アダマンテ大陸統一戦争編 第七章
前回のあらすじ
コンテッド王国の国王、リチャードの崩御により、帝国と王国の間で一か月の停戦協定が結ばれた。ゼロスはこれによりつかの間の安寧を得たが、ヴァイス園のシエラの頼みにより、盗賊の征伐に出かけた。
盗賊の頭領は何者かの手によって「痣」を移植され、人の形を捨てていた。ゼロスは何とかこれを撃退し、シエラからの頼みを解決する。
翌日、ゼロスたちはもともとの予定通り、休暇を満喫するためにバラキアへと出立する。道中では同胞たちと言葉を交わし、得難い安寧をかみしめていた。
バラキアは観光地として再整備されていた。賑わいの声で埋め尽くされ、太陽の輝きが気分を高揚させる。これから、休暇の始まりだ!
誤字脱字等、ご容赦ください。
バラキアへと到着した烈風騎士団の面々は、『バラキーズ・ブラッスリー』で昼食をとっていた。次々に出される料理に舌鼓を打っている。その間、話題はチューン城に滞在してくれることになっている紅蓮騎士団と、その時に知ってしまった『影の一族』の計画についてだった。
「今、チューン城の内政はレオン達に任せているんだよな。引継ぎとかは何時済ませたんだ?」
「昨日のうちにな。……そういや、ゼロスは昨日の昼間に姿を見なかったな。何か用事でもあったのか?」
「ああ、ちょっとした野暮用をな。……レオンの身体の後遺症はどうにか治らないのか?」
ガルディアと戦ったレオンには、魔臓器の凍結という重い後遺症が残っていた。人が魔法を使うには、体の中に存在する魔臓器で魔力を燃焼させることが必要となる。簡単に言えば、『炉』のようなものだ。……それが凍ってしまえばどうなるか。普通の炉であれば、一度何とかして火をつければ氷は次第に溶け、元通りに使える。しかし、魔臓器はそう都合よくいかない。熱を与えれば氷は溶けるが、投入口すら氷で覆われているのならば、そもそも燃料を入れることすらできない。氷を砕こうにも、手術には相当の腕を要する。おそらくこの大陸内にはレオンを治せる医者はいないだろう。ゼロスの質問に、エリオットは首を横に振った。
「聞いてみたけど、無理だとさ。……まあ、もともと引退するつもりだったらしいし、本人はそこまで悲観的ではなさそうだったが」
――――――
昨日、チューン城内、エリオットの仕事部屋。明日からのバラキア旅行に向け、少しでも多くの仕事を片付けようと朝から奮戦していた。山積みになっていた書類を半分ほど片付けたお昼ごろ、彼の部屋のドアがノックされる。
「エリオット、客だ」
外から聞こえるのはカリンの声。彼女も今日の休みを返上し、エリオットの秘書として働いていた。
「ああ、入っていいぞ」
「失礼する」
カリンが部屋へと入ってきた。そしてすぐに振り返り、「どうぞ」と客人を招く。案内に従って顔を表したのは紅蓮騎士団の団長レオンと、その孫ルトガーだった。確か二日前にも城へ来ていたはずである。
「やあ、エリオット。……約束通りだ。明日より我ら紅蓮騎士団が、チューン城護衛の任を果たそう」
「頼もしい限りです。ありがとうございます」
「まあ、儂は書類仕事しかせん。力仕事は、ルトガーたちに丸投げするがな」
「……やはり、あの後遺症のせいでしょうか?」
ガルディアによって凍りついてしまった魔臓器。そのせいで彼は魔法を使えなくなった。しかし、彼は笑って返す。
「なに、もともと引退するつもりだったところに、都合のいい言い訳が降ってきただけのことよ。……あまり気にするでない」
「しかし、治せないわけではないのでは?もしそうなら……」
「その必要はない。ガルディアの考えを読めず、みすみす逃した挙句武人の誇りなんぞに固執して、身内を危険にさらすとは。……これだけでも、クビには十分だ。それに、いつまでもジジイが上に立っていても、邪魔なだけだ。さっさと後進に道を譲るべきよ」
ルトガーの肩に手を置きながら、レオンは豪快に笑う。自らの身に降りかかる災いすら、笑って吹き飛ばす。老成とは、まさにこのことだとエリオットは見つめていた。
――――――
「確か、こんな感じだったな。なあ、カリン」
「ああ。戦えなくなることを苦に思ってはなさそうだった。ならば、私たちがそれほど気にしていても仕方のないことだ」
「……そうか。少し気になっていたが、気を揉む必要はないのだな。……それにしても、ガルディア達は一体何を……」
空になった皿を前に考え込むゼロスを、ノクスがいさめる。
「ゼロス、今は休暇中だ。忘れろとは言わないけど、多少は切り替えるべきだよ。そんなに気を張りつめてると疲れてしまうし、眉間にも皺が寄る。……子供たちにも怖がられてしまうかもね」
手痛いところを突かれたのか、ゼロスは少し目を丸くしたかと思えば、それきり黙り込んでしまった。フルコースは最後のデザートまで進んでいる。話題を変えるべく、エリオットが今後の予定を尋ね始めた。
「みんな、昼飯食べ終わったら何をするんだ?」
「そりゃ、もちろん海に行くね。みんなもそうだろう?」
「当たり前だな。私たちは海に遊びに来たのだから」
普段の様子とは異なり、セリアも乗り気だ。言葉には出していないが、他の皆もそれぞれの意思表示で、海に行くことを示している。エリオットは納得したような顔を浮かべた。
「まあ、そうだろうな。存分に遊んできてくれよ。俺は今日一日書類で手一杯だからな」
「嘘だろ?せっかく海に来たってのに、見に行こうともしないのか?」
おそらくこの中で一番海に思い入れがあるであろうノクスが、エリオットの行動を信じられないような眼で見る。デザートを食べ終えたエリオットは「しょうがないだろ」と言って立ち上がり、ポケットから硬貨を乱雑に取り出すとテーブルの上に置いた。
「じゃあ、俺は先に失礼するぜ。……そんな顔をするなよ、明日は休息もかねて海に出るからさ」
皆でそろって遊べないことを不満に思うノクスをなだめて、エリオットは一足先にレストランを出て行った。皆もすでにデザートは食べ終えていた。彼が立ち上がったのを機として、皆も席を立った。
会計を済ませ、外に出ると日はまだ高く照っている。レストランの中で少々長話が過ぎたかと焦って出たが、あまりその意味はなかった。砂浜には人が大勢いるが、広大な砂浜すべてを埋められるほどではない。海の家から少し離れれば十分くつろげるスペースがいくらでも広がっている。シエラたちはそこに布を敷き、腰を下ろす。子供たちは団員の腕を引っ張り海へと向かっていった。ゼロスは少し離れたところに腰を下ろすと、浅瀬で遊ぶ子供たちを見守っていた。ノクス達も子供に誘われて海へと向かっていたが、アイリーンだけは頑なに断り、敷かれた布の上から動こうとはしなかった。普段、子供からの誘いは全く断らない彼女がそんなことをするのは珍しい。何かが気になった。ゼロスは彼女に近づき、声をかける。
「……体調でも悪いのか」
いきなり声をかけられたせいか、それともゼロスに声をかけられたせいか。アイリーンは肩をびくつかせる。ぎこちない首の動きでゼロスの方を振り返ったが、顔が赤く染まっていた。
「い、いえ!大丈夫です!なんともありませんから!」
彼女は肩にかけていた上着をぎゅっと握りしめる。かなり日差しは強いが、そんなものを羽織っていては暑いだろう。アイリーンの顔が赤いのはそのせいかもしれない。
「それ、暑くないか?脱いだ方がいいぞ」
「う、うう……」
彼女はまた力強く上着を握りしめる。どうしても脱ぎたくないと言わんばかりだ。しかし、ゼロスは説得を続ける。
「せっかくバカンスに来たのに体調を悪くしたらもったいないだろう。それに、子供たちもみんなアイリーンと遊びたがってる」
「……ですが、これだけは……」
「何か問題でもあるのか?」
「……こちらへ来ていただけませんか?」
アイリーンは何か意を決したように、ゼロスを岩場へと誘った。少しの疑問を抱きつつも、彼はそれに答え彼女の言うとおり先を歩く。二人とも岩場の陰に隠れ、向こう側からは見えないような場所まで来た時、アイリーンがゼロスを呼び止めた。
「……ゆっくり、こっちを向いてください」
震える声で、アイリーンは言う。何か緊張しているらしいということは分かるが、なぜ緊張しているのかゼロスは分からなかった。しかし、言われた通りに振り返り、それを理解する。
「……ど、どうでしょうか?」
そこに立っていたのは黒いビキニを身に着けたアイリーンだった。三角ビキニトップで胸元を大胆に露出し、サイドを支える細いひもがフィット感を与えている。下半身はローライズになっており、健康的な太ももをこれでもかと見せつけている。アイリーンは身体を隠したいのをこらえるように、背中で手を組んでいる。顔は今まで以上に赤く染まっていた。
「よく似合っている」
アイリーンとは反対に、ゼロスは冷静そのものだった。恥ずかし気に体をよじる彼女を見ても、なぜ上着を羽織っていたかは理解していない。ただ何事も起きていないようにその場に立つゼロスの反応を受け、アイリーンは次第に冷静になっていく。そこまで恥ずかしい恰好ではなかったのだという安心と、真正面で女人の水着姿を見てもなお特に反応を変えもしないゼロスへの困惑が、心の中でないまぜになっている。そして、困惑が安心を上回ったころ、アイリーンは一歩踏み出し、ゼロスへと詰め寄っていた。
「……他には、何かありませんか?似合っている以外に、感想が欲しいです」
彼女がそう言うのには、とある理由があった。それは、一昨日にさかのぼる。
――――――
チューン城、城下街。ゼロスの水着を購入したのち、アイリーンは店に残り自分の水着を選び始めていた。私服ならまだしも、肌の露出が必然的に増えるであろう物を選ばせるのは気が引ける。待ってもらうのも忍びないし、適当に目を付けたものにしようかと棚に置かれた水着に手を伸ばした時、『待った』がかけられた。聞きなじみのない声に慌てて振り向くと、若い女性店員がアイリーンのもとに向かってくる。そして、棚に伸ばしていた手を取った。
「駄目です!」
「え?」
「せっかくのデートなのでしょう!?それなのに、適当に選んだ水着ではいけません!」
「い、いえ。そのような関係では……。それに、他の人とも一緒に行くので、別にデートという訳でも……」
アイリーンは弱弱しい弁明をする。それに呆れた店員は大きくため息をつくと、まるで演説じみた話し方を始めた。
「……ご存知でしょうか?夏というのは、様々な方が出会いを求める季節でございます。独り身では、来る冬の寒さをしのげませんから。……先ほどの男性とのお話、少々聞かせていただきましたが、海というのはその最たるものなのでございます。男、女。どちらも同じです。砂浜は出会いを求める飢えた人々によって埋め尽くされるでしょう。……あの方が取られてしまっても、いいのですか?」
怒涛の勢いでまくしたてられたアイリーンは目を丸くしながらも、投げかけられた質問に答える。
「……別に、あの人は私の物ではありませんから」
「ではなぜ……。そんなに浮かない顔をなさるのですか?」
うつむいていたアイリーンはハッと顔をあげる。自分でも知らず知らずのうちにそんな表情をしていたらしい。そして、そんな反応を示した自分のことが信じられず、左手で顔を触る。……自分の顔のことだ、鏡を見る必要なんてない。
「……それで、一体私はどうすればよいのでしょう?」
観念したように口を開くアイリーン。目の前にいる少々強引な店員は、嬉しそうに何度もうなずくと、ただ一言をきっぱりと突きつけた。
「気を引きましょう!」
「気を、引く?……具体的には、何を……」
「もちろん、水着ですよ。せっかく海に行くのですから、それを使わない手はありません。他の誰もがかすむほど魅力的な水着を身につければ、あの男性も釘付けになること間違いなしですよ!……恋愛小説にそう書いてました」
情報の出所としてはかなり不安が残るものだが、「巷で流行っている小説だから大丈夫」という言葉を信じ、アイリーンは店員に従ってみることにした。彼女はいくつもの水着を抱え、アイリーンを試着室へと連れて行く。彼女を試着室に押し込むと、持ってきた水着の試着会が始まった。店員が持ってきたものの内、ほぼすべてが過激すぎたため、そもそも身に着けることすらはばかられた。そんな中ようやく唯一まともと呼んでいいであろう物を見つけた。簡単に体に当て、サイズには問題がなさそうなことを確認すると、試着せずそのまま飛び出した。
