1話【プロローグ】
初投稿です。お楽しみいただけたら幸いです。
――五年間よく耐えたわ。
思い返せば、十八歳で実家・バラッタイン王国のタウンゼント公爵家から――。
ここ――アーガスタ王国のエジャートン大公家に嫁いできてからは過酷で辛い日々だった。
私は今、念願の離婚手続きの場にいる。
大公家の格式に相応しい執務室で、テーブルを挟んで夫であるデイモン・エジャートンと向かい合っていた。
私は自分の顔に手をやる。
ひんやりとした硬質な仮面がそこにあった。嫁いできたその日から、ずっとこの大公家で被り続けてきたものだ。
私の顔も髪の色も声も、この敵陣で覆い隠してくれた。
これのおかげでどれほど心強くいられたか。
しかし一方で、不幸なこの結婚生活の象徴ともいえるモノでもあった。
デイモンを見る。
彼もまた仮面をつけていた。
結婚した時に知らされた彼の歳は二十一歳だったが、あれから何も変わっていないような佇まいだ。
私達はこの五年間で数度しか顔を合わせることはなかったが、いつもお互い仮面を被っていた。
そのため、私達は互いの容姿や声を知らない。知りたいとも思わなかった。
彼は憎い敵。
そして自分もまた、デイモンからすれば恨むべき敵。
二王国間の戦争終結――その和平目的の政略結婚。元敵同士の結婚が上手くいくなんて――はじめからありえないことだったのだ。
でもこの結婚がなければ……この国に来ることがなければ。
――あの愛おしい男に出会うこともなかったんだわ。
諦めようと決めた男の顔がうかび、苦笑いしてしまう。
――いけない、離婚の手続きに集中しなくては。
側に立つ大公家の家令が、離婚に関する書類をテーブルに並べた。
「デイモン様」
家令の呼びかけに応じて、デイモンが書類にサインをする。
「ミレイユ様」
私も頷いて、自分の名を書類に記した。
「結構でございます。これでお二人の離婚は成立致しました」
家令の言葉に私はほっと息を吐く。
――ああ、終わった。
この悲惨な結婚生活に、ついに終止符が打たれたのだ。
私は衝動的に仮面に手をかけた。
この国で生活してる間は決して外さないと決めていたもの。
でももう――外してもいいのだ。
すぐにこの国を出るのだから。
顔を覚えられて命を狙われる心配はなくなったのだから。
最後に――仮面越しでなく、自分のありったけの怒りをのせた表情でこの男を睨みつけてやりたい。
私は突き動かされる気持ちのまま仮面を外し、まっすぐにデイモンを見た。
「ようやくあなたとおさらばできるわね。あなたを手にかけなかった自分を褒めてあげたいわ。一生許されることはないと思ってちょうだい」
バラッタイン王国民の――そして私自身の憎しみをデイモンにぶつける。
デイモンに――素顔を見せることも、仮面の変声効果を通さず生の声で話すのも初めてだった。
――少しすっきりしたわね。
地声で言いたいことを言い終えた私は立ち上がった。
祖国へ帰るための――タウンゼント公爵家の馬車が、もう大公家の玄関の外で待っているはずだ。
私は無言でごく簡単に別れのカーテシーをして顔を上げ――そこでデイモンの様子がおかしいことに気づいた。
仮面で表情はわからないが――明らかに彼の身体は強ばってみえた。
拳を握りしめ、肩には力が入っている。
――どうしたのかしら?
私が最後に恨み事を言ったことに怒ったのだろうか。
――でもどちらかといえば、怒っているというよりは動揺しているような……。
私がうろたえていると、デイモンがすっと立ち上がり自らの仮面に手をかけた。
ピンと来た。
デイモンは私と同じように素顔で文句をいうつもりなのだ。
確かに彼はやられっぱなしの性格ではない。
動揺どころか反撃に出ようとしていたのだ。
――彼の口撃に負けてなるものか。
私は気持ちを強く持って睨み上げ――。
「そ、そんな……」
仮面の下から出てきた彼の素顔を見て、思わず声が出た。
私は身を翻すと執務室から駆け出した。
――一体どういうことなの!?
