第4話「雑音の中の囁き」
山から吹き下ろす夜の名残を含んだひんやりとした空気が、竜斗の頬をそよそよと撫でていく。通学路の孤独を象徴するかのように、頬と鼻の先がツンと赤らんでいた。
コツ、コツとアスファルトを蹴る自分の足音だけが、まだ人影もまばらな道に響いている。周囲では、他の生徒たちがいくつかの集団を作り、ワイワイと楽しげな会話を弾ませているが、竜斗にとってそれは簡単に遮断できる背景ノイズに過ぎない。
いつもの単調な坂道を登り切ると、校門のシルエットが見えてくる。彼が求めているのは、多くの人間にとっては耳障りなだけの、あの音。ジージーと鳴り続ける蝉の声。それは竜斗にとって、なぜか心を落ち着かせる変わらない日常の一部だった。
「おはよ、三浦くん!」
校門のすぐ手前で、不意に隣から鈴を転がすような声がした。秋山真琴だ。彼女特有の、太陽のような眩しい笑顔がそこにある。肌寒さの残る気候にもかかわらず、ワインレッドのカーディガンは今日も彼女のトレードマークとして羽織られている。
「……おはよう、秋山さん」
竜斗の声は、彼女の快活さとは対照的に、感情の起伏がない平坦なものだった。
昼休みのあの騒動から二日が経過していた。あの後、真琴との関係性には変化があった。
どうやら、彼女は竜斗の「スペースを尊重してほしい」という言葉を真摯に受け止めたらしい。以前のような強引なアプローチは影を潜め、やり取りはより穏やかで、押しつけがましさのないものになっていた。
(ある意味、気楽だ…彼女は、悪い相手じゃない)
教室に足を踏み入れると、朝特有のざわめきが二人を迎える。しかし、竜斗と真琴が連れ立って入ってきたことで、教室内の空気には微かだが明確な変化が生じた。
予想通り、視線が竜斗に集中する。グサグサと突き刺さる、慣れたはずの感覚。だが、今回の大半の視線に含まれているのは、怒りではなく嫉妬だった。
ただし、例外が一つ。佐藤健太の視線だ。彼は竜斗を羨望や怒りで睨む代わりに、二人が教室に入ってきた瞬間、バツが悪そうにフイッと目を逸らした。
真琴はその視線の小さな嵐を気にも留めず、自分の友人グループの輪へと合流していく。一方、竜斗は自らの日課を遂行する。隅の席に向かい、腰を下ろし、周囲のすべてを意識から切り離す。彼が自らに許した音は一つだけ。ジージーと鳴り響く蝉の声。単調だが、奇妙なほどの安らぎを与えてくれる音だった。
◇ ◇ ◇
昼下がりの教室は、窓から差し込む熱気でムワッとしており、外からはジージーと蝉の鳴き声が執拗に響き渡っていた。森田先生の必死な声が、生徒たちの集団的な倦怠感に虚しく反響している。彼は黒板の前で身振り手振りを交え、平安時代の政治の複雑さについて熱弁しているが、その言葉は生徒たちの無関心に跳ね返されているようだった。
ほとんどの生徒は静かだったが、その表情は退屈か、隠しきれない眠気で歪んでいる。肩を落とし、机に突っ伏して腕を枕代わりにしている者も少なくない。
(歴史の授業なんて、こいつらにとっては苦痛でしかない。平安時代の何が重要なんだ?結局、こいつらが待ち望んでいるのはチャイムの音だけだ)
竜斗は教室後方の自分の席にじっと座りながら、この見慣れた無関心の交響曲を感じていた。三列前から聞こえる小さなあくびの音。数センチだけ椅子を引くギッという微かな軋み。窓際の女子生徒たちの、聞き取れないほどのヒソヒソ話。そして、自分のペンがノートの上を滑るカリカリという単調なリズム――興味からではなく、意識を自分自身から逸らすための自動的な作業だ。
「えー…今日は皆さんに課題を出します」先生の声がワントーン上がり、無理やり熱意を注入しようとしている。「来週提出です。これは試験範囲にも入るので、しっかり勉強する良い機会になりますよ!」
(熱心な人だな)竜斗は、先生が軽く震える指で眼鏡の位置を直すのを眺めた。(確か、今年から教壇に立ったばかりだとか。自分以外の場所にいたいと思っている聴衆の前で話す緊張が、まだ抜けないんだろう)
「課題は、グループで行ってもらいます」