「……これにします」
「あれ、もうよろしいのですか?それに、ご試着もまだですよね?」
「いえ、もう大丈夫です。これに決めましたので!」
「……わかりました。それでは、お会計いたしましょうか」
会計を済ませ、紙袋に入れられた水着を手渡される。そして、「頑張ってくださいね。良い報告、お待ちしております」と言われ、アイリーンは逃げるようにその店を後にするのだった。
――――――
ほぼ不可抗力で手に入れたものとはいえ、最終的には自らの手で選んだのだから、それなりの感想は欲しいと思うのは当然だろう。それに、親身に対応してくれた彼女との約束が、アイリーンの背中を押していた。ぶつけられたことのない質問に困惑するゼロスに、さらに詰め寄る。もう手を伸ばせば届くところまで近づいている。ゼロスはあまりの光景に耐えられず、そっぽを向いていた。
「……なんで、他所を見ているんですか?」
ゼロスの対応に少しムッとしたのか、アイリーンは両手を伸ばしてゼロスの顔を掴む。そして無理やり自分の方に向きなおさせた。
「なっ!何を……」
「私は感想を求めているんです!他所を見ないでください!」
全く予想だにしていなかった行動に、ゼロスは驚きを隠せない。アイリーンはここまで自己主張が強くなかったはずだが、一体どういう風の吹き回しなのか。それはいくら考えたところで分かるはずもないが、今求められていることは分かる。
「……綺麗だ」
そう言葉を絞り出した。その言葉を聞き満足したのか、アイリーンは彼の顔から手を放し、一歩下がる。そして、足元に放っていた上着を手に取った。
「……ありがとうございます。それでは、私はお先に失礼します」
上着で顔を隠したアイリーンは、逃げるようにゼロスの前から去っていった。岩場の陰に残ったゼロスは、一人手ごろな岩に座り、彼女が去っていった後を目で追っていた。逃げたアイリーンはシエラたちが布を敷いていたところに戻ると、三角座りでその上に座り込んだ。上着を羽織り、顔は何とか目いっぱい伏せている。頭の中では、自分がしでかしたことへの後悔と、「綺麗」と褒めてもらえた嬉しさが入り混じり、人に見せられる顔ではなくなっていた。休憩のため何人かがそこに戻るたび、彼女の様子を気に掛けるが、必死に「なんでもない」と取り繕うことで精いっぱいだった。
結局アイリーンはその体勢のまま、夕方までを過ごした。途中何度か海を見つめたが、そのたびに子供と遊ぶゼロスが視界に映る。すると、またもやあの事を思い出して顔を伏せてしまう。それでも、わざわざ水着を着たせいか、宿に戻る気にはなれなかった。自分は海まで来て一体何をしているのか。夕日に照らされた海を眺めながら自己嫌悪に陥っていると、後ろから声をかけられた。
「そこのお姉さん!よかったら、俺たちと遊ばない?」
そう声をかけて来たのは三人組の男だった。日焼けした肌の上に、ぎらつくアクセサリーが輝いている。
「……いえ、遠慮します」
アイリーンは落ち着いて拒否を示したが、彼らは食い下がる。
「なんで?暇なんじゃないの?」
「もう宿に戻りますから」
「夜はこれからだよ?奢るからさ、一杯だけでも付き合ってくれないかな?」
話が通じない。男たちはアイリーンの行く手を遮るように広がると、しつこく勧誘を続けた。
「悪い思いはさせないって。な?」
「……。あなたたちに話しかけられたときから、すでに悪い思いはしています。私からさっさと離れてください!さもないと……」
「さもないと?なんだよ」
三人組のうちの一人が、アイリーンの腕をつかんだ。思いもしない攻撃に、反応が遅れる。掴んできた腕を振り払おうとするが、男の力が思っていた以上のもので、抵抗がうまくいかない。
「……おいおい、そんな甘い抵抗じゃ逃げ出せないぞ。それともあれか?『嫌よ嫌よも好きの内』ってやつか?……健気だねえ、男を喜ばせるためにそこまで」
アイリーンは必死に抵抗を続けるが、男たちはにやついた顔でそれを眺めているだけだ。いつ死ぬかもわからない戦場に立ち、剣や斧を振り回している自分よりも、身体に少しの傷もつけていない男の方が強いのか。彼女の心に無力感が広がり始めた時、助けの手が現れた。
「アイリーン、何やってるんだ?」
軟派な男たちに絡まれていたせいですっかり忘れていたが、すでに日は落ちている。この時間は宿で夕食の予定だったが、いつまでも戻ってこないアイリーンを心配してゼロスが捜しに来たのだ。
「……誰だよお前。邪魔すんなよ。この女は今から俺たちと遊ぶんだよ。だから、お前みたいなむさい野郎はお呼びじゃねえんだ。わかったらさっさと失せな」
「そうなのか、アイリーン?」
「そんなつもりはありません!助けてください!」
「……てめえ!」
思い通りにならないアイリーンにイラついたのか、一人の男が拳を振り上げた。彼女は痛みに備え、眼を瞑る。しかし、その拳は振り下ろされることはなかった。その代わりのように、拳を振り上げた男が海に落ちていた。周りにいた二人の男も呆気にとられ、アイリーンの腕も解放された。
「てめえ!何しやがった!?」
二人組になった彼らはゼロスに憤りをぶつける。ゼロスは涼しい顔で手招きした。
「今からそれを教えてやる。かかってこい」
邪魔された怒りからか、それとも友人の一人に害を加えられたからか。彼らは先ほどの光景を忘れたかのようにゼロスへとおどりかかる。ゼロスは彼らに肘打ちと裏拳を一発ずつ見舞い、砂浜に沈めた。ゼロスはアイリーンに近寄る。
「……大丈夫か?」
「……はい、大丈夫で……。あれ?」
大丈夫。そう言おうとしたが、言えなかった。一歩踏み出そうとした途端、足から力が抜けその場にへたり込んでしまう。アイリーンは何度も「あれ?」と繰り返している。立ち上がろうとしても、立つことすらできない。それを見下ろしていたゼロスは一度しゃがんで彼女と目線を合わせると「我慢してくれ」といった。そして、アイリーンの肩とひざ下に手を通し、軽々と持ち上げた。俗にいう『お姫様抱っこ』だ。少しして、アイリーンは自分がどのような状態にあるか気づく。
「な、なななななな何を……!?」
「……どうしても立てないようだったからな。嫌かも知れないが、少しの間だ。我慢してくれ」
肩にまわされたゼロスの手は、先ほどの男とは違った。心地よい温かさに、アイリーンは身体を預けていた。
宿に戻ったゼロスたちを出迎えたのは騎士団の皆であった。ゼロスが様子を見に行くといって出てからそれなりに時間は経っていたため、より心配になっていたようだ。
「遅かったじゃないか!一体何があったんだ?」
「アイリーンが男どもに絡まれていた」
心配のあまり、自分の宿からでて捜しに行こうと用意を整えていたエリオットに、ゼロスが端的に原因を伝える。
「それで、その……。滅多にないことですので、足に力が入らなくなってしまいまして……。こうしてゼロスさんに運んでいただいています……」
アイリーンは両手で顔を覆いながら答えた。自らのふがいなさ、そして運んでもらっている姿勢。恥ずかしがるなという方が無茶だろう。ゼロスはゆっくりとアイリーンの足を下ろした。
「立てるか?」
「だ、大丈夫です。何とか」
少々怪しくはあるが、自分の力で立つことはできるようだ。彼らは一様に安心した様子を見せ、食堂へと足を運んだ。レストランと比べ庶民的な料理が用意されている。昼にあれだけ豪勢なものを食べたのだから、夜はこれぐらいがちょうどいい。それに、庶民的とはいえ材料の質が良いおかげで、舌も満足できた。夕食を済ませ、入浴の時間となった。ゼロスは普段、身体についた傷を他人に見せたくないという理由で、一人で入れる時間を狙っていたが、もうそんなまどろっこしいことをする気はなかった。皆と共に入浴を済ませる。部屋に戻ったころにはすっかり睡魔が思考を支配していた。ベッドに転がり込むと、そのまま沈むように眠ってしまった。バラキア旅行の初日は、こうして締めくくられた。
一週間後、コンテッド王国、王城内大広間。キースはある者たちを待っていた。午前十時、大広間に扉が開かれる。先に入ってきたアベルが引き連れていたのは、五人の戦士。彼が選んだ五影将だ。アベルは彼らを整列させると、恭しく一礼した。
「キース様。約束通り、五影将を連れてまいりました。……お前たち、挨拶しなさい」
アベルが五人に挨拶を促す。彼らはそれに従い、一人ずつ一歩前に出て名乗り始めた。
「私は、五影将が一人、岩影将のアルテオスと申します。以後お見知りおきを」
キースから見て左端に立っていた男だ。礼儀正しい物言いに、キースからの好印象を得ている。
「すでにご存じかと思いますが……。氷影将、ガルディアでございます」
その隣に立っていたのは、キースが手ずから『痣』を移植したガルディアだった。彼の強さはキースもすでに知っている。文句はなかった。
「五影将が一人、震影将ブロード。我が命を救っていただいた恩義に報いるため、全力を尽くしましょうぞ!」
闘志にあふれた大柄な男だ。その上、体内からあふれ出ている魔力も、他の者と比べると桁が違う。魔力量だけで言えば、この男が一番優秀だろう。
「この度、五影将に選んでいただきました、光影将のフェリアと申します。よろしくお願いいたします」
教会の礼服に身を包んだ女は、そう言って頭を下げた。……惑星アルスには、とある宗教が根付いている。その名も『光輝教』。シャーディンによる支配から世界を解き放った反乱軍が広めた、シャーディンをこの世すべての邪悪とし、それにあらがうことこそが、正しき人の生きざまであると教える宗教である。時代が進むにつれ、様々な宗派に分かれたが、根本的な教えは変わっていない。……その教会のシスターが『シャーディンの痣』に吞まれたあげく適合するとは、なんとも皮肉なことだ。
「……激影将のヴィズ。よろしく」
最後に名乗ったのは、少し態度の悪い女だった。目つきも鋭く、他の四人に比べるとキースに向けての畏怖といった感情が見受けられない。それを感じ取ったキースは、杖でヴィズを指した。
「……お前、国王を前に随分と不遜な態度をとるではないか。何かが気に入らぬとでも言いたいのか?」
「別に、ただ退屈なだけ。気分を悪くしたなら謝るよ。ごめんね」
慣れた態度でそう言うと、ヴィズは足早に大広間から出て行ってしまった。アベルが呼び止めるが、聞く耳を持たない。キースはそれを面白がっていた。
「良い。日頃の態度なぞどうでもよいのだ。……我らが宿願、忘れたわけではあるまい」
「はっ。手始めに帝国のしもべどもを根絶やしにし、アダマンテ大陸を世界征服の足掛かりにすることでございます」
「そうだ。そのために、貴様らが存在する。戦い、そして勝利をつかむのだ」
影の侵攻が始まるまで、あと三週間。
バラキア、パールビーチにて。子供というのは一度おもちゃを与えられれば、飽きるまでそれで遊ぶものである。今日も今日とて、孤児院の子供たちは砂浜へと向かい、各々したいことをしていた。海で泳いだり、ボールで遊んだり、砂浜で何かを作ったり。日々彼らの無尽蔵な体力に付き合わされた騎士団の皆は、一度の戦場よりも草臥れていた。かく言うゼロスも、連日連れまわされれば疲れる。今日は一日ベッドの上で惰眠をむさぼっていた。同じくエリオットも、持ってきた仕事を片付けるためにいささか無理をしたようで、食事と用を足すとき以外は、ベッドの上から動いていなかった。部屋は彼ら二人しかいなかった。他の皆は街の方に出向いているはずだ。……開いた窓から入ってくるのは、はしゃぐ子供たちの声。二人はそれを黙って聞いていたが、エリオットが口を開いた。
「なあ」
「……何だ?」
「平和だな。……子供たちは戦火におびえることなく自由に遊び、仲間たちも自由に過ごしている」
「ああ、そうだな」
「なんで、戦争なんかやってるんだろうな。……俺が生まれる前には始まっていた戦争だ。始まった理由なんてわからねえ。まあ、今さら知ったとしても、なんとも思わないけどな」
「俺は、シエラに聞いてみたことがある。何がきっかけで戦争が始まったのか。……ただ、自分の領地を増やしたかっただけだとさ」
「それが、百年以上も続いてるなんて、考えられねえよ。……まあ、それもそろそろ終わるだろうさ」
