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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第2巻 - 居場所となった声
32/40

第32話「答えの不協和音」第一部

「三浦竜斗です。よろしくお願いします……」


 少年の声は低く、一本調子で、熱意など微塵も感じさせない。彼は腰を軽く折ったが、それは単にプロトコルを遂行するための機械的な動作に過ぎなかった。


 職員室での衝動的な決断から、すでに一日が経過していた。他の生徒たちが放課後の自由を謳歌しながら校門をくぐる中、気だるげな瞳をした少年は、校舎裏の土埃舞うグラウンドでサッカー部の部員たちと対峙していた。


 数十人の男子生徒の声が、ひとつの塊となって轟く。それは圧倒的なエネルギーの波となり、竜斗を一歩後ずさりさせた。


「「「頼んだぞーっ!!!」」」


 彼らが一斉に頭を下げる。 その集団的かつ熱烈な歓迎の矛先となり、竜斗の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。


(……眩しすぎる)


「三浦君はマネージャーとして入部することになった。練習のサポートや準備、技術的な部分を手伝ってもらう」顧問の佐藤先生が、よく通る声で宣言した。彼が竜斗の肩に手を置くと、その体は瞬時に硬直した。「少し大人しい奴だが、仲良くしてやってくれ」


 先生は白い歯を見せて笑い、部員たちに向かって親しげにウィンクをした。場の空気を和ませるためのその仕草は、しかし逆効果だった。竜斗は今すぐこの場から逃げ出し、教室の隅にある自分の聖域に引きこもりたいという衝動に駆られた。


(なんで僕、昨日あんなこと引き受けちゃったんだろ……)



 グラウンドの喧騒から離れた、外の水道場。


 竜斗は規則的な動きで白いタオルを絞っていた。背後で飛び交う部員たちの野太い掛け声とは対照的に、排水溝へと吸い込まれていく水音と、薄汚れたタイルに当たる飛沫の音が、奇妙な安らぎを与えてくれる。それは、彼を取り巻く現実をわずかに遮断してくれるノイズだった。


(家でやってることと、大して変わらないな……)


 彼の瞳は焦点を失い、催眠的な反復作業に没頭していた。バケツからタオルを取り出し、濡らし、繊維が悲鳴を上げるまで絞り、空のバケツへ放り込む。


(そもそも、なんで濡れタオルなんか必要なんだ?まあ……確かに今日は暑いけど)


「もうすぐ夏か……」無意識のうちに、独り言が唇から零れ落ちた。


「そうね、もうすぐ夏ね」


 クルッ


 横から女性の声がした。竜斗がゆっくりと顔を向けると、そこには一人の少女がいた。上級生だ。彼と同じ体操着を身に纏っているが、その着こなしはどこか洗練されている。ショートカットの栗色の髪、うなじが見えるほど短いその髪型。前髪が目にかからないように留められたシンプルなピンが、彼女の活発さを物語っていた。


「入ったばかりでもう夏休みのこと考えてるの?三浦君」彼女――見知らぬ先輩は、タオルを絞りながら優しく微笑んだ。その手つきは手慣れたものだ。


「いえ……」彼は曖昧に呟き、視線を水流へと戻した。手は自動的に次の布切れへと伸びる。「ただの独り言です、先輩」


「考えすぎは毒よ?たまには頭を空っぽにするのも大事」彼女の声色は軽やかだ。


「これくらいの作業じゃ、思考を埋めるには足りませんよ」彼女はフフッ、と短く笑った。


「そう?単純作業って結構退屈でしょ」


 竜斗は生気のない瞳で彼女を横目で見た。「そもそも、これ何のためにやってるんですか?」彼は蛇口から引き上げたばかりの、滴り落ちるタオルを掲げて見せた。ポタ、ポタとコンクリートに染みができる。


「何でだと思う?」彼女は楽しそうに問い返した。まるでちょっとした謎解きゲームを提案するように。しかし、竜斗は疲れた仕草で彼女を見つめ返すだけだった。クイズに興じる気力などない。


 先輩は彼の視線を一瞬受け止めると、悪戯っ子のように笑みを深めた。そして、彼の方へと歩み寄る。素早い動作で、彼女は竜斗の手から重たいタオルを奪い取った。彼がその意図を理解するよりも早く、湿った重たい布の塊が頭上から舞い降りてきた。


 バサッ


 視界が遮断され、突然の冷気が頭皮を襲う。


「こうするためよ。どう?スッキリしない?」冷たい雫が額を伝う。


「……髪が濡れて快適だとは思いませんが」彼は尊厳を取り戻すべく、タオルを剥ぎ取ろうと手を上げた。だが、先輩の手の方が早かった。彼女はタオルの端を掴むと、グイッと力を込めて下に引いた。竜斗の顔が強制的に下を向く。


「もう、三浦君ってば反応が薄いんだから!」


 ゴシゴシゴシ!