その言葉に、竜斗の背筋がピクリと微かに強張った。(グループワークか…あまり好きじゃないな…)過去の苦い記憶が蘇る。いつも決まって余り者になり、変わり者かやる気のない連中のグループに放り込まれ、結局、最低限の成績を確保するために僕が一人で全部片付ける羽目になる。
まるでダムが決壊したかのように、教室内にざわざわとした囁き声が広がった。生徒たちは即座にお互いの方を向き、視線を交わし、無言の同盟を結び始めている。
「ただし」森田先生の声が騒ぎを制した。「今回は、くじ引きでグループ分けをします」先生は屈み込み、教卓の下から小さな段ボール箱を取り出した。
ざわめきが抗議のブーイングに変わる。先生はそれを無視し、列の間を回り始めた。机から机へと移動し、箱に手を突っ込んでは、折り畳まれた小さな紙片を各生徒の机に置いていく。
「クラスは26人だから、5人グループが4つと、6人グループが1つできる計算だ」
竜斗は机に置かれた小さな長方形の紙を見つめた。来週一週間の社会的苦痛の度合いを決める、無害な物体。森田先生が通り過ぎた後、彼は紙を手に取った。裏返すと、ペンで書かれた『5』という数字が見えた。
「同じ番号を引いた者同士でグループになってください」先生は教壇に戻り、推奨トピックをリストアップし始めた。
藤原氏の台頭と摂関政治(摂政と関白)
平安朝の宮廷文学:紫式部(源氏物語)と清少納言(枕草子)の世界
密教の発展と延暦寺・朝廷の関係
武士階級の出現と地方の治安悪化
荘園制度とその経済・中央権力への影響
「これらのトピックから一つを選び、調査レポートを作成してもらいます」森田先生は続けた。「準備は共同ですが、発表は全員に一部ずつ担当してもらいます」
「先生ー!一週間じゃ短すぎません?」自信に満ちた女子の声が響いた。真琴の友人で、髪をオレンジ色に染めた夏川由美だ。
「良い質問だ、夏川さん。簡潔な調査と所見の発表が目的だ。凝ったポスターや複雑なプレゼンは必要ない。口頭発表そのものが主な評価対象だからね」
「よし、グループごとに集まって!」
即座に混沌が訪れた。椅子を床に引きずるガタガタという音が他のすべてをかき消す。番号を尋ねたり、名前を呼んだりする声が飛び交う。しかし、竜斗だけは席で身じろぎもせず、目の前で繰り広げられる無秩序を眺めていた。それに参加しなくていいという安堵感を覚えながら。
彼の視線は無意識に教室の前方へ向かった。赤みがかった茶色の髪が揺れ、秋山真琴が、短く整えられた明るい髪色の長身男子と楽しそうに話している。もう一人の三浦だ。
別の隅では、以前竜斗に絡んできた佐藤が、そのもう一人の三浦を、嫉妬と苛立ちの混じった目でギラギラと睨みつけている。
竜斗は手のひらの『5』に目を落とした。(秋山さんに、どのグループか聞きに行くべきだろうか…)奇妙で居心地の悪い考えが浮かぶ。(結局…僕たちは今、「友達」なんだよな?)その単語は、彼の心の中でまだ偽物のように響いていた。
「あ、あの…三浦くん…」
か細い囁き声が、周囲の喧騒の隙間を縫って耳に届いた。あまりにも小さく、ほとんどの人間なら聞き逃してしまうだろう。だが、音に意識を集中させて世界と繋がっている竜斗の耳は、それをはっきりと捉えた。雑音の中の、異質な周波数。
ゆっくりと顔を左に向ける。隣の席の女子生徒が彼を見ていた。長く黒いストレートヘアに、前髪を押さえる幅広の白いカチューシャ、シンプルな縁の眼鏡。小柄で、どこか幼い印象を受ける。彼女は視線を低く保ち、竜斗の顔ではなく机の表面を見つめ、頬を分かりやすく赤らめていた。
「な、番号…いくつ…?」彼女は、一言一言を絞り出すのに多大な努力を払っているかのように尋ねた。
竜斗は一瞬、純粋に驚いて彼女を見つめた。これまで彼女の存在にほとんど気づかなかった。自分以上に気配を消せる人間がいたとは。「五番」と、いつもの覇気のない声で答える。
「ほ、本当?」彼女の目がレンズ越しにキラリと輝き、ほんの一瞬だけ彼と視線が合った。「わ、私も!」
「ああ…それはどうも」沈黙が数秒続く。(彼女と話したのは初めてだ。今、何を返すべきなんだ?僕より静かな人間と組む確率って…)
