父の看病で十年遅れましたが、二十八歳で社交界にデビューします
家政婦か、話し相手か、子守りか。
喪が明けた朝、わたしの前には道が三つ並べられました。三人とも親切で、三人とも本気でした。そして三つとも、行き先は同じでした。
次は、誰の世話をするのか。
父が倒れたのは、わたしのデビューの十日前です。十六の春に仕立てた白いドレスは、それから十二年、衣装部屋の箱の中にあります。父を見送って一年半。灰色の半喪の服を畳んだ今朝、わたしは二十八歳でした。
朝食の席には、三人がそろっていました。
上座には、従兄のライオネル。父の死と同時に準男爵の位とこの屋敷を継いだ人です。娘しかいない家の屋敷は、男系の従兄に渡る。この国では、それが決まりでした。喪のあいだ、従兄はわたしを追い出しませんでした。世間はそれを親切と呼びました。
その隣に、父の姉のコンスタンス叔母様。向かいに、妹のドーラ。嫁ぎ先から、わざわざ馬車で来てくれたのです。
卵は半熟、トーストは薄く、叔母様の紅茶には蜂蜜をひと匙。献立を決めたのは、わたしです。十年、そうしてきました。
ライオネルがナプキンを膝から外して、最初に口を開きました。
「メイベル。四季払い日のあとのことなんだが」
三月二十五日。従兄が奥方と子どもたちを連れて、この屋敷に移ってくる日です。
「屋敷のことは、君がいちばん知っている。リネンの数も、地代の帳簿も、料理番の癖も。残って、家のことを見てくれないか」
穏やかな声でした。従兄は悪い人ではありません。
「家族なのだから、給金というのも水くさいだろう」
わたしが返事をする前に、叔母様が紅茶のカップを受け皿に戻しました。
「それより、わたくしのところへおいでなさい。話し相手が欲しいと思っていたの。給金も出してあげます」
叔母様は、わたしの灰色の袖口を、ちらりと見ました。
「もう若くないのだから。身の振り方を決めなくては」
「待って、叔母様」
ドーラが身を乗り出しました。
「姉さんは、うちに来るのよ。子どもたちが、姉さんに会いたがってるの。下の子なんて、熱を出すと『おばさまの歌がいい』って泣くんだから」
三人とも、わたしを見ていました。
わたしは、トーストにバターを塗りかけたまま、ナイフを止めていました。
家政婦。話し相手。子守り。
頭の中で、並べてみました。
叔母様の申し出を受ければ、わたしは給金を受け取る「勤めに出た娘」になります。勤めに出た娘は、女王陛下に拝謁できません。働いて暮らしていくことはできても、あの扉は二度と開かない。
従兄の申し出なら、給金はありません。そのかわり、わたしは拝謁を受けていない娘のまま、この家に残ります。拝謁を受けていない娘は、いくつになっても「家の子ども」です。縁談も住まいも、家長が決めます。
ドーラのところへ行っても、同じことでした。
三つとも、道の名前が違うだけでした。
「少し、考えさせてください」
そう言うと、叔母様は「考えることなんて」と笑い、ライオネルは「もちろん」とうなずき、ドーラは「姉さん、絶対うちよ」と念を押しました。
部屋に戻ると、机の上に、日誌が十冊並んでいました。
父の脈、熱、眠った時間、食べたもの、飲んだ薬。寝返りを打たせた刻と、床ずれに塗った軟膏。最初の一冊は十六のわたしの丸い字で、十冊目は、二十六のわたしの、角ばった速い字です。
日誌のわきに、封を切ったまま返事を出していない手紙が一通ありました。半年前に届いた、知らない方からの礼状です。差出人は、ヘップワース伯爵未亡人。
〈あなたの書き付けのおかげで、夫を穏やかに見送ることができました〉
わたしの書き付けが、どうして伯爵家に届いたのか。分からないまま、返事を書きそびれていました。
衣装部屋の奥に、細長い箱があります。
紐をほどいたのは、十二年ぶりでした。薄紙を一枚めくると、白い袖が現れました。肩のところで、ふっくらと膨らませた袖。十二年前には、これがいちばん新しい形でした。今年の娘たちは、もっと細い袖を着るのだと、ドーラが言っていました。
あの春、わたしはこのドレスで、女王陛下の前に出るはずでした。
十日前の朝、父が階段の下で倒れて、わたしは箱の紐を結び直しました。それきりです。
