8話【バラッタイン王国の思い出】
「さて、家まで戻って来たのはいいんだけど……」
私――ミレイユは、木陰に隠れて自宅に入るタイミングを計っていた。
時刻は午後七時すぎ。
サラ達に笛を聞かせたあと、私はイルジャンの酒場に寄って、今日はもう帰ると告げた。
壊れたリュートでは曲は弾けないし、よくよく服装を確認したところ腰の部分に穴が開いていたのだ。
これでは仕事にならない。
イルジャンは眉をひそめて「ダンは……」というので、誤解のないよう説明をした。
彼はイルジャンが頼んでくれた通り、私を助けてくれたと。
イルジャンを安心させようと努めて明るく言ったつもりが――。
ダンから投げつけられた言葉が蘇り、顔が曇ってしまった。
イルジャンはますます眉間の皺を深めたが、詳しいことを聞いてくることはなかった。
代わりに「食べていけ、サービスだ」とチーズケーキと果実水を出してくれた。
――ダンが酒場にきて鉢合わせするのは気まずいわ。
そう思ってひやひやしながらケーキを食べたが、彼がお店に現れることはなかった。
「気をつけて帰るんだぞ」とイルジャンの言葉に送り出され――。
今、私は自分の家の前で頭を抱えているのだった。
――ううう、早く帰って熱いお風呂に入りたい。
今日は色々あり過ぎて疲れてしまった。ゆっくりしたいと身体が悲鳴を上げている。しかし――。
――私のこの有様をみたら……アンが激怒すること間違いなしよね。
リュートの弦は切れ、服は破れ、さっき確認したら、カークに引き倒された時に打った左肩に痣までできていた。
良くて三時間の説教、悪ければ……また外出禁止が言い渡されるに違いない。
「うーん……リュートはともかく、服が破れているのはマズいわよね」
私はしばし考え、とりあえず服の穴だけでも直してからアンに会おうと決める。
リュートを抱えてハミングした。
音圧でぽんと浮き上がった私は、二階の自室のベランダへ無事着地する。
超音波で窓を揺らすと、内鍵の横棒が震えながら横移動していき、端までいくとぽとりと落ちて開錠した。
そっと窓を開けて、室内に入る。
それから部屋の入口まで忍び足で移動し、階下の様子をうかがうため扉を薄く開く。
一階から包丁やお鍋を扱う物音がしてくる。アンが夕食の下ごしらえを始めたようだった。
――よしよし、しばらく二階に上がってくることはなさそうね。
私は扉を閉じると、裁縫道具を持ってベッドに座る。
それからさっと服を脱ぐと、穴の補修をはじめた。
手を動かしながら頭に浮かぶのは、先程まで一緒にいた子供達の笑顔だ。
――やっぱり音楽はいいわね。
私にとって音楽とは人生を豊かにしてくれるかけがえのないものだ。
老若男女問わず、誰でも楽しめて幸せにしてくれる魔法のようなもの。
十歳の時、初めてリュートの音を聞いてから、音楽に対する敬愛は日に日に強くなっている。
「嫌がらせの毎日でとんでもない嫁ぎ先だけど、こうして自由にリュートが弾けるようになって……それだけはここに嫁いできてよかったと思ってるのよね」
バラッタイン王国で過ごした日々を思い出す。
頼もしいお父様、優しいお母様、しっかり者のお兄様――。私は家族に愛されていたが、同時に生まれた瞬間から苦しいくらいの監視下に置かれていた。
バラッタイン王国公爵家筆頭タウンゼント家――この名に恥じないよう、私は厳しく育てられた。
礼儀作法、ダンス、乗馬、教養――公爵令嬢として全てが完璧でなくてはならなかった。
幼少期の私にとって世の中とは、うずたかく積まれた課題をこなすだけの――逃げ場のない牢獄。
私は笑うことも怒ることもない、死んでるような灰色の世界の住人だった。
それが十歳の時に慈善活動で訪れた修道院で一変した。
院長先生が弾くリュートの音を聞いた途端、世界が色づいて見えたのだ。
それからリュートを持ち歩くようになり、時間があれば音を鳴らすようになった。
灰色だった礼儀作法は、優雅なクリーム色や優しい水色になった。
乗馬で訪れた森は、白黒ではなく綺麗な緑色になった。
ダンスホールはオレンジ色に染まり、無色だった教養はパッチワークのように様々な色・模様の連なりになった。
世界が色鮮やかに輝き始め――いつの間にか私は、笑ったり怒ったりするようになっていった。