心臓がバクバク鳴っている。
あの仮面の男は私がこの世で一番嫌っている男だったはず。
それなのに……なぜ。
――世界で最も愛しい男があそこに居たの?
わからない、わからない、わからない。
今日、私は離婚して、憎むべき男から自由になり――。
同時に――愛しい男に気づかれないようこの国から出るはずだったのに。
「ミレイユ!」
背後からデイモンの声が聞こえた。彼が追いかけてくる気配がする。
「来ないで!」
私は階段を下りながら叫ぶ。
「待て! 待ってくれ!」
今日初めて聞いた、憎くて殺してやりたい男の本当の声。それは――。
私の愛する男と同じだった。
幸せな記憶が頭をよぎる。
思わず振り返りそうになるのを必至に堪えて、足を動かす。
心臓がうるさい。
頭が混乱する。
今、追いかけてきてるのは一体誰なの?
彼はどんな目で私を見ている?
憎しみに満ちた目をしている?
――そんなの耐えられない。
玄関にたどり着くと、驚いたようにこっちをみているメイド達を横目に、玄関扉を自ら開く。
「ダメだ、屋敷から出すな! ミレイユを止めろ!」
背後でデイモンの声がするが、私はすでに――公爵家の馬車が待つ外に飛び出していた。
・・・・・・・
時はミレイユとデイモンの離婚日より遡ること四ヶ月――。
アーガスタ王国の王都カサドラは、穏やかな夜を迎えていた。
アッパーエリアでは貴族が夜会に出かけ、平民街では労働者が仕事終わりの一杯をひっかける――至って平和な光景。
しかし数年前まではこんな平穏な夜など想像もできなかった。
ここアーガスタ王国と隣国のバラッタイン王国が長きにわたり戦争をしていたからだ。
二国は元々は一つの国だった。
しかし、北部と南部で土地の環境ががらっと異なり、そのため生活習慣や経済スタイルが大きく違うことから――。
五百年前にの北のアーガスタ、南のバラッタインに分かれた。
以降、二王国間では友好な時代と険悪な時代を交互に繰り返してきた。
そんな中――。
十五年前に国境付近で起こった小競り合いから戦争に発展、二王国は血で血を洗う冬の時代を迎える。
戦いは長引き、ようやく終結したのが五年前――実に十年に及ぶ大戦争だった。
争いを終わらせる切っ掛けになったものは二つ。
一つは、あまりに長期間の戦争であったため、両王国の犠牲者、国土の被害が大きくなりすぎたこと。
もう一つは、周辺の国々が疲弊した二王国を占領しようと動き出したためだった。
アーガスタ王国は豊富な鉱山資源があり、バラッタイン王国には豊かな穀倉地帯があった。
そのため、周辺国は二国に攻め入り、資源を手に入れるチャンスを虎視眈々と狙っていたのだ。
両王国は元は一つの国。対立意識がある反面、同胞意識も強い。
縁もゆかりもない他国人に国土を荒らされるくらいならと、和平条約の締結へと舵を切った。
そして、この和平条約の目玉となったのが――。
アーガスタ王国のエジャートン大公家当主デイモン・エジャートンと、バラッタイン王国のタウンゼント公爵家令嬢ミレイユ・タウンゼントの結婚だった。
両王国に年頃の王族がいなかったため、それぞれの王族の親族――王位継承権を持つ高貴な貴族同士を結婚させ、和平を堅固なものにした。
同時に――。
周辺国に両王国の固い繋がりを見せつけ、彼らが攻め入る機会を潰すことに成功したのだった。
こうして両王国に平和が訪れ、アーガスタ王国王都カサドラにも活気が戻った。
特に平民街は年を経るごとに賑やかになり、今では夜になれば酒場が大盛況。
ここ「イルジャンの酒場」も例外でなく今日も商売繁盛。
そして――恒例になっている一組の男女の口喧嘩が繰り広げられていた。




