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第3章「聖域の侵略者」第一部

 森の湿った匂いをふわりと運んでくる夜風が、竜斗の顔を叩いた。日中、あれほど容赦なかった夏の太陽も、ここ松本を囲む山々では、夜になると肌を刺すような寒さをもたらす。高度と孤独を常に思い出させるかのように、頬は火照り、鼻の先がピリピリと痛んだ。


 彼が登っていく坂道は、暗闇の中にぽつんと続く、急で寂しい道だった。片側には、得体の知れない囁きを放つ影の壁のように森がそびえ立ち、もう片側には、手入れの行き届いた庭が夜に飲み込まれ、しんと静まり返った大きな家が点在している。街灯はまばらで、門の前だけゆらゆらと揺れる光の水たまりを作り出し、道の大部分は深い闇にどっぷりと浸かっていた。


 歩き疲れた足が重かった。彼はいつものように足を止め、振り返った。眼下には、遠い光の絨毯のように街が広がっている。山々の黒いシルエットの間に佇む、静かで穏やかな輝き。それはほとんど取るに足らない、ありふれた光景だった。だが彼にとって、これは一つの儀式だった。太陽が人工の光に降伏した頃、いつも立ち止まるひととき。遥か遠くから眺めるそれに、奇妙な安らぎと、どこか所属しているような感覚を覚えるのだった。


 竜斗はリュックのストラップをぐっと握り直し、再び歩き出した。最後の坂は少し緩やかになり、道は木々の間に消える前になだらかになる。そしてそこ、森の入り口に、彼らの家はあった。中心部から遠く離れた、どこか場違いな古風な造りの家。この場所は、近くの駐在所で森林警備隊員として働く賢進の仕事の都合だった。


 磨かれた石の低い塀、土に埋め込まれた不揃いな敷石の小道、そしてその奥に、木製の玄関ドア。家の中から明かりが漏れていた。(もう八時過ぎか…)と彼は思う。(咲はもうとっくに帰っているはずだ。)


「ただいま…」


 その言葉は、玄関の虚空に囁くように、か細く響いた。


 上がり框に腰を下ろして靴を脱ぐと、嗅ぎ慣れた匂いが鼻をくすぐった。カレーだ。紛れもない、試行錯誤の匂い。


「咲、料理の練習か?」


 スリッパを履きながら、誰もいない廊下に問いかける。


 右に曲がって台所へ向かうと、その光景が彼の推測を裏付けた。そこにいたのは、妹の咲。大きな黒い鍋の前にじっと立ち尽くしている。カレーの匂いがぷんぷんと濃く漂っていたが、竜斗の注意を引いたのは、彼女の凍りついたような表情だった。


「ち、違うからっ!」彼女は両腕をぶんぶんと振り回し、大げさに否定した。


「僕には、どう見てもその通りにしか見えないけどな…」彼は感情のこもらない声で返し、カウンターに買い物袋をどさっと置いた。


「家庭科の授業で!そう!そうなの!カレーを作って学校に持って行くの!」咲は声を震わせ、必死の無実を装って目をカッと見開いた。


「普通、カレーは授業中に作るんじゃないのか?」竜斗は冷静に反論した。


「特別授業なの!本当だってばー」


 グゥゥゥゥ。


 彼女の胃から響いた盛大な裏切りの音が、台所の静寂を破り、その嘘を真っ二つに断ち切った。


 彼は彼女を横目で見る。咲は一瞬彼をギロリと睨みつけた後、捕まったのがよほど悔しいのか、ぷいっと顔をそむけた。


「チッ!!!」


「やっぱりな…」と彼は呟いた。


「兄さんが遅いのが悪いんだから!もっと早く帰ってくればいいのに!」


「…ごめん」


 その言葉は、呼吸と同じくらい自然な防御メカニズムとして、ただ反射的に口から出た。家に入ってから、彼の表情は一切変わっていない。目も顔も、相変わらず空っぽで、生気がないままだった。


 竜斗は鍋に近づき、きれいなスプーンを取ってルーを一口味見した。


「…別に、そんなに悪くない」彼は言った。「あとは僕がやるから、もういいよ」


「むぅ…」彼女はまだ不満そうに頬をぷくーっと膨らませ、唸った。


「袋にポッキー、入ってるぞ」


「やったぁ!」


 猫が鳥に飛びかかるように、咲は竜斗がカウンターに置いた袋に飛びついた。彼女の小さな手は、約束されたお宝を探して、犬が穴を掘るような勢いでビニール袋の中をガサゴソとかき回した。


 彼は一瞬、後ろを振り返って彼女を見た。彼女の頭上では、壁掛け時計が八時半近くを指している。(そろそろ賢進も帰ってくる頃か…これを仕上げてしまわないと)竜斗は心の中で思った。


