2話【イルジャンの酒場】
酒場のカウンターで男女がにらみ合っていた。
女は深緑の目をした、腰まで届く燃えるような赤毛が印象的な美女。
二十代前半と思われるその女は、口を開けばぽんぽんと軽快に文句が飛び出してくる。
男は、グレーの瞳に灰青色の短髪で、長剣を背負っている傭兵剣士。
不機嫌そうな顔と冷淡な口調が通常運転の二十代半ばと覚しき男。
そして、この美女と剣士の小競り合いを、客が酒を片手にはやし立てながら観戦する――。
それがイルジャンの酒場の日常だった。
「レイナ、この店で見境いなく男に話しかけるなと何度言えばわかる?」
剣士が向かいの美女を睨む。
「どうして俺が飯を食いに来る度に面倒事に巻き込まれなきゃならないんだよ」
やっとありつけた夕飯に手をつけながら、剣士が眼光鋭く言った。
普通の女性なら震え上がりそうな視線も何のその。
レイナと呼ばれた赤毛の美女は目をつり上げて言い返す。
「その言いよう聞き捨てならないわね。人を男狂いみたいに言わないで!」
彼女はばんっとカウンターを叩いた。
「それにダンのしていることは私の――フレジコの営業妨害よ!」
「営業妨害だと?」
剣士――ダンは、いよいよレイナを睨みつけながら低い声で問う。
「ええ。だって、そうじゃない。フレジコは音楽を奏でるのが仕事」
そう言って、レイナは片手に持つリュートをポロンを爪弾く。
「だから私が酒場の客に話しかけて音楽を勧めるのは当たり前。客が酒場で音楽に浸るのも当たり前。それなのに――」
レイナはきっとダンを見る。
「あなたはその音楽客を追い出しちゃうじゃない! これは営業妨害以外のなにものでもないわ!」
「音楽に浸るのが――常識の範囲内なら何も言わない。だがな――」
ダンは冷酷そうな目を細めた。
「お前の客は、他の客の迷惑を考えないくらい盛り上がる」
彼はわざとらしく首を振って続ける。
「あまりにうるさいから俺が店から放り出す羽目になってるんだろう」
両者の言い分に、常連客三人が頷きながら語り合う。
「いやあ、俺もダンに放り出されたことがあるけど――レイナのリュートは本当に愉快な気分にしてくれるんだよなあ」
「わかるわかる、もう歌いたくて仕方なくなるんだ」
「俺なんか踊っちゃうぜ」
ダンがジロリと常連客達を見る。
三人はあわわと口に手をやり、素知らぬ顔で食事を再開する。
「とにかくお前はこの店で演奏するな」
「はあ? ここは私の仕事場なの。あなたこそ音楽客を追い出さないでよ」
「何度も言ってるが――俺は音楽が嫌いなんだ」
いらいらした口調でダンが言う。
「静かに曲を楽しんでるならまだ我慢できるが、狂ったように歌う酔っ払いがいたら追い出すに決まってるだろう」
一理あるようで自分勝手なだけの言い分に、レイナはむっとする。
しかし、相手はかなりの頑固者。
自分一人ではダンを説得させることは難しいと考えたレイナは――。
味方になってくれそうな客を探してさっと周りを見渡した。
すると――。
ダンが来るまでは陽気に曲のリクエストをしてくれていた客達が、レイナと目が合わないよう一斉に俯く。
いつもこうだった。
凄腕の傭兵剣士と評判のダンに、誰もが一目置いていた。
だから音楽嫌いのダンが来店すると誰もが彼に気を遣い、フレジコは商売にならなくなる。
今日も――レイナは自分の劣勢に唇を噛むと、リュートを担いで足を踏みならして店を出た。
・・・・・・・
「音楽が嫌いなら、酒場に来なきゃいいじゃない!」
左腕でリュートを大事に抱え、右腕はぶんぶんと振り回す。
酒場を出てすぐの路地を歩きながら、私は怒りを露わにした。
「どうして私が悪者扱いなの? 常連さん達も私の味方をしてくれてもいいのに。いくらダンが恐いからって……」
