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君と会うまで、世界は無音だった  作者: わる
第2巻 - 居場所となった声
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第29話「帰り道の小さな寄り道」第二部

 ミーン、ミーン、ミーン……


 窓の外では、蝉の鳴き声が響いていた。いつも通りの、執拗なまでの合唱だ。その絶え間なく続く単調な羽音の振動は、不思議と神経を鎮めるような効果を持っていた。


 開け放たれた窓からサワサワと吹き込む風に、教室のカーテンが波打つ。風は草木の匂いを孕み、そこまで迫った夏の気配を運んでくる。周囲を見渡せば、景色はすっかり変わっていた。大半の生徒は衣替えを済ませ、半袖のワイシャツや薄手のズボンという軽装で、涼しげな白さを教室に散らしている。


 だが、三浦竜斗だけは違った。ブレザーをしっかりと着込み、まるでそれが必要不可欠な『鎧』であるかのように、じわりと滲む暑さを無視して身を包んでいた。


 ガタガタ、ザワザワ……


 とりとめのない雑談、椅子を引きずる軋んだ音、磨かれた廊下を叩く上履きの鈍い音。それらの喧騒が、許可もなく彼の感覚に侵入してくる。だが、この不協和音こそが、彼を現実に繋ぎ止める『錨』となり、完全な無意識へと沈んでいくのを防いでいた。


 彼は机に突っ伏し、組んだ腕の中に顔を埋める。閉じた瞼の裏で、学校という場所が奏でる日々の交響曲シンフォニー――毎朝彼を受け入れてくれる、あの騒がしい安らぎに身を委ねた。


 竜斗は眠ろうとしていた。いや、少なくとも「眠っているふり」を維持することに専念していた。ただ動かず、こうして時間が過ぎるのを待ち、理論上はいつも通り流れるはずの一日が始まるのを待つ。


 もっとも、頭上にぶら下がった厄介な懸案事項――教師への返答――を無視できればの話だが。


 その時だった。均一なノイズの塊を引き裂くように、特定の音が際立って響いた。


 ドス、ドス、ドス。


 重たい足音だ。ゴム底が床を力強く踏みしめる、聞き間違いようのない音。少年は腕で作った避難所の中にさらに深く顔を沈めた。透明人間になりたい、あるいはその音の主がこちらの存在に気づかずに通り過ぎてくれればいい、という無駄な願いを込めて。


 だが、そのリズムを彼は熟知していた。近づいてくるのが誰なのか、痛いほど分かっていたからだ。


「おい、竜斗……」


 低く、そして聞き手である彼自身の疲労を鏡で映したような、疲れ切った男の声。


「いつまでも死んだふりが通用すると思うなよ」


 そこに二人目の男の声が重なる。どうしようもなく正論めいた、苛立ちを誘う響きだ。 それでも、少年は顔を上げない。この現実も、この特定のノイズも、注意を払う価値はないと決め込んだ。石のように動かず、静止し続ける。


 しかし、他人の気配というのは物理的な質量を持つらしい。背中に突き刺さる視線。そして、無防備に晒された頭頂部に集中する熱のような圧迫感。


 ゾクッ……


 徐々にその熱は変質し、冷たい悪寒となって背筋を駆け下りた。不快な冷や汗と混じり合い、無言の圧力は耐え難いレベルへと達する。


 沈黙の強要に根負けし、無気力な少年はのろりと顔を上げた。


 視界のすべてを、三浦武たけるが埋め尽くしていた。彼は竜斗の机の前にしゃがみ込み、無理やり視線の高さを合わせ、不愉快なほど至近距離からこちらの視界を侵略していた。


「お前、引き受けるよな?」


 武が問う。その顔は期待に歪み、瞳は竜斗にとって「疲弊」以外の何物でもない希望の光で輝いていた。


「嫌だ(イヤダ)」


 返答は乾いていた。鋭く、冷たい拒絶の一言。


「あーもう!なんだよ、お前!」


 ガバッ!


