。私はしゃがみこんでいる洋子の隣に立ち、声をかけた。
「お前、まだ見ていたのか。よく飽きないな」
私に気付いた洋子は、周りをキョロキョロと見渡した後、またノートに言葉を書き始めた。
『今何時?』
「五時」
時間を知った洋子はあたふたと慌て始めた。どうやら帰らなければいけない時間なのに、今まで夢中になってしまっていたらしい。慌ててその場を後にする前、ノートに走り書きで言葉を書いて、私に見せた。
「今日はありがとう。また来てもいい?」
「……勝手なことをしないのだったらな」
洋子は私に嬉しそうな笑顔を見せると、小走りでその場を後にした。
これが私と洋子の出会いだ。人を泥棒扱いしたのに、謝罪もしないという、第一印象は最悪といった出会い方だった。
その日から洋子は家に兎を見に来るようになった。最初は、私が怒鳴ってしまったせいで、時々遠慮しがちにやって来て、私と顔を合わせると気まずそうにしていた。それでも兎が本当に好きらしく、じっと兎を眺めていた。
最初は洋子が家に来ることを、あまり快く思ってはいなかった。しかし、洋子が動物のことを時々質問してくるようになり、私はそれに答える。すると、洋子は子供のように目を輝かせ、私の話を熱心に聞くのだ。私は動物が好きだった。好きな物の話しを真剣に聞いてもらえたのが嬉しくて、つい私も熱心に話すようになっていた。
これは洋子と出会ってからしばらく経った後に、知ったことなのだが、洋子は学校で酷いいじめにあっていたらしい。声が出ないのが理由で「動物」と呼ばれ、陰口や物を壊す隠す、時には暴力も振るわれていたらしい。別のクラスだったので、偶然廊下で女子生徒に足を引っ掛けられて転ぶ姿を見るまで、全く気がつかなかった。狭い場所で集団行動をとると、必ずこういったことが起こる。洋子は、物も言えず、抵抗も出来ない弱い存在だったため、恰好の的だったのだ。
ある日私は、いつものように兎を見に家に来た洋子に問うた。
「お前は、あんな醜い奴らに見下され、馬鹿にされて、悔しくないのか。俺だったら惨めな気持で自殺してしまうかもしれん」
洋子は私を見つめて、何度か瞬きをした後、いつものように筆談するために、ノートに字を書き始めた。
『確かに辛い時もある。でも私は今の苦しみは将来幸せになるための代価だと思ってる。未来にはきっと、今の私には想像できないほどの幸せが待ってるって信じてるの。だから、私は死んでしまわずに、生き続けるの』
洋子は私にノートを見せて、力強く笑った。その笑顔を見た私は、美しいと思った。その瞬間、私の心に何かの種が静かに音を立てずに落ちてきたのだ。
「強がりやがって」
素直に洋子を心配できない私のきつい言葉に、洋子は優しく微笑んで、ノートに字を書き始める。
『強がっているのは昭司君も同じでしょう?貴方も私と同じで寂しく悲しい人。周りに本当の自分を知ってもらえなくて、強がる事しかできない人間なのよ』
私は、心の奥底に隠しておいたものを見つけられたような、自分でさえ気がつかなかったような、何ともいえない不思議な気持ちになった。
私が首を傾げて、果たしてそうなのだろうかと考えていると、洋子がまたノートを見せてきた。
『でも、動物と呼ばれてみんなに好かれないのは、ちょっと嫌ね』
「俺は動物が好きだけどな」
自然と私の口からそんな言葉が出てきた。どうしてそんなことを口走ったのか理解できず、ポカンとしている洋子の顔を、私はしばらく見つめていた。すると、洋子の頬が段々赤く染まり始めたのだ。頬が赤く染まった洋子を見て、私はようやくさっき口走った言葉の意味を理解したのだ。
「馬鹿!そういう意味で言ったんじゃない!!」
私は自分でも顔が赤くなっていくのに気がついた。恥ずかしくて恥ずかしくて、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになり、とうとう
「俺は部屋に戻るからな!勝手に兎でも何でも見ていろ!」
