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父の看病で十年遅れましたが、二十八歳で社交界にデビューします

掲載日:2026/11/07

 家政婦か、話し相手か、子守りか。


 喪が明けた朝、わたしの前には道が三つ並べられました。三人とも親切で、三人とも本気でした。そして三つとも、行き先は同じでした。


 次は、誰の世話をするのか。


 父が倒れたのは、わたしのデビューの十日前です。十六の春に仕立てた白いドレスは、それから十二年、衣装部屋の箱の中にあります。父を見送って一年半。灰色の半喪(はんも)の服を畳んだ今朝、わたしは二十八歳でした。


 朝食の席には、三人がそろっていました。

 上座には、従兄のライオネル。父の死と同時に準男爵の位とこの屋敷を継いだ人です。娘しかいない家の屋敷は、男系の従兄に渡る。この国では、それが決まりでした。喪のあいだ、従兄はわたしを追い出しませんでした。世間はそれを親切と呼びました。

 その隣に、父の姉のコンスタンス叔母様。向かいに、妹のドーラ。嫁ぎ先から、わざわざ馬車で来てくれたのです。

 卵は半熟、トーストは薄く、叔母様の紅茶には蜂蜜をひと匙(さじ)。献立を決めたのは、わたしです。十年、そうしてきました。

 ライオネルがナプキンを膝から外して、最初に口を開きました。

「メイベル。四季払い日のあとのことなんだが」

 三月二十五日。従兄が奥方と子どもたちを連れて、この屋敷に移ってくる日です。

「屋敷のことは、君がいちばん知っている。リネンの数も、地代の帳簿も、料理番の癖も。残って、家のことを見てくれないか」

 穏やかな声でした。従兄は悪い人ではありません。

「家族なのだから、給金というのも水くさいだろう」

 わたしが返事をする前に、叔母様が紅茶のカップを受け皿に戻しました。

「それより、わたくしのところへおいでなさい。話し相手が欲しいと思っていたの。給金も出してあげます」

 叔母様は、わたしの灰色の袖口を、ちらりと見ました。

「もう若くないのだから。身の振り方を決めなくては」

「待って、叔母様」

 ドーラが身を乗り出しました。

「姉さんは、うちに来るのよ。子どもたちが、姉さんに会いたがってるの。下の子なんて、熱を出すと『おばさまの歌がいい』って泣くんだから」

 三人とも、わたしを見ていました。

 わたしは、トーストにバターを塗りかけたまま、ナイフを止めていました。


 家政婦。話し相手。子守り。

 頭の中で、並べてみました。

 叔母様の申し出を受ければ、わたしは給金を受け取る「勤めに出た娘」になります。勤めに出た娘は、女王陛下に拝謁できません。働いて暮らしていくことはできても、あの扉は二度と開かない。

 従兄の申し出なら、給金はありません。そのかわり、わたしは拝謁を受けていない娘のまま、この家に残ります。拝謁を受けていない娘は、いくつになっても「家の子ども」です。縁談も住まいも、家長が決めます。

 ドーラのところへ行っても、同じことでした。

 三つとも、道の名前が違うだけでした。


「少し、考えさせてください」

 そう言うと、叔母様は「考えることなんて」と笑い、ライオネルは「もちろん」とうなずき、ドーラは「姉さん、絶対うちよ」と念を押しました。


 部屋に戻ると、机の上に、日誌が十冊並んでいました。

 父の脈、熱、眠った時間、食べたもの、飲んだ薬。寝返りを打たせた刻(とき)と、床ずれに塗った軟膏。最初の一冊は十六のわたしの丸い字で、十冊目は、二十六のわたしの、角ばった速い字です。

