1. 漂流
――――ピィークルルルルルルルルルルル……。
聞いた事のない奇妙な鳴き声が、砂浜にうつ伏せで倒れるカトレアの意識を正常にさせた。
ゆっくりと目を開き、その濁りのないエメラルドグリーンの瞳を白金色の前髪から覗かせる。
――――ピィークルルルルルルルルル……。
いつまでそうしていただろうか。
やがて背中に当たる日差しに痛みを感じ、嫌々ながらも気だるい身体を無理矢理起こした。
「ここは……どこ?」
頬に張り付いた砂粒を擦り落としながら、カトレアは前方に群集する木々に目を向ける。先ほどから聞こえる鳴き声の発信源はこの奥だろうか。如何せん、耳鳴りが酷くて正確な方向がわからない。
立ち上がろうと足に力を入れると、右足首に何か絡み付いている感触があった。見下ろせば、細い糸を張り巡らせた網が何重にも足首に絡まっている。これでは立ち上がっても満足に歩くこともできない。
「ミラーナ、この網を外してちょうだい!」
カトレアは専属の侍女の名を呼んだ。
ミラーナは彼女が幼い頃から身の回りの世話をしてくれている人物で、母に次いで二番目に身近な女性である。今回はカトレアの海外治療のため、ミラーナも同じ船に乗船していたのだ。
しかし、いくら名を呼んでも応答の声が返ってこない。カトレアが困っていたらすっ飛んでくるような人であっただけに、応答無しというのは違和感を通り越して不気味に近かった。
「ちょっとミラーナ! ふざけてないで早くき……て……」
そして、ついに怒りを含んだ強い口調で声を荒げかけた時、勢いよく後ろを振り向いたカトレアの目は砂浜に横たわるある巨大な物体を捉えていた。自然と声にも張りがなくなり、怒りに吊り上がった眉が力なく垂れ下がる。
「嘘……」
ある巨大な物体。それは浜辺に横転した船の残骸だった。ほとんど原型をとどめていない中規模船が、海水の波に打たれたまま砂浜に乗り出している。昔からここにあるものじゃない。船の外見からして、つい最近ここに打ち上げられたものだ。
最悪の可能性が頭に浮かんで、カトレアの顔から血の気が引く。
次の瞬間、彼女は足に纏わりつく網を気にせずその場で立ち上がった。
「ミラーナ! どこなの!? お願い返事をしてっ!」
普段履いているヒールも見当たらず、カトレアは裸足のまま砂地を歩き回る。
自分の身に一体何が起こったのか? ミラーナは何処にいるのか? そして“あの船”は何故壊れてしまったのか?
次々と押し寄せる疑問に混乱しながらも、カトレアは見慣れたはずの世話係の姿を探す。しかし周囲にあるものは船の残骸を除き、白い砂と生い茂る密林だけ。時折横たわった人のような影を見つけたと思ったら、砕けたマストや積荷の樽であったりと、彼女の心に差した一筋の希望の光を絶え間なく消していった。
「何処にいるのミラーナ! 動けないなら答えて! 私が行くから、おねが――――ッ!?」
引きずる網に足を取られ、カトレアは声も上げられずその場で転倒する。
転んだ場所が丁度マストの帆の上だったので顔を砂場に埋めることはなかったが、それでも顔面を強打したことに他ならない。下敷きになった白い帆に、カトレアの鼻から流れ出した赤い滴がポタポタと斑点模様を描いた。
「ああ……ぃや…ミラーナ……。血が……!」
鼻筋の痛みに加え、ツンと鼻腔を刺激する血の臭いに気が狂いそうになる。ろくに足腰に力が入らず、四つん這いの状態で動くのが精一杯だった。
涙で視界が霞む。足に巻きついた網が足枷のように思えて、さらに涙した。
――――もう嫌……どうして、どうしてこんな……。
絶望に染まった顔を血と涙で濡らしながら、貴族令嬢は無人の砂浜を必死に這っていく。
もしかしたら生存者がいて、自分を見つけてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、カトレアは地を這って進んだ。
「…………」
しばらくして、彼女は最初に目覚めた場所まで戻ってきていた。
ここが特に重要なわけではない。ただ気づいたらここにたのだ。結局人影一人見当たらなくて、無意識の内に引き返していたのだろう。
