第3章 空から見る城
第三章 空から見る城
「…また行ってしまったのぉ。」
しんと静まり返った謁見の間。そこに灯火はなく、兵もおらず…月光に、栄光の冠を鈍く輝かせた王が、ひとつきりの玉座に虚しく腰掛けていた。
王は老齢だった。頭髪は白く、頬は痩せていて、瞳ばかりをぎらぎらと鈍く光らせている。長年患い続けた病はそうひどくもないが、王を感傷的にさせるには充分であった。
……王は泣いていた。
コリウス王は19の時に先代に先立たれ、大臣や神官らに言われるがままに、兄王子として国王になった。そのことを弟ラグラスは恨んでいた。弟王子が城外に遊びに出るようになったのはそのころで、随分と兄を困らせたそうである。王が彼を追放したり殺したりしないのは、その優しさと慈悲のため。微笑み絶やさぬ人気の王も、内心は悩み事だらけなのであった。
そんな絢爛と汚濁の宮廷暮らしの中で、唯一、青年王の癒やしであったのは、今は亡きセイラン王妃である。なかなか手に入らない乙女を追う姿は、面白おかしく書き換えられて童話になったほど。セイラン妃が死んで、もう16年の月日が流れるが、王は未だに忘れられなかった。王子を得られなかったのに、後妻を娶ろうとしないのもそのためだ。そしてまた、ミオソティア姫が、かの愛妻をまったく覚えていないようであるのも心苦しかった。
「あの子は、誰に似たのじゃろう…。まぁ、わしも、"そなた"に会う前は奥手だったがの。」
青白い王は、雪のごとき白髭を動かして、独りふしゃふしゃと笑っていた。哀しそうに。
そんな王を慰めるように、あるかなきかの風に乗ってきたのは、甘いスミレの香り…。
…冷たく澄んだ漆黒の空に、闇に抱かれた小鳥が飛んでいた。
水面下から飛び出して念願の空気を吸う時みたく、青い鳥…いや、家出娘のお姫様は、冬の夜空へ飛び出していったのであった。
何もかも忘れて空を舞う。星空の天蓋に風のベッド。灯りひとつ持たずに闇に溶けてしまえば、夜も怖くなんてない。夜は、妖しい言葉を囁きながら青い身体を包んでくれる、優しい恋人なのだ。
やがて、彼の激しい魅力に疲れて、小鳥はふらふらと地面に舞い降りた。お別れの場所はきまって城の中庭であった。
城の中庭は広大で、美しいバラ園…赤薔薇、白薔薇、黄薔薇、青薔薇の4つ…を有していた。
中でも、王宮専属の庭師が、丁寧に刈り込んだ『赤薔薇のアーチ』などは、隣国にも定評がある。その花の迷宮が取り巻くは、立派な彫刻の噴水池。国の創造者である英雄アズレードと、彼に助けをもたらしたとされる4人の薔薇妖精が、それぞれの手先から清水を撒いているのである。
しかし、小鳥の目線から見上げるそれは恐ろしい巨人像。アズレード公の紫水晶の瞳が不気味に光って見える。
小鳥はぶるりと震えると、白薔薇の妖精グヴェン像の足元に跳ねていった。そこは小鳥の特等席。ミオはグヴェンに憧れていた。グヴェンが、実はアズレード公を愛していたとされているのをミオは知っていたから。
「こんばんわ、グヴェン。朝になるまで、ここにいさせて頂戴ね」
(私の身体はきっと、まっすぐ部屋に戻されるでしょうし。また、あそこで寝てしまったってことにすれば大丈夫よね…)
姫君が魂を憑依出来ることを知っている者は誰もいないはずだった。魂のない身体は、眠りに落ちるらしい。
(まだ宴は続いているのだろう。声がここまで届かなくてほんとうによかったわ。あんな野蛮なもの!)