 日誌のわきに、封を切ったまま返事を出していない手紙が一通ありました。半年前に届いた、知らない方からの礼状です。差出人は、ヘップワース伯爵未亡人。

〈あなたの書き付けのおかげで、夫を穏やかに見送ることができました〉

 わたしの書き付けが、どうして伯爵家に届いたのか。分からないまま、返事を書きそびれていました。


 衣装部屋の奥に、細長い箱があります。

 紐をほどいたのは、十二年ぶりでした。薄紙を一枚めくると、白い袖が現れました。肩のところで、ふっくらと膨らませた袖。十二年前には、これがいちばん新しい形でした。今年の娘たちは、もっと細い袖を着るのだと、ドーラが言っていました。

 あの春、わたしはこのドレスで、女王陛下の前に出るはずでした。

 十日前の朝、父が階段の下で倒れて、わたしは箱の紐を結び直しました。それきりです。

 箱の蓋を、閉じませんでした。


 夕食の席で、わたしは言いました。

「今年の拝謁を、受けます」

 ドーラがフォークを落としかけました。

 叔母様は、一拍おいてから、笑いました。上品な、短い笑いでした。

「二十八で? 十六の娘たちに混じって、白いドレスで?」

「はい」

「家名の笑いものですよ、メイベル」

 ライオネルは、困ったように眉を下げました。

「まあ、好きにするといい。推薦の婦人が見つかればね」

 それきり、従兄は鶏肉を切る作業に戻りました。見つかるはずがない、という顔でした。


 その晩、玄関の呼び鈴が鳴りました。

 木曜でした。十年、木曜の夜にこの呼び鈴を鳴らしたのは、一人だけです。

「夜分に失礼します」

 ジョナス・リード先生は、帽子を胸に当てて、玄関の灯りの下に立っていました。父の主治医です。十二年前は、年寄りの先生の鞄を持ってくる徒弟でした。

「最後のお勘定の、受け取りを。遅くなりました」

 一年半も前のお勘定です。先生は、紙を一枚わたしに差し出して、それから何か言いかけ、やめて、別のことを言いました。

「十年、お疲れさまでした」

 わたしは、ありがとうございます、と頭を下げました。

 先生の馬車の音が遠ざかるのを、玄関で聞いていました。

 終わったのだ、と思いました。あの十年は、もう、誰かにねぎらってもらうだけのものになったのだと。

 拝謁は、七日後でした。


 拝謁には、推薦の婦人が要ります。すでに拝謁を済ませた既婚の婦人が、娘の名を名簿に連ね、当日は女王陛下の前まで導くのです。


 翌朝、叔母様の部屋の扉を叩きました。

「お断りします」

 頼みを最後まで言う前に、叔母様は刺繍の枠から顔も上げずに言いました。

「わたくしの名で、二十八の娘を陛下の前に出せと? メイベル、あなたは気の利く子だと思っていましたよ」

 針が、布を一度くぐりました。

「話し相手の件は、まだ待ってあげます。四季払い日までにね」


 昼過ぎには、ドーラが来てくれました。

 妹は玄関に入るなり、わたしの両手を握りました。それから、その手をなかなか離しませんでした。

「ごめんなさい、姉さん」

 夫のフェアクロス氏が、だめだと言ったそうです。妻が二十八の姉の推薦の婦人になれば、自分の家まで笑われる、と。

「わたし、言い返したのよ。でも……」

 ドーラは、わたしの顔を見ないで話しました。子どもの頃から、隠しごとがあるとき、この子は人の肩のあたりを見るのです。

「いいのよ」

 わたしは言いました。妹を困らせるのは、わたしの望みではありません。

 ドーラが帰ったあと、机に戻って、ヘップワース伯爵未亡人の礼状を、もう一度開きました。


 ヘップワース邸は、王都フェアヘイヴンの西の丘にありました。

 取り次ぎを頼んでから半刻(はんとき)、待たされました。そのあいだに、廊下を三度、別々の侍女が小走りに過ぎていきました。一人は湯たんぽを抱え、一人は空の薬瓶を、一人は何も持たずに。