鼻血はすでに止まっている。涙も枯れ、目元は赤く腫れていた。視線も焦点が定まらず、雲ひとつない青空を眺めるばかりである。
容姿も散々たるものだった。ミラーナが丁寧にカールしたロールヘアは海水に濡れてべったりとしな垂れ、煌びやかに着飾ったドレスも所々破けて小石や砂にまみれている。
王国の貴族男子たちは、今のカトレアを国一番の美女と讃えることができるだろうか。否、上辺の欲求だけで彼女に近づいた彼らにそんな心の篭った男はいない。そしてカトレア自身も、誰の助けもないこの場所ではいかに高貴な身分の女性であっても無力に等しかった。
「ミラーナ……返事なさい……」
呟いた言葉は、静かな波の音にさえ及ばない。
だがそのことが、彼女の鎮まりかけた怒りに火を付けた。
「何故黙っているの……? この私が命令しているのよ! 答えないなんて何様のつもりなのっ!?」
彼女の叫び声に、動物たちがしんと鳴りを潜める。
「今すぐ私の前に跪いて教えなさい! 船の人たちは何処!? 一体何があって、こんな場所に私を置き去りにしたのです!? そもそもここは何処なのよぉ!」
頭を抱え、激しく首を振る。
息を切らして喋れなくなっても、憎悪の言葉が呻き声となってカトレアの口から漏れた。
すると今度は惨めな自分に腹が立って、枯れたはずの涙が再び洪水となって彼女の瞳からあふれ出す。
「お願い助けて……誰でもいいから、私を家に連れて帰って……! こんなところで一人にしないでぇ……うぅ……!」
孤独という恐怖感に煽られたカトレアは、ついに地面に突っ伏すように倒れこんだ。
全て夢であればいい。そう思った彼女は、目覚めた時には自室のベッドであることを切に祈りつつ、暗闇に意識を放り出した。
再び意識を取り戻した時、空はすでに真赤に染まっていた。
いつまで眠っていたのだろうか。この砂浜で最初に身を起こした時、太陽はまだ真上に昇っていなかったはず。朝方だったのだろう。目覚めてみれば、今燃えるような夕日が海の地平線に沈んでいる。
「……うっ……」
身体を起こそうとして、全身の関節が苦しい悲鳴を上げた。
数時間以上、寝返りもせず同じ体勢で寝ていたのだから無理もない。汗を吸い込んだドレスが身体に張り付いて気持ち悪く、カトレアは思わず顔を歪める。
慎重に上体を起こして、改めて周囲を見回した。
当たり前というべきか、今朝の状態とほとんどかわらない。いや、船の残骸に鳥の群れが集っているのが見える。
夕日を背にして飛んでいるのでどんな色の鳥か定かではないが、きっと珍しい色彩を持った鳥なのであろう。近づいて観察すればはっきりするのだろうが、生憎と今はそんなことをする気力がない。
それよりも――――
「み…水……」
水分の補給が最優先だ。
泣き叫んだせいで、喉がカラカラで声も掠れてしまっている。身体が本能的に水を求めていた。
意を決して、カトレアはいうことを聞かない足に無理矢理力を入れて立ち上がり、密林の方へ足を運ぶ。
船に蓄えていた飲み水は恐らく期待できない。きっと船が壊れた時に全て漏れ出しているし、無事に残っていたとしても、それを探している間に力尽きてしまったら元も子もないだろう。
密林の中はすでに薄暗く、足場も覚束ず危険極まりない。汗に濡れた素肌を冷たい風が吹きぬけ、カトレアは反射的に肩を抱いて腰を屈めた。
外出する時は常に世話役のミラーナと護衛の兵士が身を守っていたため、独りで出歩くのは彼女も初めてのことである。しかも辺りは暗く、明かりになるものは持ち合わせていない。体力だってほとんど残っていないのだ。こんなところをこの地に住まう盗賊や動物に襲われてもしたら、到底逃げ切れそうにない。
それでも、彼女は立ち止まることなく歩みを続ける。未知の光景に恐怖しながらも、身体を丸めて一歩一歩ゆっくりと歩みを進める。
「ぁ……!」
カトレアの勇気が神に情けを与えたのかはわからない。
しかし、木々が開けた彼女の目の前には確かに、夕日に反射してキラキラと輝く水面があった。
小走りに駆け寄ってみると、直径5m程度の泉が草木の間から顔を出している。深さはカトレアの膝くらいで、水も濁っていない。
――――飲める……!
