第35話「付き合ってない。だから…」第一部
空気は重く淀み、逃げ場のない湿った熱気が本格的な夏の到来を告げていた。その息苦しい大気の中心で、三浦竜斗は、自分の人生で決して足を踏み入れることはないと思っていた場所にいた。
「東京に行くぞーッ!」
怒号のような声が轟く。サッカー部のキャプテン、三年の巨漢が革命でも先導するかのように拳を突き上げた。
「「「オオオオオッ!!!!」」」
ワアアアアッ!!
部員たちの野太い叫びが壁を揺らす。テストステロンと熱狂の波だ。そして、その声の濁流に飲み込まれているのが、竜斗だった。
今日は授業のない土曜日。来週から始まる期末テスト前の張り詰めたプレッシャー……のハズだが、キャプテンの「焼肉で運気を上げる(意味不明)」という論理により、部員全員が彼の家族が経営する焼肉店に招集されていた。表向きは「勉強会」だが、リュックから教科書が出てくる気配は微塵もない。
この社会的カオス(混沌)の台風の目の中で、無気力な少年はただ一人、静止していた。
竜斗はテーブルに座り、大海原で浮き輪にしがみつくような力でジュースのコップを握りしめている。
ガヤガヤ……ザワザワ……
周囲の喧騒に脳が処理落ちし、目は泳いでいた。右隣では、武が飢えた獣のような勢いで網の上の肉を争奪している。
ジュウジュウ!バチバチッ!
左隣では、マネージャーが「私が育ててた上カルビ誰が食べたのよ!」と叫んでいる。煙と焦げたタレ、そして汗の匂いが充満し、その霧が竜斗をさらに孤独にさせていく。
(……なんで僕は、こんなところに紛れ込んでしまったんだ……)
秒単位で身体からエネルギーが吸い取られていくのを感じながら、彼は虚空を見つめた。
◇
「海に行くよーッ!」
今度は、女性の甲高い声が空気を切り裂いた。
「「イェーイ!」」
キャッキャッ!
「……姉さん、頼むからボリューム下げてくれない?」
疲弊しきった声で、夏川由美が言った。彼女はコンビニの緑色の制服に身を包み、深緑のエプロン姿で帽子を直そうとしていた。
「お客さんが逃げちゃうでしょ!」
由美が心配そうに自動ドアの方を見るが、叫んだ張本人――由美の姉は、ひらひらと手を振った。
「あー、いいじゃんいいじゃん、由美ってば~。固いこと言わないの~」
姉は気怠げに、しかし楽しそうに返事をする。まるで由美の心配なんて取るに足らない冗談だとでも言うように。彼女たちは夏川家を支える小さなコンビニの中にいた。姉は棚出しよりも、由美を連れ出しに来た学校の友達に見せびらかすことに夢中なようだ。
「あとでお父さんに何て言えばいいのよ……」
由美は信じられないといった様子で溜息をついた。彼女のオレンジ色の髪は実用的に結ばれているが、その遺伝的な反骨心は姉にも表れている。姉もまた明るい髪色をしていたが、根元は黒いプリン状態で、だらしない生活感が滲み出ていた。
「あたしは、結構面白いと思うけど?」
からかうような声。由美がくるりと振り返ると、そこには見間違えようのない緋色の髪の少女がいた。
ニヤニヤ。
秋山真琴が客用のプラスチック椅子に座り、悪戯っぽい笑みを唇に浮かべてこちらを見ていた。白いノースリーブのブラウスから健康的な肩を出し、色褪せたデニムスカートを合わせた彼女は、まさに「夏の主役」といった装いだ。
「真琴ちゃん……」
由美の声には、苦悩と安堵が入り混じっていた。真琴もまた、彼女を「救出」しに来た一人なのだ。
「本当は海に行って、プレ・サマーを楽しみたいくせに。素直じゃないなぁ」
真琴は頬杖をつきながら挑発した。
「そ、それは……まあ、そうだけど!」
由美はつい本音を漏らしたが、すぐに背筋を正した。
「でも!まだ夏休みじゃないし!働かなきゃいけないの!」
ビシッ!