 通された居間で、老婦人は長椅子に脚を投げ出していました。左の足首に、厚い包帯。

「アシュクロフトのお嬢さんね。あの書き付けの」

 鋭い目の方でした。

「お返事も差し上げず、失礼をいたしました」

「半年も待たせておいて、用があるときだけ来るのね」

 言われて、当然でした。わたしは頭を下げて、それから、言うつもりのなかったことを口にしていました。

「奥様。差し出がましいのですが、お薬は何時にお飲みですか」

 老婦人の眉が上がりました。

「……知りませんよ。侍女たちが持ってくるときに飲むの」

「さきほどの方々は、湯たんぽと薬瓶を、それぞれ別にお持ちでした。お三人とも、ご自分の受け持ちが何時か、ご存じないようにお見受けしました」

 わたしは手提げから鉛筆を出し、紙をお借りしました。痛み止めの間隔、湯たんぽを替える刻、包帯を巻き直す順番。足首を高くしておく枕の数。十年、父の寝台のわきで書いてきた表です。書き終えて、呼び鈴で来た侍女に渡すと、侍女は紙を両手で持ったまま、目を丸くしていました。

「これがあれば、廊下を走らなくて済みます」

 侍女が下がってから、老婦人が言いました。

「それで。用は何なの」

 わたしは、拝謁のことを話しました。推薦の婦人がいないことも。

 老婦人は、包帯の足を見ていました。

「なぜ、二十八で白いドレスを?」

 縁談のためです、と言えば、話は早かったのかもしれません。家名のため、と言ってもよかった。

「十六のわたしが、まだ扉の前に立っているからです」

 そう答えていました。自分のための言葉を口にするのは、ずいぶん久しぶりでした。

 長い沈黙のあとで、老婦人は短く笑いました。叔母様の笑いとは、違う笑いでした。

「いいでしょう。わたくしの名を貸します」

「……ありがとうございます」

「ただし、一つだけ。当日の刻限に遅れたら、二度目はありませんよ。わたくしは、もう七十二ですからね」

 それから老婦人は、ふと思い出したように付け足しました。

「あなたの書き付けを見せてくれたのはね、リード先生よ。夫を看取るとき、この書き方で日誌をつけなさい、と言って。あの先生、ほかの家にも配っているわ。『アシュクロフト嬢の書き付け』と呼んでね。わたくしが後ろ盾をしている施療院の看護婦たちにも、あれで日誌をつけさせています」

 わたしは、何と言えばいいのか分かりませんでした。


 その夜、衣装部屋の灯りの下で、わたしはドレスの袖の糸を切りました。

 膨らみの芯に入っていた薄い布を抜き、袖を細く縫い直します。針を持つ手は、思ったより迷いませんでした。十年、包帯を巻き、湿布を縫い、父の寝間着の綻(ほころ)びを繕ってきた手です。