「ねえ、三浦くん!」彼女の興奮が、一瞬だけ内気さに打ち勝ったようだ。「どのトピック発表したい?」その眼差しには明らかな興味が宿っていた。どうやら、歴史は彼女の好きな分野らしい。
竜斗は黒板に視線を移し、グループが形成されていく様子を眺めた。「三番の密教のやつが…楽そうかな」彼は呟いた。「でも…発表は苦手だから、簡単なのがいい」
「三番、いいね!」彼女は突然椅子から立ち上がり、竜斗の机にグイッと身を乗り出した。竜斗が身じろぎもせずに彼女を見つめていると、彼女は突然、自分の近さに気づいたようだった。
ハッとして、顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。彼女は稲妻のような速さでバッと自分の椅子に戻り、眼鏡の下で両手で顔を覆った。
「どうかしたか?」竜斗の声には純粋な困惑だけがあり、感情は乗っていなかった。
「な、な、なんでもない!ごめんなさい、三浦くん!」彼女は顔を覆ったまま、ぶんぶんと首を振った。
「ごめん…」反射的に言葉が出たが、竜斗はそこで止まった。(なんで僕が謝ってるんだ?)ああ…「すまない、名前を知らない」
彼女はようやく手の中から顔を上げた。その表情は、傷心と芝居がかった憤慨が混じったコミカルなものだった。「ひどい!席替えしてからずっと隣同士なのに!」
「すまない…」彼は繰り返し、珍しくじんわりとした気まずさを感じた。首筋を掻きながら一瞬視線を逸らす。「普段、あまり周りのことに注意を払わないんだ。ただ…音だけは…」
「音、でしょ」彼女が言葉を引き継いだ。
竜斗の世界が停止した。ゾクッと、背筋を何かが駆け上がった。彼は目をカッと見開いて彼女に向き直る。彼女は穏やかな、目元まで笑っているような笑みを浮かべていた。
(彼女…気づいていたのか?)秋山に嘘をつく時の癖を見抜かれた時よりも深い衝撃だった。あれは物理的な癖、暴かれた嘘だ。これは違う。これは、僕が世界をどう認識しているか、僕を脅かす沈黙と僕を守る雑音についての話だ。
「三浦くん、静かすぎるとソワソワしてるから」彼女は静かに言った。「それに、周りの音が全部を覆い隠してくれる時の方が、集中できてるみたい」彼女は小さく、柔らかな笑い声を立てた。
その瞬間、外の音――クラスメイトの声、蝉の鳴き声、体育の授業の叫び声――が一瞬強まり、そして引いていく潮のように遠ざかった。混沌としたノイズが、ホワイトノイズに変わる。そして彼が本当に聞いていた唯一の音は、彼女の穏やかな笑い声だけだった。
二人目だ。これで二人、僕を見通した人間が現れた。
「南千尋。よろしくね、三浦くん」
「…よろしく…南さん…」彼は答えた。言葉は努力して絞り出され、ほとんど聞き取れない囁きだったが、彼自身が気づかないうちに、その声には初めて本物の温もりが微かに宿っていた。
南が優しく微笑み返す。
「むーっ……」
地を這うような唸り声が横から聞こえた。竜斗と千尋が同時に振り返ると、そこには秋山真琴が立っていた。彼女は頬をぷくーっと膨らませ、不機嫌さを隠そうともしない、ほとんど子供じみた嫉妬の表情で竜斗を睨みつけている。
南は真琴の放つオーラに怯え、ビクッと体を縮こませた。竜斗と真琴の間で視線をオロオロと彷徨わせた後、再び手で顔を隠そうとする。
「どうしたんだ、秋山さん?」竜斗は雰囲気の急変に戸惑いながら尋ねた。
「むぅぅぅ……」彼女の不機嫌な唸り声だけが返ってきた。
真琴の隣では、黒髪の男子生徒が困惑した表情で彼女を見つめている。そして、オレンジ色の髪をした夏川由美が、口元を手で覆ってクスクスと笑いを堪えていた。
「やっぱりな。隅っこで固まってる残りのメンバーが誰かと思えば、お前ら二人か…」
自信に満ちた声が空間を割った。真琴たちの横を通り抜け、短く明るい髪をした長身の少年が竜斗の机の前に立つ。
彼は微妙な緊張感など全く意に介さず、ニカッと歯を見せて笑った。「やっぱりお前だったか、竜斗」
「三浦くん…」竜斗は呟いた。(そうだった。忘れてた。時々、もう一人の三浦くんは僕に話しかけてくる。同じ苗字だと分かってから、妙な親近感を持っているらしく、いつも下の名前で呼んでくるんだ)