確かに、残りの王国の領土はダリア平原と、王都防衛壁城アトランティス。そしてそれを乗り越えた先にある、王都コンテッド。それらを攻め落とせれば、この戦いはようやく終わりを迎えるのだ。……どうやらエリオットは終戦を前に少し傷心的になっているようだった。
「戦争が終わったら、どうしたい?」
「さあな。そんなの考えたこともない。……闘技場で稼ぐぐらいしか思いつかないな」
「そりゃあ、随分とつまらねえ賭け事になりそうだな。お前が負けるとこ、想像すらできねえ。……俺は、旅に出ようと思うんだ」
「旅?」
「ああ。剣を置いて、気ままに放浪さ。自分たちの力で平和になったこの世界を、見て回りたくてな」
エリオットは窓から差し込む光に向かって、そうつぶやいた。その顔にはどこか、厭世的な影が浮かんでいるように見える。そう思ったゼロスは、声をかけようとした。
「なあ、エリオット。お前は……」
それを遮るように、階下から騒がしい声が聞こえてくる。どうやら街に行っていた者達が沢山の荷物をもって戻ってきたようだ。エリオットも「帰ってきたみたいだな」といって、ベッドから起き上がり、彼らを迎えに行った。一人残されたゼロスは、エリオットに言おうとした言葉を飲み込んだ。
それからというもの、ゼロスたちは心の赴くまま休暇を楽しんだ。戦いの気配はしばらく感じられず、ガルディア達の動向も杳として知れない。いつか彼らが停戦協定を破っていきなり仕掛けてくるかもしれないという不安は、とっくのとうに消え失せていた。そして、バラキア滞在最終日。
「……だいぶ長い滞在になったな」
太陽が海へと沈み行こうとしている時、ゼロスは小高い岩場の頂上に腰を下ろしていた。明日は朝からここを出発しなければならない。よって、バラキアの海を眺めていられるのは今日が最後なのだ。
「シエラたちには叱られたな……」
揺れる海面を眺めながら、独り言をつぶやく。当初旅行の計画を話した時はそうでもなかったが、旅行費などはゼロスが全額負担していた。そのことについて、彼女たちからは「金遣いが荒すぎる」と苦言をもらっていたのだ。他にも、滞在中に起こった様々な出来事を思い出しては、一人でささやかに笑っていた。傭兵という仕事に手を出してから、想像すらしていなかったことだ。可笑しくて笑ってしまうのも、無理はない。噛み殺すような笑い声だったが、人がすっかりいなくなった砂浜ではその音をかき消すものは、波が打ち寄せ引いていく音のみだ。当然のようにゼロスの笑い声を聞きつけたものが、彼の背後に立った。
「今、おひとりですか?」
「……アイリーンか。こんなところに登るなんて、危ないぞ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。……失礼します」
アイリーンはそう言うと、ゼロスの隣に腰を下ろした。太陽は一部を残して、ほとんどが沈んでいる。そのため、あたりを照らすものは日の光から、星と月の明かりへと変わり始めていた。
「俺を呼びに来たのか?」
「ええ。そろそろ夕食の時間ですから。……宿の女将さん、私たちが明日で帰るからって、張り切ってご馳走を用意してくれるそうですよ」
烈風騎士団の名は存外、民の間にも広まっていた。ゼロスたちが泊っている宿の女将もそのうちの一人だったようで、かつてはチューン城下街で暮らしていたのだという。
「私たちがチューンを治めるまでは、あそこは激戦地でしたから。暮らしていた人たちも気が気でなかったはずです。……そこへ、私たちがチューン城を治めたという噂が流れ始め、宿で働いていたあの人は行商人から噂を聞き出していたそうなのです」
「……なるほど、俺たちはあこがれの人物ってわけか」
「気恥ずかしいですが、そう言うことですね。……そう言えば、ゼロスさんは一人で何をしていたんですか?」
「特に何も。ただぼうっとしていただけだ」
「そうでしたか。……では、私もご一緒してよろしいですか?」
「飯の時間なんじゃないのか?」
「今日はご馳走らしいですから、まだまだ時間がかかるはずです。それに、時間になったらまた誰かが呼びに来てくれるでしょう」
「……お嬢様だな」
「ええ。由緒正しきヴァーミア家の次期当主ですから」
ゼロスは一瞬呆気にとられ、吹き出した。アイリーンもそれにつられ、笑みをこぼす。太陽はすでに沈み、彼らを照らすものは星と月の明かりしかない。しかし、それでも彼らにはそれだけで十分だった。
翌日、バラキア郊外。ロンが先導する馬車に乗り、烈風騎士団とヴァイス園の皆はチューン城への帰路をたどっていた。皆、昨日が滞在最終日ということもあってか、夜遅くまでカードゲームや酒盛りなどで盛り上がっていたようで、馬車の列は静かそのものだった。石を踏み馬車が揺れても、誰も起きる気配がない。バラキアを出てから約四時間後、ちょうど昼時に彼らはチューン城へとたどり着いた。まだ寝足りないのか目をこすりながら馬車を降りる者が後を絶たない。彼らはそのまま部屋に戻り、もうひと眠りするようだ。ゼロスはロン達にチップを手渡し、子供たちを園へと連れて行く。エリオット達は城内で待っているであろうレオン達に会いに向かった。
「園長、大丈夫ですか?」
「ああ。このぐらいどうってことない」
ゼロスは背中に一人子供を背負い、もう一人を抱えていた。相当深い眠りに落ちているようで、いくら揺さぶっても目覚める気配がない。そのため、仕方なくゼロスが運んでいるのだった。
「それにしても、よく寝てるな」
「最終日ということもあり、昨日は甘やかしまして。……早く寝るように厳しく言わなかったのです」
「それで、寝落ちするまで遊んでたってわけか。元気なものだな」
園についたゼロスは、タロンが敷いてくれた布団に、子供たちを寝かせその頭を優しくなでた。
「園長も、少しお休みください。休暇といいましても、ほとんど子供たちの相手をなさっていたでしょう?」
「……そうさせてもらおうか。じゃあ、あとは頼んだ」
ゼロスは荷物を片付けるため、城内の自室へと向かった。二週間ぶりに入った自室は思っていたより清潔さが保たれている。どうやら城内清掃員が部屋の掃除もしてくれていたらしい。「ありがたいものだ」と小さくつぶやくと、持っていた荷物袋を適当にソファに投げ込み、自分はベッドへと転がり込んだ。宿のベッドは決して悪いものではなかったはずだが、使い慣れているベッドに比べるとさすがに劣る。ゼロスはそんなことを考えながら眠りへと落ちて行った。
二日後。旅行帰りの疲れがなかなか取れず、帰ってきた日とその次の日は日課の訓練以外は寝てばかりだったが、ようやく身体が調子を取り戻した。いつも通りの素振り百回を終え、朝食を食べようと食堂に向かっている途中、アイリーンに呼び止められた。
「ゼロスさん、少々お時間よろしいでしょうか?あの、私の里帰りについてなのですが……」
「ああ、別に構わないが。……その前に、アイリーン。朝飯は食べたか?」
「え?……いえ、まだ頂いていませんが……」
「その要件は朝飯を食べながらにでもしないか?」
「ええ、ご一緒させていただきます」
ゼロスはいつも通りの朝食を、アイリーンはパンに目玉焼き、そしてベーコンにサラダ。最後にスープとおおよそ一般的なものを選んだ。アイリーンがゼロスの健啖ぶりに呆気にとられているが、ゼロスは本題に入ろうとする。
「……それで、話ってのは何だ?」
「一昨日バラキアから帰ってきたときに気づいたのですが、父から催促の手紙が届いていまして。内容は、簡単に要約すると『早く帰ってこい。できればこの手紙が届いてから三日以内に』とのことで。……手紙が届いたのは一昨日だったようなので、猶予は明日までしかないのです」
「……アイリーンの故郷まではどれぐらいかかる?」
「盗賊などの面倒ごとに巻き込まれなければ、半日程度もかからないかと」
「なら、明日出るか」
ゼロスは何事もないようにパンをかじりながらそう言い放った。その返答を想像していなかったアイリーンは少しの硬直の後、改めて問いかける。
「……よろしいのですか?バラキアから帰ってきて、まだ疲れが残っているのでは……」
「問題ない、疲れはほとんどとれた。それに、最初からそのつもりで相談しに来たんじゃないのか?そうでもなければこの話をわざわざ俺にする理由がない」
スプーンを握っていたアイリーンの手が止まる。ゆっくりとスープの中に沈めると、スプーンから手を放し頭を下げた。
「……ごめんなさい、利用するような真似をしてしまって」
「気にするな。もとより、協力するといったのは俺だ。……で、明日でいいんだな?」
「はい。よろしくお願いいたします」
「……了解した」
ゼロスはそう言って立ち上がった。あれだけあった朝食をすでに食べ終えていたのだ。アイリーンは食堂を去っていくゼロスの背中を見えなくなるまで見送った後、少し冷めたスープをじっと見つめていた。
翌日、チューン城北門。アイリーンから指定された場所に向かっていたゼロスは、今までに数えるほどしか見たことのない豪勢な馬車を見つけた。枠組みは金で覆われ、細かいところにいたるまで躍動感あふれる装飾で彩られている。馬車の主であろう男は、近づいてくるゼロスを睨みつけていた。
「おい、そこのでかい野郎」
「……俺のことか」
「お前以外に誰がいるんだよ。……そんなことより、こっちに何の用だ。今、ここら辺は通行止めだ、ヴァーミア家のお達しでな」
男は相手がゼロスであることを知っているのかは定かではないが、横柄な態度を崩さない。ゼロスは、ここは戦場ではないということから、努めて冷静に対応する。
「俺はそのヴァーミア家のお嬢様に呼ばれてきたんだが」
「はあ?アイリーン様がお前なんかを呼びつける訳ねえだろ、これ以上適当なこと言うんだったら衛兵呼ぶぞ。わかったらさっさと失せろ」
そう言われても、アイリーンとの約束だ。簡単に引き下がるわけにはいかない。どうにかしてこの男を説得するべきか。ゼロスがそう考え始めた時、背後からゼロスを呼ぶ声が聞こえて来た。
「ゼロスさーん、遅れて申し訳ありません。少々準備に手間取ってしまいまして……。って、どうかしたのですか、リート」
馬車の主はリートというようだ。アイリーンに名前を呼ばれたリートは、ものすごい勢いでアイリーンに食って掛かる。
「お嬢様!これは一体どういうことですか!?なぜこのような男を!?」
「……いつから、あなたは私の決定に異を唱えられるほど偉くなったのですか?……ねえ、リート」
初めて目の当たりにするアイリーンの名家としての姿。そのまなざしの先にいるはずではないのに、ゼロスの背筋にも何かが走った。
「ももも、申し訳ございません!出過ぎた真似をしました!どうか、お許しください!」
あの冷たい視線に刺されたリートは、すっかり縮み上がっていた。腰を90度近く曲げ、綺麗なお辞儀を見せる。アイリーンはそれを冷たく見下ろしたまま、出発の用意を急かした。
「しし、承知しました。それでは、どうぞお乗りください」
震える手で、リートが馬車の扉を開く。内装も絢爛の限りを尽くされたものだ。座る部分はソファのように柔らかで、どれだけ揺れても尻を痛めることはないだろう。向かい合った座席の間には小さなテーブルまでついており、間食程度ならここでもできそうだ。慣れた足取りで先にアイリーンが乗り込み、ゼロスがその後に続く。段に足をかけた間際、リートが「俺は認めねえぞ」といっていたが、ゼロスには何の話かはよくわからなかった。二人が座席に座ったところで、馬車が動き出す。窓から見える空は、黒い雲に覆われていた。今日の天気は荒れるだろう。
それからほどなくして、馬車の屋根を雨粒が打ち付け始めた。途中まで他愛のない世間話を続けていた二人だったが、雨が降ってきたのを機としたのか、アイリーンが姿勢を正してゼロスに向き直る。そして開口一番、彼女は謝った。
「ごめんなさい、ゼロスさん。……私はあなたを騙してしまいました」
「何のことだ」
話の全貌が見えていないゼロスは、素直に疑問を口にする。アイリーンは何かをためらっているようだったが、ついに観念し、雨音にかき消されそうな声で話し始めた。
「今回の里帰り、ゼロスさんには護衛としてついてきてほしいというお願いをしましたが、あれは嘘だったんです。……本当は、婚約者として……」
「待て。話が見えん。何故いきなり婚約者の話になる?」