私は私が「生きている」ことを実感できるようになったのだ。
――リュートが、音楽が私を救ってくれた。幸せにしてくれたの。
けれど、両親は私がこの楽器に夢中になることに難色を示した。
リュートはバイオリンやピアノと違い、貴族だけでなく平民にも普及している楽器だ。
そのため、バラッタイン王国の一部の高位貴族からは「平民と同じ楽器を使うなんて」と敬遠されていて、特に現国王がリュートを毛嫌いしていた。
だから、両親は私がこの楽器を弾くことに強く反対したのだ。
「ほーんと、大変だったわよね。内緒で練習をするのは」
親の目があるときは、ピアノやヴァイオリンの練習をするようにした。
一方で――周囲の隙を見ては、修道院にリュートを聞きに行った。
そして、見よう見まねで練習を重ね、ほぼ独学でフレジコとして通用するだけの腕を身につけたのだ。
リュートが美しく弾けることは、何より私の自信になった。
この楽器が傍らにあれば、無敵になった気さえする。
この国の民から浴びせられるたくさんの暴力的な言葉すら恐くなくなるのだ。
――だから……フレジコとして振る舞っているときは、仮面をつけなくても平気なのよね。
「よし、できた」
私は針を置いて、服を広げてみる。
修繕した箇所に目を近づけてよくよく眺めた。
「なかなか上手く補修できわたね。これならアンも穴が開いていたなんて気づかないはずよ」
さっさと着てしまおうと立ち上がった。
そこで足元がふらつく。慌ててベッドに手をつき身体を支えた。
「はあ、やっぱり力を使い過ぎちゃったわよね」
服の直しが終わってほっとしたのもあり、強い眠気が襲ってくる。もはや瞼を開けていられない。
――ここが寝室でよかったわ。
私はベッドにあがり毛布に包まる。
――少し……少しだけ仮眠しよう。
アンは――今夜は私が酒場から戻る午後九時頃に夕飯だと言っていた。
それなら彼女の調理の手が空くまで小一時間ある。
――三十分だけ横になって、それからベランダから外に出て。
「今帰ったわ」と玄関扉を開けるのだ。
うとうとしながら、胸元にあてていた手に固いモノがあたる。
首にかけているチェーン――そこに通してある指輪だった。
金髪で空色の目をした男性の姿が頭をよぎる。
「レナート……」
と、彼の名を呟く。
私は夢の中へ旅立つ。
レナートは私の幼なじみだった。
そして――私の婚約者。
私が十六歳、レナートが十九歳の時に私達の婚約は結ばれた。
彼の家は侯爵家で、彼の両親と私の両親が懇意にしていたため、小さい頃からよく顔を合わせていた。
彼の穏やかな人柄はとても安心できて――私は令嬢教育の辛さや悩みをよく彼に聞いてもらっていた。
また、私がリュートを弾くことに嫌な顔をしない珍しい人でもあった。
私はレナートを――恋愛的な意味ではなかったが、兄のように慕っていた。
だから――彼との婚約の話が持ち上がったときも自然と受け入れられたし、嬉しいとも思った。
そうして婚約が結ばれて一年後。
戦争がますます激しくなり、国境沿いに領地を持つ貴族も参戦せざるを得なくなりはじめた頃。
レナートの侯爵家の領地が、アーガスタ王国エジャートン大公家に度々襲撃されるようになった。
レナートは騎士団とともに、領地を守るため戦いに行く決意をした。
だが、彼の両親は彼を戦争に行かせたくなかった。
彼は侯爵家を継ぐ一人息子だったので、彼の身に何か起きるのを心配したのだ。
私が彼に最後に会ったのは、そろそろ厳しい寒さが訪れようとしていた――静かな晩。
彼は夜の庭園で言ったのだ。
「あの国境沿いの領地は、結婚した君と過ごす場所となる。僕は君との未来の地をアーガスタに汚されたくない」
彼は星空の下、私にキスをした。
「ミレイユのために、必ずエジャートン大公を討ってくる」
そうしてレナートは――翌朝、周囲の反対を押し切り戦地に行ってしまった。
彼が戻ってきたのは半年後。
棺に入り――物言わぬ骸となって帰ってきた。
彼を運んできた騎士団は言った。
レナートはデイモン・エジャートンに殺されたのだと。
離れの上に昇った月が煌々と光りを放ち始めた。
ミレイユはまだ夢の中。
ベッドに横になった彼女の頬に、一筋の涙が流れる。
「レナート」
微かな声が暗い部屋に落ちた。