箱の蓋を、閉じませんでした。
夕食の席で、わたしは言いました。
「今年の拝謁を、受けます」
ドーラがフォークを落としかけました。
叔母様は、一拍おいてから、笑いました。上品な、短い笑いでした。
「二十八で? 十六の娘たちに混じって、白いドレスで?」
「はい」
「家名の笑いものですよ、メイベル」
ライオネルは、困ったように眉を下げました。
「まあ、好きにするといい。推薦の婦人が見つかればね」
それきり、従兄は鶏肉を切る作業に戻りました。見つかるはずがない、という顔でした。
その晩、玄関の呼び鈴が鳴りました。
木曜でした。十年、木曜の夜にこの呼び鈴を鳴らしたのは、一人だけです。
「夜分に失礼します」
ジョナス・リード先生は、帽子を胸に当てて、玄関の灯りの下に立っていました。父の主治医です。十二年前は、年寄りの先生の鞄を持ってくる徒弟でした。
「最後のお勘定の、受け取りを。遅くなりました」
一年半も前のお勘定です。先生は、紙を一枚わたしに差し出して、それから何か言いかけ、やめて、別のことを言いました。
「十年、お疲れさまでした」
わたしは、ありがとうございます、と頭を下げました。
先生の馬車の音が遠ざかるのを、玄関で聞いていました。
終わったのだ、と思いました。あの十年は、もう、誰かにねぎらってもらうだけのものになったのだと。
拝謁は、七日後でした。
拝謁には、推薦の婦人が要ります。すでに拝謁を済ませた既婚の婦人が、娘の名を名簿に連ね、当日は女王陛下の前まで導くのです。
翌朝、叔母様の部屋の扉を叩きました。
「お断りします」
頼みを最後まで言う前に、叔母様は刺繍の枠から顔も上げずに言いました。
「わたくしの名で、二十八の娘を陛下の前に出せと? メイベル、あなたは気の利く子だと思っていましたよ」
針が、布を一度くぐりました。
「話し相手の件は、まだ待ってあげます。四季払い日までにね」
昼過ぎには、ドーラが来てくれました。
妹は玄関に入るなり、わたしの両手を握りました。それから、その手をなかなか離しませんでした。
「ごめんなさい、姉さん」
夫のフェアクロス氏が、だめだと言ったそうです。妻が二十八の姉の推薦の婦人になれば、自分の家まで笑われる、と。
「わたし、言い返したのよ。でも……」
ドーラは、わたしの顔を見ないで話しました。子どもの頃から、隠しごとがあるとき、この子は人の肩のあたりを見るのです。
「いいのよ」
わたしは言いました。妹を困らせるのは、わたしの望みではありません。
ドーラが帰ったあと、机に戻って、ヘップワース伯爵未亡人の礼状を、もう一度開きました。
ヘップワース邸は、王都フェアヘイヴンの西の丘にありました。
取り次ぎを頼んでから半刻、待たされました。そのあいだに、廊下を三度、別々の侍女が小走りに過ぎていきました。一人は湯たんぽを抱え、一人は空の薬瓶を、一人は何も持たずに。
通された居間で、老婦人は長椅子に脚を投げ出していました。左の足首に、厚い包帯。
「アシュクロフトのお嬢さんね。あの書き付けの」
鋭い目の方でした。
「お返事も差し上げず、失礼をいたしました」
「半年も待たせておいて、用があるときだけ来るのね」
言われて、当然でした。わたしは頭を下げて、それから、言うつもりのなかったことを口にしていました。
「奥様。差し出がましいのですが、お薬は何時にお飲みですか」
老婦人の眉が上がりました。
「……知りませんよ。侍女たちが持ってくるときに飲むの」
「さきほどの方々は、湯たんぽと薬瓶を、それぞれ別にお持ちでした。お三人とも、ご自分の受け持ちが何時か、ご存じないようにお見受けしました」
わたしは手提げから鉛筆を出し、紙をお借りしました。痛み止めの間隔、湯たんぽを替える刻、包帯を巻き直す順番。足首を高くしておく枕の数。十年、父の寝台のわきで書いてきた表です。書き終えて、呼び鈴で来た侍女に渡すと、侍女は紙を両手で持ったまま、目を丸くしていました。
「これがあれば、廊下を走らなくて済みます」
侍女が下がってから、老婦人が言いました。
「それで。用は何なの」
わたしは、拝謁のことを話しました。推薦の婦人がいないことも。
老婦人は、包帯の足を見ていました。
