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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第2巻 - 居場所となった声
34/40

第34話「距離と約束」

 茜色と紫が混ざり合った空が、学校の坂道を東から西へと染め上げていた。バス停の近く、スナックコーナーから漂う揚げ物の匂いと、夕暮れ特有の湿った空気が混ざり合う中、街灯が目を覚ます。


 ジジジ……


 低い羽音のような音を立てて、人工の光が灯り始めた。太陽が支配していた空間を塗り替えるように、夜が頭上に降りてくる。


 アスファルトに残る熱気とは対照的な、冷たくて甘いアイスの味を感じながら、その不確かな時間を歩く。


 二人で。


 笑いながら。


 それは世界にとっては取るに足らない、ちっぽけな瞬間だった。けれど、彼らにとっては確かに「重み」のある時間だった。


 そして、時は流れる。


 かつては遠かったその喧騒は、孤独を愛する少年の日常において、もはや絶え間ないノイズとなっていた。



 放課後の練習は、避けては通れないルーチンと化していた。竜斗はサイドラインに立ち、バインダーを片手にコーチと共にデータを記録する。誰が一番速いか、誰のシュート精度が高いか。それは分析的で、安全な――少なくともそうあるべき――作業だった。


 だが、あの先輩が新入生に仕掛ける「いたずら」という不確定要素が存在する。


 肩にのしかかる蒸し暑さ。肌にまとわりつくような疲労感。その時だった。


 バシャッ!!


 突然の熱衝撃。冷たい水が背中を伝い、シャツの襟から侵入して背骨を一気に駆け抜ける。


「あはははっ!」


 カランカランと氷が鳴るような、先輩の澄んだ笑い声が重苦しい空気を切り裂いた。周囲からは部員たちの爆笑と、いくつかの羨望を含んだ視線が混ざり合う。竜斗は肌に張り付く濡れた布の感触にため息をつき、まるで世紀の大偉業を成し遂げたかのように笑う先輩を見上げた。


(……勘弁してくれ)



 授業の内容は密度を増していた。テストという重圧が近づき、夏と夏休みの到来を告げている。


 森田先生は自習時間でさえ、クラスの秩序を保つのに苦労していた。


 ガタガタ……


 机を引きずる音が床を擦り、竜斗の耳を引っ掻く。あちこちで小さな勉強会が結成され、教室は重なり合う声で蜂の巣のようになっていた。隣には、長い髪と白いカチューシャをした南の静かな気配。それはもう日常の風景だ。そして当然のように、真琴、由美、その友人たちがその塊に合流してくる。


 ワヤワヤ……


 他の男子からすれば、それは羨望の光景だろう。女子に囲まれ、注目の的になること。だが竜斗にとって、それは単なる「無給の過重労働」でしかなかった。家庭教師の真似事は彼の忍耐を試していたが、それでも彼が本気で彼女たちを追い出すことはなかった。



 夜の帳が下りると、家の空気は微妙に変化する。


 トントン、トントン……


 包丁がまな板を叩くリズミカルな音。ショートカットの髪をした咲が、キッチンの壁の陰から半分だけ顔を出して兄の背中を見ていた。音はいつもと同じだ。


 けれど、何かが違っていた。


 竜斗が振り返り、妹の不審そうな視線に気づく。彼の顔には相変わらずの無気力さと、疲労の色濃いくまがある。だが、咲は気づいていた。


 兄の瞳から、あの「絶対的な虚無」が消えていることに。そこに巣食っていた深淵が後退し、弱々しくも、確かに存在する光が灯っていた。


「……なに?」


 彼が咲に微笑む。シンプルで、嘘のない仕草。


 ドキン。


 咲は胸が軽く締め付けられるのを感じた。



 グラウンドでは、生徒たちが走るたびに土煙が舞い上がっていた。サッカー部の練習は過酷さを増している。先輩は木陰に劇的に倒れ込み、手で顔を仰ぎながら猛暑に文句を垂れていた。コーチの枯れた怒号が響く中、竜斗はその横で時計の針を睨み、タイムを計測している。


 校舎の廊下から、足を止め、その光景を横目で分析している男がいた。


 佐藤健太だ。彼の視線は竜斗に固定されていた。


 ジーッ……


 健太の目が細められる。そこにあるのは好奇心と、怒りや嫉妬とは無縁の冷徹な分析。他の連中が見落としているかもしれない「何か」を、彼は見ていた。バインダーを持つあの少年の目は、以前は世界に対して死んでいた。だが今は、違う焦点フォーカスを持っている。疲弊しているが、生きている。