「……父から手紙に書かれていたことの中で、私はゼロスさんに伝えていないことがあったのです。……『見合いが嫌なら自分で選んだ恋人を連れてきなさい』と。バラキアの旅行に行く前、ゼロスさんが同行すると約束を取り付けた後、私は父に『恋人を連れて帰る』と手紙を送ってしまったのです。そうすれば、父からのしつこい催促も止まるかと思ったのです。しかし、それは甘すぎました。当然と言えば当然でしょうが、父は私の恋人がどのような人物か気になって仕方なくなり、催促の手紙とリートをこちらによこしたのです」
リートはチューン城に行かなければならない理由を知っていた。だからこそ、アイリーンと親しいであろうゼロスに、何か敵対心じみたものを燃やしていたのだろう。「俺は認めねえぞ」の発言の真意はこれだったのだ。
「なるほど、見合い話をなくすために、俺を恋人として連れて行こうとしていたわけか。……ならなぜ最初からそうと言わなかった?」
「……言える訳ありません。自分の都合のために恋人のフリをしてほしいなどと」
「ならバレるまで黙っておくべきだったな。こんな馬車の中で俺にそれを伝えたところで、俺はもう断ることもできない。……あまりにも卑怯じゃないか?」
アイリーンは覚悟していた。ゼロスの言うとおりだと分かっていたし、それを面と向かって言われることも理解していた。けれど、理解していたからと言って、覚悟していたからと言って。それを真正面から受け止められるかどうかは別の話だ。アイリーンはゼロスから視線をそらし、顔を下げる。どんな顔をしていいかわからなかった。ふがいない自分に腹が立つ。そのうち、アイリーンの目からも雨が降り始めた。それはひざの上で固く握りしめた手の甲へと落ちていく。ふいに、その雨雲が取り払われた。手を伸ばしたのはゼロスだ。
「……だから、もし次があるなら最初から全部話してくれ。いつか言ったはずだ、できるだけ力になると。それとも、まだ信用してくれないのか?」
細かい傷が沢山ついた、少し骨張った手で、アイリーンの涙を拭う。考えもしなかった言葉に、アイリーンはハッと顔をあげ、ゼロスの顔を見る。そこには少しだけ口角が上がった優しい目をした男の顔があった。
「……私を、責めないのですか?」
「さっき卑怯だって言っただろ。あれで十分だ。それとも、もっと言ってほしいのか?」
「……いえ、そう言う訳ではないのですが。でも……」
「なら、もう泣くのはやめてくれ。乗り掛かった舟だ、俺も最後まで付き合う」
「……ありがとう、ございます」
感極まったか、アイリーンはゼロスの言葉とは真逆に、大粒の涙を流し始めてしまった。こぼれる涙を拭おうとゼロスが手を伸ばすが、アイリーンがそれを両手でつかみ、胸元へと抱き込んだ。ゼロスはそれに引っ張られ、ソファから腰を浮かせる。座りなおそうにも、腕は未だ解放されない。彼は諦めたように小さく息を吐くと、アイリーンの隣へと腰を下ろした。
チューン城を出てから三時間ほど経った。強く降りつけていた雨はにわか雨だったようで、すでに空は晴れ渡っている。アイリーンもすっかり落ち着き、泣き腫らした目を恥ずかしそうに隠していた。外の景色が次第に街中へと変わっていく。そんな時、リートが外から声をかけて来た。
「お嬢様、そろそろです。ご用意を」
どうやらヴァーミア家の屋敷はもうすぐのようだ。テーブルの上に広げていた荷物を片付け、到着を待つ。そして、馬車が止まりリートがドアを開けた。
「さあ、つきましたよ。お嬢様にとってはずいぶんと久しぶりでしょう」
馬車を降りたゼロスを迎えたのは、広大な敷地の真ん中に立つ荘厳な屋敷であった。敷地の広さだけで言えばチューン城とそれほど変わりはない。ただ、おそらくだが中庭などの存在で屋敷自体の大きさはそれほどでもないのだろう。とはいえ、初めて目にすれば呆気にとられるほどの大きさであることは間違いない。そうして屋敷を眺めていると、ふと潮の香りが漂ってくる。香りの出所は、当然海だ。
「……港町か」
「そういえば、言ってませんでしたね。私の故郷はここ、ヴェスペルです。アーサ平原よりも北に位置する港町で、諸外国との交易が盛んです。時間があれば、あとで市場に行ってみませんか?」
「それはいいな。楽しみだ」
「お嬢様、こちらへ」
リートがアイリーンを急かす。彼の眼中にゼロスの姿はないようだ。屋敷へと続く門の前には門番が立っており、彼らもリートと同様にゼロスに対し、怪しい者を見る目を向けていた。
「奥の書斎でアイワース様とコルターク様がお待ちです。さあ、どうぞ」
玄関をくぐってすぐ、リートはまっすぐ続く廊下の先を手で示した。大きな両開きの扉が、得も言われぬ威圧感を与えている。アイリーンと共に向かおうとしたゼロスは、その肩をリートに掴まれた。
「おい。……くれぐれも失礼のないようにな。単名ごときをあの方に会わせることすら失礼なことだが、お嬢様の言うことだから仕方なく従ってやってるんだ。そうでもなけりゃてめえなんか俺がここから叩き出してやる」
好きなだけ暴言をはなった後、リートはゼロスの肩を突き飛ばした。凡人の攻撃などは蚊に刺されるよりも気にならないものだが、アイリーンはそれをばっちり見ていたようで、「リート!」と声をあげた。
「まだ母上たちに認められていないとはいえ、この方は私が選んだ人です。……今自分が何をしたか理解していますか?」
「しかし!……どこぞの馬の骨ともわからぬ者を……」
「それを今から母上達が見定めるのです。あなたはそれを決める立場にいません。下がりなさい」
リートはまだ何か言いたいことでもあったようだが、これ以上アイリーンに逆らいたくないと思ったのかすごすごと引き下がっていった。彼女は一度ため息をつくと、「行きましょうか」とゼロスの先を行く。
「……申し訳ございません」
その途中、アイリーンが謝罪を口にした。おそらく先ほどのリートのことについてだろう。
「構わん。所詮素人だ、痛くもかゆくもない」
「ですが、あまりにも失礼な態度を……」
「怪しい男がいれば警戒するのが当然だ。俺は気にしていない」
「……そうですか」
話しているうち、二人は書斎の扉の前で立ち止まっていた。緊張しているのか、アイリーンが一度大きく深呼吸をする。そして、扉をノックし「アイリーンでございます。ただいま戻りました」と部屋へ声をかけた。少しした後、部屋の中から「入りなさい」というどこか棘があるような女性の声が聞こえてくる。アイリーンがドアノブに手をかけた。
「失礼いたします」
「……随分と、遅い里帰りになりましたね。アイリーン」
「……遅くなって申し訳ございません。ですが、約束通りの方を連れてまいりました。この方です」
アイリーンに少しだけ背中を押され、ゼロスは一歩前に出た。
「初めまして。ゼロスと申します」
「……アイワースです。どうぞよろしく」
どうやら扉の正面に座っていた女性が、アイリーンの母であるアイワースのようだ。姿から大まかな年齢を推察することすら難しいほどの美貌に、水晶のごとく透き通った目で、ゼロスを見定めている。アイワースの近くに座っているのは、コルタークだろう。おそらく四十代ほどだろうが、その眼に宿る野心は未だ燃え尽きていないように見えた。
「……アイリーン。ゼロスさんとはどこでお知り合いに?」
貴族だろうと何だろうと母親であることに変わりはないのか、予想していたよりも普通の質問が飛んでくる。
「私が所属していた傭兵団です。ゼロスさんが団長の誘いを受けて入団してきたときに」
「……ゼロスさん。あなた、どれほどお強いのかしら?」
質問の矛先はゼロスへと変わった。ゼロスが答える前に、アイワースが質問の意図を話す。
「気を悪くしたのなら謝ります。けれど、これは貴族の家にとっては重要なことなのです。……何があってもヴァーミア家を、アイリーンを守れるほどの力はありますか?」
「……はい」
嘘はなかった。恋人関係は嘘だが、守るための力があるのは嘘ではない。……アイワースはゼロスの目をじっと見つめる。その沈黙が一分続いた時、アイワースがほっと息を吐いた。
「ゼロスさんの覚悟、しかと見受けました。……よろしい、私は認めます」
部屋の緊張感がいくらかほどけていく。しかし、コルタークから放たれる威圧感が、部屋の空気を塗り替えた。
「……妻が認めたと言ったが、俺はまだ認めていない。信念は十分のようだが、問題は実力だ。……いくら『嵐』と恐れられていたとはいえ、単名の出。信じるにはいささか材料が足りぬ。それに、アイリーン宛に送られた見合いの申込は数多存在する所、馬の骨がごとき男が選ばれたとなれば、彼らの溜飲も下がるまい。……そこで、明日よりヴェスペル闘技場で、アイリーンとの婚約をかけた武術大会があるのだが、お前にも参加してもらう。良いな?」
「アイリーンの気持ちはどうなるんだ?」
「お前が勝てば問題あるまい。……もとはと言えば、アイリーンがさっさと結婚相手を決めぬのが悪いのだ。だからこそこうして大会を開くつもりでいたというのに、今になって意中の相手を連れてくるとは……」
コルタークはぶつぶつと独り言を始めてしまった。どうやら元の性格はあまり快活な方ではないようだ。外面を気にして、一度口にしたことを取り消せないのはある意味では最も貴族らしいともいえる。
「とにかく!ゼロス。お前は明日の大会に参加してもらう。アイリーンの気持ちをないがしろにしたくなければ、勝てばいい。……良いな?」
「……わかった、いいだろう」
こうして、ゼロスはアイリーンとの婚約をかけた武術大会に参加することになってしまった。アイワースは眉間を指で押さえたのち、気を取り直す。
「ひとまず、ひと段落着いたようですね。続きは夕食の時にでも。……少し疲れてしまいました。休ませてください」
「わかりました。それでは失礼いたします、母上、父上」
アイリーンたちは一度頭を下げ、部屋を出て行った。扉を閉め、廊下を少し歩く。そして、ひときわ大きく息を吐いた。
「緊張しましたか?」
「……まあ、それなりにな。それにしても、大会か」
「面倒なことに巻き込んでしまって申し訳ありません。ただでさえ、私の里帰りなどという……」
「気にするな。少し面白そうだ」
「……負けないでくださいね?」
「当然だ。純粋な戦いで後れを取るわけにはいかないしな」
「……そう言うことではないのですが」
小さくつぶやかれたアイリーンの言葉はゼロスに届いている気配はない。廊下の先にはアイリーンたちを迎えに来た従者が待っている。彼らは「お久しぶりでございます、アイリーン様」と言って頭を下げた。続けて、「早速ですが、こちらへ。お客様のお部屋をご用意してございます」と廊下の先を示す。ゼロスが寝泊まりする部屋を用意してくれたようだ。案内に従って向かった先は、突き当りの角部屋であった。部屋の中はまさに貴族というべき内装だった。床にはふかふかとした赤いカーペットが敷かれている。三人以上が寝転がっても十分なスペースがあるベッド、足にすら細かい装飾が施されたテーブルや椅子。極めつけには、頭部だけの鹿の剝製が壁に飾られている。従者は「それでは、わたくしどもは失礼いたします」と言って去っていった。アイリーンもその後に続くように、「それではまた夕食のときにでも」と去っていった。それを見送ったゼロスは、荷物を適当に床に置き、身体をベッドに投げ出した。……さすがは貴族御用達のベッド。少し固めではあるが、それがかえってしっかり支えられているように感じられ、寝心地がとてもいい。長旅の疲れに加え、アイリーンの両親に与えられていた緊張感からの解放も相まって、ベッドに寝転がって間もなく、ゼロスは眠りへと落ちた。
「ゼロス様、お目覚めください。夕食の時間でございます」
外から、ノックと共にそう呼びかけられる。夢うつつの状態だったゼロスは、その声を聞いて気怠そうに身体を起こした。ドアの前で待っていたのは、昼にここまで案内してくれた従者だ。客人の対応でも任されているのだろうか。「こちらへどうぞ」と手で先を示す。屋敷の中は夕食時のせいか、昼時よりもなんだかあわただしく見えた。通された部屋は巨大な横長のテーブルが中央に鎮座する部屋だった。その一番左端の席にはアイワースが、彼女からみて左斜め前にコルタークが座っていた。アイワースがゼロスの姿を見つけると、「こちらへ」とゼロスを呼ぶ。特に断る理由もない。ゼロスは従った。食事の用意はまだのようだ。