「なぜ、二十八で白いドレスを?」
縁談のためです、と言えば、話は早かったのかもしれません。家名のため、と言ってもよかった。
「十六のわたしが、まだ扉の前に立っているからです」
そう答えていました。自分のための言葉を口にするのは、ずいぶん久しぶりでした。
長い沈黙のあとで、老婦人は短く笑いました。叔母様の笑いとは、違う笑いでした。
「いいでしょう。わたくしの名を貸します」
「……ありがとうございます」
「ただし、一つだけ。当日の刻限に遅れたら、二度目はありませんよ。わたくしは、もう七十二ですからね」
それから老婦人は、ふと思い出したように付け足しました。
「あなたの書き付けを見せてくれたのはね、リード先生よ。夫を看取るとき、この書き方で日誌をつけなさい、と言って。あの先生、ほかの家にも配っているわ。『アシュクロフト嬢の書き付け』と呼んでね。わたくしが後ろ盾をしている施療院の看護婦たちにも、あれで日誌をつけさせています」
わたしは、何と言えばいいのか分かりませんでした。
その夜、衣装部屋の灯りの下で、わたしはドレスの袖の糸を切りました。
膨らみの芯に入っていた薄い布を抜き、袖を細く縫い直します。針を持つ手は、思ったより迷いませんでした。十年、包帯を巻き、湿布を縫い、父の寝間着の綻びを繕ってきた手です。
「夜分に失礼します」
声がして振り向くと、戸口にリード先生が立っていました。執事が通したのでしょう。
「ヘップワース様の往診で、伺いました。推薦の婦人を、得られたと」
「先生が、わたしの日誌を、よそのお家に」
「……お父上の、お許しはいただいていました。ご本人に言わなかったのは」
先生は、言葉を探して、見つけられないようでした。
「すみません」
「怒っていません」
怒る気持ちは、どこを探してもありませんでした。かわりに、胸のどこかが、ほどけたように温かかったのです。
わたしは縫いかけのドレスを置いて、立ち上がりました。
「先生。拝謁のあとの舞踏会では、デビューの娘は最初の一曲を踊ります。十二年、一度も踊っていません。練習の相手を、お願いできますか」
先生は、ひどく困った顔をしました。
衣装部屋は狭く、わたしたちは二歩ごとに箪笥にぶつかりました。先生は、三度わたしの足を踏みました。三度目に、先生は手を離して言いました。
「医者の徒弟は、踊りを習いませんので」
わたしは、声を立てて笑いました。自分の笑い声を聞いたのは、いつ以来だったでしょう。
帰りぎわ、玄関で先生は帽子をかぶり、それから少しだけ振り返りました。
「往診のない夜なら、いつでも空いています。何かあれば、診療所の戸を叩いてください」
拝謁まで、三日になりました。
ヘップワース家から名簿に名を連ねたという知らせが届いた晩、夕食の席で、ライオネルがグラスを上げました。
「良い知らせがある」
従兄は、心から嬉しそうでした。
「ケイルウッド準男爵から、君への申し込みがあってね。家長として、お受けした」
わたしは、スープの匙を置きました。
「サー・アンブローズは、隣の領地の方だ。三年前に奥方を亡くされて、お子さんが五人。お母上が、もう長く寝ついておられる」
ライオネルは、わたしのほうへ身を乗り出しました。
「君にぴったりの縁談だろう? 病人の世話なら、君の右に出る者はいない」
叔母様が、ナプキンで口もとを押さえました。
「良いお話だこと。二十八で、準男爵家の奥方。望める以上ですよ」
「届けは、拝謁の日の朝に、宮内府へ出しておく」
従兄は、何でもないことのように言いました。
婚約が宮内府に届けられれば、その娘は拝謁の名簿から外れます。拝謁は、未婚で、婚約もしていない娘のための儀式だからです。
「ライオネル。わたしは、まだお返事を」
「拝謁を受けていない娘の縁談は、家長が受けるものだよ、メイベル。君も知っているだろう」
知っていました。だからこそ、わたしは拝謁を受けたかったのです。
従兄は、悪意のない顔で続けました。
「それに、隣なら都合がいい。正直に言うとね、帳簿を見たんだ。家政婦長を雇えば、年に百五十ヘスペルかかる。君が隣にいてくれれば、困ったときは聞きに行ける」
叔母様が、それはいいわね、と笑いました。
