40話【兄と妹】
私は――リュートを取り戻すことなく、少年たちの小屋を離れた。
――あんな風に嬉しそうに弦を弾いてるのを見たら……取り上げるなんてできないわ。
目を輝かせてリュートを触るあの姿は、サラとまったく同じ。
もうしばらく楽しませてあげたいという気持ちが勝った。
それに――。
――あの少年……リュートは「貸してもらった」と言ってたわ。
こちらとしては貸したつもりはないが――弟にああ言った以上は返しにくる……なぜかそう信じることができた。
――今日のところは、このまま帰ろう。
そう思って、屋敷に向かったはずなのだが……。
「ええっと、どうして私……川にいるのかしら」
がっくりと肩を落としてしまう。
うっかり――屋敷と真反対の方向へ歩いて来てしまったらしい。
――デイモンのことを考えながら歩いてたせいかしら。
ううっと両手を頬にあてる。
屋敷を抜け出してから、一時間くらい経ったろうか。
――そろそろ、アンや騎士たちが……私が屋敷にいないことに気づく頃よね。
早く帰らなきゃと、来た道を戻ろうとして――ふと水面に鳥が舞い降りたのが見えた。
――あら、あの鳥……渡り鳥ね。
この時期、王都でもよく見かける白い鳥だった。しかし――。
――群れじゃなくて一羽だけ……。はぐれたのかしら。
よく見れば、身体が少し小さめでまだ子どもなのかもしれなかった。
――きっと、初めての旅なのね。
つい心配で見つめていると――。
急に渡り鳥が羽をばたつかせ始めた。
飛び上がることができないようで、水しぶきばかりあげて、苦しそうにしている。
――大変だわ!
私は駆け出し、鳥を助けようと川に入ろうとして――。
「ミレイユ! やめろ!」
大きな声がして、私はびくっと足を止める。
振り返ると、馬に乗った兄が大声を出しながら、こちらに向かって駆けて来るところだった。
私のすぐ近くまで来て、ひらりと馬から飛び降りた兄は――。
すぐさま私の手を取り、川べりから自分のほうへと私を引き寄せる。
そのまま、ダンスのターンの要領で、私の身体をくるりと回し――しっかりとした陸地へ立たせた。
「川の水に入ったのか!?」
鋭い口調で聞かれ、私は慌てて答える。
「いいえ、まだ……」
「そう……か。良かった……」
兄はほっとした表情になり――それから、私の頭をコツンと叩いた。
「ミレイユ、どうして一人で屋敷を抜け出したんだい。先日、君は誘拐されたばかりなんだよ、心配するだろう?」
まったくその通りだ。私は素直に謝る。
「ごめんなさい、実は――」
そう言いかけて、兄の背後――川面が見えて――息を飲んだ。
私の様子に、兄が何事かと振り返る。
そこには――。
先程の渡り鳥が――力なく水に浮き、ぷかりぷかりと川に流されていくのが見えた。
「あの鳥……死んでしまったの?」
どうして――と呟く私に、兄が「それは……」と言いかけて躊躇する。
「お兄様?」
言葉を切った兄に、私が首を傾げると――兄はふうっと息を吐いた。
「どうやら、君も……この川について知っておいたほうが良さそうだ」
そう言って――。
兄は、私の手を引いて、さらに川から離れると――。
「この川は汚染されているんだ」
と話しだした。
――汚染ですって? この綺麗な川が?