「少々話し相手になってくださる?ヴェスペル以外の人と話すのは、久しぶりですから」
「……ええ。俺でよければ」
「感謝しますわ。……そうね、まずはアイリーンの働きぶりから聞こうかしら。……あの子は、うまくやっているかしら?」
ゼロスが何かを答えるよりも早く、制止の言葉が飛んでくる。
「母上!おやめくださいそのようなことを聞くのは!」
「あら、アイリーン。大声を出すなんてはしたなくてよ?それに、娘の活躍を気にするのは母としては当然です」
顔を赤くして怒るアイリーンを前に、アイワースは至極当然とでもいうように返す。コルタークは我関せずと、どこか遠くを見ていた。二人のちょっとした言い合いのさなか、食卓に料理が並べられていく。それに二人は気づきようやく矛を収めることにしたようだ。物を食べているときは話さないようにしているのか、静かな食事が始まった。一足先に前菜のサラダを食べ終えたコルタークは、明日に控えた大会について、話し始める。
「明日の大会についてだが。……ルールは単純、一対一の勝負。剣技、魔法すべてに制限はない。どちらか一方が『降参』を宣言するまで、試合は終わらない。こんなところだ。何か聞きたいことでもあるか?」
「何人程度が参加する予定なんだ?」
「現時点での参加者は五十二名。アダマンテ大陸内に存在する武家の、ほぼすべてが申込をしてきた。有名どころで言えば、あのアストル家も明日の大会に参加する予定だな」
その名を聞いたゼロスは目を見開く。……アストル家。『シャーディンの痣』の力に魅入られたあのガルディアの生家だったはずだ。もしやあいつがこの大会に出るつもりなのか。そう考えたゼロスは、たちまち緊張感を体にまとい始めた。コルタークもそれには気づいたようで、「知り合いなのか?」と事情を尋ねる。ゼロスはそれに「ただの腐れ縁だ」と返した。
「まあ、とにかく。明日は大陸中から猛者が集まることになる。まだ兵として戦場に出てはいないが、その実力は折り紙付きだろう。……アイリーンのためを思っているのなら、精々頑張ることだな」
「……言われなくても」
一段落着いた頃、アイワースが手を叩いた。
「血腥い話はここまで。……食事の場でそんな話は、やめてくださる?」
コルタークは一度「しかし」と反論しようとしたが、アイワースの目力に負け、すぐに「すまない」と発言を変えた。どうやら夫婦の力関係は妻の方が上らしい。その後の食事中はずっとアイリーンが家の外でどんな活躍をしているかという話でもちきりだった。
夕食後、風呂を済ませたゼロスは昼頃と同じようにベッドに寝転がっていた。明日の戦い、とりわけガルディアについて考えていた。あの男の脅威は、身に染みて知っている。今までに感じられたほどのない『悪意』。殺意や敵意などという言葉に収まるものではなく、あれはれっきとした悪意だった。……明日からの大会、試合の決着はどちらか一方の「降参」によって決まる。互いに理性が残っていれば、それでいい。だが、『影』に呑まれたものに理性などあるだろうか。二週間ほど前にアーサ平原で出会った時にはそれなりに意思疎通はとれていた。だが、今もその時のままという保証はどこにもない。もし、ガルディアに理性が残っていなければ、降参の二字を理解することすら難しいはずだ。そうなれば、他の誰かが止めに入るしかない。だが、誰が止められるというのだ。……ゼロスはベッドから起き上がった。考えすぎたせいか、頭が痛む。夕食時に少々ワインを飲んだせいもあるだろう。ゼロスは部屋内の小さなキッチンに向かい、適当に水が入った瓶を手に取り、口へと流し込む。酒で火照っていた喉には、ちょうどよかった。……ゼロスはリビングへと戻り、椅子に体を投げ出す。先ほどよりは頭痛も収まっていた。
「ふう……」
部屋の中で一人、ため息をついた時だった。できるだけ音が響かない気遣われたノックがゼロスの耳に届いた。ゼロスは気怠げに「誰だ」と呼びかける。
「アイリーンです。少しお時間よろしいでしょうか?」
「……ああ。鍵は開いている」
「失礼いたします」
淡い緑の寝巻に身を包んだアイリーンが部屋へと入ってきた。何か悩んでいるような、思いつめたような顔だ。彼女は「こちらへ来ていただけませんか」とゼロスを呼び寄せる。
「……どうした?」
「明日の大会のことで。お伝えしたいことが、一つだけ。……ゼロスさんが勝つのを、信じています。……それでは」
それだけ言って、アイリーンは廊下を駆けて行った。部屋の入り口に取り残されたゼロスは、廊下の曲がり角を曲がっていくアイリーンの背中と揺れる髪を見送ると、ドアを閉めて大きくため息をついた。
「……勝つしかねえな」
翌日、ヴェスペル闘技場前。コルタークの部下らしき者達がずらりと並び、一般人の闘技場への立ち入りを制限している。人の壁の先、闘技場の入り口にも人がずらりと並んでいる。あちらは大会に参加する者達の列だ。誰も彼も、それなりに戦えそうな風貌をしている。しかし、その中でただ一人、修羅場を幾度もくぐったような風格を持つ者がいた。ゼロスだ。身長も体格も、貴族のおぼっちゃまたちとはまるで違う。大会に参加する者は皆、この黒衣の戦士とは戦いたくないと、心の中で願っていた。
どうやら試合は一試合ずつ行うようで、参加者は待っている間、闘技場地下の待合室にいなければならなかった。戦いに秀でているとは言え、もとは貴族。目と目が合うだけで喧嘩に発展するような傭兵らしい野蛮さは欠片もない。その代わり、身なりや得物、果ては家柄などへの罵詈雑言に近いレベルの発言が飛び交っている。待合室の奥の丸椅子にゼロスは腰を下ろしていた。彼らの言い合いを耳に入れる価値はない。道端に捨てられた生ごみを見るような眼を、彼らに向けていた。そうしているうち、すでに始まっていた第一試合が終わったようだ。時計を見れば、まだ午前九時七分。十分もかからず試合が終わるのなら、今日中にも片付くだろう。係員が次の試合の組み合わせを叫ぶ。
それから一時間ほどが経ち、ようやくゼロスの番が回ってきた。相手はモーガン家の長男クリスト。腰には双剣を下げ、仁王立ちでゼロスを見定めている。闘技場の観客席には、アイワースとコルターク。そしてアイリーンと、彼らの護衛が複数のみであった。観客などいないに等しいが、真剣に婚約を狙っている彼らからすれば、今の状況もアピールチャンスということだろう。
「……ゼロスとか言ったな。巷では『嵐』などと呼ばれる傭兵。悪いことは言わん、今のうちに降参したまえ。怪我をしたくはないだろう?」
ゼロスは取り合わない。クリストは無視されたことに腹を立てているが、必死に取り繕っている。
「後悔させてやる。お前の身体を、ズタズタの血だるまにしてくれるわ!」
試合開始の銅鑼が鳴った。クリストは腰の双剣を素早く抜き、ゼロスへと走って距離を詰める。ゼロスは背中の剣を抜かず、拳を構えた。まだ何も起きていないというのに、すでにクリストは勝利を確信しているようで、闘技場全体に響き渡るほどの高笑いをあげながら、ゼロスを剣の間合いに入れた。
「降参よりも先に、死を送ってやる!」
十字を描くように、剣で切りかかる。ゼロスは少しだけ飛びのいて刃を躱すと、がら空きになった顔面に右の拳を見舞った。クリストは殴られた衝撃で地面を転がっていく。その間にもゼロスは追撃を仕掛ける。ようやく受け身を取り、起き上がったかと思えば、彼の顔面にはゼロスの右足が迫っていた。先ほどよりも強く吹き飛ばされたクリストの身体は闘技場の壁へとめり込んでしまう。そして、彼が手放してしまった双剣はゼロスの手に握られていた。
「……まだやるか?」
クリストからの返事はない。気絶でもしているのか。ゼロスは彼の意識を確かめるため、壁から引き抜く。その瞬間。
「甘いわ!『風圧拳』!」
風を右手にまとわせ、拳を突き出す。しかし、この程度の奇襲はゼロスには通用しない。引き抜くために掴んでいた右手を振り上げ、クリストを宙に放る。そして、宙にいるクリスト目掛け、右の踵落としを放った。それは彼の腹にめり込み、地面へと叩きつけられる。撒きあがった砂埃が晴れた時、クリストは降参を口にした。
それからというもの、ゼロスと戦うことになった者は尽く、試合開始と同時に降参を宣言していた。モーガン家はどうやら大陸内でも有数の武家だったようで、その長男を無傷で降したとなれば、他の者がおびえるのも無理はない。ある者が果敢に挑んだものの、ゼロスを一歩も動かせずに敗北を喫した。そして、大会が始まってから約四時間が経ったころ。いよいよ決勝試合が始まろうとしていた。
「……ようやく決勝か。長かったな」
参加者が多いうえに、一試合ずつ行われる。その上、試合の長さはまちまちで、五分以内に終わる戦いもあれば、三十分かかる激戦もあった。……闘技場にたつゼロスは、決勝の相手を今か今かと待ちわびている。そして、ある男が姿を現した。白い鎧に身を包んでいる。そして、堂々とした歩み。「ただものではない」。ゼロスはそう感じていた。
「……ゼロス殿、お噂はかねがね。私はアストル家の嫡子、ガルウェン。あなたに殺された私の父上に代わり、帝国正騎士団の団長を務めています。以後、お見知りおきを」
帝国正騎士団は、ゼロスが所属している烈風騎士団とは少しだけ役割が違う。彼らは「帝国の防衛・皇帝陛下の守護」を第一の任務としており、戦場に出ることはあまりない。しかし、皇帝陛下の守護を務められるというだけあり、その実力は生半可なものではない。
「恨んでいるのか?俺のことを」
「いえ。あなたは傭兵として、仕事を全うしたにすぎません。父が地に伏すことになったのは、ひとえに父が弱かっただけのこと。……ですが、父の無念は晴らさねば、息子としては名折れでしょう。……戦場ではありませんが、今ここであなたを降し、父が被った汚名を雪ぐことといたします!」
ガルウェンの身体から冷気を帯びた魔力があふれ出す。彼も父と同じ魔法を使うようだ。ゼロスは今日初めて、剣を抜いた。両者が構えたところで、試合開始の銅鑼が鳴り響く。これよりは決勝戦。ゼロスにとってはアイリーンからの期待だけでなく、ガルウェンからの執念も混じった戦いになっていた。
「足を奪いましょう。……『氷結せし大地』!」
奇襲じみた先手を打ったのはガルウェンだ。両手に閉じ込めた冷気を一気に地面へ叩きつける。爆風のように広がった冷気は、闘技場の地面や壁を一瞬で凍り付かせていた。かろうじてゼロスの鎧に付いたのはただの霜だったが、闘技場の約半分ほどが氷に覆われてしまった。
「さあ、続けていきましょうか。……『白き巨人』!」
両手にためた冷気を放って作り上げたのは、大きな氷像だった。その上、それはただの氷像ではなかった。きしむ音と共に、巨人の像が一歩、歩みを進める。それは大地を揺らしながらゆっくりとゼロスへ近づいていく。
「……動くのか」
「当然!見かけ倒しでは終わらないのですよ!……さあ、『白き巨人』よ!叩き潰しなさい!」
白き巨人が拳を振り下ろす。ゼロスは飛びのいて躱したが、その威力はすさまじいものだった。ただの氷であるはずなのに、地面が抉れている。一発でも喰らえばただでは済まないことは、これでよくわかった。ゼロスは巨人の足元へと飛び込む。そして、股の間を抜け、ガルウェンと対峙しようとした。だが、背後から巨人が腕を伸ばしてくる。それを躱そうとすると、ガルウェンからその隙をつくような攻撃が飛んでくる。
「それは無謀というものです!『アイス・ダート』!」
鋭い氷の針がゼロス目掛けて飛び交う。それを剣で受け止めたかと思えば、巨人の拳が上から迫っている。拳を躱すと、ガルウェンの攻撃。隙の無い畳みかけにゼロスは歯ぎしりしていた。避けること自体はそこまで難しくはないが、攻勢に転じることすら許されない。……まず邪魔なのは巨人だ。ゼロスは巨人に狙いを定めた。地面を這うような裏拳の横薙ぎを、剣で迎え撃つ。同時に強くぶつかり合った鉄の塊と、氷の塊。砕けたのは氷の塊だった。巨人の右手が砕けていく。しかし、その代わりとでもいうように、左手が襲い掛かる。
「決まった……!」
ゼロスを押しつぶした左手は土煙をあげた。ゼロスがどうなっているかガルウェンには見えていないが、勝利を確信しているような口ぶりだ。しかし、その土煙が晴れた時、確信した勝利は揺らぐ。透き通った巨人の左手には、ゼロスの大剣が串刺しになっていた。押しつぶされていたゼロスは力を振り絞り、巨人を押しのける。そして、刺した体験を引き抜き、その場で巨大な円を描いた。