泉の前に屈んだカトレアは、両手を笠にして水中に手を差し入れた。
ひんやりとした感触が、両手を伝って全身に広がる。そのまま掬い上げて口に運ぶと、一息で一気に喉に流し込んだ。
「ん………」
口から漏れた水が顎を伝って流れ落ちる。
しかしカトレアはそんな些細なことはお構いなしといった風に、一心不乱に水を口に運んだ。こんなに水をおいしいと思ったことはこれまでにあっただろうか。紅茶やワインなんて比べ物にならない。真水だけが自分の渇きを癒してくれるのだと、どこか妄信的になりながらひたすらに喉を鳴らす。
「…………」
満足に喉を潤して、やっとカトレアは水面から頭を上げた。
顎を滴る水滴を手で拭い、彼女はその白い顔を羞恥に赤く染める。
仮にも誇り高きシュマイザー候爵家の女である自分が、幼子のように口元を濡らして水を飲んでいるなど……皮肉にも、この場に誰もいなかったことが幸いした。
だがこれで、しばらく水の心配はいらない。
助けがくるまでこの泉の傍で待機しておいた方がいいのだろうか。いや、海上から救助船がやって来るのなら、見つけやすい場所にいなければ見過ごしてしまう危険性がある。それにここは少し肌寒い。やはりあの砂浜に移動するべきか……。
痛む足をさすりながらカトレアが熟考していると、不意に指先が右足に絡まった網に触れた。目覚めた時からずっと足首に巻きついていた障害である。何度か外そうと試してみたが、複雑に絡み合っていてこれがなかなか上手くいかない。
――――何か切れそうなものがあれば、ひょっとしたら……。
何となく思いついた方法だったが、あながち捨てた手段でもないだろう。
疲れた体に鞭打って、カトレアはもう一度砂浜に向かって足を引きずり歩き出した。
船の残骸周辺には、船の中から投げ出された積荷がちらほらと散らばっている。
そのほとんどが使い物にならない木屑や木片、穴の空いた樽や割れた小瓶であった。だがその中にも無傷で残っていたり、まだまだ使い物になる品が残っていたりもする。
そもそもカトレアが生きて浜辺に打ち上げられたのがその証拠だ。とても修復できそうにないくらい破損している船から投げ出されたにも関わらず、彼女はほとんど無傷で九死に一生を得ている。 ならば船の積荷の中にも無事に残っている物があるかもしれない。あわよくば生存者も発見できるかもしれなかった。
「……あったわ……!」
足の裏を角材で傷つけないよう慎重に砂浜を探索していたカトレアは、根元からへし折れて倒れるマストの下を覗き込んで偶然それを見つけた。
隙間に手を伸ばし、手探りでそれを自分の方へ引き寄せて掴み上げる。
――――これで網が切れるかしら?
彼女が拾ったのは刃渡り20cmほどの鞘付きナイフであった。
乗員していた水夫の誰かが携帯していた物だろうか。鞘から抜いてみると、やはりまだ新しい。丁寧に管理されていたらしく錆や刃こぼれも見当たらない。ともあれ、これで網を切断することができるだろう。
足に絡まる網を一掴みにし、利き腕に握ったナイフをその束に押し当てる。少し力を入れてみたがびくともしない。次に前後に押し引いてみた。ブチブチと音を立て太い糸が切れていく。
十分ほど経過したくらいだろうか。
ナイフの扱いに慣れず四苦八苦しながら、何とか足の邪魔物を排除することに成功。立ち上がって足の具合を確かめると特に問題はない。
とりあえず一安心して、カトレアは安堵のため息を吐いた。これで歩行に支障をきたすこともない。
それから日が沈むまでの一時間ほど。
カトレアは闇夜に灯す火種を確保するため、船の残骸に近づいて瓦礫の山を物色していた。まるで物乞いのようだと彼女自身屈辱に心を痛めたが、生きるためなら仕方がないと途中で腹を括ってしまっている。手伝いをしてくれる侍女や小姓はここにはいない。ならば自分でするしかないだろう。
砂浜で拾ったナイフは護身用も兼ねて身につけていた。土地勘のないこの地で、いついかなる外敵が襲ってくるかもわからない。それに頑丈に閉じられた木箱をこじ開けるのにも一役買ってくれそうだと、カトレアは考えていた。最も、それほど頑強に作られた箱を非力な女性が刃物一本でこじ開けるのは至難の業であるが……。
結局その日一時間の間に彼女が確保したものは、吸水を逃れたマッチ十数本と破損していないオイルランプ一台。それから焚き火用に集めた船の木材を数切れである。
日はすでにそのほとんどが地平線に隠れ、空の漆黒はより一層目立っていた。早々に明かりを点けなければ何も見えず大変なことになるだろう。月明かりだけではさすがに心細く、光源の多い都会暮らしのカトレアには耐えられそうにない。
「えーっと……確かマッチの火はこう点けるのよね……?」
自室のランプに火を灯すミラーナを見様見真似に、カトレアもヤスリにマッチを擦って火を熾そうとする。
しかし火花が散ったり力を入れすぎてマッチが折れたりと、そう上手くいかない。
だんだん暗くなる景色に焦りを感じ、さらには思い通りにいかない自分の不器用さに腹が立ってくる。
「ああもう! 早く点きなさい!」
ボォウ!
