二夜目-セレン
昔、守護乙女を描いた絵を見たことがあった。守護乙女は背を向けて砦の上に立っている。空は暁の色をしていた。守護乙女は手に赤い旗を掲げていて、それが大きくはためいていた。
そのは、セレンの心にずっと焼き付いていた。セレンは守護乙女を何か壮大で美しいものの化身と考えるようになった。バリート=ルーナでのきつい稽古の数々も、自分の身をその美しいものに近づけるための修行と思えば意義を見出すことができた。守護乙女の美しさは強さと分かちがたく結びついているものなのだ、とセレンは考えていた。もっともセレンは話を難しくすることは嫌いだったので、感覚的に信じていたと言ったほうが適切だった。
なので、ミラテナに戦いを邪魔されたことにセレンは憤りを感じていた。まさに決着というところで割って入るのは、ずるい卑怯なやりかたに思えた。まして今はルーナの七夜の真っ最中だ。儀式を汚す、罰当たりなやりかただ。
セレンは物陰でじっとうずくまり、痛む脇腹に手をあてていた。ミラテナから受けた攻撃のせいだ。今すぐにでも再戦を仕掛け、自分の行いの非を認めさせたいと考えていたが、思ったよりダメージは大きかった。少し身体を動かすと脇腹に鈍痛が走る。その上身体も疲労していた。
(まだ二日目か)
七夜が始まってからずいぶん経ったように思うのに、実際はまだ二夜目だ。こうして闇の中に身をひたすようにして、暗がりの中にいるせいかもしれない。きちんと時間が経っている気がしないのだ。
しかしセレンはこの状況を辛いと思いたくなかった。辛いと感じてしまうと、その分だけ自分が守護乙女となる可能性をすりへらしてしまうような気がしたのだ。
守護乙女は誰よりも、どんな時にも、たとえ卑怯者を相手にしていたとしても、正しく強くなければならない。守護乙女となるには、そのように強くあらなければならない。それがセレンの信条だった。
しかしセレンはなおもじっとしていた。呼吸を整えても手をあてても痛みはなかなか消えない。暗さの中では感覚が研ぎ澄まされ、その分痛みも増していた。意識して正しく息を吐いて吸いながら、セレンは意識を集中しようとつとめた。
とっ、とかるい音が聞こえた気がした。
セレンは音のほうにすべての意識を向けた。しばらく何の気配もしなかった。それでもセレンは緊張を解かなかった。ひどく長く経った気がした。
「だめか」
声がした。
「セレンかな? そこにいるのは」
「そうだ」
「そんなに真面目に殺気を向けてこなくてもいいのに」
「ユルネ、話はいい。やる気はあるのか、ないのか」
「ない」
「ユルネ」
暗さの中で輪郭しかわからないが、そこにユルネの気配があった。セレンはユルネの姿を輪郭の上に思い描いた。いつもなんとなくへらへらとしていて、つかみどころのないユルネの姿だ。
「怒らなくっても。ねえ、セレン。私は少し、行きたい場所がある。通してもらえないかな」
「それはできない。私たちは戦わなくてはいけないんだ」
「……後ではだめなのかな」
「七夜の間に後はないだろう」
「ねえ、セレン。私はあなたがけっこう好きなんだ。だから、戦わなくっても」
「くどい!」
セレンは構えをとった。脇腹の痛みは続いていたが、無視することにした。
「やらなきゃいけないか」
「いくぞ」
ユルネは足を踏みかえた。覚悟を決めたようだった。それに満足し、セレンは口を開いた。
「精霊よ、我が身体に宿りて、強くあらしめよ」
ユルネはこちらへ向かってきた。速い。打ち合うつもりか、とセレンは腰を落とした。今の自分は身体に魔力を帯びさせ強化させている。正面からなら負けるとは思えなかった。
ユルネが間合いに入った。とらえた、と思った。セレンはためた右腕で突きを放った。
「えっ」
右腕は、何にもかすりもしなかった。バランスを崩し、セレンはたたらをふんだ。そしてその上、ユルネの気配が消えた。
「えっ」
セレンはあたりを見回した。どこにも気配がない。しかし、かわりにほんのかすかな、かすかすぎる足音が聞こえた。
セレンはその足音を追った。かすかな足音はセレン自身の立てる音でかき消される上、どんどんと遠ざかっていく。セレンは必死になって走った。息が切れ、肺が痛んだ。
遠くに、月光に照らされている道があった。その道をほんの小さな影が横断した。影はまた闇に消え、足音はもう聞こえなくなった。
「猫?」
影は、黒い猫のようだった。セレンにはそう見えた。
「あれは……」
セレンは立ち止った。今の一連の出来事がうまく呑み込めていなかった。
そして、いきなりどん、と背中を押された気がした。
下腹から太もも、そして足までがだんだん濡れていく感触があった。セレンは混乱し、後ろを振り向こうとした。足がもつれ、セレンは地面に転んだ。
「あんまり前ばっかり見てるから」
聞き覚えのある声がした。ミラテナ、と声を出そうとしたが、口が回らなかった。
「もう一発」
また背中が押された。それと同時にセレンの意識は急に暗闇に塗りつぶされていった。