「邪魔だァ!」
巨人の身体に、一筋の傷跡が刻まれる。氷の巨人は、その傷跡から崩れていった。巨人の残骸が闘技場に転がっていく。ゼロスはガルウェンを見据える。彼は、笑みをこぼしていた。
「……何が可笑しい?」
「……初めてなのですよ。『白き巨人』が破られたのは。さすが、『嵐』と恐れられるだけはある。……ですが、私はまだ負けを認めたわけではありません。『白き巨人』がなくとも戦える。帝国正騎士団団長としての実力、ご覧に入れましょう」
ガルウェンはなおのこと闘志を燃やし、冷気をたぎらせる。まるでここからが本番とでも言いたいようだ。普段のゼロスなら「付き合いきれない」と言い捨てていたが、今日は事情がある。付き合うしかない。ガルウェンに応えるように、ゼロスもまた魔力を高めていく。空気が揺らぎ、地面にはひびが走る。ゼロスは手始めとばかりに、剣を振るった。真横に振りぬかれた剣は烈風を呼び起こし、ガルウェンはあまりの威力に目を覆ってしまう。彼が目を開けた時、闘技場を覆っていた氷はすべて吹き飛ばされており、正面には鬼神がごとき男が立っていた。
「さあ、第二ラウンドと行こうか」
そう宣言した途端、ゼロスは地面を蹴って飛び出す。ガルウェンはとっさに氷の壁を作り上げたが、その判断は正しかった。
「ハッ!」
ゼロスが剣を振るう。あまりの速さのためわからないが、たった一瞬の間に、氷の壁に十字を刻み破壊していた。ゼロスは止まらず、またもや剣を振るう。彼が放った剣戟は、地面と壁にも深く跡を残した。それを正面から受け止めてしまったガルウェンの鎧はすでに使い物にならなくなっていた。少しばかりの抵抗をしようとも、ゼロスには通じない。蹴りを放たれ、壁に背中を打ち付けるしかなかった。
「クッ……。グハッ……。これが、本気の『嵐』……。だが、私は、まだ……」
壁に大剣が突き刺さる。ゼロスがとどめを刺したのだ。撒きあがった土煙が収まったころ、ゼロスはガルウェンとにらみ合っていた。
「……何か言うことは?」
「……。降参です……」
ガルウェンの身体からぎりぎり外れた壁に剣が突き刺さっていた。ゼロスは剣を引き抜き、背中に背負う。試合はこれで終わりだ。
闘技場には、すでに他の者はいなかった。負けた者にとって、誰が優勝したかなどどうでもいいのだ。観客がほとんどいない闘技場の中央で、コルタークは閉会宣言を行っていた。
「優勝者はゼロス。……おめでとう、貴殿こそ、我が娘アイリーンを預けるのにふさわしい」
ゼロスはどのような顔をすればいいかわからなかった。もともとここまで来たのも、アイリーンの恋人役を演じるためだけだったのだ。だが、成り行きとはいえ大会に参加したあげく優勝してしまった。今さらゼロス自身の口から恋人は嘘といえまい。アイリーンが言い出してくれることを待つしかないのだが、彼女は機を窺っているのか、ニコニコほほ笑んでいるばかりで何も言わない。そんなことを考えているうちに、閉会宣言もいつの間にか終わっていた。この後は屋敷でゼロスの祝勝会が行われることになっている。ゼロスは屋敷へと急いだ。祝勝会が始まる前に、アイリーンを問い詰めねばならない。しかし、その足はガルウェンによって呼び止められる。
「ゼロス殿、少々お時間を頂いてもよろしいですか」
「手短に頼む」
「では……。私には一人、兄がいるのです。名はガルディア。父に魔法の才を見限られ、家を追い出されてしまいました。しかし、風の噂で王国の将を務めているとか。何か御存知ではありませんか?」
ゼロスは口を少しだけ開いて止まった。ガルディアについては知っている。しかし、それを正直に話してよいのか悩んでいた。『シャーディンの痣』に呑み込まれていると話したとて、彼がそれを信じるかはまた別の問題だ。それに、彼が『影の一族』の話を帝国大臣などに報告すれば、あの実験が帝国内でも行われてしまうかもしれない。ゼロスはできるだけ情報を濁した。
「一度やり合ったことがある。だが、取り逃がしてな。そのあとは分からない。……どこかでまだ生きているかもな」
「……そうですか。ありがとうございます。それでは、私はこれで。優勝、おめでとうございます」
ガルウェンは一度深く頭を下げると、近くに待たせていた馬車に乗り込んで去っていった。それを見送ったゼロスは、バツの悪さを振り切るように足早に屋敷へと向かった。
この後行われる祝勝会とやらにはまだ時間がかかるようだ。ヴァーミア家の屋敷で働いている者が、ゼロスにそう教えてくれた。それならば、まだ間に合う。ゼロスはアイリーンの部屋へと急いだ。ドアをノックすると、落ち着いたアイリーンの声が返ってくる。
「ゼロスだ。少し話したいことがある」
「わかりました。どうぞお入りください」
ゼロスは彼女を見据える。肩の荷が下りたかのような解放感が顔に現れていた。ゼロスはすぐさま本題に入る。
「何故、俺との関係が嘘だと言わなかった。大会は俺の優勝で終わった、それならあれは嘘だったと明かしても……」
「明かしたら、どうなると思います?」
身体が震えた気がした。今までに感じたことのない緊張感がこの場を支配している。そして、それを発しているのは間違いなくアイリーンだった。
「……どうなるんだ」
「また、やり直しです。そして別の婚約者が現れる。顔も名前も初めて知ったような人と、結婚しなくてはいけません。……それが嫌なんです」
アイリーンはうつむき、顔を両手で覆った。
「だからって、嘘でつながった相手となんか結婚するよりは……」
「嘘なんかじゃありません!……貴族に生まれたからには、家の存続を考えなければならないというのは分かっています。そしてそれが、人一倍贅沢な悩みであることも。けれど、私はそんなものに興味なんかないんです。できることなら、他の兄弟に家督を継がせてもいい。……私にそんな自由はありませんでした。だから、せめて、恋愛だけは……」
「アイリーン……」
ゼロスには到底理解し得ぬ悩みである。家を失い家族を失ったゼロスにとって、家の存続などはどうでもいいものだ。そして、アイリーンも同じ考えではあるのだが、彼女は環境が許さなかった。長女である故、家督を継ぐことを第一に考えて生きるよう教育されてきたのだろう。……ゼロスの目の前に座るアイリーンはいつもより小さく見えた。
「私、ゼロスさんが好きなんです。……私たちが騎士になると決まったとき、励ましてくれましたよね。その時から、ずっと。……だから、私にとってこれは嘘じゃないんです。この気持ちは、嘘なんかじゃありません」
「……だが、あの時はコルニッツォが……」
「わかっています。あの後、わざわざ謝ってくれたんですから。……その時に改めてわかりました。あなたは底抜けにやさしい人だと。だから余計に惹かれたんです」
「……俺は」
「いえ、答えは結構です。……あなたは優しい人ですから、私のためになることを選ぶはずです。……母たちに話してきます。これ以上、あなたに迷惑かけられませんから」
アイリーンはいきなり立ち上がり、目の前に立つゼロスを振り切って部屋の外に向かおうとする。ゼロスは離れていくアイリーンの腕をつかみ取った。
「待て!」
「……答えは結構だと、先ほど言いました」
「俺は納得していない」
その言葉を聞いたアイリーンは涙をためた眼をゼロスに向け、感情的に叫ぶ。
「納得ってなんですか!?これ以上、私にどうしろと!?」
「俺の話を聞いてくれ。……アイリーンが俺のことを好きだと言ってくれた時、うれしかった。柄にもなくな。力以外にとりえのない男を好きになってくれる変わり者もいるんだと思った。けど、俺は恋愛なんか一つもわからない男だ。……そんな男と一緒になっても、幸せになるのは難し」
「私はなれます。あなたと一緒だったら、幸せに」
ゼロスの言葉に、アイリーンは躍起になって食いつく。眼にたまっていた涙は、すでに頬へと流れ出ていた。決意に満ちた顔を前にしたゼロスは言葉を続ける。
「……わかった。俺も覚悟を決める。……まずは、恋人同士から始めないか?」
「……えっ?」
「互いにまだ知らないことだらけだ。そんな状態で結婚したところでうまくいくわけがない。まずは、互いを知るところから。どうだ?」
「……いいのですか?また、私を甘やかそうとしているのでは?」
「さっき言っただろ。好きだって言われてうれしかったって」
「……私は、卑怯者ですよ?こうして、泣き落としして」
「知ってる。俺がここまで来たのも、それが原因だしな」
「それに、お転婆ともよく言われます」
「コルニッツォから聞いた。誰かが見守ってないと不安なほどにな」
「それに、それに……」
アイリーンはまた涙をこぼす。ゼロスは泣き止ませようと抱き寄せるが、彼女はなおのこと声をあげて泣いた。ただ、この涙は悲しみの涙ではない。
ひとしきり泣き、ようやく落ち着いたアイリーンは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「駄目です。見ないでください。……こんなはしたない姿を見られてしまうなんて」
「顔を洗ってくるといい。もうすぐ俺の祝勝会が始まるだろうしな」
その通りと言わんばかりに、部屋のドアがノックされる。ゼロスが応対の声を出そうとしたが、アイリーンに止められる。この部屋の主は彼女だ。ゼロスが応答するのはおかしいという判断である。
「アイリーン様、祝勝会の用意が整いました。ダイニングまでお越しください」
「ええ、わかりました」
アイリーンは素早く顔を洗うと、ドアを少しだけ開け外の様子を窺っている。誰もいないことを確かめると、ゼロスに手招きした。
「何をそんなに警戒してるんだ?」
「婚約成立の男女が二人で同じ部屋に。下世話な想像をされても不思議ではありません。まだ私たちはそういう関係ではありませんから、そういう噂が立たないよう、細心の注意を払う必要があるのです」
「……じゃあ、腕を組むのもやめた方がいいんじゃないか?」
ゼロスの横にいたアイリーンは「何故」とでも言うように彼の顔を見上げる。
「いや、そういう関係じゃないってことにしたいのなら、こんなに密着してちゃ意味ないだろ?」
「いえ、恋人同士ならこれぐらい普通です」
「……本当か?」
「ええ。イナさんが薦めてくれた恋愛小説にはそう書いてありました」
至極当然と、アイリーンはそう言い切った。ゼロスは観念したように、「……そうか」とだけ呟いた。彼は腕を組むのをやめさせるのを諦めたようだ。その結果、ダイニングまで向かう間、驚きと好奇に満ちた視線をいくつも浴びることになった。さらに、会場についてもなお、アイリーンは腕を離すのをやめなかった。そのため、アイワース達にもしっかり見られてしまったが彼女たちは特に何も言及しなかった。ただ微笑ましそうに、自分の娘を見つめていた。ゼロスの祝勝会は夜遅くまで続き、チューン城への帰路に着いたのは翌日のことだった。
どうやら彼らがヴェスペルに行っている間、他の者達もそれぞれ里帰りしていたようで、城内はいつもより静かだった。帰ってきたことを報告するためエリオットの仕事部屋に向かうが、部屋の主はおらず、代わりにカリンがそこにいた。
「お前たち、帰ったか。久しぶりのふるさとはどうだった?アイリーン」
「父も母も私の帰りを喜んでくれて、普段帰ろうともしなかった私が少し恥ずかしくなるくらいでした。……カリンさんは、どうでしたか?」
「私か。一応手紙だけは出しておいたよ。読んでくれるかどうかは別だがな。……そうだ、帝国から書簡が届いていたんだ。『王国側の動き不明。警戒せよ』とな。この停戦期間中、幾度か斥候を走らせていたようだが、どうやら一人も戻ってきていないらしい。専用の訓練を積んだ斥候兵たちがそう簡単に見つかるとは思えんが、戦場では何が起きても不思議ではない。大臣たちもそれが分かっているのか、わざわざ書簡まで送ってきた」
「大陸のおよそ七割は帝国領となった。勝ちを目の前に慎重になってくれるのは、指示を受ける側としてはありがたいな」
「全くだ。……ヴェスペルからここまでは長かっただろう。今日は特に雑務もない、休んでいると良い」
「わかった。じゃあな」
「失礼いたします」
