33話【脱出】
「ミレイユ様」と、アンに呼ばれた気がして――目を開けた。
しかし、そこにアンはいなかった。
かわりに目に飛び込んできたのは――。
昨夜から変わらない……森の管理小屋の粗末な室内。
私は一人ぽつんと――椅子に縛られ座らされたままだった。
小窓から差し込んでくる明るい光に、夜が明けたことを知る。
――アンに呼ばれたのは……夢の中のことだったみたい。
私は「アン……」と呟こうとして――声が出せないことに気づく。
そうだった――。
昨夜、ダグラスが去り際、私の口を布で塞いでいったことを思い出す。
静まり返った小屋の中。
ダグラスたちがここを訪れる気配は――まだない。
――アンは……大丈夫だったかしら。
攫われたときのことを思い出す。
この小屋に囚われてからずっと――彼女が怪我しなかったか、無事でいてくれてるのかと心配でならなかった。
――大丈夫、大丈夫よ。アンは武術の心得があるし……あの場には、セシル卿やスターキー卿もいた。きっと上手く逃げ延びたはずだわ。
そう考え、自分を落ち着けていると……ふと、外から聞こえてくるゴウゴウという川の音に違和感を覚えた。
――なんだか……昨日より音が大きいみたい。川の水量が増したのかしら。
そういえば、昨夜は突然大雨が降り出したような……気がする。
よく覚えていないのは――。
ダグラスから聞いた話のせいだ。天候の急変もおぼろげになるくらいの衝撃だった。
――レナートがアーガスタのスパイだった……ですって?
私は、ダグラスからそう告げられたとき――呆気にとられてしばし黙り込んだあと――声をたてて笑い出してしまった
あの優しくて穏やかなレナートが、スパイだなんて――。
しかも――。
あの後、続いたダグラスの話によれば、レナートは――。
バラッタインのスパイでありながら……アーガスタに寝返り、バラッタインの情報を敵国に漏らしていたのだというのだ。
――彼は、私との未来のため……アーガスタから自分の領地を守ろうとした人だったのよ?
バラッタインを愛し、この国での今後を夢見ていたのだ。
――その彼が……二重スパイですって?
天地がひっくり返っても、あり得ない話だった。
ダグラスは――彼の言うことをまったく信じない私に憤慨した。
彼は地団駄を踏んで、私が私の罪を認める前に、まず――。
「レナート・ガスパールの罪のほうを先に、認めさせてやる!」と叫び――。
「明日、証拠を持ってくるからな!」と息巻いて――。
私を椅子に縛りつけたまま、さらには口に布を巻きつけて、小屋を出て行ったのだった。
昨夜も思ったが――。
――あの男……絶対、妄想癖があるわね。最後まで、私が罪人だと言い張っていたし……。
私は一つ溜息をついた。
ついで、外に耳を澄ませてみる。
――うーん、川の音ばかりで……助けがくる様子はないわね。
眉を寄せて天井を睨む。
実のところ――。
昨夜中に、タウンゼント家の騎士によって助けてもらえるだろうと考えていた。
だが――。
彼らは来なかった。
今回の襲撃には遅れをとったとはいえ――精鋭揃いのタウンゼント家の騎士たち。
彼らの能力をもってすれば、この小屋を突き止めることはそう難しくはないはず。
それなら、救助が遅れてる原因は――。
――森の管理小屋って……かなり国境沿いにあったわよね。
終戦したとはいえ――。
いたずらに元敵国を刺激しないよう……どちらの国も、極力、国境には近づかないようにしていた。
このあたりを大規模に捜索するのは……いくら父とはいえ、慎重にならざるを得ない。
――もう少し、助けには時間がかかるかしら。
困ったわね――と私は、昨夜のダグラスの目を思い出して、ゾクっとする。
会話をしながら、時折――狂気じみた色を帯びていたあの目。
昨日は差し迫った身の危険は感じなかったが――彼がいつ豹変するかわからない。
――少しでも早くここから脱出したほうがいいわよね。
そう考えを切り替えて、私は覚悟を決める。
――自力で脱出しよう。
令嬢として、危険を冒すことは避けたかったし、一人で上手く逃げ出せるか……不安はある。
でも、そんなことは言ってられない状況だ。
――大丈夫、私にはドナシーの力があるもの。
ふうっと心を落ち着けて――「まずは、縄から抜け出そう」と考える。
私のドナシーの力は――。
敵を音圧で吹っ飛ばそうと言うならリュートが必要だが――。
結び目を解くような作業であれば、楽器は要らない。
ハミングで起こす超音波で十分――むしろそっちのほうが向いている。
――落ち着いて、神経を集中して……。
私は慎重に、口の中でメロディを転がした。
だが――。
――ど……どうして縄が解けないの?