(ここはいつも静か。常に静寂のうちにある、、、、)
「ちょっと!待ちなさいったら、もう!」
「だいじょうぶよ。ここって夜はだぁれもいやしないのよ。あたいだけの秘密の庭なんだから!」
使用人の娘がふたり、随分と景気よさそうにヨレヨレやってきた。木戸が開かれ、一瞬だけ黄色い光がもれて、すぐに消えた。白エプロンの裾にはシワがつき、肩紐はずり落ちている。どうやら酔っているらしい。
姫君は、鳥に可能な限りに顔をしかめた。わが特等席を奪われただけでなく、身分の低い彼女らまでが、酒の香りに酔うことが出来るほどに、今宵の宴が荒れているのがあきらかだったので。
「ほぉうら、たんとお飲みなさい。ああん、もう!ぐっといっきにやっちゃってよね」
「ぐぴぐぴ。、、ぷはぁ。やっぱお城の酒は、そこらのとは違うわね!くすめてきてよかった!」
「でしょぉ?今日は飲み明かしましょーよ。お偉いさんがたはもう帰っちゃったし?したっぱの荒くれ兵士なんかに媚売ってもねぇ」
「ね。いとしのコルチ様はすぐ退席なされたし、天使のサフランぼっちゃんも大臣にさらわれちゃってさぁ。魅惑のラグラス様も『黒の館』で遊女たちと、、、、ああ!」
娘は、真っ赤に頬を染めて震えだすと、きっちり結んだ束ね髪を解いて、獣のように振り乱した。
「なによ。あんた、あの黒い中年親父にまでキョーミあったの?」
「まぁひどい!ラグラス様こそがこの国の裏の権力保持者なのに。王様ったら、セイラン様亡くしてからめっきり老けたじゃない。わたし、王様のこと結構すきなほうだけどね、ほら、あの童話大好きだったからさぁ。でも、12の時に田舎から出てきて、大人のオンナになって思うわけよ。ラグラス様こそ真の王者よ!!」
「なんでさ?」
さっきから飲まされっぱなしのほうの娘は、乱れ髪をかきあげて、妙に色っぽく笑うと、いっきに酒瓶を仰いだ。
「……女運が最強なのよ!」
言われた娘はきょとんと目まるくして、ふいに考え込み、やがて大声で笑い出した。
「あーははは。なに言い出すかとおもえば。ふふ、たしかに。たしかにそーねぇ。あんたの言う通り!」
「そう、それって大事なことよ?まず正妻アリッサム様。女の、しかも双子産んじゃうなんて大変なことしでかした訳だけど、彼女みたいなどっしり構えた正妻がいるから、ラグラス様はおもいっきり浮気出来るの。愛妾のネリネ様なんて16も年下で!あんな美人でいらして…」
「あんた、ネリネ様の御顔なんて見たことないくせに」
と言いながら、また新たな酒瓶を開けて、注いでやる。
「あらぁ、ラグラス様の館に肖像画があるじゃない!わたしだって、『黒の館』に行ったことくらいあるわよォ。…一度見たら忘れられない御顔よォ。綺麗なプラチナブロンドの髪に、華奢な御顔。ほっそりとした首…そこにでっーかい真珠で出来た首飾りがあってさ、薄い橙色のフワフワーってした高そーなドレス着てんの!」
わたしも一度着てみたいわぁ、とうっとり目を閉じたら、睡魔に襲われた。酔った娘は船をこぎ、石畳の冷たい地面に頬をよせた。
「はぁ…つめたい。気持ちいい。」
「潰れるの早すぎよ。冬だってのに、あんた真っ赤よ?」
「真っ赤…そうよ。赤。」
娘は突如起き上がり、いったいどこにそんな理性が残っていたやら、きちんと正座した。
そして、酒という悪魔にでも憑かれたか、その饒舌な口で、けして言ってはならない禁句を漏らしたのだ。
遠く噴水池から、耳をそばだてていたミオは、許し難い何事かを聞き取れなかった。…ただ、「赤」という単語を除いて。
…急に恐ろしいまでの静寂に包まれた広場に、冬の北風をも増す、一陣の冷たい黒い風がよぎった。
シュッ……!!
風は刃であり、恐怖であり…死であった。
酒に溺れた娘は、その一瞬にして、尊き生命を失った。
小鳥姫には分からなかった。
目の前の出来事、悲痛な嗚咽、ごろりと転がって広がった乱れ髪、ワインよりなお赤いもの…赤き血を。
わからない、分からない。
脳が人の言葉を忘れたのか?はたまた、完全に鳥になってしまったのか?
ミオの魂はルリリから抜け出していた。……逃げたのだ。
…滑稽な顛末を嘲笑うかのように、黒鳥が城を見下ろしていた。