仕事部屋を出た二人は、その足でヴァイス園に向かった。少しの間とはいえ、子供たちの様子が気になる。彼らが顔を出した途端、子供たちは一斉にとびかかった。子供たちをどうにかなだめ、任せきりにしていたシエラのもとに向かう。
「すまない、しばらく任せきりにしたな」
「いえ、いつものことです。それに、近頃は騎士団の皆さんが遊びに来てくれますから。私はそんなに忙しくないんです」
「……そうだったのか。後で礼を言わなければな」
「ええ、ぜひそうしてください。……長旅でお疲れでしょうし、今日はお休みになられては?」
「ああ、カリンにもそう言われたよ。言葉通り、今日はゆっくり休むことにする。じゃあ、また来るよ」
「ええ、何時でもどうぞ」
ヴァイス園から出た二人は、城までの道を並んで歩いていた。道の途中、ゼロスがひときわ大きいあくびをする。疲れというのは、やはりたまっているらしい。城内で別れ、自室にもどったゼロスは碌に着替えもせずにベッドに転がり込んだ。やはり使い慣れたベッドが一番だ。眠りに落ちる寸前、ゼロスはそう考えていた。
空腹で目を覚ましてみると、時刻は夕食時。朝も昼も食べていないのだから、夜はさすがに何かを食べないとまずい。食事を求める腹をさすりながら、ゼロスはベッドから起き上がった。一か月続いた停戦協定もあと一週間程度で終わりを迎える。そうなれば今まで通り戦場で剣を振るい、生死を賭けた戦いをすることになる。皆それが分かっているのか、訓練所で汗を流す者もいれば、一日中酒場に入り浸り限られた平穏を謳歌しようとする者などさまざまである。食堂にたどり着いたゼロスは、ある人物の後ろ姿を見つけた。
「エリオット、帰ってたのか」
「ああ、ゼロス。ついさっき帰ったとこだ」
「だいぶ早い帰りだな。昨日城を出たんだろ?」
「ああ。……そうだったんだけどな」
「何かあったのか」
「……食べながら話そう。早く飯とってこいよ」
夕食のトレイを手に戻ってきたゼロスは、エリオットの正面に腰を下ろした。彼はゼロスが戻ってきたことを確かめると、すぐに話を始めた。
「お前の言うとおり、昨日の朝に城を出たんだ。ここから南西の少し海際。そこに俺が生まれた家があったんだ」
「……あった?」
「今はもう跡形もなくなってた。親父が必死に守ってきた畑は荒れ放題、どこにも兄弟の姿はなかった。……その時、一人のじいさんが近づいてきたんだ。名はアルゲス、俺がガキの頃によく昔話をしてくれた物知りなじいさんだ。あの人は俺のことを覚えていてくれたみたいでな。……話があるって言って俺をある所へ連れて行った」
――――――
「なあ、じいさん。話ってなんだ?さっきの場所じゃできない話なのか?」
「……そういう訳でもないが、今エリオットが知りたがっていることを説明するには、こうした方が都合がいいのだよ」
アルゲスは海がよく見える小高い丘へエリオットを連れて行く。その道中、エリオットは懐かしそうに昔を思い出す。
「そういや、この丘は良くリハンと登ったっけな。あいつは海が好きで、大人になったら海に出るなんて言ってたな……」
弟を懐かしむエリオットの前に現れたのは、小さな石碑だった。そこには『リハン。ここに眠る』と彫られていた。
「……は?リ、リハンって……。じいさん、いくら何でもこんな冗談は……」
「冗談などではない。お前の弟、リハンは……。死んだ」
まるで槌か何かで頭を思いきり殴られたような衝撃だった。めまいがする。まっすぐ立つことすらできない。エリオットはすぐにその場に膝をついてしまった。
「な、なんで。……じいさん、何か知ってるんだろ。なあ、話してくれ」
「……もとよりそのつもりだった」
アルゲスはそう前置きすると、リハンに起きた悲劇を語り始めた。
「あれは、去年のちょうど同じ頃だった。お前が傭兵になると言ってここを飛び出してから一年ほどだったころだった。お前の兄、アルテオスは一生懸命畑仕事に精を出し、リハンもまた懸命にそれを手伝っていた。だが、その年はひどい冷害でな。作物など碌に育つことはなかった」
エリオットもその年のことはよく覚えていた。……アダマンテ大陸に雪をもたらすのは、北の海から南西に向かって吹き付ける湿った冷風である。通常、その冷風はバステア山に遮られるのだが、ごくまれにバステア山ですら遮れ切れないほどの強風が吹くときがある。それは山を越して雪を降らせ、バステア山より南西で農業を営む者に大打撃を与えていた。
「あの年は特にひどかったようでな。売り物どころか自分たちで食べる分すらまともに育たん。昔のよしみもあって、何度か儂を頼ってきたのだがな。……そのうち、姿を見せなくなった。気になって様子を見に来れば、家の中でリハンが倒れていた。……その時には、もう息をしていなかった」
「……そうだったのか。俺は、そんなことも知らずに……」
「……問題はアルテオスだ。家で倒れていたのはリハン一人。アルテオスの姿はどこにもなかった。今はどこで何をしているのか、そもそも生きてさえいるのか。全くわからん。……だが、もしかするといきなりひょっこり帰ってくるかもしれん。だからわしは暇さえあれば、あの家の様子を見に来ているのだよ。兎に角、お前が戦場などで死なずにいてよかった」
「けど、リハンは……」
「……これが、慰めになるのかは定かではないが。……あの時、お前があの家にいたところで、できることなどなかった。畑が死んでいるんだ、人の手ではどうしようもない。……リハンの死に目に会えなかったからと言って、そう自分を責めることはない」
「……ありがとう、じいさん」
「少しは落ち着いたかね。……なら、少し儂の家でゆっくりしていくと良い。疲れただろう」
――――――
「それで、俺はじいさんの家で一日を明かして、今日帰ってきたってわけだ」
「……そうか。それは……」
「いや、何も言わなくていいさ。俺だって、何を言われてもどう受け止めたらいいかわかんねえしな。……じゃあ、俺はもう寝るよ。また明日な」
エリオットは食べ終わった後の食器をもって、席を立った。その背を見つめていたゼロスは、団長の背中がいつもより小さく感じられた。
翌日、チューン城議場内。朝早くに帝国から書簡が届けられたようだ。
「みんな、朝早くからすまない。緊急の要件だ」
エリオットはそう言って謝る。時刻は朝の六時半。まだ寝ていた者も少なからずおり、ゼロスは訓練場で汗を流している最中だった。招集したエリオットでさえ、碌に寝られていないのか目にはクマが出来ていた。まだ停戦期間中だというのに、緊急の要件とは一体何なのだろうか。
「簡単に言うと、次の戦場が決まった。俺たちは今日の夜、チューン城を出て陣の構築に向かわねばならない」
緊急という時点で多少の予想は出来ていたものの、いざ言葉にされると少し尻込みしてしまう。しかし、彼らは帝国の騎士団。届けられた書簡の命には従わなければならない。
「あとの説明はノクスがしてくれる。……じゃあ、任せた」
「任された。まずは次の戦場がどこか確認しようか」
ノクスは机の上に地図を広げる。そして、リバーニアとダリア平原のちょうど中間地点を指さした。
「……ここは?特に何かあるわけじゃないよな」
オルコスは指がさされた地点を見て、そうつぶやく。バステア山が北西に位置するこの土地は比較的平坦な地形ではあるが、特段何か戦略的に有効という訳ではない。それどころか、帝国領であるバステア山とリバーニアの両方から攻められやすい地形にあるため、本来なら避けるべき戦場である。
「今までは特に何もなかったんだけどね。……昨日から、この地点でとある動きがあった。王国陣地の構築、つまり戦いの支度をしてる」
「……奴らの目的が今一つわからないな。バステアを攻めたいならダリア平原から行くべきだし、リバーニアを攻めたいのならアトランティスから兵を出せばいい。わざわざこんなところに陣を敷く理由はなんだ?」
「セリアの言う通りなんだが、帝国の軍略会議でもこれといった説は出てこなかったようでね。だから、書簡が届いたんだ。……『変な動きをしてる奴がいる。何をしでかすかわからないから、先んじて潰しておけ』ってことだね」
議場には納得したような、しかしそれでも腑に落ちないといったすっきりしない淀んだ雰囲気が漂い始めていた。それはノクスから伝えられる情報がさらに加速させていく。
「それに、斥候の話だとその陣はどんどん拡大されているらしくてね。今はどれほどになっているかはわからないけど、最新の情報だとおおよそここからここまでが王国陣地で埋められているね」
ノクスは地図にペンで線を書いていく。バステアの南東端から伸びた線はリバーニアを越え、ワーセル海にいたるまで伸びた。あまりにも巨大な陣地に議場にいる皆は戸惑いの声をあげる。
「……この停戦期間中、王国は兵力の増強に努めていたようですわね。これほどの陣地。私が王国にいた頃は、国力のすべてを使ってようやくこの陣地を築き上げられるかどうか程度の国力だったのですが……」
「これも、帝国の大臣たちが恐れている理由の一つさ。これだけの兵力、はっきり言って大陸内の傭兵すべてをかき集めたとしても足りないはず。そのからくりを暴くのも俺たちに課せられた役目だね。……他に質問はあるかい?」
「これだけの兵力を相手にして、帝国側の戦力は俺たちだけなのか?」
「安心していいよ。俺たちだけじゃない。迅雷騎士団と豪波騎士団もこの作戦には参加するんだ。……とはいっても共闘はしないけど。それぞれ右方、左方そして正面。俺たちは正面役だね」
「……花形か。戦績著しい俺たちにはちょうどいい仕事だな」
皮肉交じりにゼロスは言う。ノクスも「これ以上戦果を挙げてもな」と続ける。
「とにかく、帝国からの書簡ということは俺たちに拒否権はないと言っていい。作戦の開始は一週間後、停戦協定が失効する瞬間だ。俺たちはそれに備えて今の内にリバーニア郊外に陣を敷かなきゃいけない。……チューンの統治に関してはまたルトガーたちが助けてくれるらしいから、そこは心配いらないね」
「……概要はこれで全部だ。質問がなけりゃ今日の会議はここまで。夜の出立に間に合うように支度を済ませておいてくれ。じゃあ、解散」
リバーニア近郊、王国陣地内。
「クバル殿。陣地の拡大はこの程度で十分かと。これ以上は我らの目が届きませぬ」
「うむ。……キースは一体何を考えているのやら。近頃はアベルと何か話し込んでいるようだったが、果たして……」
「しかし、陛下のお言葉にも理はありましょう。目前まで迫った帝国兵を蹴散らすための一戦、『痣』に適合できなかった者達がいかに使えるかの試験場とするのはいささか豪胆が過ぎますが」
彼らが話している近くでは、檻に入れられた者達のうめき声が低く響いている。どうにか拘束を外そうともがいているのだろうか。
「この戦いで負けたところで痛くもかゆくもない。王都に迫られようと我らにたぎる『影の一族』の力がある限り負けなどない。……と、キースたちは考えているのだろうな。だが、油断はするなリーデン。いくら並外れた力があるとはいえ、首を刎ねられればそれで仕舞いよ」
「肝に銘じます。……クバル殿、そろそろお時間では」
「ああ。俺は一足先に戻る。……励めよ」
黒衣の騎士は馬に乗って去っていくクバルを見送った。その彼の背後から別の男が話しかける。
「団長殿。クバル様はお帰りになりましたか」
「……フォーラ。何故クバル殿にご挨拶なさらなかった」
彼は上裸に黒い外套を羽織っただけの恰好で、その振る舞いや鋭い目つきから野性的な印象を周りから受けている。さらに魔導士としての実力はそれなり以上のため、リーデンの副官を務めている。
「いやなに、クバル様は苦手でして。あの人も俺のこの目が嫌いなのではないですか」
「戯言はやめよ。それに、団長は私ではなくクバル殿だ。その呼び方も改めろ」
「何を言う、リーデン殿。我ら『シャーディア・センチュリオン』の長はあなたしかおりません。戦場に立たぬ団長など、誰がついていくでしょうか」
「……戦場に関わらぬことはこれまでだ。それよりも、斥候の調査報告に来たのだろう?」
「お気づきでしたか。……リバーニア内には今の所大きな動きはありません。こちらの陣地構築を見て、順当に警戒態勢に入っているだけかと。まだ動くことはないでしょうが、時間の問題ですね。……次にバステア方面ですが、こちらは思っていたよりも動きがありません。まるでこちらのことを全く意に介していないような。……バステアには攻め込んでこないと高をくくっているのかと」