何度もハミングしてみるが――結び目は固く結ばれたままだ。
――あ! 口に布を巻かれてるから?
そう気づく。音がこもってしまうためか……超音波が上手く発生してないように思えた。
――これは……まずいわね。
助けは来ない。
自力で逃げ出すこともできない。
――どうしたらいいの!
布の下で唇を噛んだところで――。
ガタガタっと小屋の戸が開いたと思ったら――ダグラスとごろつきが二人、小屋の入口に立っていた。
「おはよう、ミレイユ・タウンゼント嬢」
ダグラスは、手下達に外で見張りをさせ――にやにやと挨拶をしながら、一人で小屋に入ってきた。
――……逃亡失敗ね。
がっかりしそうになるが、「いいえ、まだまだ」と顔を上げる。
――とにかく、時間はかかるかもしれないけど、絶対に救助はくる。
それに――。
口の布さえ外れれば、自力で逃げ出すこともできるはず。
――気を強くもって、チャンスを狙うのよ。
こんな男に負けてはダメよ――と私とレナートを罪人扱いする妄想男を睨みつけた。
「ふん、まだ、そんな風に――自分たちは無実だといわんばかりの顔をしてるのか」
ダグラスは、鼻を鳴らした。
「まあ、いい。昨日約束したとおり、レナート・ガスパールがスパイだった証拠を持ってきた。これを見れば――お前もやつの罪を認めざるをえないだろう」
一体なにを持ってきたのか。
これ以上、妄想話を聞かされるのは勘弁してほしい――溜息をつきながら、彼が掲げたものに目をやり……。
私は目を丸くする。
「どうだ? ……ああ、口を塞がれていては答えられないか」
そう言って、ダグラスが私の口に巻かれた布を外した。
私は――目の前の物体にぽかんとしてしまい……。
せっかく布が取れたのにハミングのことすら一瞬頭から飛んで――呆然と尋ねてしまう。
「これって……リュートよね?」
ダグラスは自信たっぷりの表情で話し始めた。
「そうだ。レナート・ガスパールがスパイ活動で使っていたものだ。この森の洞窟に隠されていたのを――さる高貴なお方から助言をいただき見つけ出した」
脳裏をよぎる光景――。
初夏の森。
秘密の演奏会。
目の前のリュートは――。
たしかに、レナートが使っていたものによく似ていた。
しかし――。
「リュートでスパイ活動ですって? 本気で言ってるの?」
楽器でそんなことができるわけがない。私はダグラスの主張を鼻で馬鹿にした。
すると、彼も――こちらを見てあざ笑ってくる。
「ははは、そんな風にとぼけても無駄だ、ミレイユ・タウンゼント。こちらは全て知っている。高貴な方から教えていただいたのだ!」
ダグラスは、リュートの弦を指さす。
「音を暗号代わりにして、国境沿いの森で弾き――敵国のスパイがそれを聞いて解読する」
手にしたリュートを憎々しげに見て――彼は続けた。
「スパイ同士、直接顔を合わせる必要がないから、あやしまれる危険が少ない上――周囲からは、ただ曲を演奏して楽しんでいるようにしか見えない。まったく、上手いことを考えたものだ」
そんなことあるわけない。
全部、このダグラスの自分勝手な思い込みだ。
そう言い返そうとするが――もやもやとした気持ちが沸いてきてしまう。
レナートは――。
なぜ、あの夏、森に行こうといいだしたのか。
どうして、突然、リュートを習いたいと言い出したのか。
――馬鹿ね、ミレイユ。なにを気にしてるの。
レナートが森に誘ってくれたのは、戦時で自宅待機が続いて塞ぎ込む私を――気分転換させてくれるため。