わたしは、皿の上の鶏肉を、最後まで食べました。残すと料理番が気にするからです。こんなときにまで、わたしはそういうことを考えるのでした。
翌日、村の薬屋の前で、リード先生の馬車と行き会いました。
先生はもう、縁談のことを知っていました。村では、話はすぐに回ります。
「ケイルウッド様のお母上は、わたしの患者です」
先生は、手綱を持ったまま言いました。
「骨の病で、痛みが強い。夜も、あまり眠れません。お子さんたちも、そのせいで」
「わたしに、ぴったりのお話だそうです」
先生は、しばらく黙っていました。それから、言葉を一つずつ置くように言いました。
「……良いお話だと、皆さんは言うでしょうね」
それだけでした。
わたしは、そうですね、と答えて、薬屋の扉を押しました。
あなたも、そう思うのね。
そう聞こえたのです。
その夜、ドーラが、子どもたちを夫に預けて、一人で来ました。
妹は、わたしの部屋の寝台に腰かけて、長いこと黙っていました。それから、わたしの肩のあたりを見て、言いました。
「姉さん。八年前のわたしのデビューのお金、どこから出たの」
わたしは、繕いかけの手袋を膝に置きました。
「お父様の薬代で、うちにはもう、余分なお金なんてなかったはずよ。わたし、去年、ライオネルが帳簿を見ているのを、後ろから見たの」
ドーラの声が震えました。
「姉さんの持参金、半分になってた」
あの年、父の容体は落ち着いていました。妹は十六で、わたしは二十でした。わたしの扉はもう閉まっていたけれど、妹の扉はまだ開けられた。それだけのことです。
「わたし、何も知らないで、白いドレスを着たのよ。姉さんの扉の、お金で」
ドーラは泣きました。
「それなのに、わたしは姉さんの推薦の婦人にもなれない」
わたしは妹の背中をさすりました。十年、父の背中をさすってきた手で。
「あなたが綺麗だったのを、覚えてる」
嘘ではありません。あの夜、帰ってきた妹の頬が、まだ舞踏会の熱で赤かったことを、わたしは覚えています。
ドーラが帰ったあと、わたしは一人で机に向かいました。
数えるのは、得意です。
ケイルウッド家には、痛みで眠れないお母様がいます。母親を亡くした子どもが、五人います。わたしには、その世話ができます。十年、そうしてきたのですから。
家長が受けた縁談を、娘の側から断れば、違約の償いを払うことになります。払うのは、半分になった持参金の、残りからです。そうなれば、わたしには住む家も、拝謁のあとに頼るお金も残りません。
届けの前なら、申し込んだ側の男は、申し込みを取り下げられます。けれど、サー・アンブローズに取り下げる理由は、どこにもありません。
受ければ、少なくとも屋根があります。
わたしを必要としてくれる人たちがいます。
――わたしにしかできないことなら、わたしが行けばいい。
それは、とても正しい考えに思えました。十年、わたしを支えてきた考えでした。
拝謁は、たった一夜のことです。二十八の女が一度白いドレスを着るのと、五人の子どもが眠れることと。比べるまでもありません。
わたしは衣装部屋へ行き、縫い直したばかりのドレスを、薄紙で包みました。
箱に入れて、蓋を持ち上げました。
十二年前と同じ手つきでした。
蓋を下ろす手が、途中で止まりました。
十二年前、この箱を閉じたとき、わたしは父の寝台のわきにいました。
倒れて三日目の朝です。父は右の手も、口も、思うように動かなくなっていました。わたしが「拝謁は、来年にします」と言うと、父はわたしを見て、唇を動かしました。何度も。音にならないまま。
わたしは、分かったふりをして、うなずきました。父が心配しなくて済むように。
あのとき父が何を言おうとしていたのか、わたしは十二年、確かめませんでした。確かめるのが、怖かったのかもしれません。行くな、と言われても。行け、と言われても。
拝謁は、明日の夜です。
届けは、明日の朝に出されます。
わたしは箱の蓋を、開けたまま床に置きました。それから外套を取り、十冊の日誌のうち、一冊を手提げに入れました。七冊目。父の痛みがいちばん強かった年の日誌です。