「……ならば。第一目標はバステアにするとしよう。高をくくる奴らの鼻を明かし、要地を手に入れる。さすれば、王国の勝利がより一層現実味を増すというものだ」
「了解。後で団員たちに通達しておきます」
「ああ。……一週間後、作戦を開始する」
チューン城、西門前。時刻は午後八時。腹ごしらえを済ませた烈風騎士団の団員たちは出陣のために整列していた。夜間の出立はあまり例がないが、緊急の要請であるため致し方ないのだ。
「……全員いるな。よし、俺たちは今からリバーニアの郊外まで向かうぞ。目的は急に陣地を構築しだした王国兵たちに対抗してすること。では行くぞ。……出陣!」
すっかり日も落ちているというのに、騎士団の出陣を見送りに来てくれた城下の民はかなり多い。皆手を振り、騎士団の勝利を願っている。それを背に受け、騎士団は城から出発した。それからどれほど経っただろうか、月明かりの道しるべを頼りに進み続けた彼らは、ようやく目的地であるリバーニアの郊外にたどり着いた。夜は明け、空が白んできているが彼らはまだ休めない。ここから自分たちがこれから一週間程度生活するための陣を用意しなければならないのだ。長旅の末の力仕事というのは堪えるが、文句を言ったところで物事が進展するわけでもない。それからまた数時間を要し、彼らが体を休められたのはすっかり日が昇ってからのことだった。
「よう、エリオットはいるか?」
彼らが徹夜して作り上げた陣地に踏み込む者がいる。迅雷騎士団団長、ガラードだ。様子を見に来たようだ。
「ガラード殿。お久しぶりです」
「久しぶりだな、エリオット。近頃、調子はどうだ?」
「まあ、ぼちぼちと言ったところでしょうか……それよりも、帝都からの書簡は……」
「ああ。届いてる。作戦の開始は停戦協定が失効する瞬間。開戦は深夜になるだろうな。……そういや、お前たちは正面担当か。激しい戦いになるだろうけど、頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、俺はそろそろ行くぜ。お前らが来たから俺たちも準備を始めなくちゃならねえ。……豪波騎士団の奴らもそろそろ動き始める頃だろうな。……じゃな!」
簡単な挨拶だけ済ませてガラードは去っていく。それを見送ったエリオットはもう一度体を休めるべくテントへと戻った。
「出てこい、ガラード」
「……その物言いだけはどうにか治せないのか、ウォルハス」
「治す必要を感じないのでな。それよりお前はこの王国の出方をどう見る。それが聞きたくてわざわざここまで足を運んだんだ」
「なら、先にお前から聞かせてくれよ。豪波騎士団の団長、ウォルハスさんよ」
ウォルハス・オリッドは眉間にしわを寄せる。青を基調としたコートに身を包み、腰には細剣を下げた涼やかな顔の男。それが豪波騎士団の現団長だった。彼は自分の額を二度ほど指で軽く叩くと、ゆっくりと口を開いた。
「……奴らは追い込まれている。バステアを取られ、リバーニアを取られ。今やダリアとアトランティスが最後の頼み。もともと従えていた騎士団は軒並み破られ、あのクバルですら片腕を落とされたと聞く。兵力差を考えれば、彼らに籠城の選択肢はない。できる限り傭兵を集め、リバーニアとバステアを手に入れ均衡を取り戻す」
「……やはりそうか。俺もそんなところだとは」
「本当にそうかは未だ疑問が残る。斥候の話では獣のような何かが入れられた檻がいくつもあったようだしな。魔法で飼いならした獣がどれほど戦えるかの実験とも考えられる」
「いや、そうだとしてもあの陣の大きさは異様だろ。さっき言った通り王国が総力戦を仕掛けて来たって方がまだそれっぽいぜ」
「……とにかく。あの陣内は警備も厳しく斥候はまともに動けん。情報が少ない今回の戦場は慎重に行くべきだ。……それだけ伝えに来た。ではな」
「ああ、じゃあな」
ウォルハスは足早に去っていった。……彼は以前ダゴン防衛の任についていたのだが、セリア率いる翠玉騎士団に敗北。ウォルハスとその他数名はその場から離脱したが、囚われてしまった者は捕虜として掘削作業を強要されていた。その後、カリンたち烈風騎士団の精鋭によりダゴンは取り戻されたが、その時に捕虜となっていた蒼穹騎士団員はすべて殺害されていた。そのため、生き残った者の中から最も素養があったウォルハスに新団長の白羽の矢が立ったのだ。それからおよそ二か月ほどが経ったが、彼は自分なりのやり方で騎士団を率いているようである。
それから一週間、帝国側と王国側に目立った動きはなかった。ウォルハスの言うとおり王国陣内の警備が厳しく、斥候を走らせたところでこれといった情報は出てこない。気味が悪いほど静まり返った王国陣地を見張れる位置で、日々を過ごしていただけだった。そして、その日がやってきた。深夜十一時五十二分。
「全員、用意はできたか」
いつもより数段低く、エリオットの声が陣地内に響き渡る。あと八分。時間になれば、彼らは久しぶりに戦場に身を投じることになる。覚悟が揺らいだことなどはないはずだが、なまった身体は精神に置いて行かれそうになっている者も多くいる。
「おい、力みすぎだ。一度深呼吸をしろ」
「はっ、はい……。すう……、ふう……」
「……肩の力は抜けたか、ウィル。緊張するのは仕方ないが、そんなに両手が震えていては太刀筋も鈍る」
「申し訳ありません。もう大丈夫です」
「落ち着いたのなら、それでいい。……そろそろ時間だろうな」
近くにいたウィルをなだめたゼロスは後方に目をやる。陣の中央、組まれた櫓の上には小さな鐘と、それを鳴らすために待機している者がいた。……そして、ついに時が来た。甲高く、金の音が鳴り響く。エリオットはカッと目を見開き、大声で告げた。
「一番隊、侵攻開始!」
皆が意気をあげ、馬を走らせる。月明かりがぼんやりと照らしている平原を突っ切り、敵陣へと駆けていく。ただ、敵も黙ってみているわけではんかった。時を同じくして、彼らも兵を放っていた。……それは、兵と呼ぶにはいささか統率に欠けてはいたのだが。
「グオオオオ!」
「何っ!?獣か!?」
暗闇に月の光が差し込み、彼らの鋭く吊り上がった目がそれを反射する。おぼろげに照らされた彼らは一目見れば人ではあった。しかし、二度見ればその考えを改めることとなった。敵を見つけた途端恐ろしい唸り声をあげてとびかかり、爪や歯を立てる。あまりのありえない光景に烈風騎士団の面々も怖気づいてしまっていた。
「怯むな!『炎舞輪』!」
先陣を切っていたカリンが炎で周囲を明るく照らし出す。彼らがもし本当に獣であるのなら、炎に弱いはずという考えもあった。しかし。
「ガアアアア!」
奴らは躊躇うことなく、カリンが作り出した炎に飛び込んでいく。そして、炎の壁に守られていた兵たちに襲い掛かるのだった。戦闘技術は全くの皆無だが、人並外れた膂力が奴らの強さの根幹なのだろう。その上、奴らはまだ数を増やす。一体どれほど闇に潜んでいたのだろうか。……このままでは、二番隊・三番隊の到着まで耐えられない。
「この!なんだこいつらは!」
腕を切り落としてもなお向かってくる。足を落としても、身体を火に包んでも奴らは止まらない。奴らの魔の手は、隊の中央にいたカリンにまで迫っていた。
「……カリン副団長!ここは一度退くべきかと。こんな得体の知れない奴らと、正面切って戦うのは得策ではありません」
襲い掛かる者の首を刎ね飛ばしながら、アイオスは言う。確かに彼の言うとおり、すでに半分以上が重傷以上を負っている。このままここで耐えていても、光明は見えない。
「……わかった。一番隊、後退せよ!」
「副団長!負傷者は……」
地面に転がる仲間が大勢いる。彼らは腕をもがれ、はらわたを引きずり出され、とても助かるような状態には見えなかった。カリンは悔しそうに「く……」と声を漏らす。それが答えだった。自力で動けるであろう負傷者の身を引き連れ、カリン率いる一番隊は後退した。……幸いというべきか、奴らは追ってこない。敗者に興味はないのか、それとも残された者を弄んでいるのか。
「……カリン!何があった!?」
陣地へと戻る道中、本隊を率いるエリオット達と合流した。カリンは幸い無傷だったが、他の団員は見るに堪えない大けがをしているものまでいる。
「エリオット。今回の敵は侮るな。奴ら、まるで影に潜む獣だ。……私は一度本陣まで下がり、皆の治療を手伝う。それが終わり次第、エリオット達に合流する」
「……わかった。皆、聞いていた通りだ。気をつけろ!」
カリンたちが来た道を戻り、本陣へと帰っていく。それを見送ったゼロスは、孤児院廃墟でのことを思い出していた。
「影に潜む獣。……まさか。いや、だが……」
「……ゼロスさん、どうかなさいました?」
「いや、何でもない。ただの考えすぎかもしれないからな」
「……そうですか」
本隊は月明かりを頼りに歩を進める。先陣はノクスとコルニッツォが務めていた。平原の中央あたりまで進んだ時、コルニッツォが手を伸ばし、後方を歩く者達を止める。
「どうした、コルニッツォ。何かあったのか?」
「……あれを見ろ」
彼が指さすその先。そこにあったのは月明かりを反射してぎらつく獣の目だった。
「カリンが言っていたのはあいつらか。全員、警戒は怠るなよ。……ゼロス!待て!」
エリオットが警戒を呼び掛ける中、ゼロスが馬を降りて一人で飛び出す。彼は自分の目で確かめたかったのだ。奴らは次の得物を見つけ、血だらけの口元を歪ませる。そして、一斉にとびかかった。
「……ハアッ!」
ゼロスが一太刀で、とびかかった者を両断にする。あたりに血が飛び散り、においが風に乗って漂う。奴らはゼロスにおびえたのか、じりじりと後ずさりを続けている。ゼロスは両断にした者の上半身を掴み上げ、月の光に照らす。やはりというべきか、その者の首筋にはあの『痣』が入っていた。ゼロスの頭にはアーサ平原で顔を合わせたクバルとガルディアが思い出されていた。
「……やはりそう言うことか。クバル、何を考えている……?」
「ゼロスさん、急にどうなさったんですか?いきなり飛び出して……」
彼の独断専行を不思議に思ったアイリーンがすぐさま彼のもとに駆け寄る。
「これを見ろ。……『痣』だ」
「では、彼らは……」
「……『実験の失敗作』。言いたくはないが、そう表現するのが正しいだろう。……ガルディアか、クバルか。もしくは他の誰かが、王国の兵や民を『痣』の適合実験に巻き込んだ。適合できない者は自我を失い、獣になり果てる。……孤児院を拠点としていたあの盗賊の親玉もそうだった」
「彼らを治す手立ては?」
ゼロスは首を横に振る。彼の目線の先にはもう奴らの姿はなかった。より暗闇の深いところに逃げ込んだのだろうか。眼を強化してあたりを探るが、奴らの姿はどこにもない。剣に付いた血を振り払い、背に収める。そして、エリオットに近づいた。
「悪い、エリオット。どうしても確かめたくてな」
「いや、無事ならそれでいい。……で、確かめたかったことはもういいのか?」
「ああ。……この後はどうする。ここでカリンの合流を待つか、それとも敵陣に近づくか。おそらくだが、奴らはまだ大勢いるはずだ」
「……いや、前進しよう。奴らが退いて行った今、攻め時を逃すべきじゃない。カリンも疲れているだろうし、彼女が合流する前に片を付けよう」
「了解、団長」
烈風騎士団は前進を再開した。ここより少し先、小高い丘の上に王国の陣地がある。柱などに掛けられた松明が場所をはっきりと示していた。平原はすっかり静まり返っており、遠くから誰かが戦っている声が聞こえてくるだけだ。
「どうやら他の所もそれなりに苦戦しているようだな。こっちを早く片付けて救援に向かうとするか」
王国陣地を目前にして、エリオットは余裕を見せる。陣地内からは騒ぎなどは聞こえてこない。まだ戦況を把握しきれていないのだろうか。ならば、今突撃をすれば奇襲にもなり得るだろう。エリオットはゆっくりと左手をあげ、松明を掲げる。そして、敵陣目掛けて松明を放り投げた。
「全隊、突撃!」
敵の陣幕に火が移り、空を赤く染めて煙が立ち上る。それを合図として、烈風騎士団の本隊は突撃を開始した。ゼロスは右手で、固く剣の柄を握りしめていた。
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