第31話「帰り道の小さな寄り道」第四部
「もう言ったはずだ」
佐藤健太の声は毅然としていたが、その響きにはどこか表面的な軽さが漂っていた。
「離せ、彪」
茶色の髪をした少年、彪は、振り上げていた拳と、もう片方の手で掴んでいた竜斗の襟元をそのままに、困惑した表情で健太を見返した。
「マジで言ってんのか?」
「ああ」
健太は短く答えた。疲労の色が滲むその瞳は、少しも揺らぐことなく友人の目を見据えていた。
「チッ……」
彪が舌打ちをする。
だが、彼が拳を下ろそうと肩の力を抜いたその瞬間――鋭い女の声が空気を切り裂いた。
「や、やめてください!」
ビクッ
四人の少年の視線が、声のした方へと一斉に向けられる。その声は震えており、そのボリュームを出すのに相当な勇気を振り絞ったことが痛いほど伝わってきた。
その瞬間、健太の目が大きく見開かれた。直後、彼はバツが悪そうに顔を背け、罪悪感にその表情を曇らせて俯く。
「あ?誰だお前」
涼平が、頼りない足取りで近づいてくる少女の前に立ちはだかった。
「わ、私は……」
「南さん……君が出てくる必要はない……」
竜斗が彼女に焦点を合わせ、力なく呟いた。
南千尋。長い黒髪、子供っぽいフレームの眼鏡、そして前髪が目にかからないように留められた白いカチューシャ。その姿のすべてが「儚さ」を叫んでいた。
彼女は怯えながらも、少年たちの方へと歩み寄ってくる。唇は目に見えて震えているが、その瞳には身体の震えとは対照的な、強い決意の炎が宿っていた。
「み、三浦くんに……構うのをやめてください!」
「秋山だけじゃ飽き足らず……今度はこんな地味子かよ?」
彪が不満と嫉妬の混じった視線を竜斗に投げつけながら呟く。
竜斗は無関心に顔を背けた。(こいつが何を言っているのか、僕にはさっぱり分からない……)
「あぁ?で、俺たちが『嫌だ』って言ったら?」
涼平が彼女の行く手を完全に遮った。長身の金髪の少年が落とす影は、小柄な南の姿を飲み込んでしまうほどだ。体格差は倍近くあるように見える。
「どうすんだ?ママにでも泣きつくか?」
「おい」
健太が低い声で警告し、涼平に向けて手を上げた。
「冗談だよ、冗談」
健太の声色が変わったことに気づき、涼平は降参するように両手を上げて一歩下がった。
しかし、彪はようやく竜斗の襟から手を離したものの、その興味の対象はすでに変わっていた。彼は竜斗から離れ、南の方へと歩み寄る。
「お前、よく見りゃ結構可愛い顔してんじゃん」
ニヤリ
彪の唇が下卑た笑みに歪む。距離が縮まる。
少女の顔が一瞬で真っ赤に染まった。顎が震え、視線は助けを求めるように彷徨い、指先はスカートの生地を白くなるほど強く握りしめている。悲鳴は喉の奥で凍りつき、パニックにかき消されていた。
「お、お願いだから……み、三浦くんに意地悪するのはやめて……!」
「そんな陰気な奴のことは忘れてさ、俺と遊ぼうぜ。そしたら、もっと――」
彪の手がゆっくりと持ち上がり、南の腰へと伸びていく。
涙が浮かび始めた少女の怯えた瞳は、目の前の加害者を直視できず、地面へと落ちた。
その光景を見た瞬間、竜斗の目が見開かれた。
ドクン
普段、彼が自分自身に禁じていたはずの奇妙な感情が、体中を駆け巡った。
――怒り。
意思とは無関係に、足が一歩前へ出る。開いていた手が、強く握りしめられる。
瞼が震え、視界が鋭くなり、奥歯がギリリと音を立てた。
(なぜ、僕はこんなことをしている?)
もう一歩。
少女の目が、すがるように上げられた。しかし、彼女が見たのは竜斗ではなかった。
「あ?」
彪が息を詰まらせる。
ガシッ!