瞬間、擦ったマッチが音を立てて激しく着火した。
「きゃあ!」
驚いたカトレアが、手に握ったマッチを思わず放り出してしまう。
するとどうだろうか。彼女の手を離れた火種は板切れの上に落下し、そのまま火元を木片に移して激しく燃え上がった。
「…………」
突然のことに驚いて言葉も出ない。
しばらくその小さな焚き火を呆然と眺めていたカトレアだったが、パチッという音にはっとして慌てて木切れを組み足した。オイルランプにも火を灯し、ある程度の光源を確保する。
――――まさか……私が一人で焚き火を熾すなんて……。
明るくなった周囲を見て、カトレアは信じられないといった風に目を丸くした。
今まで何をするにしても他人の手を借りる必要があっただけに、助けなしに何かも一人で実践するというのは新鮮な感じである。両親は焚き火なんてしたことがあるだろうか。ランプに火を灯すことはともかく、薪でもない船の木材を焚き木代わりにして火を熾すなんて普通はないだろう。
「ふ、ふふ……やはり私はシュマイザー家に相応しい女なのよ。外見だけで近づく男どもなんて私に吊り合わない。そうだわ! 一人じゃ何もできない貴族なんて、所詮は落ちこぼれよ!」
これはきっと、神が自分に与えた試練に違いない。
内に秘めた本領を発揮させるために、こんな不便な土地に送り込んだ。でなければ、自分一人だけが生き残っているはずがないではないか。
「いつかお兄様たちを追い抜かしてあげるのだから。お父様も見返して、私を認めさせて……それからお母様から、いっぱい褒めてもらって……」
活気づいたカトレアの口調はしかし、言葉を紡ぐたびに徐々にその覇気を失っていった。暗闇に照らされる彼女の表情も、さらに暗い影を落として憔悴している。
「…………」
完全に黙り込んだカトレアに代わって、波の音や虫のさえずりが音色を奏でる。焚き火が時折パチパチと弾き、俯いてしまった彼女の姿をより鮮明に映し出す。
――――と、その時。
何の拍子もなしにすくっと立ち上がったカトレアは、ナイフとランプを手に取るとそのまま海辺の方に歩いていった。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、何やら大きな布が握られている。ランプの明かりに照らされたそれは、どうやらマストに取り付けられた船旗のようであった。なるほど、ナイフを使ってマストから旗を切り取ったのだろう。
カトレアはその旗を焚き火から距離を置いたところに広げると、自身も旗の中に潜り込んで毛布代わりにする。顔まですっぽりと旗に包まると、それきりまったく動かなくなった。
――――いや。
「…ぅ……ぅう……お母様…ミラーナ……」
僅かであるが彼女の身体は小刻みに震えているのが確認できる。
嗚咽に混じり、鼻を啜る音もあった。
「……一人にしないでぇ……うっ…一人は、嫌……」
そして、やがてその啜り泣きも完全に途絶え、あたりは再び静けさに包まれる。
ただひとつ。焚き火だけがか弱き少女の身を温めんと激しく燃え盛っていたが、次第にそれも勢いを失い、一時間もしないうちに火の根を絶った。
王国暦341年6月27日。
カトレアは生まれて初めての野宿を経験する。
彼女の長く険しい過酷な漂流生活は、まだまだ始まったばかりであった。