おっさんと俺の話
12歳。オヤジができて、母親を失くした。
「なあ、母ちゃん。なんでそいつなんだよ。もっとまともな男がいるだろう」俺の抗議も空しく、母親の意志は固かった。あれは、12歳、中学一年生の頃の6月。やたら、長い梅雨で、6月の初めに降り始めた雨は、25日を過ぎても止むことなく、地面を濡らしていた。おかげでランニングと筋トレばかりの部活はずっと休みで、入部一カ月でやる気をなくしていた俺は、これを機に完全なる幽霊部員化する決意を固めていた。
そんな時、母親から再婚の話を聞かされた。とりあえずその人に会ってほしいと言う。再婚。新しい父親。会う前に聞かされた情報は、大企業に勤めるサラリーマンということだった。その話を聞いて俺は不覚にもちょっと浮かれてしまった。想像してしまった。スーツをパリッと着こなして、さっそうと会社へ向かうカッコいい父親の姿を。酒の飲み方を教えてもらったり、人生のアドバイスを面倒臭そうに聞くのもいいかもしれない。女のことで悩んだら相談できるかもしれない。口では「何で俺が行かなきゃ行けねえんだよ」っていいながらも内心まんざらでもなく、待ち合わせのファミレスに母親に連れられて行った。
「君がたけしさん?よろしく」そう言って手を差し出した新しい父親は、ダサかった。猛烈にダサかった。小太りチビでバーコードハゲ。よくもまあ、こんなに3拍子そろったもんだ。ブサイクの3冠王だ。俺の心は0.1秒でシャッターを下ろし、頭はそっぽを向いた。ダサい大人は嫌いだ。
「たけし。ちゃんと挨拶しなさい」そう言って母親に頭を小突かれたが、「うるせえ」と言い返した。
俺の気持ちとは裏腹に再婚話はとんとん拍子に進んだ。1カ月後、俺達はハゲのおっさんが買ったマンションに引っ越した。ピカピカ3LDKだ。母ちゃんと二人で住んでいたおんぼろアパートとは段違い。俺の部屋も用意されてた。ご丁寧に、新しい勉強机や、オーディオ、ベッドなんかも備え付けられていた。でも、そんなことくらいで簡単に心を許すもんか。
次の日、タケルに相談した。
「あのおっさんを追い出すにはどうすればいいと思う?」
タケルには、母親の再婚や、新しい父親が猛烈にダサいことなんかはすでに話していた。
「追い出すって、おっさんの買ったマンションだろう?」
「でも、あのおっさんと一緒に暮らすなんて嫌なんだよ。とにかく、母ちゃんとおっさんが離婚してくれればいいんだ。別におんぼろアパート暮しに戻ったっていい」
「まあ、そんなに嫌なら地道に嫌がらせをするしかないだろうな」
「どうすりゃいいかな?」
タケルはこういう時知恵が廻る。嫌がらせのアイディアなんて、売るほどに出てくる。悪意の沸き出る魔法の泉だ。
タケルは少し考えて、「こういうのはどうだ」と言った。さすがタケル。頼りになるやつ。
深夜2時、俺は母ちゃんとおっさんの寝室に忍び込んだ。おっさんと母ちゃんは同じベッドで寝ている。幸せそうな寝顔だ。許すまじ。俺は正義のヘッドフォンをおっさんの耳に装着し、オーディオとつないだ。そして、ニルバーナのCDをセットし、ボリュームを目いっぱい上げてから再生ボタンを押した。「お父さん。息子の好きな音楽を聞いてみてよ」。おっさんはしばらく「ううん」と唸った後、びくんびくんと体を動かし、最後には「ギャー」と叫んで飛び起きた。音楽の力は偉大だ。
さすがにおっさんも怒るだろうと思ったが、俺を見て、「ああ、たけし君か。びっくりした」と言っただけで、すぐにまたベッドへ入った。リアクションの薄いおっさんだ。面白くねえ。こうなったら持久戦だ。
それから1カ月、俺はおっさんに嫌がらせを続けた。おっさんの通勤鞄にエロ本をしこんだり、おっさんが毎日会社に持っていくペットボトルのお茶にワサビを入れておいたり、タケルのアイディアを全て実行した。なんせ、俺と母ちゃんの幸せのためだ。しかし、おっさんはいつでも困ったような笑顔を浮かべるだけで、いつまでたっても怒ることすらしなかった。神経がどこかいかれてる。