空中で、誰かの手が彪の手首を掴んでいた。それは骨が軋むほどの恐ろしい力で締め上げている。
涙目のままの南は、胸のつかえが取れたような安堵を感じた。
「もういい」
再び響いた健太の声。だが今度は、先ほどのような軽薄さは微塵もなく、重く沈んでいた。
「お、おい……落ち着けよ、健太……」
彪が痛みを誤魔化すように、引きつった笑みを浮かべて呟く。涼平が横目で健太を睨み、その表情を険しくさせた。
「やめとけ、彪」
健太の顔に浮かぶ本気の怒りを読み取り、涼平が口を挟む。
竜斗は足を止めた。握りしめていた拳の指がゆっくりと開き、緊張が解けていく。半開きになった口から、肺に溜まっていた熱い息が漏れた。心臓はまだ、肋骨を内側から激しく叩いている。
(僕は……今、何をしようとしていた?)
その思考が、霧がかかったように竜斗の頭の中で反響した。
バッ!
彪が強引に腕を引き、健太の拘束から逃れた。解放された手首を反対の手でさすりながら、彼は怒りと、認めたくない敬意が入り混じった複雑な視線を健太に向けた。
「……悪ぃ」
「……ああ」
健太がボソリと答える。
ほんの一瞬、彼と南の視線が交差した。少女は彼に、おどおどとした、けれど微かな笑みを向けた。その純粋な仕草に、少年の瞳が揺れる。彼はそれに耐えきれず、乱暴に視線を廊下の床へと逸らした。
成り行きを見守っていた涼平が、鼻で嘲笑うような音を鳴らした。
「行くぞ」
彼は二人の間を割って入り、肩で風を切るように歩き出した。まるで邪魔が入ったことなど大した問題ではないとでも言うように。その唇には、傲慢な勝利の笑みが張り付いている。
だが、前方に視線を向けた瞬間、その足が止まった。
「マジかよ……」
彼が独り言のように呟く。後ろにいた少年たちも、その視線の先を追った。
「次から次へと……湧いてきやがるな」
彪が顔を歪め、心底うんざりしたように吐き捨てた。
「――佐藤。お前からそんな言葉が出るとは思わなかったな」
男の声は穏やかだったが、そこには鋭利な刃物のような苛立ちが含まれていた。茶色の髪をした少年が、力強い足取りでこちらに向かってくる。
「二人とも、何かされた?南さん、竜斗」
その隣にいたもう一人の少年が問いかけた。短く切り揃えられた焦げ茶色の髪。その声は、この場の空気には不釣り合いなほど丁寧で落ち着いていた。
健太は彼らを横目で見やり、警戒するように目を細めた。
「お前らには関係ないことだ。三浦、山本」
「なんだと?」
三浦武の体が強張る。
「俺の友達に手を出そうとする奴がいるなら、それは俺にとっても『関係あること』になるけどね」
山本颯太が言った。声は依然として穏やかで、貼り付けたような礼儀正しい笑みが浮かんでいる。だが、その言葉には明らかな危険信号が点滅していた。
「やる気か、クソ野郎ども?」
彪が挑発に乗って前に出て、涼平の横に並び、戦線を強化する。
涼平もまた、獰猛な表情で二人を睨みつけた。四人の距離が縮まり、息が詰まるような圧迫感が廊下を支配する。ほんの少しのきっかけで、暴力が爆発しそうな空気が張り詰めた。
しかし――そのわずかな隙間に、一人の少年が割り込んだ。
「よせ。ここで揉めても、誰のためにもならない」
健太の声は冷静だったが、その瞳は深い疲労を映し出していた。
「俺の友達に手を出しておいて、タダで済むと思ってるのか?」
武が問う。一音一音に怒りが込められ、その視線は鋭い槍のように健太を貫く。
「そんなことしたら困るのはタケルの方だろ?次の試合に出られなくなる……僕は別に構わないけどね」
颯太が指の関節をポキポキと鳴らし始めた。
「今ここで、三人まとめてぶっ飛ばしてやるよ」
「あぁ!?」
「もう一回言ってみろ!」
涼平と彪が挑発に反応し、拳を固めてさらに一歩踏み出す。
だが、健太が右腕を上げ、物理的な壁を作ってそれを制した。
「お前らの言う通りだ」
健太は後から来た二人を見上げた。その敗北宣言に、彪と涼平が驚愕の表情で彼を見る。
「……悪かったな」