ふと彼の鋭い眼光を思い出す。
あの生粋のアーガスタ人らしいグレイの瞳はいつも冷酷そうだった。
特に、十年前まで戦争相手だったバラッタイン王国の話をする時は――彼の瞳の冷たさが増す。
視線だけで、喉元に剣先をつきつけられているような気分になる。
「まあ……みんなが萎縮するのもわかるんだけど」
ふうっと溜息をつく。
「なんとか彼が店に来ないようにできないかなあ」
ダンがイルジャンの店に来るようになったのは一年ほど前からだった。
それまでの彼は、その日その日で目についた酒場に適当に入っていたらしいのだが――。
たまたまイルジャンの店を訪れて以来、その料理の美味しさに感動して通ってくるようになったのだ。
「料理が美味しいっていうのも考えものね。客がたくさん来るのは結構だけど、変なやつも引き寄せちゃう」
私は胸にしまった袋を取りだし、そっと中を見てみる。
「今日はあんまり稼げなかったわね」
フレジコとしては死活問題だ。
フレジコは、音楽院で教鞭を執っている教職音楽家や、楽団所属の契約音楽家とは違ってフリーで音楽活動をしている。
お金を払って聞いてくれる客を探すのも仕事のうちで、多くのフレジコが酒場や広場で営業しながら演奏をしている。
顔が売れれば、お祭りや貴族のパーティーの演奏を頼まれたり、戦場などの慰安隊として呼ばれることもある。
私といえば――。
ここ四年、イルジャンの酒場を出入りしてようやく名前を覚えてもらってきたところ。
――これからが勝負だというのに。
「いっつもダンに邪魔されるのよね!」
彼の音楽嫌いのせいで、客に逃げられるのが日常茶飯事になりつつある。
「とはいえ……フレジコとしての稼ぎはどうでもいいのだけど」
私は俯いて呟く。
「そもそもお金が欲しいわけじゃなくて――ただ音楽を弾きたいだけだし」
ふと周りが随分と静かなことに気づく。
普段は路地沿いの家々から漏れてくる明かりもない。
見上げれば月が大分高い位置にあった。
「今日はいつもより遅い時間になっちゃったわね。――近道して帰りましょう」
私はリュートを大事に両手で前に抱えると口の中でハミングをした。
メロディがそっと空気を揺らす。
次第にその空気の揺れがどんどん大きくなり速くなっていく。
路地の雑草がぶるぶると震えだし、道端に捨ててある紙くずがガサガサと音を立てる。
空気の揺れが最高潮に達した瞬間――。
私の身体がポンっと勢いよく空中に押し出された。
路地の建物のはるか上空まで飛ばされた私は――眼下に広がる下町の光景に一瞬見蕩れる。
下降する気配を感じて、私は慌ててハミングを繰り返した。
それに合わせてポンポンポンと身体が空中ジャンプをする。
平民街の夜空を見上げる者は誰もいない。
これまでもこれからも。
彼らの夜の楽しみはいつだって地上にあるのだ。
だからこの星空のジャンプは誰にも見つかったことはない。
十数回目のジャンプをしたところで地上に降りることにする。
そこはもう平民の居住区ではなく、貴族達の住まいが連なるアッパーエリア。
その中でも一際大きく豪華な屋敷――エジャートン大公家の離れに私は下りた。
着地場所は鬱蒼としていて、本宅周辺のように整えられてはおらず、草木が伸び放題だ。
そんな場所にひっそりと建っているのは二階建ての小さな建物。
貴族屋敷にあるのでそれなりに立派だが、古くてしばらく手入れがされていないのは傍目にも明らかだ。
「それでも四年と六ヶ月も住めば、このみすぼらしさも気にならなくなるわね」
リュートを抱え直す。
「さてと、夢の時間は終わりね。『レイナ』から『ミレイユ』に戻らなきゃ」
私は目の前の粗末な建物に入った。