リュートだって――。
純粋に興味を持ったから、弾いてみたくなっただけ。
――レナートはそう言ってたじゃない。しっかりしなさい、ミレイユ。
思わずダグラスの話に乗せられそうになった自分を叱咤していると――。
目の前の男が、嫌な笑い声をあげて言ってきた。
「ガスパール侯爵が、戦後、息子の墓を平民墓地に移動させたのも――二重スパイをしてたことが発覚し、激怒したからだと聞いてる。まあ、当然の処置だな、ははは」
私は、ひゅっと息を飲んだ。
ダグラスは、私のすぐ前まで来ると――言った。
「ミレイユ・タウンゼント。お前は昨日の昼間に――国境沿いの森で、リュートを弾いたな?」
彼はずいっと私に顔を近づけた。
「お前も――アーガスタのスパイなのだろう? 婚約者だったレナート・ガスパールとともにこの国を裏切ったのだろう!」
彼は興奮したように大きな声で言う。
ここで、私はようやく――。
昨夜、ダグラスがなぜ「ミレイユ・タウンゼントの正体」だとか、「裏切り者」だとか口にしたのか――理解した。
ダグラスは――ぎらぎらした目で私を見た。
「なんとか言え、ミレイユ・タウンゼント!」
彼はリュートを足元に投げ捨てると、私の肩をぐいっと掴んだ。
「い、痛いっ」
「ほらほら、スパイだと認めるんだ! そうしたら、もう乱暴はしない。」
「痛いわ、手を離して!」
私は顔を歪めるが――ダグラスは浮かされたような表情で叫び始める。
「ガスパール家だけでなく、タウンゼント家も……卑怯なアーガスタによってスパイに仕立て上げられていた!」
彼の指がいっそう肩に食い込み、私は激痛に声を漏らす。
「陛下も……アーガスタのこの非道を知れば、友好外交から、即時開戦に踏み切って下さるはず! そのためには――」
血走った目で、彼は言う。
「ミレイユ・タウンゼント、お前は、陛下の前で、アーガスタのスパイだと告白するのだ!」
私は、痛みを堪えながら首を横に振る。
「やめて、私はスパイじゃない!」
「くそっ、潔く認めないのなら、こうだ!」
ダグラスが大きく腕を振りかぶりながら、一歩前に足を出したとき。
彼は床にあったリュートをガツっと蹴り飛ばし、それが私の足に当たって――。
リュートがビィーンと音を立てた。
私は咄嗟に――ドナシーの力をつかって音圧を増幅させる。
ドンッと、ダグラスの身体が横に吹っ飛んだ。
私はすぐさまハミングをして縄を解くと、床に転がったリュートを手にして、小屋の戸に走り寄る。
まだ唸り声をあげて這いつくばってるダグラスを横目に、私は戸を勢いよく開けた。
外にいた見張り役のごろつき二人が、驚いたようにこちらを見るのに……先手を打ってリュートをかき鳴らす。
二人の身体がグワンっと宙を舞う中――私は川とは逆方向に駆け出した。
必死に逃げ出す私は――。
その時、森の影から私をじっと見つめる目があることに……気づく余裕はなかった。
私は――。
それから、ドナシーの力を使って追っ手を撒きながら……小一時間ほど森を逃げ回り――。
大きなブナの木が並ぶ一画まできたところで、私を探していたタウンゼント家の騎士たちと出会うことができた。
私は騎士たちに――。
私を攫ったのがダグラス・バイラン子爵令息であること、森の管理小屋に捕らわれていたことを伝えると、安堵してしまい……。
ドナシーの力を使い過ぎたこともあり、強い眠気に襲われて。
騎士たちが慌てた声をあげる中――昏倒してしまったのだった。