「夜分に失礼します」

 声がして振り向くと、戸口にリード先生が立っていました。執事が通したのでしょう。

「ヘップワース様の往診で、伺いました。推薦の婦人を、得られたと」

「先生が、わたしの日誌を、よそのお家に」

「……お父上の、お許しはいただいていました。ご本人に言わなかったのは」

 先生は、言葉を探して、見つけられないようでした。

「すみません」

「怒っていません」

 怒る気持ちは、どこを探してもありませんでした。かわりに、胸のどこかが、ほどけたように温かかったのです。

 わたしは縫いかけのドレスを置いて、立ち上がりました。

「先生。拝謁のあとの舞踏会では、デビューの娘は最初の一曲を踊ります。十二年、一度も踊っていません。練習の相手を、お願いできますか」

 先生は、ひどく困った顔をしました。

 衣装部屋は狭く、わたしたちは二歩ごとに箪笥(たんす)にぶつかりました。先生は、三度わたしの足を踏みました。三度目に、先生は手を離して言いました。

「医者の徒弟は、踊りを習いませんので」

 わたしは、声を立てて笑いました。自分の笑い声を聞いたのは、いつ以来だったでしょう。

 帰りぎわ、玄関で先生は帽子をかぶり、それから少しだけ振り返りました。

「往診のない夜なら、いつでも空いています。何かあれば、診療所の戸を叩いてください」


 拝謁まで、三日になりました。

 ヘップワース家から名簿に名を連ねたという知らせが届いた晩、夕食の席で、ライオネルがグラスを上げました。

「良い知らせがある」

 従兄は、心から嬉しそうでした。

「ケイルウッド準男爵から、君への申し込みがあってね。家長として、お受けした」

 わたしは、スープの匙を置きました。

「サー・アンブローズは、隣の領地の方だ。三年前に奥方を亡くされて、お子さんが五人。お母上が、もう長く寝ついておられる」

 ライオネルは、わたしのほうへ身を乗り出しました。

「君にぴったりの縁談だろう? 病人の世話なら、君の右に出る者はいない」

 叔母様が、ナプキンで口もとを押さえました。

「良いお話だこと。二十八で、準男爵家の奥方。望める以上ですよ」

「届けは、拝謁の日の朝に、宮内府(くないふ)へ出しておく」

 従兄は、何でもないことのように言いました。

 婚約が宮内府に届けられれば、その娘は拝謁の名簿から外れます。拝謁は、未婚で、婚約もしていない娘のための儀式だからです。

「ライオネル。わたしは、まだお返事を」

「拝謁を受けていない娘の縁談は、家長が受けるものだよ、メイベル。君も知っているだろう」

 知っていました。だからこそ、わたしは拝謁を受けたかったのです。

 従兄は、悪意のない顔で続けました。

「それに、隣なら都合がいい。正直に言うとね、帳簿を見たんだ。家政婦長を雇えば、年に百五十ヘスペルかかる。君が隣にいてくれれば、困ったときは聞きに行ける」

 叔母様が、それはいいわね、と笑いました。

 わたしは、皿の上の鶏肉を、最後まで食べました。残すと料理番が気にするからです。こんなときにまで、わたしはそういうことを考えるのでした。


 翌日、村の薬屋の前で、リード先生の馬車と行き会いました。

 先生はもう、縁談のことを知っていました。村では、話はすぐに回ります。

「ケイルウッド様のお母上は、わたしの患者です」

 先生は、手綱を持ったまま言いました。

「骨の病で、痛みが強い。夜も、あまり眠れません。お子さんたちも、そのせいで」

「わたしに、ぴったりのお話だそうです」

 先生は、しばらく黙っていました。それから、言葉を一つずつ置くように言いました。

「……良いお話だと、皆さんは言うでしょうね」

 それだけでした。

 わたしは、そうですね、と答えて、薬屋の扉を押しました。

 あなたも、そう思うのね。

 そう聞こえたのです。


 その夜、ドーラが、子どもたちを夫に預けて、一人で来ました。

 妹は、わたしの部屋の寝台に腰かけて、長いこと黙っていました。それから、わたしの肩のあたりを見て、言いました。

「姉さん。八年前のわたしのデビューのお金、どこから出たの」

 わたしは、繕いかけの手袋を膝に置きました。

「お父様の薬代で、うちにはもう、余分なお金なんてなかったはずよ。わたし、去年、ライオネルが帳簿を見ているのを、後ろから見たの」

