37話【黎明】
「……そういうわけで、デルビオンの中央を流れてる川は汚染されている可能性が高いのです」
ダロスが言うと、セルゲイ・ラファラン子爵は頷いた。
ラファラン子爵家は――代々、エジャートン大公家からデルビオン領での領主代理を任されてきた家門だった。
ダロスとセルゲイは、領地屋敷の応接室で、年代物のローテーブルを挟んで座っていた。
「そうではないかと、我々も思っていたのです。見た目は――昔と変わらぬ綺麗な川ですが……」
セルゲイは五十代半ばのでっぷりした腹を引っ込め、姿勢を正してダロスに打ち明ける。
「十年ほど前から、森の小動物や、渡り鳥などが、一切川に寄りつかなくなったのです。どうもおかしい、これはなにかあるぞと――領民も近づかないようになりました」
畑に引く水も、この川から別の川に変更したかったのだが……。
近くには他に適当な水源がなく、泣く泣くこの川を利用していたのだという。
「わかりました。畑に引く水については……こちらで検討してみます」
ダロスは、セルゲイが持参した領地の経営報告書に目を通しながら言う。
「汚染がなんとかなるまでは、大公家から支援金を出しますので、うまく配分して領民の暮らしを支えてください」
セルゲイは両手を組んで、目を輝かせた。
「なんと! それはありがたい。感謝いたします」
深々と頭を下げるセルゲイに、ダロスは頷いた。
「あなたの差配に期待します。――それから、くれぐれも……領民には、川から離れて生活するよう指導してください」
はい、と頷きかけて――セルゲイは「しまった」という顔をする。
「どうしました?」
ダロスが問いかけると、セルゲイおずおずと口を開く。
「それがですね、この時期、領民たちは川に行かねばならない用事がありまして……。困ったな、これは大公様の意見を仰いだほうが良さそうだ」
セルゲイは、「大公様にぜひお目にかかりたいのですが、今、どちらに?」と身を乗り出す。
ダロスは一つ溜息をついて答えた。
「さて……会っていただいたところで、話になるかどうか」
「もう、酒はやめときなよ」
そう声が聞こえて――俺は、ぼんやりと横を見た。
王都の宿屋の女将――その面影がある年配の女性が、気遣うようにこちらを見ていた。
国境の宿屋。
その食堂で――俺は陽の暮れる前から、酒を飲み始めていた。
今は――もう深夜と呼べる時間に差しかかっていて……。
賑わっていた食堂も、閑散としはじめていた。
「ほら、水だよ」
そう言って、女将が氷が入った水のグラスをテーブルに置く。
俺は、首を横に振った。
「いや……酒をくれ。強い酒がいい」
頑なに拒む俺に、女将が溜息をつく。
「はあ……ダロスから聞いたけど、あんた、大公さんなんだろう? そんな姿、領民に見せられないだろうに」
黙り込む俺に――女将はもう一度溜息をついた。
「この店で一番弱いのを持ってくるよ。それまでに、その水を飲み干しておくんだよ」
肩を竦めて言うと、彼女は立ち去った。
俺は胸元のポケットを触った。
かさりと――エルザの手紙が音を立てる。
廃院でこれを読んでから――丸三日。
俺は、まるっきり使いものにならず……ここで日がな一日、酒を呷っていた。
布地の上から――手紙をぎゅっと握る。
エルザの真実を知ってから――。
俺はこの世から放り出されたような気分だった。
領主として――。
不作の原因が土壌汚染で――領民が長きに渡って毒に苦しめられていたことにひどく心が痛んだ。
そして――。
――妹が「猛毒のドナシー」だったなんて。
ドナシーがどんな存在かは聞き知っていた。
類い希なる能力を持って生まれてくる「大陸の奇跡」――。
そして、その特殊能力ゆえ権力者から狙われ、悲惨な最期を遂げる者が少なくないと。
まさしく、妹は「ドナシー」の過酷な人生を歩んだ。
川を毒で汚染するなどあってはならない。彼女もそう思っていた。
しかし、戦争は――「あってはならないこと」を肯定し強制する。
――エルザは自分の能力に、どれほど怯えたことだろう。
あの時、手紙を手にした俺は、一言では言い表せない感情が渦巻いた。
絶望、幻滅、怒り、憐憫――。
俺はエルザを助けてやることができなかった。
どうして、あいつの苦しみに気づいてやれなかったのか。
こんなに後悔しているのに。
――もう俺は、妹のためになにもしてやれない。
圧倒的な虚無感に飲み込まれた。
カラン――とグラスの氷が音を立てた。ふっと視線をグラスにやると――。
「あら、いい男」