ゆっくりと、健太は頭を下げた。謝罪と服従の礼。
チッ
武が不満げに舌打ちをする。
「謝る相手、俺たちじゃないんだけど……」
颯太が呟く。その顔から笑みが消えていた。
「……そうだな」
健太は答えた。彼は振り返り、この状況の被害者たちと向き合った。
「おい……」
「マジかよ、お前……」
涼平と彪が、友人の理解不能な行動に信じられないという声を上げる。
「ち――南さん、三浦……悪かった」
彼は低い声で言い、再び竜斗と少女に向かって頭を下げた。
竜斗は動かなかった。頭を上げた健太が、俯いたまま武と颯太の横を通り過ぎ、歩き去っていくのを見送った。友人たちも、苛立ちと不満を口にしながら、説明を求めて彼の後を追うように走っていった。
竜斗は隣にいる少女に視線を移した。彼女は手の甲で涙を拭っていた。
「健ちゃん……」
彼女の囁きは、誰にも聞こえないほど微かなものだった。
竜斗の視線が前に戻る。二人の少年が近づいてきた。
「大丈夫?」
颯太が尋ねる。その肩から緊張が抜けていた。
「はい……ありがとうございます」
南が答えた。涙の跡を拭い去り、彼女は無理やり弱々しい笑顔を作ってみせた。
「はぁ……マジで危なかった……」
武がため息をつき、首の後ろをさすった。「お前、本気であいつらとやり合う気かと思ったぞ……」呆れたような視線が颯太に向けられる。
颯太はただ笑って、自然な仕草で腰に手を当てた。「学校の中でやるわけないでしょ!ま、やりたかったのは本当だけどね」
「……そんなこと、しなくてよかったのに」
竜斗が呟いた。その声は空虚で、エネルギーが欠落していた。
「する必要あっただろ」
武が即答する。その顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。
(あった?退学になっていたかもしれないのに……)
「竜斗」
颯太が優しい声色で切り出した。「俺、友達がバカにされて黙っていられるほど、人間できてないからさ」穏やかで優しい笑みが、彼の表情を明るく照らす。
「友達……?」
竜斗の口から、その単語が異物のように転がり落ちた。
「えっ、俺たち友達じゃなかったの?!」
ガーン!
颯太が劇的なリアクションで体をのけ反らせ、泣き真似のような顔を作る。その大げさな様子に、武が腹を抱えて笑い出した。
(友達?)
竜斗は二人を見つめた。
(彼らも……僕の、友達なのか?)
「あーっ!やべぇ、部活!」
遠くから響く誰かの叫び声が、奇妙に軽くなったその場の空気を破った。
「武、行かないと」颯太が瞬時に姿勢を正し、窓の外を指差した。サッカー部がアップを終えようとしている。
「マジだ」武が頷き、竜斗と南に向き直った。「じゃあな、また明日」
南はまだスカートを握りしめたままだが、ずっと安堵した表情で何度も頷いた。竜斗はただ、短く首を縦に振っただけだった。
走って遠ざかっていく颯太と武の背中、そしてぎこちないお辞儀をして去っていく南を見送り、竜斗は再び一人になった。
静寂が戻ってくる。だが不思議と、いつもの肌寒さは少し和らいでいるように感じた。彼は自分の掌を見つめた。先ほど、危うく彪を殴りそうになったその手を。
(答えは……)
フゥー……
彼は重い息を吐き出した。もう、先送りにはできない。
ゆっくりとした足取りで、彼は他の生徒たちとは逆の方向へと体を向けた。目指す先は――職員室。
◇
その音は、信じられないほどいつも通りだった。
部活動に励む運動部の生徒たちの掛け声。文化部の部室から漏れる微かな音。まだ帰宅していない教師たちが、机の上で書類を広げながら呟くぼやき。古びたエアコンの駆動音。
そして――蝉の声。
ジジジジジジ……
竜斗は職員室の入り口で立ち尽くしていた。中では、まだ残務処理に追われる教師たちが、終業時間を過ぎても帰れない理不尽さを嘆いているのが見える。
「おや、三浦くん!」
ガタッ
無気力な少年と目が合うなり、聞き覚えのある森田先生の声が弾んだ。
