5話【フレジコへの依頼】
「おお、レイナ。久しぶりじゃねえか」
イルジャンの酒場に入ると同時に、カウンター向こうのキッチンから、店主――イルジャンの声がかかった。
「ご無沙汰しちゃったわね」
私は手を振りながらカウンターに来ると、真ん中の席に座った。リュートを傍らに置いてサンドイッチを頼む。
時刻は午後三時を回ったところ。
酒場客の足が遠のくこの時間帯、私の他に客はなかった。
「別の店に移ったのかと思ったぜ?」
イルジャンはそう言いながら、手早くサンドイッチを作ると、皿に乗せて私の前へ置いてくれた。
「まさか。私はここの店でしか営業しないわ。他の店は怖いもの」
私は返事すると、サンドイッチを口に運んだ。その美味しさに「ん~」と口元を押さえて唸る。
「まあなあ、戦いが終わって五年経つが、まだまだ荒くれ者がウロウロしているからな」
戦争終結とともに王立軍の軍人達は通常業務――警備や治安維持の仕事に戻ったが、雇われ者の傭兵達は職を失った。
傭兵の多くは戦禍で故郷を失っていて戻るべき場所がなかった。
自然――彼ら王都に残り、日雇いの仕事で食いつなぎながら鬱憤をため込んでいる。
だから傭兵が夜の酒場で暴れるのはよくあることで、私のような若い女は絡まれることが少なくない。
しかし、このイルジャンの酒場では不思議なほどそうした乱暴事件は起きない。
なぜなら、店主イルジャンが元腕利きの傭兵で、現役時代は「魔王」とまで言われた異世界レベルの強さだったからだ。
現役を退いたとはいえ、未だ筋骨隆々、動きは機敏で、目も勘もいい。
そんな男の店で騒ぎなど起こしたら間違いなく無事では済まない。
荒くれ者も借りて来た猫のように大人しくなる――それがイルジャンの酒場だった。
「フレジコにとってこの店は天国よ。料理は美味しいし、店主は強くて優しいし、店内は安全。こんな酒場は他にないわ」
私はサンドイッチをペロリと食べてしまうと、空っぽになった皿をイルジャンに戻す。
皿を受け取ったイルジャンは――「サービスだ」と、果実水と一口ケーキを出してくれた。
本当にイルジャン、最高。
女、子供に優しいのよね、この人。
私がにんまりとケーキをつついていると、見覚えのある青年が店に入ってきた。
フレジコとして営業中に、この青年から何度か曲の注文を受けたことがあった。
「よお、カーク。今日は夜まで西町で壁の補修だって言ってなかったか?」
イルジャンが青年――カークに声をかける。
「ああ、その予定だったんだけど、ちょっと早く上がらせてもらったんだ」
カークは言いながら、カウンターまで来ると私の隣に座った。
「タラッカを頼むよ」
カークは人懐っこそうな笑顔で軽いお酒を注文すると、私を見た。
「美人がいるなと思ったんだけど――もしかしてフレジコの子? 名前はレイナだったよね?」
「ええ、そうよ」
「こんな時間からどうしたの? 営業はいつも夜じゃない?」
「そうなんだけど……この店に来るのが久しぶりでちょっと早めにきたの」
こちらをのぞきこんでくるカークに、少し身を引く。
「仕事の時間まで、イルジャンとおしゃべりでもしようと思って」
「ふうん、そうなんだ」
カークは出されたお酒を一口飲んで、思案するような顔をした。
「あのさ……実は母親がちょっと落ち込んでてさ」
唐突な話題に私は戸惑うが、果実水を飲みながら耳を傾ける。
「昨日の夕方に飼い猫が死んだんだ。ずっと母親が可愛がってた猫でさ」
「まあ……お気の毒に」
私も飼い犬を亡くしたことがあるので、彼の母親の悲しみはわかる。
「あまりのショックに、母さんは昨夜も今朝も食事が喉を通らなくて……」
「そう……それは心配ね」
同情の声が出る。カークが私をちらっと見た。
「それで……母親が気がかりで今日は仕事を早く切り上げてきたんだけど……」
「ええ、そうね。早くお母様のところへ行ってあげたほうがいいわ」
「うん。それでその……君も一緒に来てくれないか?」
「ええっ?」
私は目を見開いて青年を見た。
「なんで私があなたの家に?」
カークは真摯な口調で答える。
「君はフレジコだろう? 母親に慰めの曲を弾いてもらえないかな?」
――ああ、なるほど。音楽の出張依頼ってわけね。
彼が自宅へ誘ってきたことが腑に落ちる。そういうことなら――。
「ええ、いいわよ。家は近いの?」
「ここから十五分ってとこだよ」
「そう。それなら今から行って――夜までには店に戻ってこられるわね」
今夜は酒場でフレジコの仕事をするつもりだった。
イルジャンがディナーの仕込みを始めながら口を開く。
「カークの家は確か――ラドンの肉屋の近くだったか?」
「まあ……その辺かな……」
どこか居心地悪そうな顔をしてカークが立ち上がる。
「じゃあ、行こう」
慌ただしく私を促すカークに、イルジャンが眉をひそめる。
私のグラスにはまだ果実水が残っていた。