と捨て台詞を残して、その場から逃げだした。私の心臓は、今までにないくらい高鳴っていた。何故自分はあんなことを言ったのだろう。ずっと考え続けたがその頃は分からず、自分の心の中にまだ、自分の知らないことが残っているような気分がした。
その日から私は、洋子のことを遠回しに気にかけるようにしていた。洋子のいじめを知ってしまった以上、見て見ぬふりをするのは、周りにいる醜い人間たちと同じになってしまうように思えたからだ。教科書に落書きをされた時は、私のを代りに貸してやったり、転ばされた時は手を貸してやったり、靴を隠された時は文句を言いながら一緒に探してやった。しかし、いじめは中学を卒業するまで続いたのだ。
高校生になり、私は私立高へ通い、洋子は女子高へ通い始めた。あの家で飼っていた兎が死んでから、洋子が家に来る理由が無くなり、あまり会う機会がなかった。学校は別々なのだが、二人とも電車で通い、降りる駅は同じなので偶然出会えば一緒に帰ることはあった。私が数歩前を歩き、洋子はそれに着いてくる。筆談をすることもなく、ただ歩くのだ。
私の心に落ちたあの種は、徐々に心に根をはり、蕾をつけていた。そして、ついに花を咲かせたのは、高校生になってからの初めての冬だった。駅で会った洋子は、いつにもまして機嫌が良かった。私が何かあったのかと尋ねると、洋子は駅のベンチに腰をおろし、ノートに字を書き始めた。私は洋子の隣に腰をおろし、書き終わるのを待っていた。
『女子高へ通い始めてから、私をいじめる人がいなくなったの。みんな大人びていて、私を洋子ちゃんと呼んで微笑んでくれるのよ。それに、同じクラスに耳が聞こえない女の子がいたの。何だか運命みたいなものを感じちゃって、今日手話でいっぱいおしゃべりして、お友達になれたの』
ノートを見た私は「そうか良かったな」と言った。洋子は嬉しそうに頷いたが、私は洋子のために喜んでやることはなかった。むしろ、嫉妬したのだ。その耳の聞こえない女の子に。私はその女の子よりも、お前と長い時間を過ごし、たくさんのことを話したのだぞ。と洋子に言ってやりたい気持ちになった。洋子がもう私を必要としなくなるのではと、不安にも駆られた。私の心に嫉妬と不安が溢れ返りそうになったとたん、あの種が大きくて赤い花を咲かせたのだ。酷く醜い咲き方をした赤い花は、静かに揺れ動き、私を魅了する不思議な花だった。
赤い花を咲かせた私は、ああ、私は洋子に恋をしているのだ。愛しているのだなと、全てを悟った。
私はその胸の内を、洋子に簡単に明かすまいとしていた。そのため、ついに告白をしたのが高校を卒業し、医者になるために東京の大学へ通うことになった時だ。上京する前日、家へ来た洋子は、玄関先で私に明日見送りに行かせてくれと頼んできた。それに対して私は
「かまわないが一つ条件がある。将来、私の妻となってくれるというのなら、明日の七時に駅で待っていてくれ。……今日はもう遅い。早く帰れ」
私は唖然とする洋子を追い返し、玄関の扉を閉めた。何度か洋子が扉を叩く音がしたが、私は扉を開けようとしなかった。卑怯な方法だったと今でも思っている。私は、洋子が私の願いに首を横に振るのが怖かった。もし洋子が私を待っていなくても、悲しみをその場に置いて、私は逃げることができる。だから、こんな回りくどい方法を選んだのだ。
翌日の朝、私は重い荷物を抱えて、憂鬱な足取りで駅に向かっていた。まだ冬の寒さが残る春の朝。寒さで凍えそうな上に、緊張で胃の中の物を吐き出しそうだった。昨日の晩から今日の朝まで、ずっと洋子のことを考えていた。誰かと話したい気分でもなくて、親には見送りに来なくていいと言った。着て欲しいのは親ではなく、洋子なのだ。不安で仕方がなくなる。私は逃げ出すことばかり考えていた。段々駅が近づいてくる。駅がすぐそこまで見えた時、私は誰かがこちらに走ってくるのに気がついた。徐々に距離が近づいてくると、ようやく誰が走ってきているのか分かった。