先生は椅子から立ち上がり、山積みになったノートを計算づくの乱雑さで横に押しやった。手の甲で額の汗を拭いながら、入り口の方へと歩いてくる。
「部活の返事、聞かせてくれるのかね?」
森田先生は、疲労の滲む目尻を下げ、期待に満ちた笑みを浮かべて問いかけた。
竜斗は磨かれた床に視線を落とした。答えなら、喉元まで出かかっている。いつも通りの答えだ。自分を安全圏に留め、空気のように目立たせず、あらゆるトラブルから遠ざけてくれる「拒絶」。
「先生、そのことなんですが……」
竜斗の声は、抑揚のないモノトーンだった。
「僕には、そんな時間――」
(ない)
しかし。その言葉は喉の奥で詰まり、窒息した。
シーン……
突如として、ペンの走る音やエアコンの唸りが遠のき、職員室の喧騒が「そこにはないはずの残響」によって塗り替えられた。
『えっ、俺たち友達じゃなかったの?!』
ドクン
颯太の信じられないという声。泣き出しそうな、それでいてどこか滑稽な顔が脳裏にフラッシュバックする。その隣で大笑いしていた武の姿。彼らは何のためらいもなく、竜斗と危険の間に割って入った。そんなことをしても、彼らには何の得もない。あるのはトラブルだけだ。それなのに、彼らはそうした。
『あるいは……』
次に浮かんだのは、真琴の姿だった。彼女の瞳はいつも鋭すぎる。竜斗が築き上げた心の壁など存在しないかのように、その奥を見透かしてしまう。
『心の底では、本当は断りたくないんでしょ?』
竜斗は体の横で拳を握りしめた。「惰性」は心地いい。「孤独」は安全だ。だが、その安全地帯は今、ひどく冷たく、無菌室のように空虚に感じられた。
そして――昨日の記憶が、より柔らかく、静かに心の奥底から浮かび上がってきた。
フワッ
病院特有の消毒液の匂い。花瓶の中で枯れかけた花が放つ、甘く切ない香り。彼の頬に触れた、母の壊れそうなほど細い手。
『竜斗……あなたはもう十分、ここで時間を費やしてくれたわ』
母の声は弱々しかったが、そこには計り知れない重みが込められていた。
『学校という場所はね、あなたくらいの年齢の子にとって、すごく大切な時間なのよ』
ギュッ
竜斗の胸が締め付けられた。鈍い、けれど熱を持った痛み。
彼は生唾を飲み込み、「拒絶」の言葉を胃の底へと押し戻した。顔を上げ、森田先生を真っ直ぐに見る。
先生は竜斗の躊躇いを感じ取り、徐々に笑顔を消し始めていた。「いいえ」と言われる準備をしているのだ。
「分かったよ、三浦くん。もし君にとって負担なら――」
「入ります」
遮るような言葉は、唐突だった。竜斗の声は、彼自身が意図していたよりも少しだけ掠れていた。
森田先生が驚きに瞬きをする。「え?」
「部活です」
ハァ……
竜斗は長く息を吐き出した。自分自身との戦いに負けたかのように、肩の力が抜ける。
「僕、参加します」
二秒間の沈黙が場を支配した。
バンッ!
「よし!そうこなくっちゃな!」
静寂を破ったのは、竜斗の肩を叩く森田先生の重い手のひらだった。先生は大声で笑い、周囲の教師たちから白い目で見られていることなど気にも留めない。
「君なら絶対後悔しないよ、三浦くん!すぐに顧問に伝えておくからな!」
「はぁ……」
竜斗は曖昧に答え、その決断の重みがずっしりと肩に乗るのを感じた。
彼は回れ右をして、職員室を出た。廊下はいつものように無人だった。だが今、その静寂が運んでくる音――風の音、部室から漏れる微かな声、遠くから聞こえる運動部の掛け声。
そして、蝉の鳴き声。絶え間なく、耳障りで、けれどどこか懐かしいその羽音は、今は遠くにあるように感じられた。
(僕は……何をしてしまったんだ?)
彼は自分の手のひらを見つめた。
久しぶりに歩く帰り道。その景色は、昨日までとは少し違って見えた。怖い、かもしれない。だが――否定しようがないほどに、その道は「孤独」ではなかった。
おはようございます、こんにちは、こんばんは、わるです!
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