「咲、風呂はもう入ったのか?」


「うん!」彼女は口をもぐもぐさせながら、チョコレートをほとんど噛まずに飲み込んで答えた。


「おい…全部食べるなよ。夕飯が食えなくなるぞ…」


「食べるもん!」彼女はそう言い返すと、お菓子の箱をぎゅっと掴み、居間へとタタタッと走っていった。台所には、鍋がグツグツと静かに煮える音だけを残して。


◇ ◇ ◇


 台所の時間は、竜斗の動きに支配され、まるで独自のペースで進んでいるかのようだった。彼の動きは、いつもの無気力さとは著しく対照的な、熟練の域に達するほどの効率の良さだった。ヤカンのお湯はぐつぐつと沸騰し、研がれた米の上に注がれるのを待っている。野菜はトントンと小気味良いリズムを刻み、ためらうことなくまな板の上を滑る包丁によって切られていく。咲が作りかけたルーをかき混ぜていると、スプーンが不揃いで雑に切られた豚肉の塊をすくい上げた。


 その夜、初めて竜斗の無感動の仮面に、目に見える反応が走った。彼の下唇が、ほとんど知覚できないほどぴくりと痙攣した。


 竜斗は肉の塊を掬い上げ、余分なルーを拭う。フォークで肉を押さえ、彼は再びそれを切り始めた。今や豚肉の切り身は細く、正確で、均一だった。たとえ一度無礼を働かれた豚肉であっても、せめて立派な最期を与えてやることができる、とでも言うように。


 米が炊きあがり、主な具材が煮える頃、彼は冷蔵庫を開けた。かがんで野菜室を引き出す。居間からは妹の笑い声が聞こえ、安らかな気持ちがすっと胸に広がった。彼は自分が酷使されているとも、利用されているとも感じていなかった。それは日常であり、彼の責任ではあるが、重荷ではなかった。心の底では、もし必要なら、咲も彼女なりに助けてくれるだろうと分かっていた。


 冷蔵庫から野菜の袋を取り出しながら、彼は居間に目をやった。遠くに見える咲のシルエットは、テレビの光に釘付けになっている。彼はネギ、パセリ、そしてピーマンをタタタタッとリズミカルに刻み始めた。現行犯で捕まるのを恐れるように、彼はもう一度ちらりと見た。彼女がソファの上で向きを変え、彼の視界から消えた瞬間、竜斗は動いた。とんでもない速さで、彼は刻んだ野菜をざっと煮えたぎる鍋に流し込んだ。


 人参、じゃがいも、大根。咲はこれらに文句は言わない。だが、彼女が「苦い野菜」と呼ぶ他の野菜は、彼女の天敵だった。だからこそ、竜斗はいつもそれらを密かに彼女の食事に混ぜ込むために、ほとんど目に見えないほど細かく刻むのだった。


 だが、任務はまだ終わっていない。今、彼は自身の犯行の証拠を綺麗さっぱりと隠滅する必要があった。彼はさっとまな板と包丁を洗い、彼の小さな捜査官がそれらを目にする前に、残りの野菜を冷蔵庫にしまった。


 玄関のドアが開く音がして、彼はびくっと肩を揺らした。


「うわー、すげぇいい匂いだな!!!」


 賢進の男性的でよく響く声が家中にこだました。


「お父ちゃん!」咲が叫び、彼女の足音がだだだっと木の床を鳴らして、居間から玄関へと向かう軌跡を物語っていた。


「おかえり…」竜斗もまた、布巾で手を拭きながら玄関へ向かった。


「ただいま!おっと!」賢進は靴を脱ぐ間もなく、娘からの固くて力強い抱擁に迎えられた。咲が彼を離すと、彼は竜斗に目を向けた。賢進の視線が、じっと少年に注がれる。彼はまるで犯罪現場で決定的な証拠を分析する探偵のように、少し首を傾げながら身を乗り出した。「竜斗、今日何かあったか?」


 その突然の問いに、竜斗はどきりとした。賢進がこのように単刀直入な質問をすることは滅多にない。そして今回は、まるで竜斗の空っぽの仮面を見透かすかのように、彼の口調はよりオープンで、好奇心に満ちていた。正直なところ、それは不思議なことではなかった。


「別に…今日、学校で何人かと話しただけだから…」少年は賢進の視線を受け止めながら答えた。いつものように、彼の表情は空虚だったが、その佇まいには何か変化があった。


「そうか!」賢進はにっと笑い、その大きな手を少年の頭の上に置くと、わしゃわしゃと力強く髪をかき混ぜた。竜斗は不快感を示さず、文句も言わず、身を引くこともしなかった。ただ、その仕草を受けながら、じっと立っていた。「今日はなんだか嬉しそうだな!」賢進は、大きく暖かい笑顔を顔に浮かべたまま言った。


(不思議じゃない…結局のところ)その考えが竜斗の心に浮かんだ。静かな確信だった。(あの人は、僕の父親、なんだから)


◇ ◇ ◇


「んんーっ!うめぇ!」賢進の声が台所に響き渡り、夕食への満足感をこれでもかと示していた。「福実の飯を思い出すなぁ!」彼は竜斗の方向にスプーンを向けながら叫んだ。


「まあ…料理を教えてくれたのは、母さんだから…」竜斗は小声で答えた。一瞬、若く、笑顔の母親が、彼の小さな手を導いて米を研いでいた光景が、彼の胸をじんわりと温めた。