「たけし。何で秀人さんにイタズラばっかりするの?」母ちゃんがおっさんの代わりに怒ってくる。困ったような悲しそうな顔だ。違うんだよ。母ちゃん。俺はおっさんから母ちゃんを守りたいんだ。二人だけの幸せな生活に戻りたいんだ。でも、俺の口から出る言葉は「うるせえ」だけだった。いつかきっとわかってくれるってことを願いながら。
次の日、母ちゃんが死んだ。おっさんの誕生日の買い物にとちょっと遠くのショッピングモールまで、ハゲ隠しの帽子を買いに行き、その帰りにトラックに跳ねられた。その晩、俺は、一睡もせずに白い布をかぶった母ちゃんに寄り添っていた。その隣におっさんも寄り添っていた。手には母ちゃんが命と引き換えに買ってきたブランドもののハンチング帽が握りしめられていた。おっさんがあまりに強く握るのでせっかくの新品の帽子はすでにくしゃくしゃだった。おっさんは「たけしくん・・」と俺に何か話しかけてきたが俺は徹底的に無視をした。やっぱり俺が母ちゃんを守ってやるべきだったんだ。もっと強引に、再婚に反対しておくべきだったんだ。悲しさよりも怒りが込み上げてきて、おさまりがきかなかった。「お前が母ちゃんを殺したんだ」おっさんを睨みながら言ってやったら、おっさんは俯いたままで何も言わなかった。俺は絶対お前を許さない。一生かけてこの償いをさせてやる。俺は母ちゃんの動かない指を見ながら固く心に誓った。
俺はそれから、家を出てタケルの家にしばらく泊ったけど、すぐに連れ戻された。現実問題、友だちの家にいつまでも世話になっているわけにはいかず、12歳の俺には保護者のもとに帰る他には選択肢はなかった。そして、おっさんと二人っきりの生活が始まった。もちろん俺達の間に会話はなかった。始めのうちは俺のために朝食と夕食が用意されていたが、俺はそれに一度も手をつけることなく、おっさんの金を盗んで飯を食っていたため、一カ月くらいたつと、テーブルの上に毎日2千円が置かれるようになった。俺は何も言わずにそれを毎日使った。おっさんはたまに俺に話しかけてきたが、俺はまだ無視を決めていた。
そんな生活が2年続いた。2年という歳月は、残酷に、かつゆったりといろいろなものを変えていってしまう。あんなに大きかった母ちゃんを失った悲しみも、おっさんへの怒りもだんだんと薄れていって普段の生活では思い出すことも少なくなっていく。そして、時として、おっさんに対し、ふと感謝の気持ちを抱くことさえあった。俺と母ちゃんの幸せな生活に急に割り込んできて、母ちゃんを殺したおっさん。しかし、一方で可愛くもない連れ子の俺を文句も言わずに面倒見てくれている。配偶者である母ちゃんはもう死んでいるのに。憎しみと感謝が入り混じる感情を15歳の俺は消化できずに苛立った。そして、日に日に感謝の気持ちが大きくなってきていることを実感していたが、それを言葉や態度に出すことはできなかった。それをやってしまうと何かが決定的に損なわれる気がしていた。
中3になった俺は進路を決めなければいけなかった。俺は勉強だけは真面目にやっていたため、私立の進学校にも行ける成績だったが、問題は私立は金がかかるということだった。いや、私立でなくとも高校進学には金がかかる。学費や生活費は誰が出すのか?決まってる。保護者であるおっさんだ。でも、心の中ではそれを期待しているのに、おっさんに頼むことはプライドが許さなかった。中学卒業を機に、家を出て働いて暮してもいい。そうすればおっさんとはさよならだ。もともと親子じゃないんだ。俺だってさっぱりするし、おっさんもせいせいするだろう。でも、高校にも行ってみたい。人並みの青春も送ってみたい。そんな初めての人生の選択で心は揺れており、秋になっても結論を出せずにいた。
それからしばらくして3者面談があった。3者とはもちろん先生と俺、そして保護者、つまりおっさんのことだ。進路の結論を出せない俺はおっさんには3者面談のことは言っていなかった。3者面談のその日、放課後の教室で先生と向かい合い、保護者が来れない旨を伝え、進路については適当にはぐらかそうと思っていたら、ガラガラと扉が空いた。おっさんだ。走ってきたのか汗を拭いながら、「遅くなってすいません」と帽子をとった。その帽子はどういうわけか母ちゃんが死んだ日に買ったハンチングだった。先生にどうぞと促されて、少し戸惑いながら俺の隣に座った。