彼女は非難の指を姉に向けたが、姉は既に笑いながら去っていくところだった。
「はいはい~、あとヨロシク~」
「ちょっと!」
取り残された由美を見て、クラスの友人たちが目を輝かせた。
キラキラ。
「学校外の由美ちゃん、超プロって感じ!」
「マジで大人っぽ~い!」
「誰かがしっかりしなきゃいけないんだから!ふんっ!」
由美は腕を組み、褒め言葉に頬を赤らめながらも厳しい顔を作ろうとした。そんな彼女を眺めていた真琴が、ふと沈黙する。浮かべていた楽しげな笑みが揺らぎ、その緑色の瞳に、どこか優しく、そして少し寂しげな色が混じった。早すぎる責任を背負った友人の肩を、労わるように。
◇
食事という名のカオスが去った後、驚くべき秩序が訪れた。部員たちは皿を片付け、満腹感からくる礼儀正しさで「ごちそうさまでした」と手を合わせる。驚くべきことに、何人かは本当にノートを広げて勉強を始めた。
だが、竜斗にそんな幸運は巡ってこなかった。彼は、最も過酷な掃除係を押し付けられていたのだ。
ゴシ、ゴシ、ゴシ……
鉄板を濡れ雑巾で擦る音が、単調に響く。隣の部屋からの客のざわめきと、シンクの水流音だけがBGMだ。鉄板に残る熱が顔に当たり、油の匂いがまとわりつく。竜斗の動きは機械的だった。擦る、絞る、繰り返す。
「なぁ、竜斗……」
隣で頑固な油汚れと格闘していた武が、リズムを崩して話しかけてきた。
「なんで秋山さんを誘わなかったんだ?」
「……友達と出かけるって言ってたから」
竜斗は答えた。その声は空虚で、まるでシャンプーの裏書きを読み上げているかのように抑揚がない。手は休めずに動かし続ける。
「おっ!」
反対側にいた颯太が、驚きの声を上げた。ドンッ!**彼は竜斗の脇腹を肘で小突き、ニカっと歯を見せて笑う。
「ってことは、お前ちゃんと誘ったのか?やるじゃん、むっつりスケベ」
「……みんなが誘えって言ったから、誘っただけだ」
即答するが、その声には微かな苛立ちが混じっていた。鉄板の熱が耳にまで上がってきたような気がする。
「ていうか、なんで俺らに女子を連れて来させたかったんだよ」二年の部員が箒の柄に顎を乗せて割り込んできた。「男だらけの中に呼んで、どういう集まりにするつもりだったんですか?」
「おいおい!待てって!」武が両手を振って否定する。「これは合コンとかじゃないぞ!あくまで友達としての集まりだ!彼女は俺たちの友達だろ!」
「その理屈なら、なんで南さんとか夏川さんは呼ばなかったんだよ」颯太の正論が武の言い訳を突き刺す。
グサッ!
「それは……竜斗の役目だったからだ!」
「僕の?」
竜斗の口から、信じられないという呟きが漏れた。
「つまり、可愛い子を呼ぶ壮大な計画を立てておいて、実行は全部三浦に丸投げしたってことか!?」別の部員が憤慨して叫ぶ。
(なんで僕のせいになってるんだ。というか、なんで僕なんだ……)
ズキズキ……
頭痛が脈打つのを感じた。
「チッチッチッ」武は人差し指を振り、勝ち誇ったような――いや、傲慢な笑みを浮かべた。「我が親友、竜斗君はだな……」
彼は劇的な間を置いた。「天然で女子を引き寄せる、『受け身磁石』体質なんだよ」
「はぁ!?マジかよそれ!?」部員たちが竜斗を未確認生物でも見るような目で見つめる。
颯太が激しく頷いてそのふざけた理論を肯定する中、竜斗は死んだ魚のような目を向けることしかできなかった。彼らの馬鹿げた会話を処理する気力すらない。
「三浦ァァァァァ!!」先輩が膝から崩れ落ちる。
「可愛い女の子をお望みなら、あたしに言えばよかったのに……」
カツ、カツ、カツ……
その嘆きを断ち切るように、女性の声が響いた。厨房から、乾いた皿の山を器用に乗せた先輩が現れる。
「そうすれば、あたしの友達を連れてきて、タダ飯食わせてあげたのに」彼女は絶対的な優位性を持って、傲慢に顎を上げて彼らを見下ろした。
「マジすか山田さん!」先輩が床を滑るように移動し、彼女の足元に膝をつく。
ズサーッ!