 ドーラの声が震えました。

「姉さんの持参金、半分になってた」

 あの年、父の容体は落ち着いていました。妹は十六で、わたしは二十でした。わたしの扉はもう閉まっていたけれど、妹の扉はまだ開けられた。それだけのことです。

「わたし、何も知らないで、白いドレスを着たのよ。姉さんの扉の、お金で」

 ドーラは泣きました。

「それなのに、わたしは姉さんの推薦の婦人にもなれない」

 わたしは妹の背中をさすりました。十年、父の背中をさすってきた手で。

「あなたが綺麗だったのを、覚えてる」

 嘘ではありません。あの夜、帰ってきた妹の頬が、まだ舞踏会の熱で赤かったことを、わたしは覚えています。

 ドーラが帰ったあと、わたしは一人で机に向かいました。


 数えるのは、得意です。

 ケイルウッド家には、痛みで眠れないお母様がいます。母親を亡くした子どもが、五人います。わたしには、その世話ができます。十年、そうしてきたのですから。

 家長が受けた縁談を、娘の側から断れば、違約の償いを払うことになります。払うのは、半分になった持参金の、残りからです。そうなれば、わたしには住む家も、拝謁のあとに頼るお金も残りません。

 届けの前なら、申し込んだ側の男は、申し込みを取り下げられます。けれど、サー・アンブローズに取り下げる理由は、どこにもありません。

 受ければ、少なくとも屋根があります。

 わたしを必要としてくれる人たちがいます。

 ――わたしにしかできないことなら、わたしが行けばいい。

 それは、とても正しい考えに思えました。十年、わたしを支えてきた考えでした。

 拝謁は、たった一夜のことです。二十八の女が一度白いドレスを着るのと、五人の子どもが眠れることと。比べるまでもありません。


 わたしは衣装部屋へ行き、縫い直したばかりのドレスを、薄紙で包みました。

 箱に入れて、蓋を持ち上げました。

 十二年前と同じ手つきでした。


 蓋を下ろす手が、途中で止まりました。


 十二年前、この箱を閉じたとき、わたしは父の寝台のわきにいました。

 倒れて三日目の朝です。父は右の手も、口も、思うように動かなくなっていました。わたしが「拝謁は、来年にします」と言うと、父はわたしを見て、唇を動かしました。何度も。音にならないまま。

 わたしは、分かったふりをして、うなずきました。父が心配しなくて済むように。

 あのとき父が何を言おうとしていたのか、わたしは十二年、確かめませんでした。確かめるのが、怖かったのかもしれません。行くな、と言われても。行け、と言われても。


 拝謁は、明日の夜です。

 届けは、明日の朝に出されます。

 わたしは箱の蓋を、開けたまま床に置きました。それから外套を取り、十冊の日誌のうち、一冊を手提げに入れました。七冊目。父の痛みがいちばん強かった年の日誌です。

 ケイルウッド家へ行かなければ、と思いました。断るためではありません。まだ、何をするのか分かっていませんでした。ただ、会ったこともない人に自分の次の十年を決められるのなら、せめてその人の顔を、自分の目で見ておきたかったのです。

 夜道を馬車で走ってくれる人を、わたしは一人しか知りませんでした。


 診療所の戸を叩くと、すぐに灯りがつきました。

 リード先生は、シャツの袖をまくったまま戸口に出てきて、わたしの外套と手提げを見ました。

「ケイルウッド家へ、連れていっていただけますか」

 先生は、何も聞きませんでした。

「馬をつけます。五分ください」

 本当に、五分でした。


 ケイルウッド家の屋敷は、どの窓にも灯りがついていました。

 夜更けだというのに、玄関に出てきたのは、執事ではなく当主その人でした。サー・アンブローズは、四十も半ばを過ぎた、背の高い方でした。上着のボタンを一つ掛け違えていて、目の下が黒ずんでいました。

「アシュクロフト嬢……? こんな時刻に」

「お母上の様子を、見せていただけますか」

 サー・アンブローズは、わたしの後ろのリード先生を見て、それから、黙って道を開けました。


 二階の奥の部屋から、低いうめき声が聞こえていました。

 階段の途中に、寝間着の子どもたちが座っていました。上は十二、三の男の子。いちばん下は、五つか六つの女の子です。眠れないのでしょう。女の子は、わたしの外套の裾をつかみました。

