一夜目-イリト
すぐそばで響いた雷鳴を聞き、目の前で人が雷に焼かれるのを見て、イリトは思わずかぼそい悲鳴を上げた。すぐに気づき悲鳴を止め、自分の身体を物陰に隠した。しかし身体全体がぶるぶると震えるのを止められなかった。イリトは自分の腕を噛んだ。そして目を閉じた。顔を上げると、そこにハルがいるような気がした。怖くて目を開けられなかった。
(始まっちゃったんだ……)
イリトは今がルーナの七夜なのだと実感した。目の覚めた時ももちろん怖かった。しかししばらく何の音も聞こえなかったので、だんだんと緊張が薄れてきていた。
ハルとデメットの戦いを見てしまったことで、さっきまでのちょっとした心の平安など一文菓子のようにちゃちなものだと思い知らされた。イリトは声を立てずに泣いた。そして心の中でリュギを呼んだ。
イリトはもともとルーナの七夜に出たくはなかった。守護乙女になるのが至高の栄誉と聞かされても、自分とは関係のない話だとしか思えなかった。守護乙女候補を集める学院、バリート=ルーナに入ったのも、金糸ぬいとりの着物とオウムを買ってもらえるという約束を取り付けてからだった。
着物もオウムもいらない、とイリトは心の中叫んだ。宝石も読本も横笛も。何もいらないから、家に帰りたいと願った。しかしいくら祈っても、この廃都市から誰かが自分を連れ出してくれる気配はなかった。
しまいに、イリトはそろそろと顔を上げた。そこにハルがいないのを見てとって、ほっと安堵の息をもらした。
稽古にそれほど熱心でなかったことも手伝って、イリトは優秀な戦士ではなかった。格闘術をならってもさんざん傷めつけられるだけで、技は大して身につかなかった。魔法も詠唱に時間がかかり、実戦では役に立たなかった。つまりが弱かった。自分でもその弱さをよく知っていた。
反対に、今見たハルはその強さをよく知られていた。その上話しあう隙もなかった。バリート=ルーナでは少女同士の争いは禁じていたが、喋ることは禁じていなかった。いずれ戦うことになるかもしれないとわかってはいたが、だからといって今を一緒の場所で過ごしている人間を無視することはできなかった。ちょっとしたきっかけ、例えば食事の席が隣になったとか、与えられたハンカチが同じ色だったとかで、少女たちはたやすく友人をつくった。
イリトも、二三人の親しい友人をつくっていた。この友情はたいてい稽古でひどい成績を残した仲間意識からはじまった。しかし、その友人たちはイリトを残してみなバリート=ルーナから去っていってしまった。
イリトが後頼れるのは、リュギしかいなかった。リュギは他の友人とは違い、強かった。そして、学院に来る前からイリトとリュギはお互いを知っていた。
「リュギ……」
立ち上がって、イリトは名前を読んだ。自分でびっくりするくらいに弱々しい声だった。
月が上天にのぼってきていた。半月にも関わらず、さえざえと強い光を放っていた。白い砂や白い壁はその光を受けて足元を判然とさせた。
イリトはなるべく物陰を選んでそろそろと進んだ。戦いの跡の残る傍にはいたくなかった。どこにいくというあてもなかったが、止まっていると一人の孤独をがひしひしと感じてしまうのだった。
あたりの物音のいちいちに耳をそばだて、道を横切るのには時間をかけて気配をさぐってからとしたので、わずかの距離を進むにもひどく疲れた。頭が重かった。
そのとき、イリトは井戸を見つけた。道の先にちょっとした広場があり、その隅につるべのついた井戸があった。
イリトは生唾を飲んだ。気づかないうちに喉がカラカラになっていた。
(暑くもないし、そんなに動いてもないのに)
緊張からくる喉の渇きを覚えたことのないイリトは、そう不思議に思った。しかし冷たい水を飲めば、この頭の重さや速い脈拍も落ち着くのではないかと思った。辺りから物音がしないことを十分確かめてから、イリトは井戸に寄っていった。つるべをほどき、桶を落とすと、ずっと下のほうでぱちゃんと水の音がした。
なるべく慎重に桶をひいたが、きるきるとつるべは音を立てた。いつでも逃げ出せるように、イリトはあちこち目を配りながら立て膝で桶をひいた。
やっと手に入れた水は、入れた手がびっくりするほど冷たかった。両手でくんだ水を、イリトは続けざまに飲んだ。涼水が喉を通って胃の腑まで、一筋の脈を作った。なぜだか目のはしに涙がにじんだ。
四杯目かの水を飲もうとしたとき、イリトの耳はかすかな音をとらえた。水をあたりにまき散らしながら、イリトは立ち上がって後ろを振り向いた。
「にゃあ」
白黒の子猫がいた。イリトはほーっと息をついた。そこに、例えばハルの姿を思い浮かべていたので、安堵はひとしおだった。
子猫はイリトからある程度の距離をとって、じっとこちらを見つめていた。なぜか逃げようとはしない。
「水?」
喉が渇いているのかと、イリトは手に水を汲みなおして子猫を呼んだ。はたして子猫はじりじりとこちらに近づいてきた。そして、ついにイリトの手から水を飲んだ。
子猫のざらざらとした舌が手のひらに当たってくすぐったかった。イリトはそのくすぐったさをがまんしながら、子猫が満足するのを待った。
「にい」
お礼のつもりか、最後に小さく鳴くと、子猫はかるがると暗闇に消えていった。イリトは後に残された。あまり目立つところにいすぎたことに気づき、桶をもとに戻して影に走りこんだ。飲んだ分がそのまま出てきているように、ぼたぼたと涙が落ちてきた。