「友達紹介してください!お願いします!」
「センパァァァイ!!」
「山田サマァァァァァ!!」
部員たちが合唱し、マネージャーの前に跪く列ができた。山田は唇に危険な笑みを浮かべ、その場の支配権を楽しんでいるようだった。
「ま、考えておいてあげる」
三年の先輩が他人の不幸を笑い、後輩たちが「山田様!」と崇める中、竜斗は深く、重い溜息をついた。
ハァ……
彼は再び鉄板を擦り始めた。金属と金属が擦れ合う音だけが、彼にとって理解可能で、制御できる唯一のものだった。
◇
ショッピングモールの中心部。デパートの空調が、外の熱気と静かな戦いを繰り広げていた。
水着売り場では、蛍光灯が生地の色を鮮やかに照らし出している。真琴と由美のグループは、夏物で溢れるラックの間を航行していた。
制服から解放された由美は、色褪せたロックバンドの黒Tシャツに短いデニムショーツ、腰にはチェックのシャツを巻いている。その反骨的なオレンジ髪と相まって、都会的なスタイルだ。対する真琴は、白いブラウスにデニムスカート。由美のラフさとは対照的に、生まれ持った気品のようなものを漂わせている。
「これなんか完璧じゃない?」
友人の一人が、ハイビスカス柄の真っ赤なビキニを持ち上げた。サイドのリボンが「大胆さ」を叫んでいるようなデザインだ。
「こっちも見て!超カワイイ!」別の友人が、パステルブルーのフリル付きビキニを手に取る。それは子供のような無邪気さを連想させた。
「で?」由美が腕を組み、身体を傾ける。「どっちにするか決まった?」
「まだわかんない……」
真琴の声は上の空だった。彼女は防御するように腕を組み、まるで複雑な暗号解読でもするように水着を睨んでいる。
「あんた、服選ぶときはもっと即決じゃん」由美が声を潜め、真琴にしか聞こえない距離まで近づく。
スッ……
彼女の唇が、猫のように意地悪く歪んだ。
「もしかして……特定の『誰か』に気に入られたいとか?うふふ……」
「ち、違う!いや……その……そう、かも……」真琴はいつもの余裕を失い、しどろもどろになった。
「そうかも?」友人がその空気を察知して近づいてくる。
「ぶっちゃけ、アイツなら何着ても喜びそうだけどねー」別の友人が笑う。
「アイツ、基本根暗だし。時々あの『死んだ魚の目』を見ると、マジで一発殴りたくなってくるけど……」由美は肩をすくめ、容赦ない本音を吐いた。
「だ、誰……誰の話をしてるの……?」
真琴は引きつった笑みを浮かべた。
ダラダラ……
背筋に冷や汗が流れるのを感じる。少女たちは、「分かりきってるでしょ」と言わんばかりの顔で彼女を見つめた。
◇
街の反対側、その光景は華やかさとは程遠かった。
焼肉店の洗い場。竜斗は灰色の汚水をシンクに流していた。
ジャーーー……
柑橘系の洗剤と、焦げた脂の臭いが混ざり合う。排水口に吸い込まれていく汚れた渦を見つめていると、背後から気配が近づいてきた。
山田先輩が、また皿の山を抱えてやってきたのだ。彼女は一度立ち止まり、バケツの水を替える竜斗の丸まった背中を見下ろした。その目に、嗜虐的な光が灯る。
キラッ
「ねえ、三浦くん……」
甘く、そして危険な響きを含んだその声に、他の部員たちが手を止めた。
「秋山さんって誰?……君の彼女?」
竜斗は答えようと口を開いたが、山田先輩は隙を与えなかった。彼女はカウンターに身を乗り出し、獲物を追い詰めた猫のように笑みを深める。
「とぼけた顔しなくていいわよ。二人の『物語』はもう聞いてるんだから」彼女は指で髪を弄びながら歌うように言った。
「クラスの人気者の明るい子が、根暗で孤独な少年を追いかける……まるで安っぽい恋愛ドラマの脚本みたいじゃない、ねえ、色男さん?」
そのあだ名は、石礫のように竜斗を打った。
ガーン……
(……色男、だと?)
こめかみに青筋が浮かぶ。恥ずかしさではない。裏切られたという確信に、血液が冷えていくのを感じた。
ギギギ……
錆びついた機械のようなぎこちなさで、竜斗は首を左に向けた。
さっきまで隣で掃除をしていた武が、突然、タイルの壁の見えない汚れを落とすことに全精力を注ぎ始めていた。
ヒュ~ヒュ~♪
震える唇で調子外れな口笛を吹き、視線は天井に固定されている。竜斗の殺意に満ちた視線を、アカデミー賞級の演技力で無視していた。
「で、どうなのよ、恋する色男くん……」山田は張り詰めた沈黙を楽しみながら追撃した。「否定するの?」
◇
水着売り場で、由美の友人たちが声を揃えた。それは世界で最も明白な真実であるかのように。
「あんたの彼氏でしょ。三浦竜斗」
**ボンッ!!**
真琴の顔が爆発したかのように赤く染まった。ハイビスカスの赤さえも霞むほどだ。言葉は喉で詰まり、ショックで息ができない。
同時に、湿気た厨房で、竜斗はわずかに目を見開いた。
チャプン……
バケツの水が溢れそうになる。
そして、二つの異なる場所で、正反対の状況下で、全く同じ言葉が完璧なシンクロで響いた。
「「僕/あたしたちは、付き合ってない」」
二人は即座に、断固として答えた。
店では、少女たちが意味ありげな視線を交わし、服の間に隠れたがっている真琴を追求する目で見る。
厨房では、山田先輩と部員たちが、果てしない疲労を湛えた目で先輩を見返す無気力な少年を凝視していた。
次の質問は、由美の友人たちからも、マネージャーからも、容赦なく放たれた。
「「じゃあ、あんたたち何やってんの?」」
おはようございます、こんにちは、こんばんは、わるです!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと幸いです。皆様の応援が執筆の大きな励みになります。
またねー!! ヾ( ̄▽ ̄) Bye~Bye~