「おばあさま、また痛いの」

 わたしは、その子の手を握りました。小さな、冷たい手でした。

 部屋に入ると、薬の匂いと、汗の匂いがしました。老婦人は横を向いて、体を丸めていました。枕は一つきり。寝具が、腰の下でよじれています。

 わたしは外套を脱いで、袖をまくりました。

「先生、痛み止めは、いつ」

「日暮れに」とリード先生が答えました。「次は、夜半を過ぎてからです」

「では、まだ一刻(いっとき)あります」

 わたしは枕を三つ借りて、老婦人の膝の間と背中に入れ、腰のよじれた寝具を、体を転がさずに一枚ずつ引き抜きました。父のときに覚えたやり方です。湯で絞った布で、首の後ろを拭きました。

 うめき声が、少しずつ低くなりました。

 やがて、寝息になりました。

 戸口で、サー・アンブローズが、壁に手をついていました。


 階下の書斎で、サー・アンブローズは、暖炉の前の椅子に崩れるように座りました。

「お恥ずかしいところを」

「いいえ」

「……ライオネル殿に申し込んだのは、わたしです。あなたのことは、村で誰もが知っています。十年、お父上を看取った方だと」

 書斎の戸の隙間から、さっきの女の子がのぞいていました。わたしと目が合うと、隠れて、またのぞきました。

 この家には、本当に、わたしが要るのでした。

 わたしが「はい」と言えば、あの子は今夜から眠れます。老婦人の痛みは、少しは楽になります。この疲れた人は、上着のボタンを掛け違えずに済むようになります。

 そして、わたしの次の十年は、この家の二階の奥の部屋で過ぎていきます。

 「いいえ」と言えば、わたしは薄情な女です。困っている人を、目の前で見捨てた女です。


 暖炉の薪が、一度はぜました。

 わたしは手提げから、七冊目の日誌を出しました。


「サー・アンブローズ」

 自分の声が、思ったより静かでした。

「あなたに要るのは、妻ではないと思います」

 サー・アンブローズが、顔を上げました。

「看病の分かる人です。お母上の痛みの間隔を覚えて、夜半に起きて、枕を替えられる人。子どもたちが眠れるように、家の中の順番を整えられる人」

 わたしは日誌を開きました。痛み止めの刻と、寝返りの表と、眠れた時間が、びっしりと並んでいます。

「そういう仕事をする人には、給金が払われます」

 サー・アンブローズは、日誌を見つめていました。

「ヘップワース伯爵未亡人が後ろ盾をしておられる施療院に、この書き方を覚えた看護婦たちがいます。リード先生が、教えてくださったそうです。明日、奥様に紹介状をお願いします。この日誌も、お預けします。お母上のための表は、今夜、ここで書いていきます」