洋子だった。洋子は私を待っていてくれたのだ。私は重い荷物を放り出し、洋子のもとへ駆け寄った。傍へ来た洋子は、いきなり小さく二つ折りにされた紙を、私に手渡してきた。そこには
『私は貴方に、将来妻になって欲しいと言われた時、すぐにでも貴方の胸に飛び込んで行きたかった。私は貴方の名前も呼んであげることができません。私なんかで良いのですか?』
私は洋子の手を強く握った。洋子の手は芯まで冷えていた。ずっと朝早くから、駅の前で待っていてくれたのだろう。
「私は憶病で卑怯者だ。お前が何よりも欲しがった声で、お前の心を私にしばりつけようとしたんだ。お前が、私が遠くへ行ってしまっている間に、私以外の誰かを愛してしまうのではないかと、不安になったのだ。こんな人間の私でも、お前は良いのか?」
洋子は大きく肯いて、私の手を握り返してきた。
こうして私と洋子は、ただの友人から婚約者になった。上京して、大学に通っている間、洋子は月に二三回私に手紙を寄こした。それは大学に通い続けた四年間、一度も途絶えることはなかった。しかし私は、その四年間で手紙の返事をしたのは一度だけだった。元々洋子には手紙はいらないと言っておいたのだが、受け取ってくれるだけでいいと送って来たのだ。私は受け取ってくれるだけでいいという言葉を、馬鹿正直に受け取り、手紙を書くのが苦手な私は、ますます返事をしようとしなかった。
しかし、大学に通い始めて三年が経ったある秋の日の手紙で、私は初めて洋子に返事を送った。その手紙には、いつもと同じように何気ないことが書かれていたのだが、最後の方に
『私は貴方が遠くへ行ってしまってから、寂しさで死んでしまいそうになります。これはもしもの話なのですが、もし私が死んだら貴方はどう思ってくれますか?』
と書かれていたのだ。
私は、あの心の強い洋子が、寂しいと言っているのだ。こんな時に何もしてやらないのは、あまりにも薄情ではないか、と思い筆を執っていた。
『もし貴女が永遠に目覚めぬと言うのなら、私は貴女の亡骸の傍で泣き続けるでしょう。もし貴女が焼かれて灰になるというのなら、私は貴女を抱いて火に飛び込み、共に灰になりましょう。貴女は私の心臓です。心臓を失って、どう生きていけるというのでしょうか』
洋子への手紙へ書いた言葉は、それだけだった。今思い返せば、ずいぶん恥ずかしいことを、私がよく書けたなと思う。手紙を受け取った洋子は大変驚き、本当に私が書いたのか疑ったらしい。でも、確かにそれは私の字だと確信を得て、初めての私からの愛の言葉に心が躍ったらしい。寂しい時はその手紙を見て、私を思い出していたとか。
大学を卒業して、無事に医者になった私は、地元へ帰り洋子と結婚した。二人で小さなアパートに住み、一年後には息子が生まれ、その三年後には娘が生まれた。アパートで家族四人は窮屈だと感じ、私たち夫婦は家を買った。その後も、笑いあい、時には怒り、時には泣いて、さまざまな壁にぶつかったりもしたが、みんなで支え合い、幸せな時間を過ごしてきた。
そして、息子は私のように医者になり、娘は嫁いで行き、私と洋子は昔のように、広い家で二人きりになった。ある日、洋子が居間でぼうっと考え込んでいるのが目に入り
「どうしたんだ」
と声をかけた。すると洋子は手話で
『貴方との思い出を、思い出していたのです』と答えた。私は洋子の傍に腰を下ろした。洋子は側にあった、メモ帳と鉛筆で筆談を始めた。
『昔のようでしょう?』
「ああ、そうだな」
『貴方は私に沢山の幸せをくれました。ありがとう、愛していますよ』
私は愛しているという言葉に照れ臭さを感じ、少しメモ帳から視線をそらした。
「よくそんな恥ずかしいことが言えるな」
『貴方が言ってくれない分、私が沢山言わないと』
そう書いた洋子は、昔と比べれば皺も増えたし年も取ったが、昔と変わらない笑顔で私に微笑みかけた。
「散歩にでもいかないか?」
『いいですね。手を繋いでも?』
「……今回だけだからな」
『まるで、恋人同士みたいですね』
「馬鹿を言え、恋人なんだ」
嬉しそうにほほ笑む洋子の手を、私は強く握った。