頭上からねっとりとした女の声がした。
顔を上げれば――リュートを抱えた赤い髪をした女が立っていた。
女はテーブルに肘をつき、胸元の開いた服で、ぐっと胸をつき出してきて言った。
「ねえ……一曲、聞かない?」
代金以上のサービスするわよ――と女はちらりと二階の客室に視線をやり、意味ありげに微笑む。
女の髪の色とリュートに――ふと心を惹かれて、俺は頷く。
女は熱っぽい目で俺をみると、リュートをかまえて弦を奏で、歌い始めた。
それは、恋の歌だった。
激しく、情熱的な旋律。
――この音じゃない。
空虚な心に――さざ波が立つ。
――俺が聞きたいのは、この声じゃない。
頭の中に、さあっと、田舎町の結婚式の夜が浮かぶ。
燃えるような赤髪。
夜風に吹かれて聞いた――優しい子守歌。
「……ミレイユ」
店の窓の外に、あの夜と同じ満天の星が見えた。
堪らない気持ちがわき上がって――。
俺はテーブルに酒代と、フレジコへのコインを置くと……。
ふらふらと立ち上がった。
「ちょっと、どこに行くのさ!」
後ろから、女の焦った声が聞こえるが、無視して店の外へと足を踏み出した。
ピリッと冷たい空気が頬をうった。
俺は星空を眺めながら、森の中へと歩き出す。子守歌を口ずさみながら。
あの夜――ミレイユと交わした会話がぽつぽつと浮かんでくる。
『人を殺める剣しか知らないのに?』
『平和のために振るう剣だってあるはずよ』
彼女の前向きな姿勢に――惹かれた。
敵国で一人、辛かったはずだ。泣いた夜もたくさんあったのだと思う。
けれど……彼女は人のために尽くし、人生を自ら切り開き、前に進んでいた。
平和に馴染めず、妹を失った悲しみから抜け出せずにいた俺を――その明るさで救ってくれた。
『あなたなら大丈夫。きっと自分の望む道をみつけて歩み出せるわ』
ミレイユが俺に言ってくれた言葉。
――俺の……望む道。
俺が今、切望すること。
ふと、言葉が口からついて出た。
「俺は……今からでもエルザを救えるだろうか」
できなかったと悔やむのではなく――妹のために一歩踏み出す。
虚ろな心に、ぷくりと光の玉が生まれる。
俺は――。
妹が死ぬまで後悔し渇望していたこと――毒で染まってしまった川を元に戻すという願いを叶えてやりたい。
それは――デルビオンの民を助けたいという俺の望みとも重なる。
心に生まれた光の玉は明るく――燃えるように輝いていく。
ミレイユの赤い髪のように。
気づけば――。
夜の中に、朝の気配が混じりだしていた。
森の空気はぐっと下がり、吐く息は真っ白だ。
一晩中、森を歩き続けた俺は――自然とこの場所へと辿りついていた。
「エルザ」
枯葉が毛布のように――彼女の小さな墓石を覆っている。
膝をつくと、かさりと葉が音をたてた。墓に手を伸ばす。
「苦しかったな」
一撫でする。
「辛かったよな」
墓石を――抱きしめる。
「俺はお前に誓う。汚染された川を元通りに戻す。見ててくれ」
エルザが微笑んでくれた気がした。
だが――その笑みは悲しげだった。
――屈託なく笑えるようにしてやるから。待ってろ。
そう心の中で呟き、立ち上がる。
――ん?
足元にマーガレットの花が供えられてるのに気づいた。
――ダロスか。
俺はその花を手に取り――。
『ミレイユ様は――ガスパール侯爵令息の真実を知ったのでしょう』
ダロスの言葉が耳に蘇る。
黎明の中、儚く輝く星を見上げた。
――ああ、ミレイユ。お前も……。
愛する者の真実を知って――こんな絶望を味わったのだろうか。
――もし、そうだったのなら。
「あの夜、お前が俺を慰めてくれたように――ミレイユを抱きしめてやりたかった」
そう口に出したら、もう止まらなかった。
彼女への気持ちが溢れ出る。
――側にいたい、側にいてほしい。
息が苦しくなって、胸元に手をやると――ポケットがかさっと音を立てた。
『お兄様は――後悔しない人生を歩んで』
――エルザ。
俺は唇を噛みしめ――心を決める。
――俺は、再びミレイユを手に入れる。
そのためなら。
恨むことも、憎まれることも。
俺の正義も、公爵家が振りかざす大義も。
――ぐだぐだ言わず、全部まとめて飲み込んでやる。
挑むように――俺は昇り始めた太陽を見つめた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
昨日は投稿時間を間違えて、早めのアップとなりました。
土曜、日曜は16時20分投稿予定です。
楽しんで読んでいただけたなら幸いです。