 わたしは息を吸いました。

「わたしの十年は、お渡しします。でも、わたしの次の十年は、お渡しできません」

 書斎が、しんとしました。

 戸の隙間の女の子が、わたしを見ていました。

 長いあいだ、サー・アンブローズは何も言いませんでした。それから両手で顔をこすり、低く笑いました。泣いているようにも聞こえました。

「……妻ではなく、看護婦を探していたのですね、わたしは」

 彼は机に向かい、ペンを取りました。

「給金は払います。ちゃんと」

 そう言って、申し込みを取り下げる手紙を書きました。宮内府の届けより先に、それが届かなければなりません。


 帰りの馬車は、王都へ遠回りをしました。

 夜明け前の宮内府の門で、リード先生は門番を起こし、手紙を確かに受け取ったという印をもらってきました。届けの窓口が開く、二刻(ふたとき)前でした。

 東の空が、少しずつ白んでいました。

 揺れる馬車の中で、わたしは聞きました。

「なぜ、何も聞かないのですか。今夜のことも、縁談のことも」

 先生は、手綱から目を離さずに答えました。

「あなたが決めることだからです」

 わたしは、先生の横顔を見ました。

 ――良いお話だと、皆さんは言うでしょうね。

 皆さんは、と先生は言ったのでした。自分は、とは一度も言わなかった。

 わたしは、あの言葉を聞き違えていたのかもしれません。


 その朝、ライオネルは宮内府から、届けを持ったまま帰ってきました。

「申し込みは取り下げられております、と言われたよ」

 従兄は、玄関で手袋を外しながら、わたしを見ました。怒っているというより、帳簿の数字が合わないときの顔でした。

「何をしたんだい、メイベル」

「ケイルウッド家に、看護婦をご紹介しました」

 ライオネルは、しばらく口を開けていました。それから、何か言いかけて、やめました。


 夕方、ヘップワース家の馬車が迎えに来ました。

 縫い直した白いドレスを着て、わたしは玄関の鏡の前に立ちました。細くなった袖。少しだけ黄ばんだ絹。鏡の中の女は、十六の娘ではありません。目尻に、十二年ぶんの線があります。

 それでも、ドレスはわたしの体に合っていました。自分で縫い直したのですから。

 叔母様は、自室から出てきませんでした。


 王宮の控えの間は、白いドレスでいっぱいでした。

 十六、十七の娘たちが、母親の腕にすがり、裾を踏まないように爪先で歩いています。香水と蝋燭(ろうそく)の匂い。わたしは、杖をついたヘップワース伯爵未亡人の隣に立っていました。

 すぐ横の母娘が、こちらを見ていました。母親のほうが、扇を半分ひらいて、親切そうに微笑みました。

「失礼ですけれど、どちらのお嬢様の、お付きの方?」

 娘のほうが、母親の袖を引きました。

 わたしは、白いドレスの裾を持ち直しました。

「いいえ」

 声は、震えませんでした。

「今夜は、わたしの番です」

 扇が止まりました。ヘップワース伯爵未亡人が、杖の先で床を一度、軽く鳴らしました。笑いをこらえているときの癖なのだと、あとで知りました。


 名を呼ばれる順番が来ました。

 広間の扉が開くと、思っていたよりずっと長い絨毯が、まっすぐ玉座まで伸びていました。両側に、廷臣と貴婦人たちの顔が並んでいます。

「故サー・ハロルド・アシュクロフト準男爵の長女、メイベル・アシュクロフト嬢」

 侍従の声が、天井に響きました。父の名が、この広間で呼ばれたのは初めてでした。

 わたしは歩きました。

 ヘップワース伯爵未亡人の杖の音が、隣で一歩ごとに鳴りました。ささやき声が、両側から寄せては引いていきました。二十八。準男爵家の。看病の。聞こえていました。けれど、絨毯の終わりは近づいてきました。

 女王陛下の前で、わたしは膝を折りました。

 十六の春に、居間の椅子を陛下に見立てて、何十回も練習した礼です。体は、覚えていました。

「よく来ました」

 陛下のお言葉は、わたしの前の娘にかけられたのと、同じ一言でした。

 それで、十分でした。

 立ち上がったとき、わたしはもう、家の子どもではありませんでした。


 広間の隅に、ドーラがいました。

 夫の腕ではなく、自分の足で来たのでしょう。妹は、手袋の甲で目を押さえて、泣いていました。わたしと目が合うと、泣きながら、何度もうなずきました。

 控えの間に戻ると、噂はもう回っていました。誰が話したのかは、隣の杖の主の涼しい顔を見れば分かりました。アシュクロフト家の新しい当主が、家政婦長の給金を惜しんで、従妹を隣の家に嫁がせようとしたこと。その従妹が、相手の家に看護婦を世話して、自分で縁談をほどいたこと。