 賢進は、穏やかで心から安堵した笑みを浮かべた。


「ねえ、お父ちゃん…」咲の声が、平和なひとときを断ち切った。「お母ちゃんはいつ帰ってくるの?」その問いは、ただ純粋に母親を恋しがる幼い少女からの、無邪気なものだった。


 しかし、竜斗にとっては、その言葉は石のようにずしりと落ちてきた。彼のスプーンが陶器の皿に当たって**カチャン!**という甲高い音が静寂を破った。一瞬、温もりを宿していた彼の視線は再び空っぽになり、もはや見えなくなった食べ物に固定された。それは、彼が毎日鍵をかけておこうと努力している記憶への扉だった。


「先生方は、もうすぐ良くなるって言ってたぞ、お嬢ちゃん」賢進は、娘に対して決して笑顔を崩さず、優しく穏やかな声で答えた。咲はただこくりと頷き、食事に戻った。だが賢進は知っていた。彼はこの話題が、特に竜斗に与える重圧を空気で感じていた。


 彼は少年に目をやり、その視線が普段よりもさらに空虚になっていくのを見た。(学校で誰かと話した、と彼は言った…)賢進の思考が頭の中で響く。(あの子はほとんど誰とも話さない。これは彼が本当の友達を作るチャンスなんだ!今、彼を落ち込ませるわけにはいかない)彼は皿の上にスプーンを置き、ふぅっと深呼吸をし、少年を元気づけるための言葉を整理した。「竜斗…」彼が話し始めたが、遮られた。


「賢進」


 竜斗の声が同時に響き、年上の男を驚かせた。「え?」と賢進が反射的に漏らしたのが全てだった。竜斗はテーブルの上に腕を置いており、その前腕にはほとんど目に見えないほどの震えが走っていた。向かい側では、咲がルーの中に巧みに隠されたピーマンとネギのかけらにも気づかず、豚肉を食べていた。


 竜斗の目が賢進の目をとらえた。そしてその中には、いつもとは違う熱があった。炎が。「お願いします、僕も一緒に働かせてください!」


 竜斗の声は固く、そこにいる誰もが今まで聞いたことのない決意に満ちていた。普段は物静かで無気力な少年が、今や威圧的でさえあり、その存在感は、咲の手からスプーンが滑り落ちて**カシャン!**と音を立てて皿に落ちるほどの、突然の力で場を満たした。彼女は父親と同じくらい、信じられないという顔で彼を見ていた。


「え? なんでまた、急にそんなことを?」賢進は、顔に混乱を浮かべて尋ねた。


 竜斗はその理由を言うことができなかった。彼女の前では。「…お金を貯めたいんだ。それだけ…」


「あぁ…そうか…」賢進は視線をそらし、再び自分の食事に手を動かし始めた。


 台所の空気はずっしりと重くなった。三人は耳をつんざくような沈黙の中で食事をし、空気は羞恥と口に出されない言葉で満たされていた。「うちでは働けない」賢進はついに口を開き、緊張を破った。「森林警備隊はアルバイトを雇わないんだ」


「僕は、学校を辞めー」


「山の麓のあの店があるだろ!?」賢進は少年の言葉を遮り、ほとんど叫んだ。彼は再び竜斗にスプーンを向け、唇には怯えたような笑みを浮かべ、その目には明らかな絶望が映っていた。「それに、竜斗が働き始めたら、咲のご飯がなくなっちまうだろ!なあ!?ワハハ!」


「ちょっと、私一人で何とかなるもん!」咲は、侮辱されたように言い返した。


「もう行ったよ。雇ってくれない。それに街の店は時給が安い」竜斗は、その落ち着き払った返答で賢進のパニックを武装解除した。


「なんでそんなにお金が欲しいんだ、竜斗?」賢進はついに、真剣な声で尋ねた。


「僕は…」言葉が出てこなかった。テーブルにいる二人の男は、その理由を知っていた。だが、それを言うことはできなかったし、言いたくもなかった。ここでは、今この場では。咲の前では。


 賢進が一日中働いているのは、選択ではなく、必要に迫られてのことだった。少年たちの母、三浦福実は、何年も入院していた。彼女は自己免疫疾患であるループス腎炎を患っており、高額でほぼ毎日の治療を必要としていた。それは、経済的にも精神的にも、二人の肩に重くのしかかる闘いだった。


 賢進は病院の費用を支払うために身を粉にして働いていた。そして竜斗は、家の責任を負うために、自らの青春を放棄せざるを得なかった。死に物狂いで働く賢進を見て、竜斗はいつもそれが不公平だと感じていた。彼もまた、自分なりの方法で助けたいと思っていた。治療費の支払いを手伝いたい、と。なぜなら彼は、誰よりも、母がいつかあの病院から帰ってくると、信じていたからだ。

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