ケイルウッド家へ行かなければ、と思いました。断るためではありません。まだ、何をするのか分かっていませんでした。ただ、会ったこともない人に自分の次の十年を決められるのなら、せめてその人の顔を、自分の目で見ておきたかったのです。
夜道を馬車で走ってくれる人を、わたしは一人しか知りませんでした。
診療所の戸を叩くと、すぐに灯りがつきました。
リード先生は、シャツの袖をまくったまま戸口に出てきて、わたしの外套と手提げを見ました。
「ケイルウッド家へ、連れていっていただけますか」
先生は、何も聞きませんでした。
「馬をつけます。五分ください」
本当に、五分でした。
ケイルウッド家の屋敷は、どの窓にも灯りがついていました。
夜更けだというのに、玄関に出てきたのは、執事ではなく当主その人でした。サー・アンブローズは、四十も半ばを過ぎた、背の高い方でした。上着のボタンを一つ掛け違えていて、目の下が黒ずんでいました。
「アシュクロフト嬢……? こんな時刻に」
「お母上の様子を、見せていただけますか」
サー・アンブローズは、わたしの後ろのリード先生を見て、それから、黙って道を開けました。
二階の奥の部屋から、低いうめき声が聞こえていました。
階段の途中に、寝間着の子どもたちが座っていました。上は十二、三の男の子。いちばん下は、五つか六つの女の子です。眠れないのでしょう。女の子は、わたしの外套の裾をつかみました。
「おばあさま、また痛いの」
わたしは、その子の手を握りました。小さな、冷たい手でした。
部屋に入ると、薬の匂いと、汗の匂いがしました。老婦人は横を向いて、体を丸めていました。枕は一つきり。寝具が、腰の下でよじれています。
わたしは外套を脱いで、袖をまくりました。
「先生、痛み止めは、いつ」
「日暮れに」とリード先生が答えました。「次は、夜半を過ぎてからです」
「では、まだ一刻あります」
わたしは枕を三つ借りて、老婦人の膝の間と背中に入れ、腰のよじれた寝具を、体を転がさずに一枚ずつ引き抜きました。父のときに覚えたやり方です。湯で絞った布で、首の後ろを拭きました。
うめき声が、少しずつ低くなりました。
やがて、寝息になりました。
戸口で、サー・アンブローズが、壁に手をついていました。
階下の書斎で、サー・アンブローズは、暖炉の前の椅子に崩れるように座りました。
「お恥ずかしいところを」
「いいえ」
「……ライオネル殿に申し込んだのは、わたしです。あなたのことは、村で誰もが知っています。十年、お父上を看取った方だと」
書斎の戸の隙間から、さっきの女の子がのぞいていました。わたしと目が合うと、隠れて、またのぞきました。
この家には、本当に、わたしが要るのでした。
わたしが「はい」と言えば、あの子は今夜から眠れます。老婦人の痛みは、少しは楽になります。この疲れた人は、上着のボタンを掛け違えずに済むようになります。
そして、わたしの次の十年は、この家の二階の奥の部屋で過ぎていきます。
「いいえ」と言えば、わたしは薄情な女です。困っている人を、目の前で見捨てた女です。
暖炉の薪が、一度はぜました。
わたしは手提げから、七冊目の日誌を出しました。
「サー・アンブローズ」
自分の声が、思ったより静かでした。
「あなたに要るのは、妻ではないと思います」
サー・アンブローズが、顔を上げました。
「看病の分かる人です。お母上の痛みの間隔を覚えて、夜半に起きて、枕を替えられる人。子どもたちが眠れるように、家の中の順番を整えられる人」
わたしは日誌を開きました。痛み止めの刻と、寝返りの表と、眠れた時間が、びっしりと並んでいます。
「そういう仕事をする人には、給金が払われます」
サー・アンブローズは、日誌を見つめていました。
「ヘップワース伯爵未亡人が後ろ盾をしておられる施療院に、この書き方を覚えた看護婦たちがいます。リード先生が、教えてくださったそうです。明日、奥様に紹介状をお願いします。この日誌も、お預けします。お母上のための表は、今夜、ここで書いていきます」
わたしは息を吸いました。
「わたしの十年は、お渡しします。でも、わたしの次の十年は、お渡しできません」
書斎が、しんとしました。
戸の隙間の女の子が、わたしを見ていました。