 ヘップワース伯爵未亡人は、扇の陰で言いました。

「アシュクロフト家の帳簿は、この十年、どなたが付けていたのかしらね」

 それを聞いた何人かの奥方が、意味ありげに目を見交わしました。社交期は、まだ始まったばかりでした。

 それから老婦人は、わたしのほうを向きました。

「施療院の看護の差配を、探しているの。あの書き付けを書いた人に、来てもらえたらと思って。給金は、ちゃんと払いますよ」

「……考えさせてください」

 朝食の席で同じ言葉を言ったときとは違って、今度は、自分のために考えたかったのです。


 最初の一曲の前に、若い子爵家の方が、気の毒そうな顔で申し込んでくださいました。

「申し訳ありません。約束がありますので」

 わたしはお辞儀をして、広間を出ました。


 王宮の外庭は、馬車溜まりの脇にあって、誰でも入れる庭です。町医者は、舞踏会には入れません。

 西の空の低いところに、夕星(ゆうずつ)が出ていました。

 リード先生は、植え込みのそばに立っていました。いつもの黒い上着で。木曜の夜でした。

「お付きの方、と言われました」

 わたしが言うと、先生は目を細めました。

「それで、何と」

「わたしの番です、と」

 先生は、上着の内側から、折り畳んだ紙を一枚取り出しました。端が茶色くなって、角が丸くなった紙です。

「十二年、お預かりしていました。お父上が、まだ左手で少しだけ字を書けた頃に」

 表に、震える大きな字がありました。

〈メイベルが社交に出た日に、渡してくれ〉

 開くと、中には三行だけ。

〈おまえの白いドレスを、見たかった。

 行きなさい。

 誰のためでもなく〉

 あの朝、音にならなかった父の唇が、何を言おうとしていたのか。十二年かかって、ようやく分かりました。

 わたしは紙を胸に当てて、しばらく、何も言えませんでした。


「拝謁を受けていない方への申し込みは、家長にするしかありません」

 先生の声が、少しかすれていました。

「お父上にも、ライオネル様にも、申し込みませんでした。あなたの縁談を、また家が決めたことにしたくなかった。あなたが、ご自分で選べる日まで」

 十年、木曜の夜ごとに呼び鈴を鳴らした人は、そう言って、手袋をはめた手を握りしめました。

「拝謁を受けた方には、ご本人に申し込めます」

 わたしは、紙を手提げにしまいました。

「先生。その前に」

 手を差し出しました。

「最初の一曲を、申し込んでもよろしいですか」


 広間から、遠く楽の音が流れてきました。

 わたしたちは、庭の砂利の上で踊りました。

 先生は、一度も、わたしの足を踏みませんでした。

「練習なさったのですか」

「毎晩。診療所の椅子を相手に」

 わたしは笑って、先生の肩に額を寄せました。十二年箱にしまわれていた白いドレスの裾が、砂利の上で、ゆっくりと回りました。


 曲が終わると、先生は手を離さないまま、言いました。

「メイベル・アシュクロフト嬢。わたしと、結婚していただけますか」

 十二年、誰かが決めてくれるのを待っていたような気がします。

 けれど、この答えは、わたしが決めます。

「はい」


 四季払い日に、ライオネルは家政婦長を雇いました。年に百五十ヘスペルで。叔母様は、給金を払って話し相手を雇いました。ケイルウッド家には、施療院から看護婦が通っています。いちばん下の女の子は、夜、よく眠るようになったそうです。

 わたしは春から、ヘップワース伯爵未亡人の施療院で、看護の差配をしています。給金をいただいて。拝謁を済ませた娘なら、勤めに出ても、閉じる扉はもうありません。夕方には、町医者の診療所へ帰ります。

 十冊の日誌は、施療院の棚に並べました。十一冊目は、わたしの新しい字で書いています。


 夕星が、西の空に出ていました。

 この国の人は、あの星が人の一日を数えるのだと言います。

 わたしの一日は、今日も、わたしのものでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

誰かのために「そのうち」と先に延ばしてきたことが、どなたにもあるのではないかと思います。メイベルの十二年が、少しでもあなたの「そのうち」に重なっていたら嬉しいです。

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