私が驚いている間も、兄の話は続く。
「領民にも近づかないよう指示を出しているんだ。毎年、この地を訪れているのは――収穫量だけでなく、川の汚染具合を調べるためでもあったんだ」
兄はここで一度言葉を切って、私をじっと見つめた。
「ミレイユ、これから話すことは、領民には秘匿にしていることなんだけど」
と兄は前置きしてから――。
「川の汚染にはね、『猛毒のドナシー』が関わってたんだ――」
と語り出した。
話を聞いていたのは――時間にすれば、十数分くらいだったのだろう。
しかし――聞き終えた私は、何時間も耳を傾けていたかのような疲労を覚えた。
「領民は……ルーモナの民は、毒の汚染に苦しめられていたのね……」
私は呟き、横を流れる川を――。
怒りとも恐ろしさともつかぬ感情をもって眺める。
兄は俯いて言う。
「戦時中……ルーモナの作物の収穫量が明らかに落ちた時期があった。おかしいと思って父上が調べたんだ。数年かかったみたいだけど……原因を突き止めた」
――それで、お父様はアーガスタを……デルビオンを襲撃されたのね。
毒汚染の源を絶つために。民を守るために。
「川から離れた場所に畑を移して……湧き水やため池で作物を育ててるけど――絶対的に水やりの量が足りなくてね。やはり、川の水を使いたいところなんだけど……」
兄はちらりと川を見る。
「ドナシーの能力で作った毒は特殊らしくてね。いまだ、解毒方法が見つからないんだ」
悔しさを滲ませた声で兄は言った。
私は目を閉じ――額に手をやって言う。
「デイモンの妹が……猛毒のドナシーだったなんて。彼は……デイモンは知っていたの?」
私が問いかけると、兄は「わからない」と首を振った。
「けれど――ドナシーとして生まれた子は国に保護され、秘匿される。その子がドナシーだと知るのは……自分自身と父親、そして国王陛下くらいだ」
我が家は例外だけど――と肩を竦めてから、兄は続ける。
「通常は、例え母親や兄妹であっても、ドナシーの存在は明かされないだろう」
確かに、レナートの場合もそうだった。
「それじゃあ、デイモンは知らないのね……」
大公邸で――彼は妹の死に憤っていた。
――彼は、サラが妹に似ていると言ってたわ。
彼がサラに向けていたあの親愛の目をみれば――妹をどれほど大切にしていたのかがわかる。
――そして、妹さんもきっと兄を慕っていたはずよ。
二人は――仲の良い兄妹だったに違いない。
――デイモンが、妹の真実を知ったら……。
どんなに苦しむだろう。
兄として彼が――どれほど悲痛な思いにかられるのか。
想像して――胸が締め付けられた。
「ミレイユ」
静かに名を呼ばれ、私は横を見た。
「ドナシーの行く末は――地獄だ」
辛そうな声から伝わってくるのは――心配と不安、そして懇願。
「くれぐれもドナシーの力が周囲に悟られないよう、十分に気をつけてほしい。君が連れて行かれるようなことがあれば――私は耐えられない」
「お兄様……っ」
私は兄の手を取り、今にも泣き出しそうなその顔を見上げた。
「気をつけます。お兄様を――家族を悲しませることにならないよう、慎重に行動します」
私はそっと兄の背中に手を回す。兄もやんわりと抱きしめ返してきた。
・・・・・・・
ミレイユが森で、兄から驚愕の話を聞かされていた頃――。
バラッタインの王城では、バラッタイン国王――ルシウス・バラッタインが、自室で手紙に目を通していた。
タウンゼント公爵からの密書だった。
「ふむ、ミレイユが襲われたか。無事で良かったが――」
ルシウスは手紙の先を読む。
首謀者は、反国王派のダグラス・バイラン子爵令息。
バイラン子爵令息は、毒を飲んで自害。手下たちも死亡し、詳細は不明。
なお、令息は、レナート・ガスパールが二重スパイであったことに言及していた――。
ルシウスは渋い顔をした。
箝口令こそしいていないが――。
二重スパイの事実を知るのは、口が固い者ばかり。
「やれやれ――どこから漏れたものやら」
ルシウスは呟くと、手紙を机に置く。それから――「さて」と腕を組んだ。
――やつらめ、いよいよ動き始めだしたか。
反国王派――勢いを増してきた彼らを、ここらで押さえ込みたいのは山々なのだが――。
今、ムガルンド帝国との交渉が佳境を迎えており、他のことまで手が回らないのが現状だった。
「ガンベイめ、無茶を言いおって……」
ルシウスは――ムガルンド帝国の宰相、バナージ・ガンベイの忌々しい顔を浮かべ、吐き捨てるように言った。
つい先程まで行っていた帝国との交渉会議で――。
ガンベイは、帝国の最新製糸技術提供の代わりに――バラッタインの小麦の輸出量を今の三倍にしろと言ってきたのだ。
製糸の最新技術は喉から手がでるほど欲しいが――。
今だって、帝国にはめいっぱい輸出しているのだ。
これ以上の小麦が国外に流出したら――わが国の民が食べる分が不足してしまう。
――どうしたものか……。
ルシウスは溜息をついて、机上の密書を手にとると、文机の引きだしにしまった。
一方、王宮の来賓室――その寝室で、バナージ・ガンベイは、床に跪く黒装束の男から報告を受けていた。
「ほう……あの子爵令息が、そんなことを」
ガンベイはそう呟いてから、
「それで――ちゃんと始末はしたんだろうな?」
と跪く男に問う。
「手下もろとも――口を封じてございます。それから、もう一つご報告が……」
部下の言葉に耳を傾けたガンベイは、一瞬驚いた顔をしてから――にやりと笑った。
「タウンゼント家の娘……確か、夜会で挨拶をした――赤毛の美人だったな。そうか、あの娘……やはりドナシーだったか」
ガンベイは面白そうに言うと、黒装束に命令した。
「娘を見張れ。どんな能力なのか見極めるんだ」