長いあいだ、サー・アンブローズは何も言いませんでした。それから両手で顔をこすり、低く笑いました。泣いているようにも聞こえました。
「……妻ではなく、看護婦を探していたのですね、わたしは」
彼は机に向かい、ペンを取りました。
「給金は払います。ちゃんと」
そう言って、申し込みを取り下げる手紙を書きました。宮内府の届けより先に、それが届かなければなりません。
帰りの馬車は、王都へ遠回りをしました。
夜明け前の宮内府の門で、リード先生は門番を起こし、手紙を確かに受け取ったという印をもらってきました。届けの窓口が開く、二刻前でした。
東の空が、少しずつ白んでいました。
揺れる馬車の中で、わたしは聞きました。
「なぜ、何も聞かないのですか。今夜のことも、縁談のことも」
先生は、手綱から目を離さずに答えました。
「あなたが決めることだからです」
わたしは、先生の横顔を見ました。
――良いお話だと、皆さんは言うでしょうね。
皆さんは、と先生は言ったのでした。自分は、とは一度も言わなかった。
わたしは、あの言葉を聞き違えていたのかもしれません。
その朝、ライオネルは宮内府から、届けを持ったまま帰ってきました。
「申し込みは取り下げられております、と言われたよ」
従兄は、玄関で手袋を外しながら、わたしを見ました。怒っているというより、帳簿の数字が合わないときの顔でした。
「何をしたんだい、メイベル」
「ケイルウッド家に、看護婦をご紹介しました」
ライオネルは、しばらく口を開けていました。それから、何か言いかけて、やめました。
夕方、ヘップワース家の馬車が迎えに来ました。
縫い直した白いドレスを着て、わたしは玄関の鏡の前に立ちました。細くなった袖。少しだけ黄ばんだ絹。鏡の中の女は、十六の娘ではありません。目尻に、十二年ぶんの線があります。
それでも、ドレスはわたしの体に合っていました。自分で縫い直したのですから。
叔母様は、自室から出てきませんでした。
王宮の控えの間は、白いドレスでいっぱいでした。
十六、十七の娘たちが、母親の腕にすがり、裾を踏まないように爪先で歩いています。香水と蝋燭の匂い。わたしは、杖をついたヘップワース伯爵未亡人の隣に立っていました。
すぐ横の母娘が、こちらを見ていました。母親のほうが、扇を半分ひらいて、親切そうに微笑みました。
「失礼ですけれど、どちらのお嬢様の、お付きの方?」
娘のほうが、母親の袖を引きました。
わたしは、白いドレスの裾を持ち直しました。
「いいえ」
声は、震えませんでした。
「今夜は、わたしの番です」
扇が止まりました。ヘップワース伯爵未亡人が、杖の先で床を一度、軽く鳴らしました。笑いをこらえているときの癖なのだと、あとで知りました。
名を呼ばれる順番が来ました。
広間の扉が開くと、思っていたよりずっと長い絨毯が、まっすぐ玉座まで伸びていました。両側に、廷臣と貴婦人たちの顔が並んでいます。
「故サー・ハロルド・アシュクロフト準男爵の長女、メイベル・アシュクロフト嬢」
侍従の声が、天井に響きました。父の名が、この広間で呼ばれたのは初めてでした。
わたしは歩きました。
ヘップワース伯爵未亡人の杖の音が、隣で一歩ごとに鳴りました。ささやき声が、両側から寄せては引いていきました。二十八。準男爵家の。看病の。聞こえていました。けれど、絨毯の終わりは近づいてきました。
女王陛下の前で、わたしは膝を折りました。
十六の春に、居間の椅子を陛下に見立てて、何十回も練習した礼です。体は、覚えていました。
「よく来ました」
陛下のお言葉は、わたしの前の娘にかけられたのと、同じ一言でした。
それで、十分でした。
立ち上がったとき、わたしはもう、家の子どもではありませんでした。
広間の隅に、ドーラがいました。
夫の腕ではなく、自分の足で来たのでしょう。妹は、手袋の甲で目を押さえて、泣いていました。わたしと目が合うと、泣きながら、何度もうなずきました。
控えの間に戻ると、噂はもう回っていました。誰が話したのかは、隣の杖の主の涼しい顔を見れば分かりました。アシュクロフト家の新しい当主が、家政婦長の給金を惜しんで、従妹を隣の家に嫁がせようとしたこと。その従妹が、相手の家に看護婦を世話して、自分で縁談をほどいたこと。