 鈴を転がすような笑い声と共に、彼女は猛烈な勢いでタオルを擦り始めた。冷たい水を含んだ布が容赦なく頭を揺らし、髪をぐしゃぐしゃにかき回す。


(帰りたい……)



 重くなったバケツを提げてグラウンドに戻ると、紅白戦の真っ最中だった。傾きかけた西日が、赤土の上に長い影を落としている。


「コーチの笛が鳴ったらね、あいつら獣みたいに走ってくるから」先輩は人差し指を立て、まるで自然の摂理を説くように言った。「だから、このタオルでクールダウンさせるの。あと、給水の準備もしなきゃ」


「自分のボトルくらい、自分で持ってこないんですか……」竜斗の声は虚無そのものだった。ボールを追いかける生徒たちの無尽蔵のスタミナを見るだけで、彼の肩は予期せぬ疲労で重く沈んだ。


「ふふふ。やっぱり三浦君って面白いわね」口元を手で隠し、彼女は心底おかしそうに笑った。


(何が面白いんだか……)


 社会的な居心地の悪さはあったものの、その午後はある意味、耐えられる範囲のものだった。胸の内に憎悪はない。あるのは諦めに似た疲労感だけだ。


 バケツを配置し、スポーツドリンクのボトルを並べ終えたその時だった。コーチの笛がピーッと鳴り響く。先輩の予言通り、部員たちが飢えた獣の群れのように殺到してきた。ただし、彼らの視線はほぼ例外なく、彼女に注がれていた。


 冷えたタオルとボトルを渡す竜斗に向けられるのは、儀礼的で中身のない質問だけだ。


「どう?慣れた?」


「やってけそう?」


 彼は最小限の頷きで応えながら、自分が風景の一部に溶け込むことを願った。


 しばらくして。グラウンドの脇にある太い木の木陰で、一つの肉体が芝生に崩れ落ちた。


 ドサッ


「あー、しんど……」安堵と疲労が入り混じった溜息。三浦武たけるの声は、まるでサッカーの神への哀願のように響いた。茶色がかった髪の少年は、木漏れ日が揺れる青空をぼんやりと見上げている。


「で、どうよ竜斗?やってみて」寝転がったまま、武が首を反らせて逆さまの世界を見る。その視線の先には、同じ木の幹に背を預け、膝を抱えて座る無気力な少年の姿があった。


「……思ってたよりは、悪くない……かも」竜斗は視線を森の方へ逸らしながら呟いた。


「だろ?」武は短く笑った。ガバッと勢いよく起き上がると、後ろに手をついて体重を支え、竜斗の横顔をじっと見つめた。


「なあ、いつかの体育の時間、ここで話したこと覚えてるか?」


 竜斗の視線が、目の前の少年に戻る。その表情には困惑が浮かんでいた。「授業が始まった頃のことか?」


「そう……」武は汗ばんだ顔を懐かしさで緩ませた。「たぶん四ヶ月くらい前かな。もっと昔のような気もするけど」


「ああ……」


「その時の話なんだけどさ……」武は声を潜め、共犯者のような囁き声になった。竜斗は眉をひそめ、さらに困惑を深める。「俺、秋山さんについて、なんか……無神経なこと言っただろ?」


「……言ってたような気もする」


「悪気はなかったんだ、マジで」武はバツが悪そうに視線をグラウンドの中央――上級生たちがマネージャーに群がっている場所――へと逸らした。「だから、個人的に受け取らないでほしいっていうか」


「どういう意味だ?」竜斗には、その論理が全く理解できなかった。


「ほら……俺の家で話したこと以外にもさ……」武の声はどんどん小さくなり、恥じらいの色が混じり始めた。「……グループワークした時とか」


「何の話をしてるんだ?」


「あーーもうっ!!わかれよ、お前!!」武は顔を真っ赤にして叫び、パニックと羞恥が入り混じった顔で、この鈍感な友人を睨みつけた。


「わからん……」


「だからっ……俺が昔、秋山さんに気があったってことがさ……俺たちの友情にヒビを入れたくないって言ってんの!」


「気があった?」竜斗はその言葉を反芻した。「それが、なんで僕に関係あるんだ?」


「だってお前ら、付き合ってんじゃん。そういうのって、男同士の友情を壊す原因になりがちだろ?」武はその言葉を、あたかも宇宙の真理であるかのように言い放った。


 その瞬間、竜斗の世界が停止した。葉を揺らす風の音も、遠くで響く部員たちの叫び声も、全てが遮断された。そこにあるのは、絶対的な静寂と、ホワイトノイズだけ。


「……ぼ、僕たちが……付き合ってる?」


 その問いかけはあまりに低く、信じられないという響きを帯びていた。


「えっ、違うの?」


「そんな関係じゃない」


 二人は無言で見つめ合った。とんでもない妄言を聞かされたという顔の竜斗。そして、ショックで口を半開きにした武。二人の「三浦」は、この会話が辿り着いた結末を理解できずにいた。


「お前の頭の中、一体どうなってるんだ?」

おはようございます、こんにちは、こんばんは、わるです!


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと幸いです。皆様の応援が執筆の大きな励みになります。


またねー!! ヾ( ̄▽ ̄) Bye~Bye~

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