だけど――悲しみくれるカークの母親のことを思うと、一刻も早く行ってあげたい。
「イルジャン、ちょっと行ってくるわ」
私はそう声をかけてカウンターから下りるとリュートを手にした。
「レイナ」
イルジャンの声に私は振り返る。
イルジャンは何か言いたげに口を開いたが……結局何も言わずに片手だけ振った。
私も手を振り返してカークとともに店を出た。
・・・・・・・
カークの家は平民街の北側……通称北町といわれるエリアだった。
あまり治安がよくないと言われている場所だったが、昼間ということもあって危険な感じはしない。
十歳に満たないような子供達が路地を駆け回って遊んでいる。
その元気な様子に思わず目を細める。
黒髪を二つに結んだツインテールの女の子と目が合った。
その子は、水色の目で私の顔を見たあとリュートをじっと見つめる。
――リュートに興味があるのかしら。
私が足を止め、女の子に話しかけようとした時。
「ほらこっち、早く」
カークがイライラした口調で私の腕を掴んだ。
そのまま引きずるように路地へと入っていく。
いくら母親のことが心配とはいえ、こう乱暴に扱われてはむかっとくる。
「ちょっと引っ張らないで」
抗議の声をあげるが、聞こえないかのように、カークは私の腕を掴んだまま路地を右に左に曲がっていく。
――こんなに細かく曲がられたら、一人で帰るのは難しいわね。カークはちゃんと送ってくれるかしら。
私が不安になりはじめた時、カークの足が止まった。
「ここが僕の家」
そう指さされたのは、屋根が傾き壁の一部が剥がれ落ちてる小さな小さな小屋。
――ここでお母様と暮らしているの?
外観からして、どうみても人の住まいには見えないし、一人で暮らすのも難しい狭さだ。
――おかしいわ。
私はようやくここで自分が騙されて連れて来られたのではないかと気づく。
「ねえ、本当にこの中にお母様がいるの?」
「ああ。さあ、入って」
私の腕を掴んでいるカークの手に力が入る。
私は彼の言葉を無視してハミングした。
ハミング音を超音波に変え、建物の隙間から中へ向かって飛ばす――「探査」。
カークは怪訝な顔をする。
「おい、入れって。なにのんきに歌ってるんだ?」
彼から見れば、私が歌を口ずさんでいるようにしか見えないだろう。
私は目を閉じて超音波に神経を集中させる。
非可聴域の音は建物内で跳ね返り、音使いのドナシーにしか聞こえない反射音として――私の耳に届く。
高い音、低い音、鋭い音、鈍い音。
様々な反射音を聞き取り、私は頭の中で建物内部を立体化していく。
――広さはベッドが一つようやくおけるくらい。板張りの床と天井、貴金属類はなし。そして……人間はいないわ。
私はカークが嘘をついていることを確信し、彼の手を振り払って身を翻す。
しかし、カークは素早く腕を伸ばしてきて、私の肩をどんっと押した。
「きゃあっ」
身体が大きく傾いて地面に倒れてしまう。
リュートを守ったため左肩を強く打ちつけてしまい痛みで呻いた。
「手間かけさせんな。その身体――可愛がってやるよ」
私を見下ろすのは――もう酒場でみた優しげな男ではなかった。
ギラギラした目で私の身体をなめ回し、下卑た笑いを浮かべている。
カークは私を乱暴に立たせると、建物の扉を開け、私を中へ押し込もうとする。
「痛いわ! 腕を離して! 入る、入るから!」
私は怯えて従う――ふりをする。
「腕が痛いのよ! リュートが弾けなくなったらどうしてくれるの! 自分で入るから離して!」
大声で言うと、カークはこれ以上騒がれるより腕を離したほうがいいと思ったようだ。
渋々と手を引いたその一瞬。
私は抱えていたリュートの弦をさっと弾いた。
ドンとカークの身体が後方に吹っ飛ぶ。
――どうよ、リュートの音圧の味は!
楽器の音はハミングよりも強い音圧を放つことができる。
この技を使うと大体の人間は気絶してしまうから、今のうちに逃げ……。
「この女! 妙な技を使いやがって!」
カークは吹っ飛んだもののすぐさま起き上がった。
――やだ、どうして気を失ってないの!
手元のリュートを見ると、倒れた時の衝撃のせいか二本の弦が切れていた。
――これじゃあ音圧攻撃も効果半減だわ。ここは逃げるしかないわね!
私は勢いよく路地を走り出した。しかし……。
「ええと、どっち? どっちに曲がればいいの?」
記憶を頼りに道を戻ろうとするが、よくわからなくなってくる。
何回か曲がったところで、行き止まりになる。
後ろからは荒々しい足音と「くそ、どっちに行った!」という怒鳴り声が聞こえてきた。
――ま、マズいわ!
後退はできない。前には進めない。
私は半泣きになる。
「どうしたらいいの!」
「お姉ちゃん、こっちよ!」
はっと声のするほうを向く。
行き止まりに見えた木の壁――その壁の割れ目から見える向こう側――。
ツインテールの女の子が手招いているのが見えた。