「おーい、健太!」


 涼平とひろが手を振りながら近づいてくる。健太は竜斗から視線を外し、自分の結論を胸の内にしまい込んで、友人たちの方へと歩き出した。



 昼休み。


 廊下の喧騒がこもって聞こえる、校舎の隔離された一角で、竜斗と真琴は勉強していた。


 バサッ。


 彼女がノートを掲げ、子供のような誇らしげな顔を見せる。竜斗が出した問題を、彼女は正解していた。


「ほら、見た!?あたしだってやればできるんだから!」


 彼女はノートを膝に置く。竜斗は身を乗り出し、特定の公式を指差して、なぜ正解したのかの論理ロジックを説明し始めた。


「ここの部分、ちゃんと理解してる?」


 彼が尋ね、顔を向ける。その動きに合わせて視線が上がり――真正面から、彼女のエメラルド色の瞳とぶつかった。


 ピタッ。


 一瞬、時間が止まった。距離が近すぎる。彼女のシャンプーの微かな香り。肩から伝わる体温。


 カァァァッ……


 二人の頬が同時に、激しく朱に染まる。彼らは同時に視線を逸らし、「ゴホン」と咳払いをすると、早鐘を打つ心臓の音をごまかすように、過剰なほど堅苦しい口調で勉強の話に戻った。



 夕日が病室の窓から侵入し、白い壁と清潔なベッドを黄金と琥珀色アンバーに染めていた。


 福実は微笑んでいた。青白い顔を照らす、穏やかな笑み。ドアが開く音に、彼女の視線が吸い寄せられる。


 ガララ……


 警備員の制服を着たままの賢進が入ってきた。服には土の汚れがあり、疲れているように見えたが、その顔に浮かぶ照れくさそうな笑顔が彼の幸福を物語っていた。そのすぐ後ろから、竜斗と咲が入ってくる。


「お母さん!」


 ダッ、ギューッ!


 少女はためらうことなく走り出し、母親の腕の中に飛び込んだ。殺風景な空間が、家族の体温で満たされていく。



 日が週になり、週が月に溶け込んだ。気づけば、期末テストが終わっていた。夏休みまで、あと一週間。


「お前たちはよくやった。地区大会の決勝まで進んだんだ。悔しいのはわかる。敗北の痛みは現実だ。だが、落ち込んでいても何も始まらない!」


 佐藤先生の言葉が部室に響く。チームは地区大会の決勝で敗れていた。生徒たちの沈黙は重く、後悔に満ちている。


「だが!」


 先生の声がトーンを上げ、憂鬱を打ち破る。


「夏休みの間、強化合宿への招待が来ている!」


 ザワッ……


 視線が上がる。悲しみが好奇心に入れ替わる。


「東京へ行き、日本でも有数の強豪校と合同練習を行う!」


 オオオオオオッ!!


 爆発的な歓声。東京、大都会、最強のチーム。夢のような響き。


「注目!」


 先生がその熱狂を断ち切る。


「行けるのは、期末テストで赤点を免れた者だけだ!追試になった奴はここに残り、補習授業を受けてもらう!」


 ガーン……


 歓喜の叫びが、阿鼻叫喚の呻き声に変わる。何人かは顔を歪め、低空飛行した点数の恐怖が頭上を旋回していた。先生が説明を終えると、キャプテンが引き継ぎ、ピッチの上だけでなくノートの上でも勝利を目指せとチームを鼓舞した。


 竜斗はそれを遠くから眺めていた。目は遠くを見ている。


(東京、か……)


 何週間も家を空ける。安全な日常から離れる。まともに所属しているわけでもない部活のために。それは、彼が望むものではなかった。


「三浦くん」


 低い声が彼の注意を引く。


「佐藤先生」竜斗が呟く。選手たちを解散させた先生が、近づいてきた。


「君の事情は知っている」


 彼は声を潜めた。大人の男の視線が、重みと理解を持って竜斗の驚いた目を見下ろす。


「君の父さんとも、賢進さんとも知り合いでね。君が背負っているものの重さは理解しているつもりだ」


 その声は真剣で、冷やかしの色は一切なかった。竜斗は言葉が喉に詰まるのを感じた。


 ポン。


 先生の大きくて重い手が、少年の肩に置かれる。


「急な話だし、賢進さんも会うたびに君のことを気にしていた」竜斗が驚いて顔を上げる。佐藤先生は穏やかな、父親のような笑みを浮かべていた。「無理に東京へ行けとは言わない」


