19話【さようなら】
私は目を閉じては開いて、窓から見える大男を何度も見る。
――やっぱりダロスだわ。
彼は宿屋前の騒ぎに足をとめ、眉を顰めていた。
――なんで彼がここに?
そう思った直後、ダロスに駆け寄る女性がいた。この宿の女将だ。
彼女はダロスの腕に手を回し、妻が夫にするように頬へキスを送った。
私はさっと窓辺から離れた。
ダロスの奥方は宿屋の女将。
その宿というのが……。
――ここだったんだわ。
私は素早く頭を回転させる。
ダロスは私の素顔を知らない。
だから今、ここで私の容姿を見られても、彼は私がミレイユだとは気づかないだろう。
しかし、心情的にダロスに――大公家の人間に本当の姿を見せるのは嫌だった。
――彼は宿の中まで入ってくるかしら。
もし入ってくるのなら、一旦この宿から離れたい。
しかしダンからは待ってろと言われている。
私は少しだけ悩んで部屋を出た。
ダロスの動向を探るのだ。
階段をそろそろと途中まで下りると、一階の様子をうかがう。
足首が痛んだがそんなことを言ってはいられない。
宿屋の入口を見つめる。
――ダロスが入ってくるか否か。
私が目を凝らしていると、一階のロビー客の会話が耳に入った。
「はあ、戦争が終わって俺達はこんなに生活に苦しんでるってのに……くそっ」
「まったくだ。王立軍のやつらは何の苦労もなく、立派な治療や仕事にありつける。羨ましい限りだぜ」
声の主達を見ると、体格のいい三十過ぎの男達だった。
話しぶりと彼らの身なりから戦争帰りの傭兵――といったところだろう。
「羨ましいと言えば……エジャートン大公は国から褒賞がだいぶ出たんだろう?」
知った名前が出てどきっとする。
「褒賞は出たかもしれねえが――くっ」
せせら笑いとともに続けられる。
「あのバラッタイン王国の女と結婚する羽目になったんだぜ? とんだ貧乏くじだろう」
「ああ、そうだったな。敵国の女と一緒に暮らすなんて――俺なら絶対にごめんだね」
ひゅっと私の喉が鳴る。
「そうだろう? この国であの女が息をしてると思うだけで気分が悪くなる」
「あ~あ、誰かあの女を殺してくれねえかなあ」
血の気が引いていくのを感じた。
ここのところ、笑い合える知り合いがたくさんできた。
居心地の良い場所が増えた。
だからすっかり忘れていた。
本来の私は、ここアーガスタ王国民にとって――。
――敵国の女。
皆が増悪の目を向け、殺してやりたいと思う敵なのだ。
それは――きっとダンも一緒だ。
私は震え出す身体を叱咤し、受付へ行った。
急用ができたので帰りますと、ダンへの伝言を頼む。
それから、表の騒ぎに巻き込まれたくないと言って、宿屋の裏口から出してもらう。
街灯が点きだした通りを歩く。
痛む足を引きづっていると――背後に視線を感じた。
ダンかと思って青くなるが、どうも違うと気づく。
さきほど大通りで尾けてきた奴らのようだった。
酒場へいく途中の尾行なら、イルジャンに退治してもらう。
しかし帰り道であれば――。
大公家までついてこられて私の正体がバレては困るので、ドナシーの能力で撒くのが常だった。
例えば――。
人気のない路地に誘うように入り、子守歌を聴かせて眠らせたり。
ストーキング相手がこちらから目を離した隙に、宵闇に紛れて空中ジャンプで逃げ出したり。
――空中ジャンプは……痛む足では失敗するかもしれない。
私は子守歌で眠らせようと脇道に逸れた。
・・・・・・・
無事に尾行を撒いて帰宅してから――三日後。
私は今、アンとともに自室にいた。
宿屋から逃げ帰ってからずっと部屋に引きこもっていたのだが――。
今朝になってアンがばんっと入室してきて、私をベッドから引き剥がし、窓を開け、シーツを替えて宣言したのだ。
「さあ! ここを引き払う準備をしますよ!」
アンに言われて、離婚日まであと一週間だということを思い出した。
彼女はテキパキと私のクローゼットの服を吟味していく。
「これはもう形が古くなっているからここに置いていこう。こっちはこのシフォンだけはずして……」
アンは自分の作業に熱中しているかのように振る舞いながら――私の様子をちらちらとうかがっていた。
私はそれに気づかないふりをして、文机に向かい便箋にペンを走らせる。
宿屋から帰って来た日、私はアンに好きな人について打ち明けた。
その人はダンという名前で、傭兵で、ぶっきら棒だけど優しい人なのだと話した。