「たけし君の学力ならK高を狙えると思いますが」という先生に対しすぐに「もちろん、この子が行きたい高校であればどこでも行かせたいと思っています。K高ですか。たけし君はそこでいいのか?」と俺を見ながら言った。K高。俺の行きたい私立だ。「でも・・・」俺は何も言えず下を向いてしまった。「たけし君。君は何も遠慮も心配もしないでいい。君は行きたい高校に行って、自分がしたいことをすればいい。自分がやりたいことを見つけて、それを実現すること。それだけを考えていればいい」おっさんは力強く言った。「じゃあ、第一志望はK高でいいな」先生が念を押し、俺の希望進路はK高に決まった。俺は、なんだか、何も言えなくなってしまった。実際、面談が終わるまで一言もしゃべれなかった。そして面談が終わり、おっさんと二人で帰ることになった。
家までは徒歩で20分。俺はおっさんと二人っきりで歩きながら、何かを言いたかったが、言葉はやっぱり出てこなかった。本当は聞きたかった。ただの母ちゃんの連れ子で、まったく懐かないし、可愛くもない俺の面倒をなんで見てくれるのかと。まさか俺のことを本当に自分の子供のように思ってくれているのかと。そして、進学させてくれて本当にありがとうと。今言わないと一生言えない気がしたので、勇気を出して言おうと思いながらも、第一声さえ、全く出てこなかった。
そんな時、突風が吹いておっさんのハンチングが風に舞い2車線道路の真ん中に音もなく墜ちた。道路は車の行き来が激しく、このままではハンチングは車輪の下敷きになるだろう。おっさんのハンチングがぺしゃんこになる様を俺は絶対に見たくなかった。俺は反射的に道路に飛び出し、ハンチングを拾い上げようとした。しかし、風が巻き起こり、うまく拾えない。やっと掴めたと思った時、「たけしー!!」という叫び声とけたたましい大型ダンプのクラクションの音、そして何かが俺にぶつかって俺は道路の向こう側に倒れこんだ。一瞬車に跳ねられたのかと思ったが、違った。跳ねられたのは俺ではなくおっさんだった。間抜けな俺がダンプに跳ねられそうなところを、おっさんが俺を突き飛ばし身代りに跳ねられて、頭から血を流して倒れていた。即死だった。
おっさんの葬式には意外にもたくさんの人が集まった。大企業のサラリーマンということだから、義理で参列している人ばかりかと思ったら、遺影の前で肩を震わせて泣いている人がけっこういた。また、何人もの友人や同僚が俺に声をかけてきた。「お父さんには本当にお世話になってね。僕が職場で上司から理不尽な仕打ちを受けている時に、お父さんだけが僕の味方になって戦ってくれたんだ」「お父さんは誰かが悩んでいる時はそっと悩みを聞いてくれるような人だったよ」「君のお父さんとは学生時代の友人でね。おじさんが将来のことで悩んでいる時にすごく真剣に相談に乗ってもらったんだ」
おっさんの人柄について、たくさんの人が教えてくれた。でも俺からは何一つ話すことができなかった。2年も一緒に生活していたのに、俺はおっさんのことを何一つ知らなかったんだ。知ろうとしなかった。何であんなに憎んでいたんだろう。なんであんなに嫌っていたんだろう。母ちゃんが死んだのだっておっさんが悪いわけじゃないのに、そんなことわかっていたのに。それでも、俺はおっさんが殺したと勝手に決め付けてた。だいたい、母ちゃんはおっさんと再婚してほんの数カ月だったけどすごく幸せそうだったじゃないか。おっさんに幸せにしてもらってたんじゃないか。俺だって、おっさんが守ってくれてたから生活できてたんだ。まったく懐かない俺の将来のことまで考えて、高校に進学させることまで決めていた。そして、最後は俺の身代りに死んじまった。