ヘップワース伯爵未亡人は、扇の陰で言いました。
「アシュクロフト家の帳簿は、この十年、どなたが付けていたのかしらね」
それを聞いた何人かの奥方が、意味ありげに目を見交わしました。社交期は、まだ始まったばかりでした。
それから老婦人は、わたしのほうを向きました。
「施療院の看護の差配を、探しているの。あの書き付けを書いた人に、来てもらえたらと思って。給金は、ちゃんと払いますよ」
「……考えさせてください」
朝食の席で同じ言葉を言ったときとは違って、今度は、自分のために考えたかったのです。
最初の一曲の前に、若い子爵家の方が、気の毒そうな顔で申し込んでくださいました。
「申し訳ありません。約束がありますので」
わたしはお辞儀をして、広間を出ました。
王宮の外庭は、馬車溜まりの脇にあって、誰でも入れる庭です。町医者は、舞踏会には入れません。
西の空の低いところに、夕星が出ていました。
リード先生は、植え込みのそばに立っていました。いつもの黒い上着で。木曜の夜でした。
「お付きの方、と言われました」
わたしが言うと、先生は目を細めました。
「それで、何と」
「わたしの番です、と」
先生は、上着の内側から、折り畳んだ紙を一枚取り出しました。端が茶色くなって、角が丸くなった紙です。
「十二年、お預かりしていました。お父上が、まだ左手で少しだけ字を書けた頃に」
表に、震える大きな字がありました。
〈メイベルが社交に出た日に、渡してくれ〉
開くと、中には三行だけ。
〈おまえの白いドレスを、見たかった。
行きなさい。
誰のためでもなく〉
あの朝、音にならなかった父の唇が、何を言おうとしていたのか。十二年かかって、ようやく分かりました。
わたしは紙を胸に当てて、しばらく、何も言えませんでした。
「拝謁を受けていない方への申し込みは、家長にするしかありません」
先生の声が、少しかすれていました。
「お父上にも、ライオネル様にも、申し込みませんでした。あなたの縁談を、また家が決めたことにしたくなかった。あなたが、ご自分で選べる日まで」
十年、木曜の夜ごとに呼び鈴を鳴らした人は、そう言って、手袋をはめた手を握りしめました。
「拝謁を受けた方には、ご本人に申し込めます」
わたしは、紙を手提げにしまいました。
「先生。その前に」
手を差し出しました。
「最初の一曲を、申し込んでもよろしいですか」
広間から、遠く楽の音が流れてきました。
わたしたちは、庭の砂利の上で踊りました。
先生は、一度も、わたしの足を踏みませんでした。
「練習なさったのですか」
「毎晩。診療所の椅子を相手に」
わたしは笑って、先生の肩に額を寄せました。十二年箱にしまわれていた白いドレスの裾が、砂利の上で、ゆっくりと回りました。
曲が終わると、先生は手を離さないまま、言いました。
「メイベル・アシュクロフト嬢。わたしと、結婚していただけますか」
十二年、誰かが決めてくれるのを待っていたような気がします。
けれど、この答えは、わたしが決めます。
「はい」
四季払い日に、ライオネルは家政婦長を雇いました。年に百五十ヘスペルで。叔母様は、給金を払って話し相手を雇いました。ケイルウッド家には、施療院から看護婦が通っています。いちばん下の女の子は、夜、よく眠るようになったそうです。
わたしは春から、ヘップワース伯爵未亡人の施療院で、看護の差配をしています。給金をいただいて。拝謁を済ませた娘なら、勤めに出ても、閉じる扉はもうありません。夕方には、町医者の診療所へ帰ります。
十冊の日誌は、施療院の棚に並べました。十一冊目は、わたしの新しい字で書いています。
夕星が、西の空に出ていました。
この国の人は、あの星が人の一日を数えるのだと言います。
わたしの一日は、今日も、わたしのものでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
誰かのために「そのうち」と先に延ばしてきたことが、どなたにもあるのではないかと思います。メイベルの十二年が、少しでもあなたの「そのうち」に重なっていたら嬉しいです。