「だが、私としては行ってほしいと思っているよ、三浦くん」先生は腕を組んで言った。「この小さな街を出て、違う景色を見る。違う空気を吸う。それは君のためになるはずだ。……同じ壁ばかり見ていると、世界は小さくなりすぎてしまうからな」


 竜斗はうつむいたままだった。先生の意図はわかる。そこには優しさがあった。教育者の義務を超えた、純粋な配慮。


「……理解しました、先生」竜斗は低く、しかしはっきりとした声で答えた。「お気遣い、感謝します。ですが……行かないという選択を許してくださり、ありがとうございます」


 先生は長く息を吐き、少年の静かな頑固さに降参したようだった。


「わかった。……だが、夏の間ずっと立ち止まっているんじゃないぞ」


 竜斗は頷いた。肩の荷が下りた気がしたが、代わりに奇妙な空虚感がその場所を占領していた。



 沈みゆく太陽が地平線を燃やし、雲を鮮やかな赤から紫へと滲ませていた。グラウンドは下校時刻特有のオレンジ色の光に包まれ、ゴールの影が土の上に長く伸びている。


 竜斗はフィールドの端で、乾いたタオルを回収していた。


 ザッ、ザッ……


 歩くたびに、硬いプラスチックの籠が足に擦れる。樟脳しょうのう、踏まれた芝、そして柔軟剤の混ざった匂い。部活終わり特有の、喉の奥に張り付くような空気。彼は風で落ちたタオルを拾おうとかがんだ。


「で?佐藤先生からフリーパスをもらったわけ?」


 上から、女性の声が降ってきた。竜斗はゆっくりと体を起こし――あの先輩と出くわした。彼女は腰に手を当ててそこに立ち、常に内輪ネタを隠しているようなニヤリとした笑みを浮かべている。


「……聞いてたんですか」竜斗は先輩を直視せず、タオルを籠に放り込みながら尋ねた。


「聞こえないわけないでしょ?私は地獄耳なんだから……」彼女は肩をすくめ、演劇がかった仕草で言った。


「そうですか……」


「おーい!もっと真剣に反応しなさいよ!」彼女は抗議し、下ろした拳を振った。


 竜斗は疲労の滲む顔で彼女に向き直った。「真剣ですよ……たぶん」


「はぁ~~~~ん……」彼女は不満げに長い唸り声を上げ、疑いの眼差しで顔を上げた。その視線に、竜斗はわずかな苛立ちを覚える。


「ま、いいけど」彼女はきびすを返し、再び肩をすくめた。「そういうことにしといてあげる」


「諦めるのが早いですね、先輩」


「諦めてないわよ」彼女は肩越しに彼を見て言った。「君はあくまで助っピンチヒッターだしね。それに、もう部活に無理やり入れられたわけだし。これ以上強制するのは、私たちがフェアじゃない」


 竜斗は立ち止まり、彼女を見つめた。やがて視線はグラウンドへ、遠くの芝生でクールダウンをしている選手たちへと移る。


「そうですね……」


 彼は彼女に、というより自分自身に言い聞かせるように呟いた。視線の先には、自分をこの状況に引きずり込んだたけると颯太がいる。


「所詮、ただの部活ですから」


 彼は彼女の横を通り過ぎ、置き去りにした。視線は足元の踏み固められた土に落ちている。


「その『クールな主人公』みたいなポーズ、ホントに似合うわねぇ、三浦くん……」


 彼女のからかうような声が背中に届く。口元を手で隠して、いたずらっぽく笑っているのが想像できた。「クラスの女子たちはイチコロなんでしょうね!」


 竜斗の唯一の返答は、純粋な精神的苦痛アゴニーを浮かべた表情だった。


 タタタッ。


 背後から駆け足の音がして、すぐに彼女が追いついてくる。二人は並んで出口へと歩き出した。


「君がいないと、キツくなるわね」


「どうも」


「でも、合宿って結構楽しいのよ?」


「でしょうね」


「後で行かなかったこと、枕濡らして泣かないでよ?」


「泣きませんよ……」

おはようございます、こんにちは、こんばんは、わるです!


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと幸いです。皆様の応援が執筆の大きな励みになります。


またねー!! ヾ( ̄▽ ̄) Bye~Bye~

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