 武は大げさな身振りで立ち上がり、両手を頭に抱えてドラマチックな絶望を演じてみせた。「なんでお前を説得するのはこんなに難しいんだよ!?」


「落ち着けって、武」


 割って入ったのはもう一つの声。山本颯太だった。彼は唇になだめるような笑みを浮かべ、暴走しかけた友人の肩に手を置いてダメージコントロールを試みている。


「竜斗はまだ混乱してるだけだから……」


 まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような、颯太の優しい声色。


「いいや、してない」


 竜斗はその言い訳を即座に切り捨てた。颯太は引きつった笑みを向けた。必死に維持している愛想の良さの裏で、口元が微かに震えている。その瞳には、隠しきれない疲労の色があった。


 竜斗は、それ以上に疲れ切った視線を送り返した。違いがあるとすれば、彼の疲れは社会的な仮面マスクなどではなく、存在そのものが抱える純粋な真実だということだ。


「二人とも、あんまり詰め寄らないであげてよ」


 ピシャリ。


 その場の空気を断ち切るように、澄んだ、そして支配的な女性の声が響いた。秋山真琴だ。高い位置で結われたポニーテールが、彼女の動きに合わせてフワリと揺れる。その些細なディテールだけで、武は即座に硬直した。口を半開きにし、まるで女神でも見るかのように目を奪われている。


「でもさ、秋山さん!俺たちには竜斗が必要なんだよ!マネージャーが必要なんだ!」


 颯太が抗議する。その口調は、もはや芝居がかった絶望に近い。


「……で、なんでそれが僕なんだよ」


 机の木目に声を押し殺すように、彼は呟いた。


「だーかーらー!竜斗ぉぉぉ……」


 武が情けない声を上げ、今にも他人の机に崩れ落ちそうなほど前傾姿勢になる。


 ガシッ!


 重力が仕事をする前に、颯太が動いた。夏服の白いシャツの襟首を背後から掴み、友人の落下を強引に阻止する。


「行くぞ」


 ズルズル、ズルズル……


 遠慮会釈もなく、颯太は武を引きずり始めた。まるでジャガイモの袋でも運ぶような手際で、机の間を縫って連行していく。ふと、途中で足を止めた。首だけを回し、肩越しに意味深な視線を竜斗へと投げる。


「また来るからな(アイル・ビー・バック)」


 その不条理な劇場のような光景を、真琴はパチパチと瞬きしながら見送っていた。理解が追いつかないのか、困惑と苦笑が入り混じったような表情が浮かんでいる。


「……今の、脅迫?」


「たぶんね……」


 彼は再び腕の中に頭を沈め、暗闇の安全を求めた。「あいつら、いっつもあんな感じなんだ……」


 真琴は一瞬、彼を見つめた。その表情が、同情と面白さが混じった純粋なものへと和らぐ。


「大変だね、三浦くんも」


 竜斗はハァァ……と長く重い溜息を吐き出した。指一本動かしていないのに、マラソンを完走した後のように肺を空っぽにする。


「あいつらはうるさいんだ。それに、『ノー』という概念を理解してない」


「もしかしたら、もっと説得力が必要なのかもね」


 スッ と、真琴が体を前へ傾けた。後ろで手を組み、彼女特有のあの輝きを伴って彼の視界へ侵入してくる。


「それとも……本当は心の奥底で、断りたくないって思ってるとか?」


 チッ。


 彼は舌打ちをし、窓の方へと視線を逸らした。そこでは相変わらず、蝉たちが終わりのないオーケストラを続けている。


「……変な勘繰りをするな」


「ふふっ」


 彼女の笑い声が軽やかに空気を震わせた。「三浦くんがそう言うなら、そういうことにしておくわ」


 クルッ。


 彼女は踵を返し、制服をまるでドレスのように翻して背を向けた。その動きに合わせてポニーテールが空中に弧を描き、微かな柑橘系の香りを撒き散らす。


「数学の授業で寝ないようにね、三浦くん。数学の先生は、山本くんほど優しくないから」


 不機嫌な返事を呟く暇もなく、キーンコーンカーンコーンと始業のチャイムが廊下に響き渡った。時間割という名の学校の現実が、再び彼らの上に覆いかぶさってくる。


 真琴は最後に小さく手を振り、彼の席より右前方、陽の光が一番強く差し込む自分の席へと歩いていった。遠ざかる彼女の背中を目で追いながら、竜斗は周囲に静寂が戻ってくるのを感じていた。


 だが、奇妙なことに。教室の隅にある彼の孤独な座席は、さっきよりも少しだけ、冷たさが和らいだような気がした。

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