夜になって、俺はおっさんと俺が暮したマンションに帰った。そして、2年間入ったことのないおっさんの部屋を開けた。おっさんのことが知りたかった。もう遅いとわかっていたが、それでも知らなくちゃいけないと思った。部屋にはきちんと整頓されたベッドに机、本棚。机の上には俺と母ちゃんとおっさん、3人で撮った写真が飾られていた。再婚してすぐ、記念にとったたった1枚の写真だ。俺は無理やり写真に入らされたため、ぶすっくれていた。本棚には経済の本や、時代小説がきちんと並べられていた。その中に、タイトルのない本があった。少し気になって手に取って見ると日記だった。俺はそれをぱらぱらとめくった。
「靖子さんとたけし君と今日から家族になった。嬉しくてたまらない。僕は二人を命をかけて守っていきたい。たけし君は僕のことを嫌っているが、靖子さんを守ろうと必死なんだと思う。本当はすごくいい子なんだとわかる。父親と認めてもらうには時間がかかると思うが、彼が困った時は手を差し伸べて、彼が成長していくための手助けを一生したいと思う。父親として」
「靖子さん。君を守ると誓ったのに死なせてしまうなんて本当に申し訳ない。悲しくて辛くてやりきれない。愛する人を失うことがこんなに辛いことだとは思わなかった。いっそのこと、後を追おうかとも思ったが、僕にはまだたけし君がいる。僕はたけし君の父親だ。靖子さん。たけし君だけは僕が立派に育てるので安心して安らかに眠ってください。たけし君のことは何があっても絶対に守ってみせます。命にかえても守ってみせます。本当に、たけし君のためなら自分がどうなってもかまわないと思う」
「たけし君はなかなか僕を許してくれない。当たり前だ。僕が彼から母親を奪った。父親だなんて思えないだろうし、僕の保護のもとで暮して行くなんて耐えられないだろう。でも、それでも僕はたけし君を守って行きたい。たけし君は僕の子供なのだから」
「たけし君は今日から2年生だ。相変わらず僕には心を開いてくれないが、学校ではちゃんといい子にしているらしい。成績もいいようだ。あんなに辛いことがあったのに、それを乗り越えてちゃんとやっている。本当に立派な子だと思う。僕にはもったいない子だ。たけし君が将来に何か望みがあるのならなんとしても叶えてあげたい」
「今日は、とてもいいことがあった。たけし君がおはようと言ってくれた。ただそれだけだけれどすごくうれしい。本当に素直ないい子だと思う。彼の父親でいさせてくれることに感謝」
「そろそろ3者面談だ。学校の先生に聞くところによるとたけし君は成績がすこぶるいいらしい。K高も狙えるレベルとのことだ。父親として特に何もできていないが、それでも鼻が高い。自慢の息子だ。もしかしたら彼本人は高校なんて行かないと言い出すかもしれないが、絶対に希望の高校に行かせようと思う。そうやって自分の人生の選択肢を広げてやりたいことを見つけてほしい。ちょっとドキドキするが、3者面談にも行ってみようと思う。そこで、遠慮なく希望の高校に行けるようにはっきりと言ってやろうと思う。靖子さんも少し力を貸してください」
日記はそこで終わっていた。当たり前だ。この後、ダンプに跳ねられて死んじまったからだ。俺は日記を捲りながら、涙がぼたぼた落ちてくるのを止められなかった。自分でもおかしかった。泣いても泣いても自分でコントロールできずに涙が出てくる。そして言った。「とうちゃん・・・」
何で一度も呼ばなかったんだろう。本当はとっくにそう思っていたのに。何で一度も言葉に出して言わなかったんだろう。おっさんに会いたかった。会って言わないといけないことがある。もう手遅れだとはわかっているけど、でもどうしても言わなくちゃいけないんだ。俺はふらふらと立ち上がりドアを開けてマンションを後にした。おっさんの遺体が安置されている葬儀場へは徒歩10分。夜道を歩きながら人目もはばからずに泣いた。すれ違う人が心配そうに見ていたが全く気にならなかった。
「とうちゃん。待っててよ。とうちゃん・・・うわーん。うわーん。」歩きながら涙と鼻水がぼたぼたと落ちてきてたまらなかったが、それでも拭わずに歩いた。だって、拭ったところで失ったものはもう戻ってこないから。もう遅い。
「もう・・・何にもないよ・・・父ちゃん・・・全部、無くなっちゃったよ。俺にはもう何にもないよ。とうちゃん。待っててね。今行くからね。」そして、言わせてほしい。「ありがとう」って。もう聞こえないことはわかっているけど。