それから、この初恋は終わらせることにしたと泣きながら告げると――。
アンは頷き「バラッタイン王国に帰れば、ミレイユ様なら殿方から引く手あまたですよ」と、一晩一緒に泣き明かしたのだった。
それから今日まで、つかず離れずの距離で、アンは私を見守ってくれていた。
「あ、そうでした、ミレイユ様宛に手紙が届いてました」
アンは思い出したように言って、メイド服のポケットから手紙を取りだした。
私はペンを置くと、今朝届いたというそれをアンから受け取る。
「お父様からだわ」
早速開封して中を読むと、一ヶ月ほど前に私が出した手紙の返事だった。
「アン、離婚日当日だけど、お父様が迎えの馬車を出して下さるそうよ」
「それはようございました。大公家がバラッタイン王国まで送ってくれるとは思えませんからね」
トゲトゲした口調でアンが言う。
「でも、お父様もお兄様も公務で来られないそうなの」
「心得ました。アンは少々武術の心得もありますのでご心配はいりません。バラッタイン王国までお守り致します」
「ええ、頼りにしているわ」
アンの実家は騎士の家系で、彼女も多少剣の心得があった。
「それから……この封書を平民街に届けてほしいの」
私は書き終えたそれをアンに渡す。
サラへの手紙だった。
突然だが、私はこの国を出ることになったこと。
サラへのレッスンは――中途半端だが終了になること。
その旨を手紙に書き――差出人が追跡できない手段でサラに届けてもらうことにした。
サラが手紙をたどって私の家を突き止めるとは思わなかったが、念のためだ。
アンはこういう隠密の行動も得意で、実家でも重宝されていた。
「かしこまりました」
アンは整理の手を止めると、手紙の配送のため部屋を出て行った。
私は一人になると溜息をついて、ベッドへ移動した。
横にはならず、腰掛けてサイドテーブルを見る。
サラのために用意していた楽譜が広がっていた。
本当はこの引きこもっていた三日間で最後の仕上げのレッスンをするはずだった。
でも平民街に行けばダンに会ってしまいそうで、サラの家に出向けなかったのだ。
――それに体調も良くないしね。
この数日、横になってるわりによく眠れていなかった。酷い悪夢を見るのだ。
うなされて飛び起きて――泣きはらした顔で再び眠りにつくが、またすぐに冷や汗をかいて跳ね起きる。
今夜もそうなるだろう。
私はたまらなくなって、再び文机に向かうと新たな便箋を取り出す。
そして、今夜も訪れるだろう悪夢を振り払うかのように、必死に文字を綴っていく。
ダンへの手紙だった。
『私、もうすぐこの国を出て行こうと思っています。だからあなたとは結婚できません』
挨拶語も、時候に触れることもなく、駆り立てられるまま文字を連ねていく。
『正直に言うと、あなたのことは好きになりかけていた。でも……きっと私達はうまくいかない』
うっと嗚咽が出そうになるのを堪えて書き続ける。
『お互い別々の道をいきましょう。どうぞお元気で。さようなら』
ペンを置く。
あっけない内容。
でもこれが今の――私の嘘偽りない気持ち。
私は涙をためた目で、天井を見上げてぼんやりと思う。
――もしかしたら。
ダンは私を敵国の女だと知っても、変わらず愛を捧げてくれるかもしれない。
私に夫がいること、間もなく離婚することにも理解を示して、それでも結婚したいと言ってくれるかもしれない。
バラッタイン王国にだってついてきてくるかも。
でもそれは万に一つの可能性。
そのほんのわずかな希望にかけられる程、私は強くない。
夢にはダンが出てくる。
初めて好きになった男が、甘く私に微笑んでくれたあの顔が――増悪に染まる目でこちらを見てくるのだ。
彼は凍えそうな声で言う。
「敵国の女だったのか。俺を騙していたんだな」
私の髪を掴んで剣をかざして――虫けらを見るような目で。
「お前など殺してやる」
私は机に突っ伏して声をあげて泣く。
――耐えられない。
苦しくて息ができない。
ついこの間も――知ったばかりの恋が破れてしまう悲しみに泣いた。
けれど、これはあの比ではない。
世界が崩れるような、生きる気力が根こそぎ削がれるような、哀哭。
これはもう恋じゃない。
――私はダンを愛してしまっていたんだわ。
恐い。
彼に憎まれることがなによりも恐い。
私はアンが戻ってくるまで泣き続けた。




